第2章 年〜年

プリンス自動車工業:純国産技術による初代スカイラインと初代グロリアの発売

1956年〜外国メーカーと提携せず自社設計で通した純国産

1952年以降、日野はルノー、いすゞはルーツモーター(ヒルマン)、日産はオースチンとそれぞれ技術提携し、外国車の組み立てを行っていた。提携先を持たずに設計から自社で進めたのは、トヨタと富士精密工業の2社にとどまった。富士精密工業がこの道を採れたのは、1950年7月に富士産業から引き継いだ荻窪・浜松の両工場が、戦時中は中島飛行機の主力工場として航空機エンジンを生産しており、発動機の設計・研究・製作の技術と機械設備を残していたからである。三鷹工場は戦時中の航空機製造で培った技術と機械設備で車体を作り、荻窪工場が生産したエンジンを載せて一貫作業でプリンス号自動車を組み上げた。この乗用車は中型国産車としては最高馬力の高性能エンジンに加え、シンクロメッシュ変速機とフラッシャー式方向指示器を備えた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 40_自動車・自転車
    • [1]1952年以降、日野はルノー、いすゞはルーツモーター(ヒルマン)、日産はオースチンと技術提携し、外国車の組立を行っていた
    • [2]純国産はトヨタと富士精密の2社であり、日野・いすゞ・日産は外国メーカーとの技術提携による組立を行っていた
  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [3]1950年7月、企業再建整備法に基づき富士産業(旧中島飛行機)の第二会社として荻窪・浜松両工場と附属資産を引き継ぎ資本金5,500万円で発足。両工場は戦時中に中島飛行機の主力工場として航空機エンジンを生産し、発動機の設計・研究・製作の技術と機械設備を有していた
    • [4]三鷹工場は戦時中の航空機製造で発揮した高度の技術と優秀な機械設備をもって自動車製造に着手し、荻窪工場生産のエンジンを搭載して「プリンス号自動車」を一貫作業により生産していた
    • [5]プリンス号自動車は中型国産車としては最高馬力の高性能エンジンを装備し、シンクロメッシュ変速機、フラッシャー式方向指示器等を備えていた

富士精密工業は自動車の量産と並行して航空機とロケットの開発を続けた。より高度な技術を要する航空機エンジンの国産化を進めるため、米国のカーチスライト社と大型航空機エンジンの技術提携契約を締結した。払込資本金1億6,000万円の日本ジェットエンジンには共同出資4社の1社として加わり、ジェットエンジンの試作研究を担った。東京大学生産技術研究所の委嘱を受けてロケットの試作も引き受け、1956年には埼玉県川越に国内最大のロケット燃焼実験所を建設した。荻窪工場ではプリンス自動車用エンジンやBSモーター小型ガソリンエンジンを量産しながら、航空機エンジンとロケットの修理・試作研究を続けた。

  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [6]高度の技術を必要とする航空機エンジンの国産化を図る態勢を整え、第一段階として米国カーチスライト社と大型航空機エンジンに関する技術提携契約を締結
    • [7]払込資本金1億6,000万円の日本ジェットエンジン株式会社の共同出資会社4社中の1社であり、ジェットエンジンの試作研究に当たっていた
    • [9]荻窪工場はプリンス自動車用エンジン、BSモーター小型ガソリンエンジン、フルバーランドディーゼルエンジン等の生産および航空機エンジン・ロケットの修理、試作研究を行っていた
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [8]東京大学生産技術研究所の委嘱によるロケットの試作を行い、1956年に埼玉県川越にわが国最大のロケット燃焼実験所を建設

航空機時代の人員がそのまま自動車を作った。1956年時点の従業員は2,832人で、男子職員778人は平均年齢30.6歳・平均勤続5年2カ月、男子工員1,838人は平均年齢27.7歳・平均勤続4年9カ月を記録した。勤続年数は富士産業が発足した1945年9月1日と、旧プリンス自動車工業が発足した1946年1月1日からそれぞれ通算していた。1951年に取締役へ就任した中川良一氏は中島飛行機の出身で、設計と実験の部門を担当した。本社・荻窪工場・浜松工場は全国金属労組、三鷹工場は関東地区自動車産業労組連絡協議会に所属し、組合員総数は2,772名を数えた。

  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [10]従業員合計2,832人(荻窪1,143人、三鷹1,228人、浜松422人、販売部39人)。職員男778人は平均年齢30.6歳・平均勤続5年2カ月、工員男1,838人は平均年齢27.7歳・平均勤続4年9カ月
    • [11]勤続年数は富士産業株式会社発足時(1945年9月1日)および旧プリンス自動車工業株式会社発足時(1946年1月1日)からそれぞれ通算
    • [13]労組は本社・荻窪工場・浜松工場が全国金属労組、三鷹工場が関東地区自動車産業労組連絡協議会に所属し、組合員総数は2,772名
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [12]中川良一は中島飛行機出身、1951年に取締役就任、技術管理・設計・実験部・研究所を担当
参考文献[1]-[13]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 40_自動車・自転車
    • [1]1952年以降、日野はルノー、いすゞはルーツモーター(ヒルマン)、日産はオースチンと技術提携し、外国車の組立を行っていた
    • [2]純国産はトヨタと富士精密の2社であり、日野・いすゞ・日産は外国メーカーとの技術提携による組立を行っていた
  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [3]1950年7月、企業再建整備法に基づき富士産業(旧中島飛行機)の第二会社として荻窪・浜松両工場と附属資産を引き継ぎ資本金5,500万円で発足。両工場は戦時中に中島飛行機の主力工場として航空機エンジンを生産し、発動機の設計・研究・製作の技術と機械設備を有していた
    • [4]三鷹工場は戦時中の航空機製造で発揮した高度の技術と優秀な機械設備をもって自動車製造に着手し、荻窪工場生産のエンジンを搭載して「プリンス号自動車」を一貫作業により生産していた
    • [5]プリンス号自動車は中型国産車としては最高馬力の高性能エンジンを装備し、シンクロメッシュ変速機、フラッシャー式方向指示器等を備えていた
    • [6]高度の技術を必要とする航空機エンジンの国産化を図る態勢を整え、第一段階として米国カーチスライト社と大型航空機エンジンに関する技術提携契約を締結
    • [7]払込資本金1億6,000万円の日本ジェットエンジン株式会社の共同出資会社4社中の1社であり、ジェットエンジンの試作研究に当たっていた
    • [9]荻窪工場はプリンス自動車用エンジン、BSモーター小型ガソリンエンジン、フルバーランドディーゼルエンジン等の生産および航空機エンジン・ロケットの修理、試作研究を行っていた
    • [10]従業員合計2,832人(荻窪1,143人、三鷹1,228人、浜松422人、販売部39人)。職員男778人は平均年齢30.6歳・平均勤続5年2カ月、工員男1,838人は平均年齢27.7歳・平均勤続4年9カ月
    • [11]勤続年数は富士産業株式会社発足時(1945年9月1日)および旧プリンス自動車工業株式会社発足時(1946年1月1日)からそれぞれ通算
    • [13]労組は本社・荻窪工場・浜松工場が全国金属労組、三鷹工場が関東地区自動車産業労組連絡協議会に所属し、組合員総数は2,772名
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [8]東京大学生産技術研究所の委嘱によるロケットの試作を行い、1956年に埼玉県川越にわが国最大のロケット燃焼実験所を建設
    • [12]中川良一は中島飛行機出身、1951年に取締役就任、技術管理・設計・実験部・研究所を担当

1958年〜東証上場と筆頭株主ブリヂストンタイヤ

1954年7月、富士精密工業は資本金を13億3,500万円へ引き上げた。1950年7月の設立時は5,500万円で、1952年に2度の縁故増資と1対1の株主割当増資を重ね、1953年2月に富士産業からの現物出資で2億700万円、同年9月に5億1,750万円、1954年4月の旧プリンス自動車工業の合併で6億6,750万円と積み上げてきた。製品別では自動車が生産実績の約70%を占め、ミシン、バイクモーター、ディーゼルエンジン、映写機、自動繰糸機が続いた。1955年6月期の総売上高は22億1,000万円だった。

  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [14]1954年7月に資本金1,335,000千円(13億3,500万円)へ増資(1対0.5の割当と無償1対0.5)
    • [15]資本の推移: 1950年7月55,000千円設立、1952年5月75,000千円増資、1952年6月100,000千円、1952年11月200,000千円(1対1)、1953年2月207,000千円(富士産業からの現物出資)、1953年9月517,500千円、1954年4月667,500千円(旧プリンス自動車工業の吸収合併)、1954年7月1,335,000千円
    • [16]生産実績金額による製品の百分比は自動車部門が大部分を占め、以下ミシン、バイクモーター、ディーゼルエンジン、映写機、自動繰糸機が続いた
    • [17]1955年6月期の総売上高は22億1,000万円

1956年7月20日、富士精密工業は東京証券取引所へ新規上場した。上場株式数は2,670万株、資本金は13億3,500万円、銘柄コード番号は7209。授権株数5,340万株のうち、未発行株数は2,670万株を残した。上場初週にあたる7月20日から24日までの株価は高値79円・安値76円、出来高は12万1,000株だった。市場に登場した商号は富士精密工業であり、プリンス自動車工業の名で上場したのではない。本社は東京都杉並区宿町88に置き、決算期は6月30日と12月31日の年2回、定時株主総会は2月と8月に開いた。

  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [18]新規上場 1956年7月20日、東京証券取引所
    • [19]上場株式数26,700千株、資本金1,335,000千円、銘柄コード番号7209
    • [20]授権株数53,400千株、未発行株数26,700千株
    • [21]取引状況(1956年7月20日〜24日)高値79円、安値76円、出来高121千株
    • [23]本社は東京都杉並区宿町88、決算期は6月30日と12月31日、定時株主総会は2月中と8月中
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [22]上場時の商号は富士精密工業株式会社。社名をプリンス自動車工業株式会社へ変更したのは1961年

1955年12月末の株主構成では、ブリヂストンタイヤが1,348万株を持って筆頭に立ち、日興証券190万8,243株、日本興業銀行63万3,133株が続いた。会長にはブリヂストンタイヤの石橋正二郎氏が就任し、社長を団伊能氏、副社長を鈴木里一郎氏と小松繁氏が務めた。資本の面ではブリヂストンと住友銀行の系列に属しながら、技術の面では旧中島飛行機の伝統を引き継いだ。増資は続き、1958年5月に1対1の株主割当で資本金を26億7,000万円とし、1960年11月には40億500万円へ引き上げた。

  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [24]大株主(1955年12月31日現在)ブリヂストンタイヤ13,480,000株、日興証券1,908,243株、日本興業銀行633,133株、鈴木里一郎605,000株、山一証券439,000株
    • [25]役員: 会長 石橋正二郎、社長 団伊能、副社長 鈴木里一郎・小松繁、専務 新山春雄、常務 天瀬金蔵・外山保
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [26]資本的にはブリヂストンと住友銀行の系列下にあるが、技術的には旧中島飛行機の伝統を受けついでいる
    • [27]資本異動: 1958年5月20日 2,670,000千円(1対1)、1960年11月21日 4,005,000千円(1対0.5)
参考文献[14]-[27]
  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [14]1954年7月に資本金1,335,000千円(13億3,500万円)へ増資(1対0.5の割当と無償1対0.5)
    • [15]資本の推移: 1950年7月55,000千円設立、1952年5月75,000千円増資、1952年6月100,000千円、1952年11月200,000千円(1対1)、1953年2月207,000千円(富士産業からの現物出資)、1953年9月517,500千円、1954年4月667,500千円(旧プリンス自動車工業の吸収合併)、1954年7月1,335,000千円
    • [16]生産実績金額による製品の百分比は自動車部門が大部分を占め、以下ミシン、バイクモーター、ディーゼルエンジン、映写機、自動繰糸機が続いた
    • [17]1955年6月期の総売上高は22億1,000万円
    • [18]新規上場 1956年7月20日、東京証券取引所
    • [19]上場株式数26,700千株、資本金1,335,000千円、銘柄コード番号7209
    • [20]授権株数53,400千株、未発行株数26,700千株
    • [21]取引状況(1956年7月20日〜24日)高値79円、安値76円、出来高121千株
    • [23]本社は東京都杉並区宿町88、決算期は6月30日と12月31日、定時株主総会は2月中と8月中
    • [24]大株主(1955年12月31日現在)ブリヂストンタイヤ13,480,000株、日興証券1,908,243株、日本興業銀行633,133株、鈴木里一郎605,000株、山一証券439,000株
    • [25]役員: 会長 石橋正二郎、社長 団伊能、副社長 鈴木里一郎・小松繁、専務 新山春雄、常務 天瀬金蔵・外山保
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [22]上場時の商号は富士精密工業株式会社。社名をプリンス自動車工業株式会社へ変更したのは1961年
    • [26]資本的にはブリヂストンと住友銀行の系列下にあるが、技術的には旧中島飛行機の伝統を受けついでいる
    • [27]資本異動: 1958年5月20日 2,670,000千円(1対1)、1960年11月21日 4,005,000千円(1対0.5)

1960年〜スカイライン発表から社名プリンス自動車工業への復帰

小型四輪車の生産台数は、1955年度でトヨタ1万9,214台、日産1万3,705台に対し、富士精密は5,956台で業界3位に並んだ。1953年度の2,697台、1954年度の3,718台から2年で2.2倍に伸ばした。1955年下期の自動車部門は生産額で上期比30%、販売額で35%増えた。期の半ばに性能と外観を一新した1956年型の乗用車を発売し、販売量は上期比45%増、トラックの販売量も3%増となった。上期に発売したキャブオーバートラックの需要も増え、スタンダードトラックに迫る売れ行きを示した。

  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [28]小型四輪車生産台数(自動車工業会調べ)1955年度: トヨタ19,214台、日産13,705台、富士精密5,956台、オオタ577台
    • [29]小型四輪車生産台数(自動車工業会調べ)富士精密: 1953年度2,697台、1954年度3,718台、1955年度5,956台
    • [30]1955年下期の自動車部門は生産額で上期比30%、販売額で35%増加
    • [31]期央に性能・外容を一新した1956年型新車を発売し、乗用車の販売量は上期比45%増、トラックの販売量は3%増
    • [32]上期発売のキャブオーバートラックは需要が著増し、将来スタンダードトラックに迫る需要を期待される売行きを示した

1957年4月、富士精密工業は高級乗用車プリンス・スカイラインを発表した。以後は各車種を順次新型へ切り換え、1958年10月には国産初の1900cc乗用車プリンス・グロリアが加わった。新型車の投入と並行して、1960年からは量産設備の増強に入った。同年8月、自動車1万台生産を目標とする5カ年計画を策定し、ただちに東京都下の村山・砂川両町にまたがる約40万坪の土地を購入して新工場の建設に着手した。1961年6月期の販売実績は乗用車6,430台、小型トラック1万2,426台、売上高は128億1,420万円。輸出額は3億5,035万円で、売上高の2.7%を占めた。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [33]1957年4月、画期的高級乗用車プリンス・スカイラインを発表
    • [34]以後、各車種を続々と新型に切り換え、1958年10月に国産初の1900cc乗用車プリンス・グロリアを発表
    • [35]1960年8月、自動車1万台生産を目標とする5カ年計画を策定し、ただちに東京都下村山・砂川両町にまたがる約40万坪の土地を購入、新工場の建設に着手
    • [36]1961年6月期の販売実績は乗用車6,430台、小型トラック12,426台。同期の売上高は12,814,201千円
    • [37]1961年6月期の輸出金額は350,351千円、対売上比率2.7%

1961年、富士精密工業は社名をプリンス自動車工業へ変更した。1954年の合併で消えた被合併会社の商号が、7年を経て存続会社の名として戻った。小松繁氏は1952年に公職追放を解かれ、友人である石井光次郎氏の橋渡しで富士精密工業の副社長に就任した。小松繁氏は福岡県三井郡北野町の出身で、久留米市の明善中学から神戸高等商業学校へ進み、三菱商事のニューヨーク支店長時代には日産自動車の横浜工場建設を一手に世話した経歴を持つ。小型乗用車と小型トラックでは業界3位につけたものの、生産車種がこの2分野に限られ、自動車会社としての順位は7位にとどまった。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [38]1961年、社名をプリンス自動車工業株式会社と変更
    • [42]自動車会社として業界第7位。小型乗用車ならびに小型トラックで第3位だが、生産車種がこの分野に限られるため総合力ではBクラス
  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [39]1954年4月に旧プリンス自動車工業(三鷹工場)を吸収合併し、存続会社は富士精密工業だった。その後1961年に社名をプリンス自動車工業へ変更
  • わたしの経営 現代をつくる57社長の経営信条(1963年)「自由化恐れぬ技術 プリンス自動車工業社長 小松繁」
    • [40]追放解除になった1952年、友人石井光次郎の橋渡しで富士精密工業(プリンス自動車の前身)の副社長になった
    • [41]小松繁は福岡県三井郡北野町出身、久留米市明善中学から神戸高商卒、三菱商事入社。ニューヨーク支店長時代に日産自動車の横浜工場建設を一手に世話した
参考文献[28]-[42]
  • 証券 1956年(第8巻第87号)
    • [28]小型四輪車生産台数(自動車工業会調べ)1955年度: トヨタ19,214台、日産13,705台、富士精密5,956台、オオタ577台
    • [29]小型四輪車生産台数(自動車工業会調べ)富士精密: 1953年度2,697台、1954年度3,718台、1955年度5,956台
    • [30]1955年下期の自動車部門は生産額で上期比30%、販売額で35%増加
    • [31]期央に性能・外容を一新した1956年型新車を発売し、乗用車の販売量は上期比45%増、トラックの販売量は3%増
    • [32]上期発売のキャブオーバートラックは需要が著増し、将来スタンダードトラックに迫る需要を期待される売行きを示した
    • [39]1954年4月に旧プリンス自動車工業(三鷹工場)を吸収合併し、存続会社は富士精密工業だった。その後1961年に社名をプリンス自動車工業へ変更
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [33]1957年4月、画期的高級乗用車プリンス・スカイラインを発表
    • [34]以後、各車種を続々と新型に切り換え、1958年10月に国産初の1900cc乗用車プリンス・グロリアを発表
    • [35]1960年8月、自動車1万台生産を目標とする5カ年計画を策定し、ただちに東京都下村山・砂川両町にまたがる約40万坪の土地を購入、新工場の建設に着手
    • [36]1961年6月期の販売実績は乗用車6,430台、小型トラック12,426台。同期の売上高は12,814,201千円
    • [37]1961年6月期の輸出金額は350,351千円、対売上比率2.7%
    • [38]1961年、社名をプリンス自動車工業株式会社と変更
    • [42]自動車会社として業界第7位。小型乗用車ならびに小型トラックで第3位だが、生産車種がこの分野に限られるため総合力ではBクラス
  • わたしの経営 現代をつくる57社長の経営信条(1963年)「自由化恐れぬ技術 プリンス自動車工業社長 小松繁」
    • [40]追放解除になった1952年、友人石井光次郎の橋渡しで富士精密工業(プリンス自動車の前身)の副社長になった
    • [41]小松繁は福岡県三井郡北野町出身、久留米市明善中学から神戸高商卒、三菱商事入社。ニューヨーク支店長時代に日産自動車の横浜工場建設を一手に世話した

出典・参考

4件
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 40_自動車・自転車
  • 証券 1956年(第8巻第87号)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
  • わたしの経営 現代をつくる57社長の経営信条(1963年)「自由化恐れぬ技術 プリンス自動車工業社長 小松繁」

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