米国生産からの撤退とイリノイ工場の生産終了

稼働率が低迷する唯一の米国組立工場を閉じ、相川哲郎社長は北米事業をどう立て直そうとしたか

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時期 2015年7月
意思決定者 相川哲郎 三菱自動車 社長
論点 北米生産体制の見直しと構造改革
概要
2015年7月、三菱自動車が米国内で唯一の組立拠点であるイリノイ州の工場について、2015年11月末をもって生産を終了し、米国での車両生産から撤退する方針を発表した経営判断。相川哲郎社長のもとで進めた「選択と集中」の一環であり、稼働率が5割台にとどまる過剰設備を一掃するものであった。
背景
イリノイ工場は1988年にクライスラーとの合弁で生産を始めた拠点だが、生産車種はアウトランダースポーツ(日本名RVR)1車種のみに細り、2014年の生産は6.9万台、稼働率は5割台にとどまっていた。年間5万台を割り込む見通しのもとで、この規模での工場維持は困難と判断された。
内容
米国唯一の組立工場での生産を2015年11月末で終え、現地生産分は日本の岡崎工場へ集約する。北米での販売は継続する一方、工場については稼働継続と雇用維持に向けて「戦略的買い手」を探す方針を示した。1988年に始まった米国生産は27年で幕を閉じた。
含意
過剰な生産設備を抱えたまま北米に依存してきた収益構造から距離を置き、東南アジアを軸とする戦略に経営資源を振り向ける転機となった。もっとも撤退の翌2016年には燃費試験の不正が発覚し、三菱自動車は日産自動車の傘下に入ることになる。
筆者の見解

過剰設備の整理と、依存の付け替え

この撤退の中心にあったのは、稼働率が5割台に落ち込んだ米国唯一の組立工場を、業績が回復した時期にこそ整理するという判断であった。一工場一車種にまで細った拠点を抱え続けることは、生産の集約を進めるほど非効率が際立つ構図になっていた。好調なうちに過剰設備へ手を入れた点は、収益に追われて動くよりも身軽な整理を可能にしたとみることができる。北米に生産を持たない体制へ移ることで、三菱自動車は東南アジアを軸とする戦略に資源を振り向ける余地を得たとみられる。

ただし、生産から退いても北米市場そのものへの依存が消えたわけではなかった。販売を継続する以上、為替や市況の変動に収益が左右される構造は残り、後年には北米への利益依存がむしろ深まる時期も訪れる。そして撤退の翌年に燃費不正が発覚し、単独での再建構想は日産傘下という別の枠組みへと引き継がれていった。米国工場の閉鎖はひとつの構造改革を完結させた一方で、三菱自動車が抱える市場依存と提携依存という積年の課題を解いたわけではなかったとみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

クライスラー時代から続いた北米生産の重荷

三菱自動車の米国生産は、1988年にクライスラーとの合弁ダイヤモンド・スター・モーターズがイリノイ州で操業を始めたことにさかのぼる。1995年には合弁を解消して完全子会社化し、ミツビシ・モーター・マニュファクチュアリング・オブ・アメリカとして単独で運営してきた。しかし2000年代以降、北米事業は巨額赤字の温床となり、ダイムラークライスラーとの提携解消やリコール隠しを経て、同社の北米依存はたびたび経営を揺さぶってきた。イリノイ工場はその北米事業の象徴的な拠点でありながら、稼働の低さが長く課題として残されていた[1]

撤退を発表した2015年7月の直前期にあたる2015年3月期は、連結売上高2兆1,807億円、営業利益1,359億円、親会社株主に帰属する当期純利益1,181億円と、業績そのものは好調であった。経営が回復するなかで、なお稼働率が5割台にとどまる米国工場を抱え続けることの是非が問われていた。過剰設備を業績のよい時期に整理するという判断が、この撤退の下地となった[2]

1車種に細ったイリノイ工場

撤退の直接の理由は、工場の稼働率の低迷であった。米国唯一の組立工場であるイリノイ工場が生産していたのは、アウトランダースポーツ(日本名RVR)ただ1車種にまで細っており、2014年の生産実績は6.9万台にとどまっていた。生産能力に対する稼働率は5割台で推移し、しかも年間5万台を割り込む見通しが立っていた。生産の集約を進めるほど、この一工場一車種の体制の非効率が際立つ状況になっていた[3]

決断

米国唯一の組立工場を閉じる決定

2015年7月、三菱自動車は米国生産からの撤退を発表した。米国内に持つ唯一の組立工場であるイリノイ州の工場について、2015年11月末をもって生産を終えるという内容であった。三菱自動車はこの工場の稼働継続と雇用維持に向けて「戦略的買い手」を探す方針を示し、あくまで工場を閉鎖して切り捨てるのではなく、次の担い手へ引き継ぐ形での撤退を志向した。米国での車両生産に区切りをつける一方で、北米市場での販売そのものは継続する意向を明らかにした[4]

撤退の対象となったアウトランダースポーツの生産は、発表どおり2015年11月末をもって終了した。米国で失われる生産分は、日本国内の岡崎工場へ集約する方針がとられた。相川哲郎社長はこの決定を選択と集中の一環と位置づけ、米国工場が年間5万台を割り込む見通しにあることを踏まえ、この生産規模では工場の維持が困難だと判断したと説明した。稼働率の低い海外拠点を外に出し、国内へ生産を寄せるという構造改革の輪郭がここで明確になった[5]

結果

27年の米国生産に幕、そして工場の承継

発表どおり、イリノイ工場でのアウトランダースポーツの生産は2015年11月末をもって終了した。1988年の合弁工場操業から数えて27年に及んだ三菱自動車の米国生産は、これで幕を閉じた。過剰設備の一掃という当初のねらいは達せられ、稼働率の低い唯一の海外組立拠点が北米事業から切り離された。撤退の直後には、稼働率5割台の重荷を外したことで北米戦略の輪郭がかえって明確になったとする見方も示された[6]

撤退時に掲げた「戦略的買い手」の探索は、後年になって実を結んだ。2015年11月に閉鎖された旧イリノイ工場は、その後アメリカの新興電気自動車メーカーであるリヴィアンオートモーティブが取得し、工場を改修して2019年からのEV生産へと転用された。三菱自動車が手放した拠点が、新興EVメーカーの生産基盤として再び動き出した。もっとも三菱自動車自身は、撤退の翌2016年に燃費試験の不正が発覚し、日産自動車の傘下に入る道をたどることになる[7]

出典・参考

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