プリンス自動車工業 の歴史

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創業 1947年
創業者 外山保・田中次郎・石橋正二郎
創業地 東京都府中市
創業
1947年6月、立川飛行機の航空機生産技術陣の一部が、電気自動車の製作を目的に資本金19万5,000円で東京都府中町に東京電気自動車を設立した。電気自動車たま号は商工省の性能試験で第1位を獲得し、1948年8月に重要産業工場の指定を受ける。1949年11月には三鷹の旧正田飛行機工場を買収して移転し、商号をたま電気自動車へ改めた。同じ年、ブリヂストンタイヤを創業した石橋正二郎氏が出資している。1951年10月にたま自動車へ改称してガソリン車へ切り替え、1952年3月にプリンス号を発売、同年11月にプリンス自動車工業となった。もう一つの源流は、1950年7月12日に中島飛行機系の富士産業の第二会社として荻窪・浜松工場を継いだ富士精密工業である。
決断・現況・競合について
決断
外国メーカーと提携せず、設計を自社で通した2社のうちの1社だった。1952年以降、日野はルノー、いすゞはヒルマン、日産はオースチンと技術提携して外国車を組み立てたが、設計から自社で進めたのはトヨタ自動車工業と富士精密工業の2社にとどまった。それができたのは、富士産業から引き継いだ荻窪・浜松の両工場が、中島飛行機の航空発動機を作った技術と設備を残していたからである。1954年4月に旧プリンス自動車工業を吸収合併し、荻窪のエンジンを三鷹の車体へ載せる一貫生産が成立した。1957年4月にプリンス・スカイライン、1958年10月には国産初の1900cc乗用車プリンス・グロリアを出す。航空発動機の技術者がそのまま自動車を設計したことが、外国車の図面なしで新型車を出せる体制を作った。
現況
残ったのは車名と工場と技術者で、法人と上場は1966年に消えた。1966年8月1日、日産自動車が吸収する形でプリンス自動車工業との合併が成立し、1950年7月12日の設立から16年で法人は消滅して株式の上場も終わった。最後の姿は1964年度の生産8万5,104台・従業員8,693名で、1960年8月に掲げた月産1万台の水準には届いていない。村山工場と荻窪の技術陣は日産へ渡り、スカイラインとグロリアは車種名として引き継がれた。石橋正二郎会長が合併の条件に挙げたプリンス車名の永久存続は、乗用車のブランドとしては数年しか残らなかった。設備も車種も技術者も日産へ引き継がれ、消えたのは会社の名前と資本だけだった。
競合
技術で先行した会社が、資本の厚みで先に行き詰まった。資本自由化を控えた1960年代、トヨタ・日産・いすゞ・日野は大型のトラックやバスという自由化に強い部門を抱えていた。1500cc以上の中型乗用車に品目が限られたプリンス自動車工業はその部門を持たず、順位は業界7位にとどまる。1960年8月に月産1万台の5カ年計画を立て、村山・砂川両町の約40万坪を購入して総額約225億円を見込んだが、1962年12月期の売上高は前年12月期の144億円から141億円へ減り、1960年に195円だった株価も1962年に47円まで下げた。同じ中島飛行機の系譜でも、富士重工業は軽自動車という小さい区分で採算を取り、プリンスは中型車のまま設備だけを先に建てて、埋める車種と資本を積み増せなかった。

創業ストーリー 石橋正二郎氏の資本が束ねた立川系の電気自動車と中島系のエンジン (1947年〜)

石橋正二郎氏の資本が束ねた立川系の電気自動車と中島系のエンジン

創業ストーリー(1)

立川飛行機の技術陣が府中町で始めた電気自動車たま号

戦後の自動車工業は、戦災の被害が比較的少なく賠償指定も免れたうえ、輸送力の復興が急がれたため、早く立ち直った[1]。戦時中に生産を許可会社へ限っていた自動車製造事業法は廃止となり、1945年9月にはGHQが生ゴム6,000トンの使用を認めたため、貨物自動車の製造に道が開けた[2]。1949年末から1950年4月にかけて配給と価格の統制が外れると、完成車メーカーにとどまらず下請と部品メーカーも続出し、小型車関係が活況を帯びた[3]。この参入の波に先立つ1947年6月、立川飛行機の航空機生産技術陣の一部が、電気自動車の製作を目的に資本金19万5,000円で東京都府中町に東京電気自動車を設立した[4]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 40_自動車・自転車
    • [1]戦後の自動車工業は戦災被害が比較的少なく賠償指定もなく、輸送力の復興が急がれたため早く立ち直った
    • [2]自動車製造事業法は廃止となり、1945年9月にGHQが生ゴム6,000トンの使用を許して貨物自動車の製造が可能になった
    • [3]1949年末から1950年4月にかけて配給・価格統制が外れ、完成車メーカーだけでなく下請・部品メーカーも続出し小型車関係が活況を帯びた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 40_自動車・自転車「プリンス自動車」
    • [4]1947年6月、立川飛行機の航空機生産技術陣の一部が電気自動車の製作を目的に資本金19万5,000円で東京都府中町に東京電気自動車を設立した

東京電気自動車が製作した電気自動車たま号は、商工省の性能試験で第1位を獲得し、1948年8月に重要産業工場の指定を受けた[5]。1949年11月、同社は三鷹にあった旧正田飛行機の工場を買収して府中町から移転し、商号をたま電気自動車へ変更した[6]。この三鷹の工場は、戦時中に航空機の機体を生産していた立川飛行機の転換工場であり、のちに富士精密工業の三鷹工場となった[7]。同じ1949年、ブリヂストンタイヤを創業した石橋正二郎氏がたま電気自動車に出資した[8]。同社は移転した工場で電気自動車の製作を続けながら、かねてからガソリン車の研究にも着手していた[9]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 40_自動車・自転車「プリンス自動車」
    • [5]電気自動車たま号は商工省の性能試験で第1位を獲得し、1948年8月に重要産業工場として指定された
    • [6]1949年11月に三鷹の旧正田飛行機を買収移転し、社名をたま電気自動車と変更した
    • [9]たま電気自動車はかねてよりガソリン車の研究に着手していた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 40_自動車・自転車「富士精密工業」
    • [7]プリンス自動車工業は立川飛行機の転換工場であり、戦時中は主として航空機の機体を生産していた。1954年4月に富士精密工業の三鷹工場となった
  • 歴史をつくる人々 第13(ダイヤモンド社、1965年)所収 石橋正二郎(プリンス自動車工業会長)回想
    • [8]石橋正二郎はたま電気自動車に出資し、のちに富士精密工業とたま自動車を合併させた

1951年10月、たま電気自動車はたま自動車へ改称し、研究を進めていたガソリン車の製造へ切り替えた[10]。1952年3月にプリンス号を発売し、その後は国産最高級車として全国各地へ進出した[11]。車名のプリンスは、皇太子の立太子礼を記念して石橋正二郎氏が名付けた[12]。同年11月、たま自動車はプリンス自動車工業へ改称した[13]。資本金は逐次増額され、1953年5月に1億5,000万円となった[14]。同社は三鷹工場でプリンス号の名称の乗用車とトラックを製造し、販売した[15]。プリンス号の乗用車は、中型国産車としては最高馬力の高性能エンジンを積み、シンクロメッシュ変速機とフラッシャー式方向指示器を備えた[16]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 40_自動車・自転車「プリンス自動車」
    • [10]1951年10月にたま自動車と改称し、かねてより研究に着手していたガソリン車の製造に切り替えた
    • [11]1952年3月にプリンス号を発売し、のち国産最高級車として全国各地に進出した
    • [13]1952年11月にプリンス自動車工業と改称した
    • [14]資本金は逐次増額され1953年5月に1億5,000万円となった
  • 歴史をつくる人々 第13(ダイヤモンド社、1965年)所収 石橋正二郎(プリンス自動車工業会長)回想
    • [12]石橋正二郎は皇太子の立太子礼という慶事を記念して車名を「プリンス」と命名した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 40_自動車・自転車「富士精密工業」
    • [15]プリンス自動車工業は立川飛行機の転換工場であり、プリンス号の名称で乗用車およびトラックの製造・販売を行っていた
  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [16]プリンス号は中型国産車としては最高馬力の高性能エンジンを装備し、シンクロメッシュ変速機、フラッシャー式方向指示器等をも備えていた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 40_自動車・自転車
    • [1]戦後の自動車工業は戦災被害が比較的少なく賠償指定もなく、輸送力の復興が急がれたため早く立ち直った
    • [2]自動車製造事業法は廃止となり、1945年9月にGHQが生ゴム6,000トンの使用を許して貨物自動車の製造が可能になった
    • [3]1949年末から1950年4月にかけて配給・価格統制が外れ、完成車メーカーだけでなく下請・部品メーカーも続出し小型車関係が活況を帯びた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 40_自動車・自転車「プリンス自動車」
    • [4]1947年6月、立川飛行機の航空機生産技術陣の一部が電気自動車の製作を目的に資本金19万5,000円で東京都府中町に東京電気自動車を設立した
    • [5]電気自動車たま号は商工省の性能試験で第1位を獲得し、1948年8月に重要産業工場として指定された
    • [6]1949年11月に三鷹の旧正田飛行機を買収移転し、社名をたま電気自動車と変更した
    • [9]たま電気自動車はかねてよりガソリン車の研究に着手していた
    • [10]1951年10月にたま自動車と改称し、かねてより研究に着手していたガソリン車の製造に切り替えた
    • [11]1952年3月にプリンス号を発売し、のち国産最高級車として全国各地に進出した
    • [13]1952年11月にプリンス自動車工業と改称した
    • [14]資本金は逐次増額され1953年5月に1億5,000万円となった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 40_自動車・自転車「富士精密工業」
    • [7]プリンス自動車工業は立川飛行機の転換工場であり、戦時中は主として航空機の機体を生産していた。1954年4月に富士精密工業の三鷹工場となった
    • [15]プリンス自動車工業は立川飛行機の転換工場であり、プリンス号の名称で乗用車およびトラックの製造・販売を行っていた
  • 歴史をつくる人々 第13(ダイヤモンド社、1965年)所収 石橋正二郎(プリンス自動車工業会長)回想
    • [8]石橋正二郎はたま電気自動車に出資し、のちに富士精密工業とたま自動車を合併させた
    • [12]石橋正二郎は皇太子の立太子礼という慶事を記念して車名を「プリンス」と命名した
  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [16]プリンス号は中型国産車としては最高馬力の高性能エンジンを装備し、シンクロメッシュ変速機、フラッシャー式方向指示器等をも備えていた
創業ストーリー(2)

中島飛行機の第二会社として発足した富士精密工業

1950年7月12日、企業再建整備法に基づき、中島飛行機が終戦後に改組した富士産業の第二会社の一つとして富士精密工業が発足した[17]。同社は東京の荻窪工場と浜松工場およびその附属資産を、資本金5,500万円で引き継いだ[18]。両工場は戦時中、中島飛行機の主力工場として第一線機の航空発動機と部品・補機類を生産していた[19]。富士精密工業は発動機の設計・研究・製作の技術と既存の機械設備、新規の設備を活用して、リズムミシン、フルバーランドディーゼルエンジン、フジセントラル映写機など各種の精密機械の生産を始めた[20]

  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [17]富士精密工業は1950年7月12日、企業再建整備法に基づき富士産業(旧中島飛行機)の第二会社として発足した
    • [18]東京・浜松両工場およびその附属資産を引き継ぎ、資本金5万5,000千円すなわち5,500万円で発足した
    • [20]発動機の設計・研究・製作関係の技術と既存の機械設備、新規の諸設備を活用してリズムミシン、フルバーランドディーゼルエンジン、フジセントラル映写機等の精密機械の生産を開始した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 40_自動車・自転車「富士精密工業」
    • [19]荻窪工場・浜松工場は中島飛行機の航空機エンジン、部品および補機類製作の主力工場として第一線機の航空発動機生産に従事していた

1951年4月、富士精密工業はブリヂストンタイヤ社長の石橋正二郎氏を取締役会長に、同社取締役の団伊能氏を社長にそれぞれ迎えた[21]。石橋正二郎氏は、日本興業銀行が全額保有していた資本金5,500万円の全株を額面価格で買い取っていた[22]。同社は新たにプリンス自動車用エンジンとバイクモーターの生産を開始し、航空機と航空機用機器の製造・販売・修理にも入って、日本ジェットエンジンの設立に加わった[23]。1951年10月には国産初の1500cc自動車エンジンの試作を完成させ、1952年3月に旧プリンス自動車工業と提携してこのエンジンを供給した[24]。資本金は1952年5月に7,500万円、同年6月に1億円、同年11月に2億円へ増資され、1953年2月には富士産業の現物出資で2億700万円、同年9月には5億1,750万円となった[25]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 40_自動車・自転車「富士精密工業」
    • [21]1951年4月にブリヂストンタイヤ社長の石橋正二郎を取締役会長に、同社取締役の団伊能を社長に迎えた
    • [23]プリンス自動車用エンジンおよびバイクモーターの生産を開始し、航空機・航空機用機器の製造販売修理を始め、日本ジェットエンジンの設立に参画した
  • 歴史をつくる人々 第13(ダイヤモンド社、1965年)所収 石橋正二郎(プリンス自動車工業会長)回想
    • [22]石橋正二郎は興業銀行が全額もっていた資本金5,500万円の全株を額面価格で買い取った
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [24]富士精密工業は1951年10月に国産初の1500cc自動車エンジンの試作を完成し、1952年3月に旧立川飛行機の転換工場である旧プリンス自動車工業と提携して同エンジンを供給した
  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [25]資本金は1952年5月7,500万円、同年6月1億円、同年11月2億円、1953年2月に富士産業の現物出資で2億700万円、同年9月に5億1,750万円へ推移した
  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [17]富士精密工業は1950年7月12日、企業再建整備法に基づき富士産業(旧中島飛行機)の第二会社として発足した
    • [18]東京・浜松両工場およびその附属資産を引き継ぎ、資本金5万5,000千円すなわち5,500万円で発足した
    • [20]発動機の設計・研究・製作関係の技術と既存の機械設備、新規の諸設備を活用してリズムミシン、フルバーランドディーゼルエンジン、フジセントラル映写機等の精密機械の生産を開始した
    • [25]資本金は1952年5月7,500万円、同年6月1億円、同年11月2億円、1953年2月に富士産業の現物出資で2億700万円、同年9月に5億1,750万円へ推移した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 40_自動車・自転車「富士精密工業」
    • [19]荻窪工場・浜松工場は中島飛行機の航空機エンジン、部品および補機類製作の主力工場として第一線機の航空発動機生産に従事していた
    • [21]1951年4月にブリヂストンタイヤ社長の石橋正二郎を取締役会長に、同社取締役の団伊能を社長に迎えた
    • [23]プリンス自動車用エンジンおよびバイクモーターの生産を開始し、航空機・航空機用機器の製造販売修理を始め、日本ジェットエンジンの設立に参画した
  • 歴史をつくる人々 第13(ダイヤモンド社、1965年)所収 石橋正二郎(プリンス自動車工業会長)回想
    • [22]石橋正二郎は興業銀行が全額もっていた資本金5,500万円の全株を額面価格で買い取った
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [24]富士精密工業は1951年10月に国産初の1500cc自動車エンジンの試作を完成し、1952年3月に旧立川飛行機の転換工場である旧プリンス自動車工業と提携して同エンジンを供給した
創業ストーリー(3)

1954年4月の合併で始まった自動車の一貫生産

1954年4月、富士精密工業はプリンス自動車工業を吸収合併して三鷹工場とし、資本金は6億6,750万円となった[26]。この合併で、荻窪工場が生産するエンジンを三鷹工場の車体に搭載する一貫作業の工場が成立し、富士精密工業は最新式の工作機械と専用工作機、鈑金・熔接・塗装の設備を増設した[27]。合併後の同社は、プリンス号の乗用車とトラックに加えて、たま10型自動繰糸機の生産も行った[28]。三鷹分工場が手がけたたま10型自動繰糸機は、農林省の応援のもとで多年研究された国内唯一の機種であり、生糸の生産費の節減に寄与した[29]。荻窪工場では自動車用エンジンの生産と並んで、航空機エンジンとロケットの修理・試作研究も行った[30]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 40_自動車・自転車「富士精密工業」
    • [26]1954年4月にプリンス自動車工業を合併して三鷹工場とし、資本金は6億6,750万円となった
  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [27]プリンス自動車工業との合併により一貫作業工場としての態勢を確立し、最新式工作機械・専用工作機、鈑金・熔接・塗装設備等の増新設を完了した
    • [28]合併により「プリンス号自動車」ならびに「たま10型自動繰糸機」の生産を併せ行うことになった
    • [29]三鷹分工場は農林省の応援のもとで多年研究されたわが国唯一の「たま10型自動繰糸機」を生産しており、生糸の生産費節減に貢献している
    • [30]荻窪工場はプリンス自動車用エンジン等の生産のほか、航空機エンジン・ロケットの修理、試作研究を行っている

合併に先立つ1954年2月、富士精密工業は全額出資で資本金1億円のプリンス自動車販売を設立し、販売部門とサービス部門を分離独立させた[31]。旧プリンス自動車工業は1954年3月に企業合理化として生産部門と販売部門を分け、生産部門は富士精密工業へ合併され、販売部門が資本金1億円のプリンス自動車販売として残った[32]。プリンス自動車販売は鈴木里一郎氏を社長とし、本社を東京都港区芝田町5の16に置いて、全国に販売網を張った[33]。1956年時点で、富士精密工業が生産した自動車の販売先はプリンス自動車販売であり、小型ガソリンエンジンはブリヂストンタイヤと各製作工場へ納められた[34]

  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [31]1954年2月、富士精密工業の全額出資により資本金1億円のプリンス自動車販売を設立し、サービス部門・販売部門を分離独立させた
    • [34]自動車の販売先はプリンス自動車販売、小型ガソリンエンジンの販売先はブリヂストンタイヤおよび各製作工場である
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 40_自動車・自転車「プリンス自動車」
    • [32]1954年3月に企業合理化を図り生産部門と販売部門をそれぞれ分離独立させ、前者は富士精密工業に合併、後者は資本金1億円の会社となった
    • [33]プリンス自動車販売は1954年2月16日設立、資本金1億円、社長は鈴木里一郎、本社は東京都港区芝田町5の16で、全国的に販売網を張った
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 40_自動車・自転車「富士精密工業」
    • [26]1954年4月にプリンス自動車工業を合併して三鷹工場とし、資本金は6億6,750万円となった
  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [27]プリンス自動車工業との合併により一貫作業工場としての態勢を確立し、最新式工作機械・専用工作機、鈑金・熔接・塗装設備等の増新設を完了した
    • [28]合併により「プリンス号自動車」ならびに「たま10型自動繰糸機」の生産を併せ行うことになった
    • [29]三鷹分工場は農林省の応援のもとで多年研究されたわが国唯一の「たま10型自動繰糸機」を生産しており、生糸の生産費節減に貢献している
    • [30]荻窪工場はプリンス自動車用エンジン等の生産のほか、航空機エンジン・ロケットの修理、試作研究を行っている
    • [31]1954年2月、富士精密工業の全額出資により資本金1億円のプリンス自動車販売を設立し、サービス部門・販売部門を分離独立させた
    • [34]自動車の販売先はプリンス自動車販売、小型ガソリンエンジンの販売先はブリヂストンタイヤおよび各製作工場である
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 40_自動車・自転車「プリンス自動車」
    • [32]1954年3月に企業合理化を図り生産部門と販売部門をそれぞれ分離独立させ、前者は富士精密工業に合併、後者は資本金1億円の会社となった
    • [33]プリンス自動車販売は1954年2月16日設立、資本金1億円、社長は鈴木里一郎、本社は東京都港区芝田町5の16で、全国的に販売網を張った

外国車と組まず純国産で通した技術とプリンス・スカイライン

創業ストーリー(4)

外国メーカーと提携せず自社設計で通した純国産

1952年以降、日野はルノー、いすゞはルーツモーター(ヒルマン)、日産はオースチンとそれぞれ技術提携し、外国車の組み立てを行っていた[35]。提携先を持たずに設計から自社で進めたのは、トヨタと富士精密工業の2社にとどまった[36]。富士精密工業がこの道を採れたのは、1950年7月に富士産業から引き継いだ荻窪・浜松の両工場が、戦時中は中島飛行機の主力工場として航空機エンジンを生産しており、発動機の設計・研究・製作の技術と機械設備を残していたからである[37]。三鷹工場は戦時中の航空機製造で培った技術と機械設備で車体を作り、荻窪工場が生産したエンジンを載せて一貫作業でプリンス号自動車を組み上げた[38]。この乗用車は中型国産車としては最高馬力の高性能エンジンに加え、シンクロメッシュ変速機とフラッシャー式方向指示器を備えた[39]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 40_自動車・自転車
    • [35]1952年以降、日野はルノー、いすゞはルーツモーター(ヒルマン)、日産はオースチンと技術提携し、外国車の組立を行っていた
    • [36]純国産はトヨタと富士精密の2社であり、日野・いすゞ・日産は外国メーカーとの技術提携による組立を行っていた
  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [37]1950年7月、企業再建整備法に基づき富士産業(旧中島飛行機)の第二会社として荻窪・浜松両工場と附属資産を引き継ぎ資本金5,500万円で発足。両工場は戦時中に中島飛行機の主力工場として航空機エンジンを生産し、発動機の設計・研究・製作の技術と機械設備を有していた
    • [38]三鷹工場は戦時中の航空機製造で発揮した高度の技術と優秀な機械設備をもって自動車製造に着手し、荻窪工場生産のエンジンを搭載して「プリンス号自動車」を一貫作業により生産していた
    • [39]プリンス号自動車は中型国産車としては最高馬力の高性能エンジンを装備し、シンクロメッシュ変速機、フラッシャー式方向指示器等を備えていた

富士精密工業は自動車の量産と並行して航空機とロケットの開発を続けた。より高度な技術を要する航空機エンジンの国産化を進めるため、米国のカーチスライト社と大型航空機エンジンの技術提携契約を結んだ[40]。払込資本金1億6,000万円の日本ジェットエンジンには共同出資4社の1社として加わり、ジェットエンジンの試作研究を担った[41]東京大学生産技術研究所の委嘱を受けてロケットの試作も引き受け、1956年には埼玉県川越に国内最大のロケット燃焼実験所を建設した[42]。荻窪工場ではプリンス自動車用エンジンやBSモーター小型ガソリンエンジンを量産しながら、航空機エンジンとロケットの修理・試作研究を続けた[43]

  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [40]高度の技術を必要とする航空機エンジンの国産化を図る態勢を整え、第一段階として米国カーチスライト社と大型航空機エンジンに関する技術提携契約を締結
    • [41]払込資本金1億6,000万円の日本ジェットエンジン株式会社の共同出資会社4社中の1社であり、ジェットエンジンの試作研究に当たっていた
    • [43]荻窪工場はプリンス自動車用エンジン、BSモーター小型ガソリンエンジン、フルバーランドディーゼルエンジン等の生産および航空機エンジン・ロケットの修理、試作研究を行っていた
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [42]東京大学生産技術研究所の委嘱によるロケットの試作を行い、1956年に埼玉県川越にわが国最大のロケット燃焼実験所を建設

航空機時代の人員がそのまま自動車を作った。1956年時点の従業員は2,832人で、男子職員778人は平均年齢30.6歳・平均勤続5年2カ月、男子工員1,838人は平均年齢27.7歳・平均勤続4年9カ月を記録した[44]。勤続年数は富士産業が発足した1945年9月1日と、旧プリンス自動車工業が発足した1946年1月1日からそれぞれ通算していた[45]。1951年に取締役へ就いた中川良一氏は中島飛行機の出身で、設計と実験の部門を担当した[46]。本社・荻窪工場・浜松工場は全国金属労組、三鷹工場は関東地区自動車産業労組連絡協議会に所属し、組合員総数は2,772名を数えた[47]

  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [44]従業員合計2,832人(荻窪1,143人、三鷹1,228人、浜松422人、販売部39人)。職員男778人は平均年齢30.6歳・平均勤続5年2カ月、工員男1,838人は平均年齢27.7歳・平均勤続4年9カ月
    • [45]勤続年数は富士産業株式会社発足時(1945年9月1日)および旧プリンス自動車工業株式会社発足時(1946年1月1日)からそれぞれ通算
    • [47]労組は本社・荻窪工場・浜松工場が全国金属労組、三鷹工場が関東地区自動車産業労組連絡協議会に所属し、組合員総数は2,772名
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [46]中川良一は中島飛行機出身、1951年に取締役就任、技術管理・設計・実験部・研究所を担当
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 40_自動車・自転車
    • [35]1952年以降、日野はルノー、いすゞはルーツモーター(ヒルマン)、日産はオースチンと技術提携し、外国車の組立を行っていた
    • [36]純国産はトヨタと富士精密の2社であり、日野・いすゞ・日産は外国メーカーとの技術提携による組立を行っていた
  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [37]1950年7月、企業再建整備法に基づき富士産業(旧中島飛行機)の第二会社として荻窪・浜松両工場と附属資産を引き継ぎ資本金5,500万円で発足。両工場は戦時中に中島飛行機の主力工場として航空機エンジンを生産し、発動機の設計・研究・製作の技術と機械設備を有していた
    • [38]三鷹工場は戦時中の航空機製造で発揮した高度の技術と優秀な機械設備をもって自動車製造に着手し、荻窪工場生産のエンジンを搭載して「プリンス号自動車」を一貫作業により生産していた
    • [39]プリンス号自動車は中型国産車としては最高馬力の高性能エンジンを装備し、シンクロメッシュ変速機、フラッシャー式方向指示器等を備えていた
    • [40]高度の技術を必要とする航空機エンジンの国産化を図る態勢を整え、第一段階として米国カーチスライト社と大型航空機エンジンに関する技術提携契約を締結
    • [41]払込資本金1億6,000万円の日本ジェットエンジン株式会社の共同出資会社4社中の1社であり、ジェットエンジンの試作研究に当たっていた
    • [43]荻窪工場はプリンス自動車用エンジン、BSモーター小型ガソリンエンジン、フルバーランドディーゼルエンジン等の生産および航空機エンジン・ロケットの修理、試作研究を行っていた
    • [44]従業員合計2,832人(荻窪1,143人、三鷹1,228人、浜松422人、販売部39人)。職員男778人は平均年齢30.6歳・平均勤続5年2カ月、工員男1,838人は平均年齢27.7歳・平均勤続4年9カ月
    • [45]勤続年数は富士産業株式会社発足時(1945年9月1日)および旧プリンス自動車工業株式会社発足時(1946年1月1日)からそれぞれ通算
    • [47]労組は本社・荻窪工場・浜松工場が全国金属労組、三鷹工場が関東地区自動車産業労組連絡協議会に所属し、組合員総数は2,772名
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [42]東京大学生産技術研究所の委嘱によるロケットの試作を行い、1956年に埼玉県川越にわが国最大のロケット燃焼実験所を建設
    • [46]中川良一は中島飛行機出身、1951年に取締役就任、技術管理・設計・実験部・研究所を担当
創業ストーリー(5)

東証上場と筆頭株主ブリヂストンタイヤ

1954年7月、富士精密工業は資本金を13億3,500万円へ引き上げた[48]。1950年7月の設立時は5,500万円で、1952年に2度の縁故増資と1対1の株主割当増資を重ね、1953年2月に富士産業からの現物出資で2億700万円、同年9月に5億1,750万円、1954年4月の旧プリンス自動車工業の合併で6億6,750万円と積み上げてきた[49]。製品別では自動車が生産実績の約70%を占め、ミシン、バイクモーター、ディーゼルエンジン、映写機、自動繰糸機が続いた[50]。1955年6月期の総売上高は22億1,000万円だった[51]

  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [48]1954年7月に資本金1,335,000千円(13億3,500万円)へ増資(1対0.5の割当と無償1対0.5)
    • [49]資本の推移: 1950年7月55,000千円設立、1952年5月75,000千円増資、1952年6月100,000千円、1952年11月200,000千円(1対1)、1953年2月207,000千円(富士産業からの現物出資)、1953年9月517,500千円、1954年4月667,500千円(旧プリンス自動車工業の吸収合併)、1954年7月1,335,000千円
    • [50]生産実績金額による製品の百分比は自動車部門が大部分を占め、以下ミシン、バイクモーター、ディーゼルエンジン、映写機、自動繰糸機が続いた
    • [51]1955年6月期の総売上高は22億1,000万円

1956年7月20日、富士精密工業は東京証券取引所へ新規上場した[52]。上場株式数は2,670万株、資本金は13億3,500万円、銘柄コード番号は7209[53]。授権株数5,340万株のうち、未発行株数は2,670万株を残した[54]。上場初週にあたる7月20日から24日までの株価は高値79円・安値76円、出来高は12万1,000株だった[55]。市場に登場した商号は富士精密工業であり、プリンス自動車工業の名で上場したのではない[56]。本社は東京都杉並区宿町88に置き、決算期は6月30日と12月31日の年2回、定時株主総会は2月と8月に開いた[57]

  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [52]新規上場 1956年7月20日、東京証券取引所
    • [53]上場株式数26,700千株、資本金1,335,000千円、銘柄コード番号7209
    • [54]授権株数53,400千株、未発行株数26,700千株
    • [55]取引状況(1956年7月20日〜24日)高値79円、安値76円、出来高121千株
    • [57]本社は東京都杉並区宿町88、決算期は6月30日と12月31日、定時株主総会は2月中と8月中
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [56]上場時の商号は富士精密工業株式会社。社名をプリンス自動車工業株式会社へ変更したのは1961年

1955年12月末の株主構成では、ブリヂストンタイヤが1,348万株を持って筆頭に立ち、日興証券190万8,243株、日本興業銀行63万3,133株が続いた[58]。会長にはブリヂストンタイヤの石橋正二郎氏が就き、社長を団伊能氏、副社長を鈴木里一郎氏と小松繁氏が務めた[59]。資本の面ではブリヂストン住友銀行の系列に属しながら、技術の面では旧中島飛行機の伝統を引き継いだ[60]。増資は続き、1958年5月に1対1の株主割当で資本金を26億7,000万円とし、1960年11月には40億500万円へ引き上げた[61]

  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [58]大株主(1955年12月31日現在)ブリヂストンタイヤ13,480,000株、日興証券1,908,243株、日本興業銀行633,133株、鈴木里一郎605,000株、山一証券439,000株
    • [59]役員: 会長 石橋正二郎、社長 団伊能、副社長 鈴木里一郎・小松繁、専務 新山春雄、常務 天瀬金蔵・外山保
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [60]資本的にはブリヂストンと住友銀行の系列下にあるが、技術的には旧中島飛行機の伝統を受けついでいる
    • [61]資本異動: 1958年5月20日 2,670,000千円(1対1)、1960年11月21日 4,005,000千円(1対0.5)
  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [48]1954年7月に資本金1,335,000千円(13億3,500万円)へ増資(1対0.5の割当と無償1対0.5)
    • [49]資本の推移: 1950年7月55,000千円設立、1952年5月75,000千円増資、1952年6月100,000千円、1952年11月200,000千円(1対1)、1953年2月207,000千円(富士産業からの現物出資)、1953年9月517,500千円、1954年4月667,500千円(旧プリンス自動車工業の吸収合併)、1954年7月1,335,000千円
    • [50]生産実績金額による製品の百分比は自動車部門が大部分を占め、以下ミシン、バイクモーター、ディーゼルエンジン、映写機、自動繰糸機が続いた
    • [51]1955年6月期の総売上高は22億1,000万円
    • [52]新規上場 1956年7月20日、東京証券取引所
    • [53]上場株式数26,700千株、資本金1,335,000千円、銘柄コード番号7209
    • [54]授権株数53,400千株、未発行株数26,700千株
    • [55]取引状況(1956年7月20日〜24日)高値79円、安値76円、出来高121千株
    • [57]本社は東京都杉並区宿町88、決算期は6月30日と12月31日、定時株主総会は2月中と8月中
    • [58]大株主(1955年12月31日現在)ブリヂストンタイヤ13,480,000株、日興証券1,908,243株、日本興業銀行633,133株、鈴木里一郎605,000株、山一証券439,000株
    • [59]役員: 会長 石橋正二郎、社長 団伊能、副社長 鈴木里一郎・小松繁、専務 新山春雄、常務 天瀬金蔵・外山保
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [56]上場時の商号は富士精密工業株式会社。社名をプリンス自動車工業株式会社へ変更したのは1961年
    • [60]資本的にはブリヂストンと住友銀行の系列下にあるが、技術的には旧中島飛行機の伝統を受けついでいる
    • [61]資本異動: 1958年5月20日 2,670,000千円(1対1)、1960年11月21日 4,005,000千円(1対0.5)
創業ストーリー(6)

スカイライン発表から社名プリンス自動車工業への復帰

小型四輪車の生産台数は、1955年度でトヨタ1万9,214台、日産1万3,705台に対し、富士精密は5,956台で業界3位に並んだ[62]。1953年度の2,697台、1954年度の3,718台から2年で2.2倍に伸ばした[63]。1955年下期の自動車部門は生産額で上期比30%、販売額で35%増えた[64]。期の半ばに性能と外観を一新した1956年型の乗用車を発売し、販売量は上期比45%増、トラックの販売量も3%増となった[65]。上期に発売したキャブオーバートラックの需要も増え、スタンダードトラックに迫る売れ行きを示した[66]

  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [62]小型四輪車生産台数(自動車工業会調べ)1955年度: トヨタ19,214台、日産13,705台、富士精密5,956台、オオタ577台
    • [63]小型四輪車生産台数(自動車工業会調べ)富士精密: 1953年度2,697台、1954年度3,718台、1955年度5,956台
    • [64]1955年下期の自動車部門は生産額で上期比30%、販売額で35%増加
    • [65]期央に性能・外容を一新した1956年型新車を発売し、乗用車の販売量は上期比45%増、トラックの販売量は3%増
    • [66]上期発売のキャブオーバートラックは需要が著増し、将来スタンダードトラックに迫る需要を期待される売行きを示した

1957年4月、富士精密工業は高級乗用車プリンス・スカイラインを発表した[67]。以後は各車種を順次新型へ切り換え、1958年10月には国産初の1900cc乗用車プリンス・グロリアが加わった[68]。新型車の投入と並行して、1960年からは量産設備の増強に入った。同年8月、自動車1万台生産を目標とする5カ年計画を策定し、ただちに東京都下の村山・砂川両町にまたがる約40万坪の土地を購入して新工場の建設に着手した[69]。1961年6月期の販売実績は乗用車6,430台、小型トラック1万2,426台、売上高は128億1,420万円[70]。輸出額は3億5,035万円で、売上高の2.7%を占めた[71]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [67]1957年4月、画期的高級乗用車プリンス・スカイラインを発表
    • [68]以後、各車種を続々と新型に切り換え、1958年10月に国産初の1900cc乗用車プリンス・グロリアを発表
    • [69]1960年8月、自動車1万台生産を目標とする5カ年計画を策定し、ただちに東京都下村山・砂川両町にまたがる約40万坪の土地を購入、新工場の建設に着手
    • [70]1961年6月期の販売実績は乗用車6,430台、小型トラック12,426台。同期の売上高は12,814,201千円
    • [71]1961年6月期の輸出金額は350,351千円、対売上比率2.7%

1961年、富士精密工業は社名をプリンス自動車工業へ変更した[72]。1954年の合併で消えた被合併会社の商号が、7年を経て存続会社の名として戻った[73]。小松繁氏は1952年に公職追放を解かれ、友人である石井光次郎氏の橋渡しで富士精密工業の副社長に就いた[74]。小松繁氏は福岡県三井郡北野町の出身で、久留米市の明善中学から神戸高等商業学校へ進み、三菱商事のニューヨーク支店長時代には日産自動車の横浜工場建設を一手に世話した経歴を持つ[75]。小型乗用車と小型トラックでは業界3位につけたものの、生産車種がこの2分野に限られ、自動車会社としての順位は7位にとどまった[76]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [72]1961年、社名をプリンス自動車工業株式会社と変更
    • [76]自動車会社として業界第7位。小型乗用車ならびに小型トラックで第3位だが、生産車種がこの分野に限られるため総合力ではBクラス
  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [73]1954年4月に旧プリンス自動車工業(三鷹工場)を吸収合併し、存続会社は富士精密工業だった。その後1961年に社名をプリンス自動車工業へ変更
  • わたしの経営 現代をつくる57社長の経営信条(1963年)「自由化恐れぬ技術 プリンス自動車工業社長 小松繁」
    • [74]追放解除になった1952年、友人石井光次郎の橋渡しで富士精密工業(プリンス自動車の前身)の副社長になった
    • [75]小松繁は福岡県三井郡北野町出身、久留米市明善中学から神戸高商卒、三菱商事入社。ニューヨーク支店長時代に日産自動車の横浜工場建設を一手に世話した
  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [62]小型四輪車生産台数(自動車工業会調べ)1955年度: トヨタ19,214台、日産13,705台、富士精密5,956台、オオタ577台
    • [63]小型四輪車生産台数(自動車工業会調べ)富士精密: 1953年度2,697台、1954年度3,718台、1955年度5,956台
    • [64]1955年下期の自動車部門は生産額で上期比30%、販売額で35%増加
    • [65]期央に性能・外容を一新した1956年型新車を発売し、乗用車の販売量は上期比45%増、トラックの販売量は3%増
    • [66]上期発売のキャブオーバートラックは需要が著増し、将来スタンダードトラックに迫る需要を期待される売行きを示した
    • [73]1954年4月に旧プリンス自動車工業(三鷹工場)を吸収合併し、存続会社は富士精密工業だった。その後1961年に社名をプリンス自動車工業へ変更
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [67]1957年4月、画期的高級乗用車プリンス・スカイラインを発表
    • [68]以後、各車種を続々と新型に切り換え、1958年10月に国産初の1900cc乗用車プリンス・グロリアを発表
    • [69]1960年8月、自動車1万台生産を目標とする5カ年計画を策定し、ただちに東京都下村山・砂川両町にまたがる約40万坪の土地を購入、新工場の建設に着手
    • [70]1961年6月期の販売実績は乗用車6,430台、小型トラック12,426台。同期の売上高は12,814,201千円
    • [71]1961年6月期の輸出金額は350,351千円、対売上比率2.7%
    • [72]1961年、社名をプリンス自動車工業株式会社と変更
    • [76]自動車会社として業界第7位。小型乗用車ならびに小型トラックで第3位だが、生産車種がこの分野に限られるため総合力ではBクラス
  • わたしの経営 現代をつくる57社長の経営信条(1963年)「自由化恐れぬ技術 プリンス自動車工業社長 小松繁」
    • [74]追放解除になった1952年、友人石井光次郎の橋渡しで富士精密工業(プリンス自動車の前身)の副社長になった
    • [75]小松繁は福岡県三井郡北野町出身、久留米市明善中学から神戸高商卒、三菱商事入社。ニューヨーク支店長時代に日産自動車の横浜工場建設を一手に世話した

225億円の村山工場計画と資本自由化のなかの日産合併

創業ストーリー(7)

村山工場第1期の操業開始と月産1万台への5カ年計画

1960年に着手した新工場の建設は、1962年9月に第1期工事の完了へこぎつけた[77]。乗用車専門工場として建てた村山工場は操業を開始し、月産2,000台の生産に入って、1963年下期には平均月産3,000台を目標に置いた[78]。1964年末に月産1万台の生産能力とする5カ年計画は3カ年を順調に終え、計画に要する資金は総額約225億円、うち1963年中に必要な設備資金は約60億円と見込んでいた[79]。ただし1962年12月期の販売実績は乗用車7,857台、小型トラック1万2,192台で、月産1万台の水準にはまだ遠かった[80]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [77]村山新工場は1962年9月に第1期工事を完了して操業を開始した
    • [78]乗用車専門工場の村山工場は月産2,000台の生産体制を固めており、1963年下期には平均月産3,000台を目標としていた
    • [79]1964年末において月産1万台の生産能力とする5カ年計画は3カ年を順調に終了し、計画に要する資金は総額約225億円、うち1963年中に必要な設備資金は約60億円の見込みだった
    • [80]1962年12月期の販売実績は乗用車7,857台、小型トラック1万2,192台だった

この計画は小松繁社長が立てた。敷地132万平方メートルに東洋一の乗用車工場を建て、近い将来には月産2万5,000台まで持っていく構想を描いた[81]。1962年秋に第1期工事が完成すると、村山工場はグロリアの伸びに支えられてフル操業に入り、生産能力は一挙に6,500台へ上がった[82]。同社は同じ1962年の1月に浜松工場を分離独立させてリズムフレンド製造を設立し、9月には新型高級乗用車プリンス・グロリア・デラックスを発売した[83]。翌1963年には、国産車で初めて2000cc6気筒エンジンを積むグロリア・スーパー6と小型ファミリーカーのスカイライン1500デラックスが加わった[84]

  • わたしの経営 現代をつくる57社長の経営信条(1963年)「自由化恐れぬ技術 プリンス自動車工業社長 小松繁」
    • [81]村山工場計画の発案者は小松繁社長で、敷地132万平方メートルに東洋一の乗用車工場を完成させ近い将来に月産2万5,000台へ持っていく構想だった
    • [82]1962年秋に村山工場の第1期工事が完成し、グロリアの伸びに支えられてフル操業に入り、生産能力は一挙に6,500台まで上がった
    • [84]1963年に国産車ではじめての2000cc6気筒エンジン『グロリア・スーパー6』と小型ファミリーカー『スカイライン1500デラックス』を発表した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [83]1962年1月に浜松工場を分離独立させリズムフレンド製造を設立し、同年9月に新型高級乗用車プリンス・グロリア・デラックスを発売した

村山工場を加えても、プリンス自動車工業の規模は上位メーカーに届かなかった。自動車会社として業界第7位、小型乗用車と小型トラックでは第3位に位置したが、生産車種がこの分野に限られるため、総合力ではBクラスと評されていた[85]。自動車部門のほかに自動繰糸機と航空機の両部門を持ちながら、売上高の95%前後は自動車部門が占めた[86]。1962年12月末の従業員は職員男2,172人・工員男3,405人・女73人の合計5,970人、平均年齢は28.3歳で、工場別では荻窪2,587人、三鷹1,206人に対し、動き出したばかりの村山は1,526人という配置だった[87][88]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [85]自動車会社として業界第7位、小型乗用車ならびに小型トラックで第3位だが、生産車種がこの分野に限られるため総合力ではBクラスとされた
    • [86]自動車部門以外に自動繰糸機と航空機の両部門を持つが、売上高の95%前後を自動車部門があげていた
    • [87]1962年12月末の従業員は職員男2,172人・工員男3,405人・女73人の合計5,970人、平均年齢28.3歳だった
    • [88]事業所別の従業員は荻窪工場2,587人、三鷹工場1,206人、村山工場1,526人だった
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [77]村山新工場は1962年9月に第1期工事を完了して操業を開始した
    • [78]乗用車専門工場の村山工場は月産2,000台の生産体制を固めており、1963年下期には平均月産3,000台を目標としていた
    • [79]1964年末において月産1万台の生産能力とする5カ年計画は3カ年を順調に終了し、計画に要する資金は総額約225億円、うち1963年中に必要な設備資金は約60億円の見込みだった
    • [80]1962年12月期の販売実績は乗用車7,857台、小型トラック1万2,192台だった
    • [83]1962年1月に浜松工場を分離独立させリズムフレンド製造を設立し、同年9月に新型高級乗用車プリンス・グロリア・デラックスを発売した
    • [85]自動車会社として業界第7位、小型乗用車ならびに小型トラックで第3位だが、生産車種がこの分野に限られるため総合力ではBクラスとされた
    • [86]自動車部門以外に自動繰糸機と航空機の両部門を持つが、売上高の95%前後を自動車部門があげていた
    • [87]1962年12月末の従業員は職員男2,172人・工員男3,405人・女73人の合計5,970人、平均年齢28.3歳だった
    • [88]事業所別の従業員は荻窪工場2,587人、三鷹工場1,206人、村山工場1,526人だった
  • わたしの経営 現代をつくる57社長の経営信条(1963年)「自由化恐れぬ技術 プリンス自動車工業社長 小松繁」
    • [81]村山工場計画の発案者は小松繁社長で、敷地132万平方メートルに東洋一の乗用車工場を完成させ近い将来に月産2万5,000台へ持っていく構想だった
    • [82]1962年秋に村山工場の第1期工事が完成し、グロリアの伸びに支えられてフル操業に入り、生産能力は一挙に6,500台まで上がった
    • [84]1963年に国産車ではじめての2000cc6気筒エンジン『グロリア・スーパー6』と小型ファミリーカー『スカイライン1500デラックス』を発表した
創業ストーリー(8)

伸びの止まった売上高と中型乗用車の自由化

村山工場が動き出した時期に、売上高の伸びは止まっていた。1961年12月期の144億1,949万円に対し、1962年6月期は145億691万円、1962年12月期は141億7,585万円と、半期ごとの積み上げが横ばいから減少へ転じた[89]。税込利益率も1962年6月期の8.3%から12月期には7.2%へ下がった[90]。株式市場の評価はさらに厳しく、1960年に高値195円をつけた株価は1962年に安値47円まで下げた[91]。1962年12月末の筆頭株主は25.0%を持つ石橋産業で、日興証券が7.7%で続いた[92]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [89]売上高は1961年12月期144億1,949万円、1962年6月期145億691万円、1962年12月期141億7,585万円と伸びが止まった
    • [90]税込利益率は1962年6月期8.3%から1962年12月期7.2%へ低下した
    • [91]株価は1960年の高値195円から1962年の安値47円まで下げた
    • [92]1962年12月末の大株主は石橋産業25.0%、日興証券7.7%だった

自由民主党の自由化対策特別委員会は、中型乗用車の自由化を3年以内に実施できるよう政府に対策を急がせる方針を決め、各社は通商産業省の行政指導をよそに量産化を競った[93]トヨタ自動車工業日産自動車いすゞ自動車日野自動車が大型のトラックやバスという自由化に強い部門を抱えていたのに対し、中型車の専門メーカーであるプリンス自動車工業はそうした部門を持たず、立場はもっとも苦しかった[94]。小松繁社長は国際競争力を早くつけるための条件として、まず技術、次に値段、最後に好みという順を挙げ、次に発表する車は世界的水準のものでなければ意味がないと語った[95]

  • わたしの経営 現代をつくる57社長の経営信条(1963年)「自由化恐れぬ技術 プリンス自動車工業社長 小松繁」
    • [93]自民党の自由化対策特別委員会は中型乗用車の自由化を3年以内に実施できるよう政府に対策を急がせる方針を決め、各社は通産省の行政指導をよそに量産化をはかった
    • [94]他社が大型のトラックやバスなど自由化に強い部門を持つのに比べ、中型車の専門メーカーであるプリンスにはそれがなく立ち場はもっとも苦しかった
    • [95]小松繁は国際競争力をつけるにはまず第一に技術、つぎが値段、さいごは好みだとの判断を下し、こんど発表する車は世界的水準のものでないと意味はないと述べた

小松繁社長は自動車の本命を輸出に置いた。経営者は少なくとも5年から10年先のことを考えるのが責務だとして、いまの技術水準なら国内市場が自由化されても恐れる必要はないとみて、外車との勝負は海外市場で決まると判断し、赤字を覚悟したうえで30数カ国への輸出を続けた[96]。もっとも輸出の実額は小さく、1962年6月期の輸出金額は4億4,978万円で対売上比率3.1%、同年12月期は4億407万円で2.9%にとどまった[97]。1961年に社長へ就いた小松繁氏は1963年8月に社長を辞任して相談役へ退き、後任には住友銀行出身で1960年から副社長を務めた小川秀彦氏が就いた[98][99]

  • わたしの経営 現代をつくる57社長の経営信条(1963年)「自由化恐れぬ技術 プリンス自動車工業社長 小松繁」
    • [96]小松繁は経営者は少なくとも五年から十年さきのことを考えるのが責務だとし、自動車の本命は輸出だとして、国内市場は自由化されても恐れる必要はないとみて赤字覚悟で三十数カ国に輸出を続けた
    • [98]小松繁は1961年に社長に就任し、1963年8月に社長を辞任して相談役に就任した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [97]輸出金額は1962年6月期4億4,978万円・対売上比率3.1%、1962年12月期4億407万円・2.9%だった
    • [99]後任の社長・小川秀彦は住友銀行出身で、1960年に副社長、1963年に社長となった
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [89]売上高は1961年12月期144億1,949万円、1962年6月期145億691万円、1962年12月期141億7,585万円と伸びが止まった
    • [90]税込利益率は1962年6月期8.3%から1962年12月期7.2%へ低下した
    • [91]株価は1960年の高値195円から1962年の安値47円まで下げた
    • [92]1962年12月末の大株主は石橋産業25.0%、日興証券7.7%だった
    • [97]輸出金額は1962年6月期4億4,978万円・対売上比率3.1%、1962年12月期4億407万円・2.9%だった
    • [99]後任の社長・小川秀彦は住友銀行出身で、1960年に副社長、1963年に社長となった
  • わたしの経営 現代をつくる57社長の経営信条(1963年)「自由化恐れぬ技術 プリンス自動車工業社長 小松繁」
    • [93]自民党の自由化対策特別委員会は中型乗用車の自由化を3年以内に実施できるよう政府に対策を急がせる方針を決め、各社は通産省の行政指導をよそに量産化をはかった
    • [94]他社が大型のトラックやバスなど自由化に強い部門を持つのに比べ、中型車の専門メーカーであるプリンスにはそれがなく立ち場はもっとも苦しかった
    • [95]小松繁は国際競争力をつけるにはまず第一に技術、つぎが値段、さいごは好みだとの判断を下し、こんど発表する車は世界的水準のものでないと意味はないと述べた
    • [96]小松繁は経営者は少なくとも五年から十年さきのことを考えるのが責務だとし、自動車の本命は輸出だとして、国内市場は自由化されても恐れる必要はないとみて赤字覚悟で三十数カ国に輸出を続けた
    • [98]小松繁は1961年に社長に就任し、1963年8月に社長を辞任して相談役に就任した
創業ストーリー(9)

合併覚書の調印と石橋正二郎会長が示した5つの条件

資本自由化を控えた1960年代半ば、通商産業省は乱立する乗用車メーカーの整理統合を促す行政指導に動いた[100]。プリンス自動車工業は大衆車を持たず、1500cc以上の乗用車が主力で、日野自動車工業いすゞ自動車に比べてトラック部門が弱かったため、単独で生き残ることは難しいと同時代に見られていた[101]。1964年度の生産台数は8万5,104台、従業員は8,693名で、5カ年計画が掲げた月産1万台の水準には届かなかった[102]。1965年半ばには業績の悪化が表面化し、この6月期はどうにか公約どおり1割2分の配当を据え置けるとしても、次の12月期はあぶないという見方が出た[103]

    • [100]国際競争力の確保を急いだ通商産業省は、乱立する乗用車メーカーの整理統合を促す行政指導に動いた
  • 実業の世界 62巻8号(実業之世界社、1965年8月)日産・プリンス合併分析記事
    • [101]プリンスは1500cc以上の乗用車が主力で日野・いすゞに比べトラック部門が弱く、単独で生き残ることは難しいとみられた
    • [103]1965年にプリンスの業績悪化が表面化し、この6月期はどうにか公約通り一割二分配当を据置けるとしても、つぎの十二月期はあぶないとされた
  • 歴史をつくる人々 第13(ダイヤモンド社、1965年)所収 石橋正二郎(プリンス自動車工業会長)回想
    • [102]1964年度の生産台数は8万5,104台、従業員は8,693名だった

乗用車の自由化が迫るなか、通商産業大臣の桜内義雄氏が自ら乗り出し、日産自動車社長の川又克二氏と石橋正二郎会長を招いて、対等の精神で模範的な合併を話し合ってほしいと膝詰めで求めた[104]。1965年5月31日、プリンス自動車工業は日産自動車と合併覚書に調印した[105]。石橋正二郎会長は、プリンス車名の永久存続、従業員の処遇、代理店の存続、銀行関係の維持、株主に不利をもたらさないことの5点を、合併を受け入れる条件に挙げた[106]日産自動車側の条件も理解のあるもので、大綱ではすみやかに一致をみたが、細目の調整には2カ月あまりを要した[107]

  • 歴史をつくる人々 第13(ダイヤモンド社、1965年)所収 石橋正二郎(プリンス自動車工業会長)回想
    • [104]桜内義雄通産大臣がみずから乗り出し、日産社長の川又克二と石橋正二郎を招いて、対等精神をもって模範的な両社合併を話しあってもらいたいと膝詰めで要望した
    • [105]1965年5月31日にパレスホテルで日産自動車とプリンス自動車工業の合併覚書調印式が行われた
    • [106]石橋正二郎が依頼した条件は、プリンス車名の永久存続、従業員の処遇、代理店の存続、銀行関係維持、株主に不利をもたらさぬことの5点だった
    • [107]日産側の条件も理解のあるもので大綱的にはすみやかに一致をみたが、細目調整に2カ月あまりを要した

覚書の調印から合併の成立までには1年余りを要した。中型乗用車の専門メーカーとして技術で先行しながら、月産1万台の量産を単独で支える資本を積み上げられなかったプリンス自動車工業は、売り手として交渉の席に着いた。工場も車種も技術者も日産自動車へ渡り、スカイラインとグロリアは車種名として引き継がれたが、石橋正二郎会長が永久存続を求めた『プリンス』の名は、乗用車のブランドとしては数年しか残らなかった[108]。1966年8月1日、日産自動車がプリンス自動車工業を吸収する形で合併が成立し、1950年7月12日の設立から16年で法人は消滅し、株式の上場も終わった[109]

    • [100]国際競争力の確保を急いだ通商産業省は、乱立する乗用車メーカーの整理統合を促す行政指導に動いた
    • [109]1966年8月1日に日産自動車がプリンス自動車工業を吸収合併し、1950年7月12日設立のプリンス自動車工業は法人として消滅した
  • 実業の世界 62巻8号(実業之世界社、1965年8月)日産・プリンス合併分析記事
    • [101]プリンスは1500cc以上の乗用車が主力で日野・いすゞに比べトラック部門が弱く、単独で生き残ることは難しいとみられた
    • [103]1965年にプリンスの業績悪化が表面化し、この6月期はどうにか公約通り一割二分配当を据置けるとしても、つぎの十二月期はあぶないとされた
  • 歴史をつくる人々 第13(ダイヤモンド社、1965年)所収 石橋正二郎(プリンス自動車工業会長)回想
    • [102]1964年度の生産台数は8万5,104台、従業員は8,693名だった
    • [104]桜内義雄通産大臣がみずから乗り出し、日産社長の川又克二と石橋正二郎を招いて、対等精神をもって模範的な両社合併を話しあってもらいたいと膝詰めで要望した
    • [105]1965年5月31日にパレスホテルで日産自動車とプリンス自動車工業の合併覚書調印式が行われた
    • [106]石橋正二郎が依頼した条件は、プリンス車名の永久存続、従業員の処遇、代理店の存続、銀行関係維持、株主に不利をもたらさぬことの5点だった
    • [107]日産側の条件も理解のあるもので大綱的にはすみやかに一致をみたが、細目調整に2カ月あまりを要した
    • [108]石橋正二郎は合併条件の筆頭にプリンス車名の永久存続を挙げたが、乗用車ブランドとしての「プリンス」は合併後数年で使われなくなった

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沿革年表 1947〜1966年

プリンス自動車工業の沿革1947〜1966年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1947〜1954年石橋正二郎氏の資本が束ねた立川系の電気自動車と中島系のエンジン立川飛行機の電気自動車部門が東京電気自動車として発足
電気自動車たま号を発売★★
石橋正二郎氏の出資を受ける★★
たま電気自動車に商号変更
旧中島飛行機の荻窪・浜松両工場を継いで富士精密工業が発足
鉛価格の高騰を受けてガソリン車に転換★★★
国産初の1500ccエンジンの試作を完成★★
たま自動車に商号変更
初のガソリン乗用車プリンス・セダンを発売★★★
プリンス自動車工業に商号変更
プリンス自動車工業と富士精密工業が対等合併★★★
1955〜1961年外国車と組まず純国産で通した技術とプリンス・スカイライン東京証券取引所に上場
初代スカイラインを発売★★
初代グロリアを発売★★
プリンス自動車工業に商号変更
1962〜1966年225億円の村山工場計画と資本自由化のなかの日産合併村山工場が操業を開始
第2回日本グランプリでスカイラインGTが上位入賞★★
日産自動車との合併覚書に調印★★★
日産自動車に吸収合併★★★
上場廃止
出典・参考 9件
出典・参考
  • トヨタ自動車『トヨタ自動車75年史』第2部 第1章 第2節 第3項「資本の自由化と自動車業界再編」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 40_自動車・自転車
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 40_自動車・自転車「プリンス自動車」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 40_自動車・自転車「富士精密工業」
  • 歴史をつくる人々 第13(ダイヤモンド社、1965年)所収 石橋正二郎(プリンス自動車工業会長)回想
  • 証券 1956年(第8巻第87号)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
  • 実業の世界 62巻8号(実業之世界社、1965年8月)日産・プリンス合併分析記事
  • わたしの経営 現代をつくる57社長の経営信条(1963年)「自由化恐れぬ技術 プリンス自動車工業社長 小松繁」

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