戦後の自動車工業は、戦災の被害が比較的少なく賠償指定も免れたうえ、輸送力の復興が急がれたため、早く立ち直った[1]。戦時中に生産を許可会社へ限っていた自動車製造事業法は廃止となり、1945年9月にはGHQが生ゴム6,000トンの使用を認めたため、貨物自動車の製造に道が開けた[2]。1949年末から1950年4月にかけて配給と価格の統制が外れると、完成車メーカーにとどまらず下請と部品メーカーも続出し、小型車関係が活況を帯びた[3]。この参入の波に先立つ1947年6月、立川飛行機の航空機生産技術陣の一部が、電気自動車の製作を目的に資本金19万5,000円で東京都府中町に東京電気自動車を設立した[4]。
東京電気自動車が製作した電気自動車たま号は、商工省の性能試験で第1位を獲得し、1948年8月に重要産業工場の指定を受けた[5]。1949年11月、同社は三鷹にあった旧正田飛行機の工場を買収して府中町から移転し、商号をたま電気自動車へ変更した[6]。この三鷹の工場は、戦時中に航空機の機体を生産していた立川飛行機の転換工場であり、のちに富士精密工業の三鷹工場となった[7]。同じ1949年、ブリヂストンタイヤを創業した石橋正二郎氏がたま電気自動車に出資した[8]。同社は移転した工場で電気自動車の製作を続けながら、かねてからガソリン車の研究にも着手していた[9]。
1951年10月、たま電気自動車はたま自動車へ改称し、研究を進めていたガソリン車の製造へ切り替えた[10]。1952年3月にプリンス号を発売し、その後は国産最高級車として全国各地へ進出した[11]。車名のプリンスは、皇太子の立太子礼を記念して石橋正二郎氏が名付けた[12]。同年11月、たま自動車はプリンス自動車工業へ改称した[13]。資本金は逐次増額され、1953年5月に1億5,000万円となった[14]。同社は三鷹工場でプリンス号の名称の乗用車とトラックを製造し、販売した[15]。プリンス号の乗用車は、中型国産車としては最高馬力の高性能エンジンを積み、シンクロメッシュ変速機とフラッシャー式方向指示器を備えた[16]。
1950年7月12日、企業再建整備法に基づき、中島飛行機が終戦後に改組した富士産業の第二会社の一つとして富士精密工業が発足した[17]。同社は東京の荻窪工場と浜松工場およびその附属資産を、資本金5,500万円で引き継いだ[18]。両工場は戦時中、中島飛行機の主力工場として第一線機の航空発動機と部品・補機類を生産していた[19]。富士精密工業は発動機の設計・研究・製作の技術と既存の機械設備、新規の設備を活用して、リズムミシン、フルバーランドディーゼルエンジン、フジセントラル映写機など各種の精密機械の生産を始めた[20]。
1951年4月、富士精密工業はブリヂストンタイヤ社長の石橋正二郎氏を取締役会長に、同社取締役の団伊能氏を社長にそれぞれ迎えた[21]。石橋正二郎氏は、日本興業銀行が全額保有していた資本金5,500万円の全株を額面価格で買い取っていた[22]。同社は新たにプリンス自動車用エンジンとバイクモーターの生産を開始し、航空機と航空機用機器の製造・販売・修理にも入って、日本ジェットエンジンの設立に加わった[23]。1951年10月には国産初の1500cc自動車エンジンの試作を完成させ、1952年3月に旧プリンス自動車工業と提携してこのエンジンを供給した[24]。資本金は1952年5月に7,500万円、同年6月に1億円、同年11月に2億円へ増資され、1953年2月には富士産業の現物出資で2億700万円、同年9月には5億1,750万円となった[25]。
1954年4月、富士精密工業はプリンス自動車工業を吸収合併して三鷹工場とし、資本金は6億6,750万円となった[26]。この合併で、荻窪工場が生産するエンジンを三鷹工場の車体に搭載する一貫作業の工場が成立し、富士精密工業は最新式の工作機械と専用工作機、鈑金・熔接・塗装の設備を増設した[27]。合併後の同社は、プリンス号の乗用車とトラックに加えて、たま10型自動繰糸機の生産も行った[28]。三鷹分工場が手がけたたま10型自動繰糸機は、農林省の応援のもとで多年研究された国内唯一の機種であり、生糸の生産費の節減に寄与した[29]。荻窪工場では自動車用エンジンの生産と並んで、航空機エンジンとロケットの修理・試作研究も行った[30]。
合併に先立つ1954年2月、富士精密工業は全額出資で資本金1億円のプリンス自動車販売を設立し、販売部門とサービス部門を分離独立させた[31]。旧プリンス自動車工業は1954年3月に企業合理化として生産部門と販売部門を分け、生産部門は富士精密工業へ合併され、販売部門が資本金1億円のプリンス自動車販売として残った[32]。プリンス自動車販売は鈴木里一郎氏を社長とし、本社を東京都港区芝田町5の16に置いて、全国に販売網を張った[33]。1956年時点で、富士精密工業が生産した自動車の販売先はプリンス自動車販売であり、小型ガソリンエンジンはブリヂストンタイヤと各製作工場へ納められた[34]。
1952年以降、日野はルノー、いすゞはルーツモーター(ヒルマン)、日産はオースチンとそれぞれ技術提携し、外国車の組み立てを行っていた[35]。提携先を持たずに設計から自社で進めたのは、トヨタと富士精密工業の2社にとどまった[36]。富士精密工業がこの道を採れたのは、1950年7月に富士産業から引き継いだ荻窪・浜松の両工場が、戦時中は中島飛行機の主力工場として航空機エンジンを生産しており、発動機の設計・研究・製作の技術と機械設備を残していたからである[37]。三鷹工場は戦時中の航空機製造で培った技術と機械設備で車体を作り、荻窪工場が生産したエンジンを載せて一貫作業でプリンス号自動車を組み上げた[38]。この乗用車は中型国産車としては最高馬力の高性能エンジンに加え、シンクロメッシュ変速機とフラッシャー式方向指示器を備えた[39]。
富士精密工業は自動車の量産と並行して航空機とロケットの開発を続けた。より高度な技術を要する航空機エンジンの国産化を進めるため、米国のカーチスライト社と大型航空機エンジンの技術提携契約を結んだ[40]。払込資本金1億6,000万円の日本ジェットエンジンには共同出資4社の1社として加わり、ジェットエンジンの試作研究を担った[41]。東京大学生産技術研究所の委嘱を受けてロケットの試作も引き受け、1956年には埼玉県川越に国内最大のロケット燃焼実験所を建設した[42]。荻窪工場ではプリンス自動車用エンジンやBSモーター小型ガソリンエンジンを量産しながら、航空機エンジンとロケットの修理・試作研究を続けた[43]。
航空機時代の人員がそのまま自動車を作った。1956年時点の従業員は2,832人で、男子職員778人は平均年齢30.6歳・平均勤続5年2カ月、男子工員1,838人は平均年齢27.7歳・平均勤続4年9カ月を記録した[44]。勤続年数は富士産業が発足した1945年9月1日と、旧プリンス自動車工業が発足した1946年1月1日からそれぞれ通算していた[45]。1951年に取締役へ就いた中川良一氏は中島飛行機の出身で、設計と実験の部門を担当した[46]。本社・荻窪工場・浜松工場は全国金属労組、三鷹工場は関東地区自動車産業労組連絡協議会に所属し、組合員総数は2,772名を数えた[47]。
1954年7月、富士精密工業は資本金を13億3,500万円へ引き上げた[48]。1950年7月の設立時は5,500万円で、1952年に2度の縁故増資と1対1の株主割当増資を重ね、1953年2月に富士産業からの現物出資で2億700万円、同年9月に5億1,750万円、1954年4月の旧プリンス自動車工業の合併で6億6,750万円と積み上げてきた[49]。製品別では自動車が生産実績の約70%を占め、ミシン、バイクモーター、ディーゼルエンジン、映写機、自動繰糸機が続いた[50]。1955年6月期の総売上高は22億1,000万円だった[51]。
1956年7月20日、富士精密工業は東京証券取引所へ新規上場した[52]。上場株式数は2,670万株、資本金は13億3,500万円、銘柄コード番号は7209[53]。授権株数5,340万株のうち、未発行株数は2,670万株を残した[54]。上場初週にあたる7月20日から24日までの株価は高値79円・安値76円、出来高は12万1,000株だった[55]。市場に登場した商号は富士精密工業であり、プリンス自動車工業の名で上場したのではない[56]。本社は東京都杉並区宿町88に置き、決算期は6月30日と12月31日の年2回、定時株主総会は2月と8月に開いた[57]。
1955年12月末の株主構成では、ブリヂストンタイヤが1,348万株を持って筆頭に立ち、日興証券190万8,243株、日本興業銀行63万3,133株が続いた[58]。会長にはブリヂストンタイヤの石橋正二郎氏が就き、社長を団伊能氏、副社長を鈴木里一郎氏と小松繁氏が務めた[59]。資本の面ではブリヂストンと住友銀行の系列に属しながら、技術の面では旧中島飛行機の伝統を引き継いだ[60]。増資は続き、1958年5月に1対1の株主割当で資本金を26億7,000万円とし、1960年11月には40億500万円へ引き上げた[61]。
小型四輪車の生産台数は、1955年度でトヨタ1万9,214台、日産1万3,705台に対し、富士精密は5,956台で業界3位に並んだ[62]。1953年度の2,697台、1954年度の3,718台から2年で2.2倍に伸ばした[63]。1955年下期の自動車部門は生産額で上期比30%、販売額で35%増えた[64]。期の半ばに性能と外観を一新した1956年型の乗用車を発売し、販売量は上期比45%増、トラックの販売量も3%増となった[65]。上期に発売したキャブオーバートラックの需要も増え、スタンダードトラックに迫る売れ行きを示した[66]。
1957年4月、富士精密工業は高級乗用車プリンス・スカイラインを発表した[67]。以後は各車種を順次新型へ切り換え、1958年10月には国産初の1900cc乗用車プリンス・グロリアが加わった[68]。新型車の投入と並行して、1960年からは量産設備の増強に入った。同年8月、自動車1万台生産を目標とする5カ年計画を策定し、ただちに東京都下の村山・砂川両町にまたがる約40万坪の土地を購入して新工場の建設に着手した[69]。1961年6月期の販売実績は乗用車6,430台、小型トラック1万2,426台、売上高は128億1,420万円[70]。輸出額は3億5,035万円で、売上高の2.7%を占めた[71]。
1961年、富士精密工業は社名をプリンス自動車工業へ変更した[72]。1954年の合併で消えた被合併会社の商号が、7年を経て存続会社の名として戻った[73]。小松繁氏は1952年に公職追放を解かれ、友人である石井光次郎氏の橋渡しで富士精密工業の副社長に就いた[74]。小松繁氏は福岡県三井郡北野町の出身で、久留米市の明善中学から神戸高等商業学校へ進み、三菱商事のニューヨーク支店長時代には日産自動車の横浜工場建設を一手に世話した経歴を持つ[75]。小型乗用車と小型トラックでは業界3位につけたものの、生産車種がこの2分野に限られ、自動車会社としての順位は7位にとどまった[76]。
1960年に着手した新工場の建設は、1962年9月に第1期工事の完了へこぎつけた[77]。乗用車専門工場として建てた村山工場は操業を開始し、月産2,000台の生産に入って、1963年下期には平均月産3,000台を目標に置いた[78]。1964年末に月産1万台の生産能力とする5カ年計画は3カ年を順調に終え、計画に要する資金は総額約225億円、うち1963年中に必要な設備資金は約60億円と見込んでいた[79]。ただし1962年12月期の販売実績は乗用車7,857台、小型トラック1万2,192台で、月産1万台の水準にはまだ遠かった[80]。
この計画は小松繁社長が立てた。敷地132万平方メートルに東洋一の乗用車工場を建て、近い将来には月産2万5,000台まで持っていく構想を描いた[81]。1962年秋に第1期工事が完成すると、村山工場はグロリアの伸びに支えられてフル操業に入り、生産能力は一挙に6,500台へ上がった[82]。同社は同じ1962年の1月に浜松工場を分離独立させてリズムフレンド製造を設立し、9月には新型高級乗用車プリンス・グロリア・デラックスを発売した[83]。翌1963年には、国産車で初めて2000cc6気筒エンジンを積むグロリア・スーパー6と小型ファミリーカーのスカイライン1500デラックスが加わった[84]。
村山工場を加えても、プリンス自動車工業の規模は上位メーカーに届かなかった。自動車会社として業界第7位、小型乗用車と小型トラックでは第3位に位置したが、生産車種がこの分野に限られるため、総合力ではBクラスと評されていた[85]。自動車部門のほかに自動繰糸機と航空機の両部門を持ちながら、売上高の95%前後は自動車部門が占めた[86]。1962年12月末の従業員は職員男2,172人・工員男3,405人・女73人の合計5,970人、平均年齢は28.3歳で、工場別では荻窪2,587人、三鷹1,206人に対し、動き出したばかりの村山は1,526人という配置だった[87][88]。
村山工場が動き出した時期に、売上高の伸びは止まっていた。1961年12月期の144億1,949万円に対し、1962年6月期は145億691万円、1962年12月期は141億7,585万円と、半期ごとの積み上げが横ばいから減少へ転じた[89]。税込利益率も1962年6月期の8.3%から12月期には7.2%へ下がった[90]。株式市場の評価はさらに厳しく、1960年に高値195円をつけた株価は1962年に安値47円まで下げた[91]。1962年12月末の筆頭株主は25.0%を持つ石橋産業で、日興証券が7.7%で続いた[92]。
自由民主党の自由化対策特別委員会は、中型乗用車の自由化を3年以内に実施できるよう政府に対策を急がせる方針を決め、各社は通商産業省の行政指導をよそに量産化を競った[93]。トヨタ自動車工業・日産自動車・いすゞ自動車・日野自動車が大型のトラックやバスという自由化に強い部門を抱えていたのに対し、中型車の専門メーカーであるプリンス自動車工業はそうした部門を持たず、立場はもっとも苦しかった[94]。小松繁社長は国際競争力を早くつけるための条件として、まず技術、次に値段、最後に好みという順を挙げ、次に発表する車は世界的水準のものでなければ意味がないと語った[95]。
小松繁社長は自動車の本命を輸出に置いた。経営者は少なくとも5年から10年先のことを考えるのが責務だとして、いまの技術水準なら国内市場が自由化されても恐れる必要はないとみて、外車との勝負は海外市場で決まると判断し、赤字を覚悟したうえで30数カ国への輸出を続けた[96]。もっとも輸出の実額は小さく、1962年6月期の輸出金額は4億4,978万円で対売上比率3.1%、同年12月期は4億407万円で2.9%にとどまった[97]。1961年に社長へ就いた小松繁氏は1963年8月に社長を辞任して相談役へ退き、後任には住友銀行出身で1960年から副社長を務めた小川秀彦氏が就いた[98][99]。
資本自由化を控えた1960年代半ば、通商産業省は乱立する乗用車メーカーの整理統合を促す行政指導に動いた[100]。プリンス自動車工業は大衆車を持たず、1500cc以上の乗用車が主力で、日野自動車工業やいすゞ自動車に比べてトラック部門が弱かったため、単独で生き残ることは難しいと同時代に見られていた[101]。1964年度の生産台数は8万5,104台、従業員は8,693名で、5カ年計画が掲げた月産1万台の水準には届かなかった[102]。1965年半ばには業績の悪化が表面化し、この6月期はどうにか公約どおり1割2分の配当を据え置けるとしても、次の12月期はあぶないという見方が出た[103]。
乗用車の自由化が迫るなか、通商産業大臣の桜内義雄氏が自ら乗り出し、日産自動車社長の川又克二氏と石橋正二郎会長を招いて、対等の精神で模範的な合併を話し合ってほしいと膝詰めで求めた[104]。1965年5月31日、プリンス自動車工業は日産自動車と合併覚書に調印した[105]。石橋正二郎会長は、プリンス車名の永久存続、従業員の処遇、代理店の存続、銀行関係の維持、株主に不利をもたらさないことの5点を、合併を受け入れる条件に挙げた[106]。日産自動車側の条件も理解のあるもので、大綱ではすみやかに一致をみたが、細目の調整には2カ月あまりを要した[107]。
覚書の調印から合併の成立までには1年余りを要した。中型乗用車の専門メーカーとして技術で先行しながら、月産1万台の量産を単独で支える資本を積み上げられなかったプリンス自動車工業は、売り手として交渉の席に着いた。工場も車種も技術者も日産自動車へ渡り、スカイラインとグロリアは車種名として引き継がれたが、石橋正二郎会長が永久存続を求めた『プリンス』の名は、乗用車のブランドとしては数年しか残らなかった[108]。1966年8月1日、日産自動車がプリンス自動車工業を吸収する形で合併が成立し、1950年7月12日の設立から16年で法人は消滅し、株式の上場も終わった[109]。
| 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1947〜1954年石橋正二郎氏の資本が束ねた立川系の電気自動車と中島系のエンジン | 立川飛行機の電気自動車部門が東京電気自動車として発足 | ★ | ||
| 電気自動車たま号を発売 | ★★ | |||
| 石橋正二郎氏の出資を受ける | ★★ | |||
| たま電気自動車に商号変更 | ★ | |||
| 旧中島飛行機の荻窪・浜松両工場を継いで富士精密工業が発足 | ★ | |||
| 鉛価格の高騰を受けてガソリン車に転換 | ★★★ | |||
| 国産初の1500ccエンジンの試作を完成 | ★★ | |||
| たま自動車に商号変更 | ★ | |||
| 初のガソリン乗用車プリンス・セダンを発売 | ★★★ | |||
| プリンス自動車工業に商号変更 | ★ | |||
| プリンス自動車工業と富士精密工業が対等合併 | ★★★ | |||
| 1955〜1961年外国車と組まず純国産で通した技術とプリンス・スカイライン | 東京証券取引所に上場 | ★ | ||
| 初代スカイラインを発売 | ★★ | |||
| 初代グロリアを発売 | ★★ | |||
| プリンス自動車工業に商号変更 | ★ | |||
| 1962〜1966年225億円の村山工場計画と資本自由化のなかの日産合併 | 村山工場が操業を開始 | ★ | ||
| 第2回日本グランプリでスカイラインGTが上位入賞 | ★★ | |||
| 日産自動車との合併覚書に調印 | ★★★ | |||
| 日産自動車に吸収合併 | ★★★ | |||
| 上場廃止 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(プリンス自動車工業)