1920年1月、広島県内のコルク製造業者を束ねる再建会社として東洋コルク工業が設立された[1]。1921年、地元の要請を受けて松田重次郎氏が2代目社長に就いた[2]。1875年に広島で生まれ、大阪で『松田式』を冠したポンプや信管を手がけた機械発明家[3]で、海軍向け精密機械の受注を携えての就任だった。1922年から圧搾コルク板を量産したが、1925年の工場火災[4]と、海軍向け仕事の繁閑の差に苦しんだ。松田氏は荷馬車に代わる商用車に活路を求め、息子の恒次氏らにオート三輪車づくりを促した[5]。
1927年9月、社名を東洋工業へ改め[6]、事業の軸を工作機械とオート三輪へ移した。1929年4月に工作機械、1931年10月に三輪トラックの生産[7]を始めている。松田氏の姓を冠した『マツダ号DA型』は全国の小口輸送業者に広まり[8]、社名より商品名のほうが通名として知られる状態が長く続いた[9]。生産の拡大に備え、3,000坪の敷地では手狭になったため、府中村の猿猴川沿いにある1万坪の埋立地を坪約10円で買収して[10]主力工場の用地とした。この1万坪は、のちの工場のごく一部にすぎないほどに拡張されている[11]。1935年10月にはさく岩機の生産にも入り[12]、工作機械とあわせて機械部門は専業メーカーに迫る技術力を蓄えた[13]。
1945年8月6日、広島への原爆投下で本社工場も被害を受けた。市街地から離れた府中の立地が幸いして設備の損傷は比較的軽く、同年12月には三輪トラックの生産を再開している。占領統制下では広島県庁の仮設庁舎として本社の建屋を提供した。1949年5月には東京証券取引所へ株式を上場し[14]、復興期の増産に必要な資金を市場から調達する道を開いた。工作機械を早くから手がけていたことは資材と設備が不足するなかで強みとなり、『現在の工作機械中、当社の生産になるものも少なくなく、大きな強みとなっている』[引用元]と伝えられた。
1953年には月産3,000台の規模を持つ三輪トラック塗装組立工場を完成させ[15]、三輪トラック業界の主導権を握った。松田恒次氏は、1918年の軍用自動車補助法の公布を境に国内の自動車市場が本格的に動き出した[16]と振り返っている。1951年には松田重次郎氏の長男である恒次氏が社長へ就いた[17]。ただし主力のオート三輪市場は1950年代半ばから小型四輪車に押され、四輪の増産と競合して需要が後退する見通しが業界で語られていた[18]。東洋工業は1958年4月に小型四輪トラックを発売し、四輪車へ参入[19]した。
1960年5月、東洋工業は軽乗用車R360クーペを発売した[20]。KRBB型の価格は30万円で、40万円近い水準にあった当時の軽四輪乗用車[21]のなかでは前例のない安さだった。同年10月には西独NSU社からロータリーエンジンの特許権を譲り受けると発表し、200馬力以下のガソリン・軽油エンジンを自社の担当領域として[22]、NSU社および米カーチスライト社と分担を切り分けた。1961年2月にNSU社・バンケル社と技術提携を締結[23]した。1964年4月に小型乗用車を発売し、1965年5月に三次自動車試験場、1966年11月には乗用車専門の宇品工場を本社工場内に完成させて[24]、三輪車のメーカーから総合自動車メーカーへ移った[25]。
ヴァンケル博士が考案した回転式機関の量産化は難題で、1963年にロータリーエンジン研究部を設け、山本健一氏を初代部長として各部門から約47名の技術者を集めた[26]。アペックスシールの摩耗をはじめとする課題を解き、1967年5月30日に世界初の2ローター・ロータリーエンジン搭載車コスモスポーツを発売した[27]。総排気量491cc×2、最高出力110PS、最高速度185km/h[28]だった。1969年10月に政府が資本自由化を1971年10月からと閣議決定すると[29]完成車各社は外資提携や合併へ動いたが、東洋工業は資本提携を白紙に戻し、独自技術による単独路線を選んだ[30]。
1973年10月の第一次石油危機でロータリーの燃費の悪さが市場に突き出され、1974年1月には米環境保護庁が、ロータリーエンジンはレシプロより5割余計にガソリンを消費すると発表[31]した。国内でも燃料消費効率の悪さが伝えられている[32]。内外の在庫は生産3カ月分にあたる20万台へ膨らみ[33]、米国でのロータリー搭載車の販売は前年比で半減した。1975年10月期には経常173億円の赤字[34]へ転落[35]した。米国の販売会社に関わる償却240億円や欠陥車8万台の修理費など、表に出ない損失は500億円規模[36]に及んだ。
東洋工業と一次下請けに収入を頼る人は約6万5,000人にのぼり、広島市では4人に1人が同社の関係者とされ、県経済のおよそ2割を占めた[37]。地元に密着しているために経営が悪化しても人員整理へ踏み切れない点は、再建の障害と指摘された[38]。1974年10月、住友銀行と住友信託銀行から取締役を受け入れた[39]。住友銀行はコストコントロール部の新設、販売店への社員出向、緊急融資に続いて常務の村井勉氏を副社長に送り[40]、支援から丸抱えへと再建体制を強めた。頭取の磯田一郎氏は、東洋工業を倒産させれば従業員は失業し、下請けはつぶれ、広島経済が壊滅すると述べて救済を決めている[41]。
販売の再建策として全国の販売店へ社員を送り込むAM制度が導入され、1977年12月には1年交代で千数百人としていた出向を、対象人員5,000人・出向期間3年へ広げる方針が示された[42]。現場では『カーセールスは20代でも激務。素人の中年男には、もっときつい』[引用元]『そのあとの出向組は順番がきたからと、ちょうど義務兵役にでも行くような調子』[引用元]という声が上がっていた。磯田氏は1977年6月に松田耕平氏へ更迭を宣告し、同年12月に生え抜きの山崎芳樹氏を社長へ据えた[43]。輸出の好調と国内販売の伸びで、1978年10月期には経常利益150億円と史上最高を記録した[44]。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/7261/manifest.json https://the-shashi.com/api/7261/history.json https://the-shashi.com/api/7261/timeline.json https://the-shashi.com/api/7261/executives.json https://the-shashi.com/api/7261/shareholders.json https://the-shashi.com/api/7261/financials.json https://the-shashi.com/api/7261/financials-longterm.json https://the-shashi.com/api/7261/segments.json https://the-shashi.com/api/7261/regions.json https://the-shashi.com/api/7261/workforce.json | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1920〜1959年コルク再建会社から三輪トラックの主導権へ | マツダ創業——広島のコルク再建会社から三輪トラック「マツダ号」への転身 1920年1月、広島県内のコルク製造業者を再建する目的で地元の有力者が東洋コルク工業株式会社を設立したが、大戦終結でコルク代替需要が縮小し設立直後から経営難に陥った。翌1921年に機械発明家の松田重次郎氏が2代目社長として再建を引き受け、1927年9月に東洋工業株式会社へ改称して工作機械と三輪自動車を二本柱とする機械メーカーへ転じた。1931年10月に三輪トラック『マツダ号DA型』を投入し、後の自動車メーカーへの道を開いた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 東洋工業に商号変更 | ★ | |||
| 工作機械の生産開始 | ★ | |||
| 三輪トラックの生産開始 | ★★ | |||
| 松田重次郎 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 松田恒次 | 松田恒次氏が社長就任 | ★ | ||
| 松田恒次 | 三輪車トラックの増産投資 | ★ | ||
| 松田恒次 | 四輪車に参入 | ★★ | ||
| 1960〜1978年ロータリーエンジンへの賭けと石油危機による失速 | 松田恒次 | 軽乗用車を発売 | ★ | |
| 松田恒次 | NSU・バンケル社とロータリーエンジン業務提携 | ★★ | ||
| 松田恒次 | 小型乗用車を発売 | ★ | ||
| 松田恒次 | 宇品工場を新設 | ★ | ||
| 松田恒次 | 東洋工業のロータリー量産化と、外資との資本提携を退けた単独路線 1961年に西独NSU・バンケル両社からロータリーエンジンの技術を導入した東洋工業(現マツダ)が、資本自由化と業界再編の圧力のなか、外資との資本提携や合併ではなく独自技術による単独路線を選び、1967年5月のコスモスポーツで世界初のロータリー量産を実現した経営判断。本文は当時社名の東洋工業で表記する(マツダへの改称は1984年)。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 松田耕平 | 販売子会社を設立 | ★ | ||
| 松田耕平 | 赤字転落・経営危機 | ★★ | ||
| 1979〜1995年住友銀行が主導したフォード提携と5チャネル体制の膨張 | 山崎芳樹 | フォードと資本提携を締結 | ★★★ | |
| 山崎芳樹 | 防府工場を新設 | ★ | ||
| 山崎芳樹 | 防府西浦乗用車工場を新設 | ★ | ||
| 山本健一 | マツダに商号変更 | ★ | ||
| 山本健一 | 現地生産子会社を新設 | ★ | ||
| 古田徳昌 | 国内販売5チャネル体制への拡大と、バブル崩壊後の破綻 輸出依存の体質を国内販売の倍増で改める「B-10」計画のもと、規模で劣るマツダがトヨタ並みの5系列体制へ拡大し、異業種提携で店舗を倍増させた拡張。バブル崩壊で過剰な販売網と開発負担が収益を圧迫し、拡大策は数年で撤回に追い込まれた 詳細を読む | ★★★ | ||
| 和田淑弘 | 防府第二工場を新設 | ★ | ||
| 和田淑弘 | フォードと米AAI社を均等出資合弁化 | ★ | ||
| 和田淑弘 | フォードと戦略的協業を発表 | ★ | ||
| ヘンリー・ウォレス | 現地生産子会社を設立 | ★ | ||
| 1996〜2025年フォードの経営権掌握から独立の回復とトヨタ提携へ | ヘンリー・ウォレス | フォードによる出資引き上げとマツダ経営権の掌握 1996年、5チャネル体制の失敗と円高で再び窮地に立ったマツダが、筆頭株主の米フォードによる出資比率の24.5%から33.4%への引き上げを受け入れ、フォード出身のヘンリー・ウォレスを社長に迎えて経営権を委ねた資本の異動。 詳細を読む | ★★★ | |
| 井巻久一 | 現地生産子会社を設立 | ★ | ||
| 山内孝 | フォードの提携解消へ | ★★ | ||
| 山内孝 | 最終赤字転落・構造改革プランを策定 | ★★ | ||
| 小飼雅道 | 現地生産から撤退 | ★★ | ||
| 小飼雅道 | メキシコ工場で量産車生産を開始 | ★ | ||
| 小飼雅道 | フォードとの36年の資本提携解消と自主独立への転換 リーマンショックで自らも経営危機に陥ったフォードが2008年以降マツダ株を段階的に売却し、2015年に残存の約2%強を売り切って1979年以来36年の資本提携が解消された資本の異動。マツダはその過程で公募増資と独自技術により自力再建を進め、大株主の後ろ盾を失っても倒れない体力を先に整えた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 小飼雅道 | トヨタとの資本業務提携と米アラバマ折半合弁の設立 2017年8月4日、マツダはトヨタ自動車と業務資本提携に関する合意書を締結し、両社が約500億円ずつを持ち合ってトヨタがマツダ株の5.05%、マツダがトヨタ株の0.25%を相互取得した。米国での完成車合弁・EV共同開発・コネクテッド・先進安全・商品補完の5分野で協業し、アラバマ州に折半出資の合弁工場を設ける経営判断であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 丸本明 | TMT合弁で新工場を稼働・CX-50を量産 | ★ | ||
| 丸本明 | 東京証券取引所プライム市場へ移行 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(マツダ)