マツダ の歴史

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創業 1920年
創業者 松田重次郎
創業地 広島県広島市
創業
1920年1月、広島県広島市で東洋コルク工業が設立され、コルク板の製造から出発した。第一次世界大戦によるコルク代替需要を当て込んだ会社だったが、大戦の終結で当ての外れた需要は消える。外から迎えられた松田重次郎氏は、設備も部品も他社から調達できない以上、機械から自前でそろえ直すほかないとして工作機械の内製と自動車事業への転身を決断した。1927年9月に東洋工業へ社名を改め、1929年に工作機械、1931年には四輪より安い三輪トラック『マツダ号DA型』の生産を始めた。エンジンなど内燃機関も内製し、需要が消えたら機械から作り直すという広島の流儀は、この最初のつまずきから生まれている。
決断
後ろ盾は三度替わったが、エンジンの開発は一度も外へ出していない。1961年、規模で劣る東洋工業は独NSU社・バンケル社と技術提携を結び、2.8億円の技術導入料で未完成の回転式エンジンの特許を取得した。1963年に山本健一氏ら約47名の研究部を立ち上げ、アペックスシールの摩耗を越えて1967年5月に世界初のロータリーエンジン量産にこぎつけた。ただし1973年のオイルショックで燃費の弱点が表面化して1975年に経常赤字へ落ち、1979年11月には住友銀行の主導でフォードとの資本提携を受け入れる。1996年5月にはフォードが出資比率を24.5%から33.4%へ引き上げて経営権を握った、2015年の完全撤退までの19年を傘下で過ごす。三度の資本の入れ替えを通じて開発の中身を渡さなかったことが、後ろ盾を失ったあとも自社設計の車を出し続けられる状態を残した。
現況
利益は北米が出し、車を作る日本は1,618億円の損失を計上した。2026年3月期の売上高は4兆9,182億円で、所在地別では北米が2兆5,617億円の売上に対し1,675億円の利益を上げた一方、国内販売と輸出向けの生産を担う日本は9,002億円の売上で1,618億円の損失となった。米国向けの追加関税と原価の上昇がここへ集中している。全社の営業利益は516億円で、前期の1,861億円から7割減った。仕向地別では米国が1兆9,041億円と全体の4割弱を占め、日本は6,160億円にとどまる。2015年にフォードとの36年の資本提携が解消してから10年、生産の負担を国内に、収益を北米に置く構造が定着した。
競合
規模で劣る国産メーカーは、受け入れる出資の深さで進む先が分かれた。マツダは1989年9月に国内販売を5チャネル体制へ拡大し、トヨタの10分の1に満たない台数をトヨタ並みの5系列で売ろうとして、バブル崩壊後に販売網と開発の負担を抱え込む。規模の不足を資本で埋めたのがSUBARUで、2008年4月にトヨタの出資を16.5%まで受け入れ、実質的なグループ入りで後ろ盾を固めた。マツダが2017年にトヨタと結んだのは相互に約500億円ずつを出す提携で、トヨタ側の持株比率は5.05%に抑えられている。出資を浅く保ったことが、商品と販売の決定権を残す代わりに、電動化ではトヨタと中国・長安に規模を借りる『意志あるフォロワー』の立場を確定させた。

創業ストーリー コルク再建会社から三輪トラックの主導権へ (1920年〜)

コルクの需要消滅が招いた機械への転身

1920年1月、広島県内のコルク製造業者を束ねる再建会社として東洋コルク工業が設立された[1]。1921年、地元の要請を受けて松田重次郎氏が2代目社長に就いた[2]。1875年に広島で生まれ、大阪で『松田式』を冠したポンプや信管を手がけた機械発明家[3]で、海軍向け精密機械の受注を携えての就任だった。1922年から圧搾コルク板を量産したが、1925年の工場火災[4]と、海軍向け仕事の繁閑の差に苦しんだ。松田氏は荷馬車に代わる商用車に活路を求め、息子の恒次氏らにオート三輪車づくりを促した[5]

  • マツダ 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1920年1月 東洋コルク工業を設立
  • 日経新聞 私の履歴書 松田恒次 1965年10月
    • [2]1921年 松田重次郎が地元の要請で2代目社長へ就任
    • [3]松田重次郎 1875年広島生まれの機械発明家 大阪で松田式のポンプ・信管
    • [4]1922年 圧搾コルク板の量産開始/1925年 工場火災
    • [5]松田重次郎が荷馬車の代替として恒次らにオート三輪車づくりを促した

1927年9月、社名を東洋工業へ改め[6]、事業の軸を工作機械とオート三輪へ移した。1929年4月に工作機械、1931年10月に三輪トラックの生産[7]を始めている。松田氏の姓を冠した『マツダ号DA型』は全国の小口輸送業者に広まり[8]、社名より商品名のほうが通名として知られる状態が長く続いた[9]。生産の拡大に備え、3,000坪の敷地では手狭になったため、府中村の猿猴川沿いにある1万坪の埋立地を坪約10円で買収して[10]主力工場の用地とした。この1万坪は、のちの工場のごく一部にすぎないほどに拡張されている[11]。1935年10月にはさく岩機の生産にも入り[12]、工作機械とあわせて機械部門は専業メーカーに迫る技術力を蓄えた[13]

  • マツダ 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [6]1927年9月 東洋工業へ社名変更
    • [7]1929年4月 工作機械/1931年10月 三輪トラックの生産開始
    • [8]三輪トラック「マツダ号DA型」が全国の小口輸送業者に普及
    • [12]1935年10月 さく岩機の生産開始
  • 新日本経済 1966年12月号
    • [9]社名の東洋工業より商品名のマツダが通名として知られた
  • 日経新聞 私の履歴書 松田恒次 1965年10月
    • [10]府中村の猿猴川沿い1万坪の埋立地を坪約10円で買収
    • [11]買収した1万坪は後年の工場のごく一部にすぎない規模まで拡張
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [13]機械部門が専業メーカーに迫る技術力を保有
  • マツダ 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1920年1月 東洋コルク工業を設立
    • [6]1927年9月 東洋工業へ社名変更
    • [7]1929年4月 工作機械/1931年10月 三輪トラックの生産開始
    • [8]三輪トラック「マツダ号DA型」が全国の小口輸送業者に普及
    • [12]1935年10月 さく岩機の生産開始
  • 日経新聞 私の履歴書 松田恒次 1965年10月
    • [2]1921年 松田重次郎が地元の要請で2代目社長へ就任
    • [3]松田重次郎 1875年広島生まれの機械発明家 大阪で松田式のポンプ・信管
    • [4]1922年 圧搾コルク板の量産開始/1925年 工場火災
    • [5]松田重次郎が荷馬車の代替として恒次らにオート三輪車づくりを促した
    • [10]府中村の猿猴川沿い1万坪の埋立地を坪約10円で買収
    • [11]買収した1万坪は後年の工場のごく一部にすぎない規模まで拡張
  • 新日本経済 1966年12月号
    • [9]社名の東洋工業より商品名のマツダが通名として知られた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [13]機械部門が専業メーカーに迫る技術力を保有

戦災からの復興と三輪トラックによる基盤固め

1945年8月6日、広島への原爆投下で本社工場も被害を受けた。市街地から離れた府中の立地が幸いして設備の損傷は比較的軽く、同年12月には三輪トラックの生産を再開している。占領統制下では広島県庁の仮設庁舎として本社の建屋を提供した。1949年5月には東京証券取引所へ株式を上場し[14]、復興期の増産に必要な資金を市場から調達する道を開いた。工作機械を早くから手がけていたことは資材と設備が不足するなかで強みとなり、『現在の工作機械中、当社の生産になるものも少なくなく、大きな強みとなっている』[引用元]と伝えられた。

  • マツダ 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [14]1949年5月 東京証券取引所へ株式上場

1953年には月産3,000台の規模を持つ三輪トラック塗装組立工場を完成させ[15]、三輪トラック業界の主導権を握った。松田恒次氏は、1918年の軍用自動車補助法の公布を境に国内の自動車市場が本格的に動き出した[16]と振り返っている。1951年には松田重次郎氏の長男である恒次氏が社長へ就いた[17]。ただし主力のオート三輪市場は1950年代半ばから小型四輪車に押され、四輪の増産と競合して需要が後退する見通しが業界で語られていた[18]。東洋工業は1958年4月に小型四輪トラックを発売し、四輪車へ参入[19]した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [15]1953年 月産3,000台規模の三輪トラック塗装組立工場を完成し業界の主導権を確立
  • 日経新聞 私の履歴書 松田恒次 1965年10月
    • [16]松田恒次が1918年の軍用自動車補助法の公布を境に国内の自動車市場が動き出したと回顧
    • [17]1951年 松田恒次が社長へ就任(松田重次郎の長男)
  • 新日本経済 1954年7月号
    • [18]1950年代半ば 小型四輪車の増産で三輪車の需要が後退する見通し
  • マツダ 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [19]1958年4月 小型四輪トラックを発売し四輪車へ参入
  • マツダ 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [14]1949年5月 東京証券取引所へ株式上場
    • [19]1958年4月 小型四輪トラックを発売し四輪車へ参入
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [15]1953年 月産3,000台規模の三輪トラック塗装組立工場を完成し業界の主導権を確立
  • 日経新聞 私の履歴書 松田恒次 1965年10月
    • [16]松田恒次が1918年の軍用自動車補助法の公布を境に国内の自動車市場が動き出したと回顧
    • [17]1951年 松田恒次が社長へ就任(松田重次郎の長男)
  • 新日本経済 1954年7月号
    • [18]1950年代半ば 小型四輪車の増産で三輪車の需要が後退する見通し

独自技術のロータリーで単独路線を選んだ判断

1960年5月、東洋工業は軽乗用車R360クーペを発売した[20]。KRBB型の価格は30万円で、40万円近い水準にあった当時の軽四輪乗用車[21]のなかでは前例のない安さだった。同年10月には西独NSU社からロータリーエンジンの特許権を譲り受けると発表し、200馬力以下のガソリン・軽油エンジンを自社の担当領域として[22]、NSU社および米カーチスライト社と分担を切り分けた。1961年2月にNSU社・バンケル社と技術提携を締結[23]した。1964年4月に小型乗用車を発売し、1965年5月に三次自動車試験場、1966年11月には乗用車専門の宇品工場を本社工場内に完成させて[24]、三輪車のメーカーから総合自動車メーカーへ移った[25]

  • マツダ 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [20]1960年5月 軽乗用車R360クーペを発売
    • [23]1961年2月 NSU社・バンケル社とロータリーエンジンの技術提携
    • [24]1964年4月 小型乗用車発売/1965年5月 三次自動車試験場/1966年11月 宇品工場完成
  • 日本経済新聞(1960年4月22日)
    • [21]R360クーペ KRBB型の価格 30万円(当時の軽四輪乗用車は40万円近く)
  • 日本経済新聞(1960年10月28日)
    • [22]1960年10月 NSU社からロータリーエンジンの特許権譲受を発表・200馬力以下を担当領域とする分担
  • 新日本経済 1966年12月号
    • [25]1966年時点で三輪車メーカーから総合自動車メーカーへ発展

ヴァンケル博士が考案した回転式機関の量産化は難題で、1963年にロータリーエンジン研究部を設け、山本健一氏を初代部長として各部門から約47名の技術者を集めた[26]。アペックスシールの摩耗をはじめとする課題を解き、1967年5月30日に世界初の2ローター・ロータリーエンジン搭載車コスモスポーツを発売した[27]。総排気量491cc×2、最高出力110PS、最高速度185km/h[28]だった。1969年10月に政府が資本自由化を1971年10月からと閣議決定すると[29]完成車各社は外資提携や合併へ動いたが、東洋工業は資本提携を白紙に戻し、独自技術による単独路線を選んだ[30]

  • clicccar(2020年7月11日)
    • [26]1963年 ロータリーエンジン研究部を発足・山本健一を初代部長に約47名を集めた
  • マツダ「コスモスポーツ(1967年〜)」(マツダ株式会社 企業サイト・歴史)
    • [27]1967年5月30日 コスモスポーツ発売・世界初の2ローターロータリー搭載車
    • [28]コスモスポーツ 総排気量491cc×2・最高出力110PS・最高速度185km/h
  • トヨタ自動車75年史(2012年)「資本の自由化と自動車業界再編」
    • [29]1969年10月 政府が資本自由化を1971年10月からと閣議決定
  • 日経ビジネス 1972年10月号
    • [30]東洋工業は資本提携を白紙に戻し独自技術による単独路線を選んだ
  • マツダ 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [20]1960年5月 軽乗用車R360クーペを発売
    • [23]1961年2月 NSU社・バンケル社とロータリーエンジンの技術提携
    • [24]1964年4月 小型乗用車発売/1965年5月 三次自動車試験場/1966年11月 宇品工場完成
  • 日本経済新聞(1960年4月22日)
    • [21]R360クーペ KRBB型の価格 30万円(当時の軽四輪乗用車は40万円近く)
  • 日本経済新聞(1960年10月28日)
    • [22]1960年10月 NSU社からロータリーエンジンの特許権譲受を発表・200馬力以下を担当領域とする分担
  • 新日本経済 1966年12月号
    • [25]1966年時点で三輪車メーカーから総合自動車メーカーへ発展
  • clicccar(2020年7月11日)
    • [26]1963年 ロータリーエンジン研究部を発足・山本健一を初代部長に約47名を集めた
  • マツダ「コスモスポーツ(1967年〜)」(マツダ株式会社 企業サイト・歴史)
    • [27]1967年5月30日 コスモスポーツ発売・世界初の2ローターロータリー搭載車
    • [28]コスモスポーツ 総排気量491cc×2・最高出力110PS・最高速度185km/h
  • トヨタ自動車75年史(2012年)「資本の自由化と自動車業界再編」
    • [29]1969年10月 政府が資本自由化を1971年10月からと閣議決定
  • 日経ビジネス 1972年10月号
    • [30]東洋工業は資本提携を白紙に戻し独自技術による単独路線を選んだ

石油危機がロータリーを弱点へ変えるまで

1973年10月の第一次石油危機でロータリーの燃費の悪さが市場に突き出され、1974年1月には米環境保護庁が、ロータリーエンジンはレシプロより5割余計にガソリンを消費すると発表[31]した。国内でも燃料消費効率の悪さが伝えられている[32]。内外の在庫は生産3カ月分にあたる20万台へ膨らみ[33]、米国でのロータリー搭載車の販売は前年比で半減した。1975年10月期には経常173億円の赤字[34]へ転落[35]した。米国の販売会社に関わる償却240億円や欠陥車8万台の修理費など、表に出ない損失は500億円規模[36]に及んだ。

  • 日経ビジネス 1979年9月10日号
    • [31]1974年1月 米環境保護庁がロータリーはレシプロより5割余計にガソリンを消費と発表・在庫は生産3カ月分の20万台
    • [33]内外の在庫が生産3カ月分にあたる20万台へ到達
    • [35]1975年10月期 経常173億円の赤字(単体)
    • [36]米国販売会社関連の償却240億円・欠陥車8万台の修理費など表に出ない損失500億円規模
  • 読売新聞(1974年1月10日)
    • [32]1974年 読売新聞がロータリー車の燃料消費効率の悪さを報道
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [34]1975年10月期 経常赤字173億円(会社年鑑の同期計数)

東洋工業と一次下請けに収入を頼る人は約6万5,000人にのぼり、広島市では4人に1人が同社の関係者とされ、県経済のおよそ2割を占めた[37]。地元に密着しているために経営が悪化しても人員整理へ踏み切れない点は、再建の障害と指摘された[38]。1974年10月、住友銀行と住友信託銀行から取締役を受け入れた[39]。住友銀行はコストコントロール部の新設、販売店への社員出向、緊急融資に続いて常務の村井勉氏を副社長に送り[40]、支援から丸抱えへと再建体制を強めた。頭取の磯田一郎氏は、東洋工業を倒産させれば従業員は失業し、下請けはつぶれ、広島経済が壊滅すると述べて救済を決めている[41]

  • 日経ビジネス 1975年5月26日号
    • [37]東洋工業と一次下請けに収入を頼る人 約6万5,000人・広島市では4人に1人・県経済の約2割
    • [38]地元密着ゆえ経営悪化時も人員整理ができない点が再建の障害と指摘された
  • 日経ビジネス 1979年9月10日号
    • [39]1974年10月 住友銀行・住友信託銀行から取締役を受け入れ
    • [40]住友銀行はコストコントロール部新設・販売店への社員出向・緊急融資に続き常務の村井勉を副社長へ派遣
    • [41]磯田一郎頭取が「倒産させれば広島経済壊滅」として救済を決断

販売の再建策として全国の販売店へ社員を送り込むAM制度が導入され、1977年12月には1年交代で千数百人としていた出向を、対象人員5,000人・出向期間3年へ広げる方針が示された[42]。現場では『カーセールスは20代でも激務。素人の中年男には、もっときつい』[引用元]『そのあとの出向組は順番がきたからと、ちょうど義務兵役にでも行くような調子』[引用元]という声が上がっていた。磯田氏は1977年6月に松田耕平氏へ更迭を宣告し、同年12月に生え抜きの山崎芳樹氏を社長へ据えた[43]。輸出の好調と国内販売の伸びで、1978年10月期には経常利益150億円と史上最高を記録した[44]

  • 日本経済新聞(1977年12月9日)
    • [42]1977年12月 AM出向制度を対象5,000人・期間3年へ拡大する方針
  • 日経ビジネス 1979年9月10日号
    • [43]1977年6月 磯田一郎が松田耕平へ更迭を宣告/同年12月 山崎芳樹が社長就任
    • [44]1978年10月期 経常利益150億円で史上最高
  • 日経ビジネス 1979年9月10日号
    • [31]1974年1月 米環境保護庁がロータリーはレシプロより5割余計にガソリンを消費と発表・在庫は生産3カ月分の20万台
    • [33]内外の在庫が生産3カ月分にあたる20万台へ到達
    • [35]1975年10月期 経常173億円の赤字(単体)
    • [36]米国販売会社関連の償却240億円・欠陥車8万台の修理費など表に出ない損失500億円規模
    • [39]1974年10月 住友銀行・住友信託銀行から取締役を受け入れ
    • [40]住友銀行はコストコントロール部新設・販売店への社員出向・緊急融資に続き常務の村井勉を副社長へ派遣
    • [41]磯田一郎頭取が「倒産させれば広島経済壊滅」として救済を決断
    • [43]1977年6月 磯田一郎が松田耕平へ更迭を宣告/同年12月 山崎芳樹が社長就任
    • [44]1978年10月期 経常利益150億円で史上最高
  • 読売新聞(1974年1月10日)
    • [32]1974年 読売新聞がロータリー車の燃料消費効率の悪さを報道
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [34]1975年10月期 経常赤字173億円(会社年鑑の同期計数)
  • 日経ビジネス 1975年5月26日号
    • [37]東洋工業と一次下請けに収入を頼る人 約6万5,000人・広島市では4人に1人・県経済の約2割
    • [38]地元密着ゆえ経営悪化時も人員整理ができない点が再建の障害と指摘された
  • 日本経済新聞(1977年12月9日)
    • [42]1977年12月 AM出向制度を対象5,000人・期間3年へ拡大する方針

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マツダの沿革1920〜2022年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1920〜1959年コルク再建会社から三輪トラックの主導権へマツダ創業——広島のコルク再建会社から三輪トラック「マツダ号」への転身

1920年1月、広島県内のコルク製造業者を再建する目的で地元の有力者が東洋コルク工業株式会社を設立したが、大戦終結でコルク代替需要が縮小し設立直後から経営難に陥った。翌1921年に機械発明家の松田重次郎氏が2代目社長として再建を引き受け、1927年9月に東洋工業株式会社へ改称して工作機械と三輪自動車を二本柱とする機械メーカーへ転じた。1931年10月に三輪トラック『マツダ号DA型』を投入し、後の自動車メーカーへの道を開いた。

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★★★
東洋工業に商号変更
工作機械の生産開始
三輪トラックの生産開始★★
松田重次郎東京証券取引所に株式上場
松田恒次松田恒次氏が社長就任
松田恒次三輪車トラックの増産投資
松田恒次四輪車に参入★★
1960〜1978年ロータリーエンジンへの賭けと石油危機による失速松田恒次軽乗用車を発売
松田恒次NSU・バンケル社とロータリーエンジン業務提携★★
松田恒次小型乗用車を発売
松田恒次宇品工場を新設
松田恒次東洋工業のロータリー量産化と、外資との資本提携を退けた単独路線

1961年に西独NSU・バンケル両社からロータリーエンジンの技術を導入した東洋工業(現マツダ)が、資本自由化と業界再編の圧力のなか、外資との資本提携や合併ではなく独自技術による単独路線を選び、1967年5月のコスモスポーツで世界初のロータリー量産を実現した経営判断。本文は当時社名の東洋工業で表記する(マツダへの改称は1984年)。

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★★★
松田耕平販売子会社を設立
松田耕平赤字転落・経営危機★★
山崎芳樹防府工場を新設
山崎芳樹防府西浦乗用車工場を新設
山本健一マツダに商号変更
山本健一現地生産子会社を新設
古田徳昌国内販売5チャネル体制への拡大と、バブル崩壊後の破綻

輸出依存の体質を国内販売の倍増で改める「B-10」計画のもと、規模で劣るマツダがトヨタ並みの5系列体制へ拡大し、異業種提携で店舗を倍増させた拡張。バブル崩壊で過剰な販売網と開発負担が収益を圧迫し、拡大策は数年で撤回に追い込まれた

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★★★
和田淑弘防府第二工場を新設
和田淑弘フォードと米AAI社を均等出資合弁化
和田淑弘フォードと戦略的協業を発表
ヘンリー・ウォレス現地生産子会社を設立
1996〜2025年フォードの経営権掌握から独立の回復とトヨタ提携へヘンリー・ウォレスフォードによる出資引き上げとマツダ経営権の掌握

1996年、5チャネル体制の失敗と円高で再び窮地に立ったマツダが、筆頭株主の米フォードによる出資比率の24.5%から33.4%への引き上げを受け入れ、フォード出身のヘンリー・ウォレスを社長に迎えて経営権を委ねた資本の異動。

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★★★
井巻久一現地生産子会社を設立
山内孝フォードの提携解消へ★★
山内孝最終赤字転落・構造改革プランを策定★★
小飼雅道現地生産から撤退★★
小飼雅道メキシコ工場で量産車生産を開始
小飼雅道フォードとの36年の資本提携解消と自主独立への転換

リーマンショックで自らも経営危機に陥ったフォードが2008年以降マツダ株を段階的に売却し、2015年に残存の約2%強を売り切って1979年以来36年の資本提携が解消された資本の異動。マツダはその過程で公募増資と独自技術により自力再建を進め、大株主の後ろ盾を失っても倒れない体力を先に整えた。

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★★★
小飼雅道トヨタとの資本業務提携と米アラバマ折半合弁の設立

2017年8月4日、マツダはトヨタ自動車と業務資本提携に関する合意書を締結し、両社が約500億円ずつを持ち合ってトヨタがマツダ株の5.05%、マツダがトヨタ株の0.25%を相互取得した。米国での完成車合弁・EV共同開発・コネクテッド・先進安全・商品補完の5分野で協業し、アラバマ州に折半出資の合弁工場を設ける経営判断であった。

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★★★
丸本明TMT合弁で新工場を稼働・CX-50を量産
丸本明東京証券取引所プライム市場へ移行
出典・参考
  • マツダ 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
  • トヨタ自動車75年史(2012年)「資本の自由化と自動車業界再編」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 会社年鑑(1986年版)
  • 新日本経済 1954年7月号
  • 新日本経済 1966年12月号
  • 日経ビジネス 1972年10月号
  • 日経ビジネス 1975年5月26日号
  • 日経ビジネス 1979年9月10日号
  • 日経ビジネス 1984年3月19日号
  • 日経ビジネス 1989年9月11日号
  • 日経ビジネス 1992年8月24日号
  • 日経ビジネス 1993年9月20日号
  • 日経ビジネス 1995年1月9日号
  • 日経ビジネス 1996年4月22日号
  • 日本経済新聞(1960年4月22日)
  • 日本経済新聞(1960年10月28日)
  • 日経新聞 私の履歴書 松田恒次 1965年10月
  • 読売新聞(1974年1月10日)
  • 日本経済新聞(1977年12月9日)
  • マツダ「コスモスポーツ(1967年〜)」(マツダ株式会社 企業サイト・歴史)
  • clicccar(2020年7月11日)

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