三菱自動車工業の設立とクライスラーとの資本提携

三菱重工から分かれて独立した三菱自動車は、なぜ北米の販売権をクライスラーに委ねる提携を選んだのか

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時期 1970年4月
意思決定者 三菱重工業 親会社
論点 独立設立と外資提携の枠組み
概要
1970年4月、三菱重工業が乗用車で劣勢の自動車部門を分離し、全額出資で三菱自動車工業を設立した経営判断。翌1971年に米クライスラーが株式15%を取得して資本参加し、日米資本の完成車メーカーとして再出発した。派遣役員は1人で、実質は重工の子会社としての船出であった。
背景
三菱重工業の自動車部門は1960年代に乗用車販売でトヨタ・日産に遅れ、重工の受注体質のままでは自動車の競争を勝ち抜けなかった。飛行機由来の分散した工場と乏しい蓄積を抱え、留保利益も重工に残したまま、借金経営でゼロから出発した。
内容
米クライスラーは日本進出の足場を求めて15%を出資し、同時に結んだ合衆国流通契約で北米・アフリカ・中米などの独占販売権を握った。三菱自動車は自社ブランドで米国市場を開拓できず、2代目社長の久保富夫は「契約変更して米国で自社の車を売れるように」と拘束の是正を訴えた。
含意
のちに「中興の祖」と呼ばれた舘豊夫社長がアイアコッカ会長とわたり合って不平等契約を是正し、工販統合・株式上場・資本提携解消へ進んだ。だが提携先との力関係に経営が左右される構造は創業時点で胚胎し、2000年のダイムラー、2016年の日産まで、外資・他社への依存として繰り返された。
筆者の見解

提携に左右される経営の、最初の形

この設立判断の核心は、独立と引き換えに外資の販売網へ北米を委ねた点にある。三菱重工から分かれて自動車専業になること自体は、受注体質を脱して競争へ踏み出すために避けられなかった。だが乏しい蓄積で出発した新会社は、単独で米国市場を開けるだけの力を持たず、クライスラーの資本と販売権に頼らざるを得なかった。設計者出身の久保社長が早くから契約の是正を口にしたのは、その依存が自社ブランドの成長を封じると見抜いていたからである。

提携先との力関係に経営が振り回される構造は、この創業時点で形になった。舘社長が不平等契約を是正しても、依存そのものが消えたわけではない。2000年にはダイムラークライスラーへ資本の三分の一を委ね、2016年には日産の傘下に入った。1971年のクライスラー、2000年のダイムラー、2016年の日産と、三菱自動車は節目のたびに外資や他社へ生き残りを託してきた。その反復の最初の一手が、1970年の設立と抱き合わせのクライスラー提携であった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

三菱重工から分かれる必要

三菱重工業の自動車部門は、1960年代に乗用車の販売でトヨタ・日産に遅れをとっていた。重工の受注体質とおっとりした社風のままでは、生き馬の目を抜く自動車業界で戦えない。事業を伸ばすには独立した経営体制が要るという判断のもと、1970年に自動車部門は分離され、そこへ米クライスラーの資本を受け入れて発足した。ただし外資からの派遣役員は1人にすぎず、経営の実質は重工の子会社であった[1]

飛行機屋の会社という出自

新会社は身軽ではなかった。設計者出身の久保富夫社長は、三菱自動車の弱みを三つ挙げた。もともと自動車ではなく飛行機を造っていた社員が多く、工場も飛行機用のものを流用して東京・名古屋・岡崎などに分散していること。一人当たりの賃金が他社より高いこと。そして高度成長期に十分伸びられず、蓄積を欠いていることである。分離のさい留保利益は重工に残され、三菱自動車は利益の出ない状態でゼロから借金経営を続けていた[2]

決断

1970年の設立と4製作所の承継

1970年4月、三菱重工業は全額出資で三菱自動車工業を設立した。同年6月には京都製作所の一部、名古屋自動車製作所、水島自動車製作所など計4製作所を承継し、製造・販売の体制を一括で引き継いで営業を始めた。翌1971年9月には米クライスラーが株式15%を取得して資本提携が正式に成立し、日米資本の完成車メーカーとして再出発する形が整った[3][4]

北米の販売権を握られた提携

資本の受け入れには代償があった。同時に結んだ合衆国流通契約で、北米・アフリカ・中米などの地域はクライスラーが三菱自動車の独占販売権を握った。三菱自動車は最大の市場である米国で、自社ブランドの車を自前で売ることができない。久保社長はこれを最大の問題に挙げ、米国メーカーが省エネルギーのため小型車へ向かえば、クライスラーは自社の小型車を優先して三菱車の売れ行きに響くと見ていた[5]

久保社長は契約の是正を明言した。米国で三菱自身の車を売れるように契約を変えなければならない、そもそも拘束の強い提携は結ぶべきでないと語った。環境は絶えず変わるのだから、10年、20年、50年先を見て非独占的な契約にすべきだという主張である。設立時に受け入れた枠組みが、早くも経営の重しになりつつあった[6]

結果

不平等契約の是正と、本業への集中

拘束はやがて解かれていく。のちに「中興の祖」と呼ばれた舘豊夫社長が、就任早々クライスラーのアイアコッカ会長とわたり合って懸案の不平等契約を是正し、工販統合・株式上場・米国現地生産・資本提携解消へと矢継ぎ早に手を打った。合衆国流通契約は1981年9月に改訂され、1985年6月には合弁基本契約を解消してクライスラーの出資は15%から20%に高まった。設立時に負った枠組みの是正には、十数年を要した[7][8]

是正の前段には、本業を鍛え直す苦闘があった。1973年に社長へ就いた久保は、売れる商品を持たず士気の上がらない社員を前に、自動車が売れないからと手を出したプレハブ住宅やプラスチック・ボートの多角化を即刻中止させた。世間並みの価格で売れる商品を世間並みのコストで作ることに立ち返れと訴え、奇策に走らず本業で背水の陣を敷いた。乏しい蓄積で出発した会社の立て直しは、外資との契約の是正と本業の鍛え直しの両輪で進んだ[9]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1978年7月31日号「編集長インタビュー 久保富夫氏(三菱自動車工業社長)平均値の車など売れるわけがない」(日経マグロウヒル社)
  • 日経ビジネス 1986年4月28日号「有訓無訓 久保富夫(三菱自動車工業相談役)苦しい時こそ、奇策を弄さず」(日経マグロウヒル社)
  • 日経ビジネス 1998年4月20日号「三菱自工"中興の祖"が嘆いた転落 再建の第一歩は社風の原点回帰から」(日経BP社)
  • 三菱自動車工業 有価証券報告書【沿革】