第3章 年〜年

プリンス自動車工業:225億円の村山工場計画と日産自動車への吸収合併

1962年〜村山工場第1期の操業開始と月産1万台への5カ年計画

1960年に着手した新工場の建設は、1962年9月に第1期工事の完了へこぎつけた。乗用車専門工場として建てた村山工場は操業を開始し、月産2,000台の生産に入って、1963年下期には平均月産3,000台を目標に置いた。1964年末に月産1万台の生産能力とする5カ年計画は3カ年を順調に終え、計画に要する資金は総額約225億円、うち1963年中に必要な設備資金は約60億円と見込んでいた。ただし1962年12月期の販売実績は乗用車7,857台、小型トラック1万2,192台で、月産1万台の水準にはまだ遠かった。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [1]村山新工場は1962年9月に第1期工事を完了して操業を開始した
    • [2]乗用車専門工場の村山工場は月産2,000台の生産体制を固めており、1963年下期には平均月産3,000台を目標としていた
    • [3]1964年末において月産1万台の生産能力とする5カ年計画は3カ年を順調に終了し、計画に要する資金は総額約225億円、うち1963年中に必要な設備資金は約60億円の見込みだった
    • [4]1962年12月期の販売実績は乗用車7,857台、小型トラック1万2,192台だった

この計画は小松繁社長が立てた。敷地132万平方メートルに東洋一の乗用車工場を建設し、近い将来には月産2万5,000台まで持っていく構想を描いた。1962年秋に第1期工事が完成すると、村山工場はグロリアの伸びに支えられてフル操業に入り、生産能力は一挙に6,500台へ上がった。同社は同じ1962年の1月に浜松工場を分離独立させてリズムフレンド製造を設立し、9月には新型高級乗用車プリンス・グロリア・デラックスを発売した。翌1963年には、国産車で初めて2000cc6気筒エンジンを積むグロリア・スーパー6と小型ファミリーカーのスカイライン1500デラックスが加わった。

  • わたしの経営 現代をつくる57社長の経営信条(1963年)「自由化恐れぬ技術 プリンス自動車工業社長 小松繁」
    • [5]村山工場計画の発案者は小松繁社長で、敷地132万平方メートルに東洋一の乗用車工場を完成させ近い将来に月産2万5,000台へ持っていく構想だった
    • [6]1962年秋に村山工場の第1期工事が完成し、グロリアの伸びに支えられてフル操業に入り、生産能力は一挙に6,500台まで上がった
    • [8]1963年に国産車ではじめての2000cc6気筒エンジン『グロリア・スーパー6』と小型ファミリーカー『スカイライン1500デラックス』を発表した
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [7]1962年1月に浜松工場を分離独立させリズムフレンド製造を設立し、同年9月に新型高級乗用車プリンス・グロリア・デラックスを発売した

村山工場を加えても、プリンス自動車工業の規模は上位メーカーに届かなかった。自動車会社として業界第7位、小型乗用車と小型トラックでは第3位に位置したが、生産車種がこの分野に限られるため、総合力ではBクラスと評されていた。自動車部門のほかに自動繰糸機と航空機の両部門を持ちながら、売上高の95%前後は自動車部門が占めた。1962年12月末の従業員は職員男2,172人・工員男3,405人・女73人の合計5,970人、平均年齢は28.3歳で、工場別では荻窪2,587人、三鷹1,206人に対し、動き出したばかりの村山は1,526人という配置だった。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [9]自動車会社として業界第7位、小型乗用車ならびに小型トラックで第3位だが、生産車種がこの分野に限られるため総合力ではBクラスとされた
    • [10]自動車部門以外に自動繰糸機と航空機の両部門を持つが、売上高の95%前後を自動車部門があげていた
    • [11]1962年12月末の従業員は職員男2,172人・工員男3,405人・女73人の合計5,970人、平均年齢28.3歳だった
    • [12]事業所別の従業員は荻窪工場2,587人、三鷹工場1,206人、村山工場1,526人だった
参考文献[1]-[12]
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [1]村山新工場は1962年9月に第1期工事を完了して操業を開始した
    • [2]乗用車専門工場の村山工場は月産2,000台の生産体制を固めており、1963年下期には平均月産3,000台を目標としていた
    • [3]1964年末において月産1万台の生産能力とする5カ年計画は3カ年を順調に終了し、計画に要する資金は総額約225億円、うち1963年中に必要な設備資金は約60億円の見込みだった
    • [4]1962年12月期の販売実績は乗用車7,857台、小型トラック1万2,192台だった
    • [7]1962年1月に浜松工場を分離独立させリズムフレンド製造を設立し、同年9月に新型高級乗用車プリンス・グロリア・デラックスを発売した
    • [9]自動車会社として業界第7位、小型乗用車ならびに小型トラックで第3位だが、生産車種がこの分野に限られるため総合力ではBクラスとされた
    • [10]自動車部門以外に自動繰糸機と航空機の両部門を持つが、売上高の95%前後を自動車部門があげていた
    • [11]1962年12月末の従業員は職員男2,172人・工員男3,405人・女73人の合計5,970人、平均年齢28.3歳だった
    • [12]事業所別の従業員は荻窪工場2,587人、三鷹工場1,206人、村山工場1,526人だった
  • わたしの経営 現代をつくる57社長の経営信条(1963年)「自由化恐れぬ技術 プリンス自動車工業社長 小松繁」
    • [5]村山工場計画の発案者は小松繁社長で、敷地132万平方メートルに東洋一の乗用車工場を完成させ近い将来に月産2万5,000台へ持っていく構想だった
    • [6]1962年秋に村山工場の第1期工事が完成し、グロリアの伸びに支えられてフル操業に入り、生産能力は一挙に6,500台まで上がった
    • [8]1963年に国産車ではじめての2000cc6気筒エンジン『グロリア・スーパー6』と小型ファミリーカー『スカイライン1500デラックス』を発表した

1963年〜伸びの止まった売上高と中型乗用車の自由化

村山工場が動き出した時期に、売上高の伸びは止まっていた。1961年12月期の144億1,949万円に対し、1962年6月期は145億691万円、1962年12月期は141億7,585万円と、半期ごとの積み上げが横ばいから減少へ転じた。税込利益率も1962年6月期の8.3%から12月期には7.2%へ下がった。株式市場の評価はさらに厳しく、1960年に高値195円をつけた株価は1962年に安値47円まで下げた。1962年12月末の筆頭株主は25.0%を持つ石橋産業で、日興証券が7.7%で続いた。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [13]売上高は1961年12月期144億1,949万円、1962年6月期145億691万円、1962年12月期141億7,585万円と伸びが止まった
    • [14]税込利益率は1962年6月期8.3%から1962年12月期7.2%へ低下した
    • [15]株価は1960年の高値195円から1962年の安値47円まで下げた
    • [16]1962年12月末の大株主は石橋産業25.0%、日興証券7.7%だった

自由民主党の自由化対策特別委員会は、中型乗用車の自由化を3年以内に実施できるよう政府に対策を急がせる方針を決め、各社は通商産業省の行政指導をよそに量産化を競った。トヨタ自動車工業・日産自動車・いすゞ自動車・日野自動車が大型のトラックやバスという自由化に強い部門を抱えていたのに対し、中型車の専門メーカーであるプリンス自動車工業はそうした部門を持たず、立場はもっとも苦しかった。国際競争力を早くつける条件はまず技術、次に値段、最後に好みであり、次に発表する車は世界的水準のものでなければ意味がない——小松繁社長が下した判断である。

  • わたしの経営 現代をつくる57社長の経営信条(1963年)「自由化恐れぬ技術 プリンス自動車工業社長 小松繁」
    • [17]自民党の自由化対策特別委員会は中型乗用車の自由化を3年以内に実施できるよう政府に対策を急がせる方針を決め、各社は通産省の行政指導をよそに量産化をはかった
    • [18]他社が大型のトラックやバスなど自由化に強い部門を持つのに比べ、中型車の専門メーカーであるプリンスにはそれがなく立ち場はもっとも苦しかった
    • [19]小松繁は国際競争力をつけるにはまず第一に技術、つぎが値段、さいごは好みだとの判断を下し、こんど発表する車は世界的水準のものでないと意味はないと述べた

1962年6月期の輸出金額は4億4,978万円、売上に占める割合は3.1%で、同年12月期も4億407万円、2.9%と小さかった。それでも小松繁社長は、自動車の勝負どころは輸出にあると位置づけていた。経営者の務めは少なくとも5年から10年先を見通すことだというのが同氏の考えで、今の技術の水準であれば国内市場が開かれても怖くはなく、外車と雌雄を決する場は海外にあるとみて、赤字を承知で30数カ国へ輸出を続けた。小松氏の社長在任は1961年から1963年8月までで、辞任後は相談役に退いた。代わって社長に就いたのは、住友銀行から来て1960年以来副社長を務めていた小川秀彦氏である。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [20]輸出金額は1962年6月期4億4,978万円・対売上比率3.1%、1962年12月期4億407万円・2.9%だった
    • [23]後任の社長・小川秀彦は住友銀行出身で、1960年に副社長、1963年に社長となった
  • わたしの経営 現代をつくる57社長の経営信条(1963年)「自由化恐れぬ技術 プリンス自動車工業社長 小松繁」
    • [21]小松繁は経営者は少なくとも五年から十年さきのことを考えるのが責務だとし、自動車の本命は輸出だとして、国内市場は自由化されても恐れる必要はないとみて赤字覚悟で三十数カ国に輸出を続けた
    • [22]小松繁は1961年に社長に就任し、1963年8月に社長を辞任して相談役に就任した
参考文献[13]-[23]
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
    • [13]売上高は1961年12月期144億1,949万円、1962年6月期145億691万円、1962年12月期141億7,585万円と伸びが止まった
    • [14]税込利益率は1962年6月期8.3%から1962年12月期7.2%へ低下した
    • [15]株価は1960年の高値195円から1962年の安値47円まで下げた
    • [16]1962年12月末の大株主は石橋産業25.0%、日興証券7.7%だった
    • [20]輸出金額は1962年6月期4億4,978万円・対売上比率3.1%、1962年12月期4億407万円・2.9%だった
    • [23]後任の社長・小川秀彦は住友銀行出身で、1960年に副社長、1963年に社長となった
  • わたしの経営 現代をつくる57社長の経営信条(1963年)「自由化恐れぬ技術 プリンス自動車工業社長 小松繁」
    • [17]自民党の自由化対策特別委員会は中型乗用車の自由化を3年以内に実施できるよう政府に対策を急がせる方針を決め、各社は通産省の行政指導をよそに量産化をはかった
    • [18]他社が大型のトラックやバスなど自由化に強い部門を持つのに比べ、中型車の専門メーカーであるプリンスにはそれがなく立ち場はもっとも苦しかった
    • [19]小松繁は国際競争力をつけるにはまず第一に技術、つぎが値段、さいごは好みだとの判断を下し、こんど発表する車は世界的水準のものでないと意味はないと述べた
    • [21]小松繁は経営者は少なくとも五年から十年さきのことを考えるのが責務だとし、自動車の本命は輸出だとして、国内市場は自由化されても恐れる必要はないとみて赤字覚悟で三十数カ国に輸出を続けた
    • [22]小松繁は1961年に社長に就任し、1963年8月に社長を辞任して相談役に就任した

1964年〜合併覚書の調印と石橋正二郎会長が示した5つの条件

資本自由化を控えた1960年代半ば、通商産業省は乱立する乗用車メーカーの整理統合を促す行政指導に動いた。プリンス自動車工業は大衆車を持たず、1500cc以上の乗用車が主力で、日野自動車工業やいすゞ自動車に比べてトラック部門が弱かったため、単独で生き残ることは難しいと同時代に見られていた。1964年度の生産台数は8万5,104台、従業員は8,693名で、5カ年計画が掲げた月産1万台の水準には届かなかった。1965年半ばには業績の悪化が表面化し、この6月期はどうにか公約どおり1割2分の配当を据え置けるとしても、次の12月期はあぶないという見方が出た。

  • トヨタ自動車『トヨタ自動車75年史』第2部 第1章 第2節 第3項「資本の自由化と自動車業界再編」
    • [24]国際競争力の確保を急いだ通商産業省は、乱立する乗用車メーカーの整理統合を促す行政指導に動いた
  • 実業の世界 62巻8号(実業之世界社、1965年8月)日産・プリンス合併分析記事
    • [25]プリンスは1500cc以上の乗用車が主力で日野・いすゞに比べトラック部門が弱く、単独で生き残ることは難しいとみられた
    • [27]1965年にプリンスの業績悪化が表面化し、この6月期はどうにか公約通り一割二分配当を据置けるとしても、つぎの十二月期はあぶないとされた
  • 歴史をつくる人々 第13(ダイヤモンド社、1965年)所収 石橋正二郎(プリンス自動車工業会長)回想
    • [26]1964年度の生産台数は8万5,104台、従業員は8,693名だった

乗用車の自由化が迫るなか、通商産業大臣の桜内義雄氏が自ら乗り出し、日産自動車社長の川又克二氏と石橋正二郎会長を招いて、対等の精神で模範的な合併を話し合ってほしいと膝詰めで求めた。1965年5月31日、プリンス自動車工業は日産自動車と合併覚書に調印した。石橋正二郎会長は、プリンス車名の永久存続、従業員の処遇、代理店の存続、銀行関係の維持、株主に不利をもたらさないことの5点を、合併を受け入れる条件に挙げた。日産自動車側の条件も理解のあるもので、大綱ではすみやかに一致をみたが、細目の調整には2カ月あまりを要した。

  • 歴史をつくる人々 第13(ダイヤモンド社、1965年)所収 石橋正二郎(プリンス自動車工業会長)回想
    • [28]桜内義雄通産大臣がみずから乗り出し、日産社長の川又克二と石橋正二郎を招いて、対等精神をもって模範的な両社合併を話しあってもらいたいと膝詰めで要望した
    • [29]1965年5月31日にパレスホテルで日産自動車とプリンス自動車工業の合併覚書調印式が行われた
    • [30]石橋正二郎が依頼した条件は、プリンス車名の永久存続、従業員の処遇、代理店の存続、銀行関係維持、株主に不利をもたらさぬことの5点だった
    • [31]日産側の条件も理解のあるもので大綱的にはすみやかに一致をみたが、細目調整に2カ月あまりを要した

覚書の調印から合併の成立までには1年余りを要した。中型乗用車の専門メーカーとして技術で先行しながら、月産1万台の量産を単独で支える資本を積み上げられなかったプリンス自動車工業は、売り手として交渉の席に着いた。工場も車種も技術者も日産自動車へ渡り、スカイラインとグロリアは車種名として引き継がれたが、石橋正二郎会長が永久存続を求めた"プリンス"の名は、乗用車のブランドとしては数年しか残らなかった。1966年8月1日、日産自動車がプリンス自動車工業を吸収する形で合併が成立し、1950年7月12日の設立から16年で法人は消滅し、株式の上場も終わった。

  • 歴史をつくる人々 第13(ダイヤモンド社、1965年)所収 石橋正二郎(プリンス自動車工業会長)回想
    • [32]石橋正二郎は合併条件の筆頭にプリンス車名の永久存続を挙げたが、乗用車ブランドとしての「プリンス」は合併後数年で使われなくなった
  • トヨタ自動車『トヨタ自動車75年史』第2部 第1章 第2節 第3項「資本の自由化と自動車業界再編」
    • [33]1966年8月1日に日産自動車がプリンス自動車工業を吸収合併し、1950年7月12日設立のプリンス自動車工業は法人として消滅した
参考文献[24]-[33]
    • [24]国際競争力の確保を急いだ通商産業省は、乱立する乗用車メーカーの整理統合を促す行政指導に動いた
    • [33]1966年8月1日に日産自動車がプリンス自動車工業を吸収合併し、1950年7月12日設立のプリンス自動車工業は法人として消滅した
  • 実業の世界 62巻8号(実業之世界社、1965年8月)日産・プリンス合併分析記事
    • [25]プリンスは1500cc以上の乗用車が主力で日野・いすゞに比べトラック部門が弱く、単独で生き残ることは難しいとみられた
    • [27]1965年にプリンスの業績悪化が表面化し、この6月期はどうにか公約通り一割二分配当を据置けるとしても、つぎの十二月期はあぶないとされた
  • 歴史をつくる人々 第13(ダイヤモンド社、1965年)所収 石橋正二郎(プリンス自動車工業会長)回想
    • [26]1964年度の生産台数は8万5,104台、従業員は8,693名だった
    • [28]桜内義雄通産大臣がみずから乗り出し、日産社長の川又克二と石橋正二郎を招いて、対等精神をもって模範的な両社合併を話しあってもらいたいと膝詰めで要望した
    • [29]1965年5月31日にパレスホテルで日産自動車とプリンス自動車工業の合併覚書調印式が行われた
    • [30]石橋正二郎が依頼した条件は、プリンス車名の永久存続、従業員の処遇、代理店の存続、銀行関係維持、株主に不利をもたらさぬことの5点だった
    • [31]日産側の条件も理解のあるもので大綱的にはすみやかに一致をみたが、細目調整に2カ月あまりを要した
    • [32]石橋正二郎は合併条件の筆頭にプリンス車名の永久存続を挙げたが、乗用車ブランドとしての「プリンス」は合併後数年で使われなくなった

出典・参考

5件
出典・参考
  • トヨタ自動車『トヨタ自動車75年史』第2部 第1章 第2節 第3項「資本の自由化と自動車業界再編」
  • 歴史をつくる人々 第13(ダイヤモンド社、1965年)所収 石橋正二郎(プリンス自動車工業会長)回想
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「プリンス自動車工業」
  • 実業の世界 62巻8号(実業之世界社、1965年8月)日産・プリンス合併分析記事
  • わたしの経営 現代をつくる57社長の経営信条(1963年)「自由化恐れぬ技術 プリンス自動車工業社長 小松繁」

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