ロータリーエンジン搭載車を発売
未完成の回転機関に賭けた技術導入
1960年代初頭、マツダは西ドイツのNSU社が開発途上にあったロータリーエンジンの将来性に着眼した。従来のレシプロエンジンがピストンの往復運動で動力を生むのに対し、ロータリーエンジンはローター(回転子)の回転運動で直接動力を得る機構であり、部品点数が少なく高出力かつ低振動という特性を兼ね備えていた。1961年にマツダはNSU社と技術提携を締結し、2.8億円の技術導入料(特許料)を支払って特許ライセンスを取得した。 しかし、技術導入を決断した時点でロータリーエンジンは四輪乗用車のエンジンとしての実用化が達成されておらず、耐久性やシール技術、燃費性能など解決すべき課題が山積していた。当時のマツダは三輪車メーカーから四輪車メーカーへの事業転換期にあり、トヨタや日産といった大手との差別化を図るためには独自の技術基盤が不可欠であった。未完成の技術への先行投資という高いリスクを承知の上で、将来の競争力の核とすべく技術導入に踏み切った。
47名の精鋭が挑んだ実用化への道
1963年4月、マツダは社内に「ロータリエンジン研究部」を発足させ、約47名の技術者を結集した。初代部長に就任した山本健一氏のもと、四輪乗用車にロータリーエンジンを搭載するための研究開発が推進された。内燃機関の権威者から「ロータリーはものにならない」と酷評され、社内でも「成功の見込みが低いのに資金を浪費している」との批判が上がるなど、逆風のなかでの開発であった。 約3年にわたる試行錯誤を経てロータリーエンジンの実用化に成功。1967年5月、マツダはロータリーエンジンを搭載した世界初の量産車「コスモスポーツ」の販売を開始した。高出力でありながら騒音を最小限に抑えた同車は画期的な技術として国内外の注目を集め、開発を率いた山本氏は「ロータリーエンジン実用化の父」と称された。
環境規制とオイルショックが覆した成長構想
マツダはロータリーエンジンを競争力の柱として、国内市場の拡大に加えて北米を中心とした四輪車の輸出を本格化する方針を打ち出した。しかし1970年、米国で大気浄化法(マスキー法)が改正され、1975年以降の新型車について排出ガスの厳格な基準が義務づけられた。排ガス浄化の面で従来のレシプロエンジンに劣るロータリーエンジンは、マツダが構想した輸出拡大の切り札として機能しない事態に直面した。 さらに1973年のオイルショックにより石油価格が高騰すると、燃費性能で劣るロータリーエンジン搭載車への需要は国内外で急速に減退した。マツダは大量の在庫を抱え、1975年10月期に170億円の経常赤字に転落。画期的な技術の実用化に成功しながらも、環境規制の強化とエネルギー危機という外部環境の急変によって、想定していた収益モデルが根底から覆された。