この撤退の中心にあったのは、稼働率が5割台に低下した米国唯一の組立工場を、業績が回復した時期にこそ整理するという判断であった。一工場一車種にまで細った拠点を抱え続けることは、生産の集約を進めるほど非効率が際立つ構図になっていた。好調なうちに過剰設備へ手を入れた点は、収益に追われて動くよりも身軽な整理を可能にしたと推察される。北米に生産を持たない体制へ移ることで、三菱自動車は東南アジアを軸とする戦略に資源を振り向ける余地を得たと思われる。
ただし、生産から退いても北米市場そのものへの依存が消えたわけではなかった。販売を継続する以上、為替や市況の変動に収益が左右される構造は残り、後年には北米への利益依存がむしろ深まる時期も訪れる。そして撤退の翌年に燃費不正が発覚し、単独での再建構想は日産傘下という別の枠組みへと引き継がれていった。米国工場の閉鎖はひとつの構造改革を完結させた一方で、三菱自動車が抱える市場依存と提携依存という積年の課題を解いたわけではなかったのだろう。