豊田佐吉氏は1867年2月14日、遠江国敷知郡山口村[1](現・静岡県湖西市)に生まれた。1870年刊行の啓発書『西国立志編』に触発され[2]、1885年の専売特許条例の公布[3]を機に織機の発明を志した。1890年に木製人力織機を出願し、翌1891年5月14日に特許第1195号[4]として登録を受けた。喜一郎氏は1894年6月11日に佐吉氏の長男として生まれ[5]、父の工場の敷地内でものづくりを間近に見ながら育った。喜一郎氏は後年、幼時から機械に接した経験を『エンジニアーは機械を身内と考へ何時も機械にタッチしていることが最も肝要である』[引用元]と振り返っている。
1926年、佐吉氏の意向を受けた喜一郎氏は愛知県碧海郡刈谷町に新工場の建設を立案し、同年11月18日に資本金100万円の株式会社豊田自動織機製作所を設立[6]した。社長には豊田利三郎氏が、常務取締役には喜一郎氏[7]が就いた。喜一郎氏は父の発明した無停止杼換式自動織機の改良に携わり[8]、その英国特許を1929年に英国のプラット社へ譲渡[9]した。この譲渡金が自動車研究の原資[10]となった。当時の日本ではフォードとゼネラル・モーターズが国内に組立工場を構え[11]てノックダウン生産を行っており、国産自動車の量産は緒についていなかった。
1933年9月1日、喜一郎氏は豊田自動織機製作所の社内に自動車製作部門を設置[12]した。同年10月には米国製シボレー乗用車を分解して部品をスケッチ[13]し、試作用の図面を起こす形で研究に着手した。エンジンの鋳造では織機用の鋳物技術を応用し、シリンダーブロックの試作[14]を重ねている。有価証券報告書の沿革はこの時点を『自動車の研究を開始』[引用元]と記録している[15]。取締役会の正式な承認は事後に得る形をとり[16]、喜一郎氏は先行きの見えない新事業を既成事実として進めた。織機で得た資金と工作機械の技術が、そのまま自動車部品の加工へ転用できる見込み[17]が、この判断を支えていた。
1935年、自動車部はA1型試作乗用車とG1型トラックを完成させ[18]、試作の段階を抜けた。同年11月にはトラックの発売[19]にこぎ着け、翌1936年9月には乗用車を発売[20]した。1936年4月に豊田自動織機製作所自動車部へ入社[21]した豊田英二氏は、喜一郎氏の命を受けて東京・芝浦に研究所を開設[22]し、ラジエーターやドイツ車DKWの分解調査などを担当した。英二氏は喜一郎氏の従弟にあたり、東京帝国大学工学部の出身[23]であった。芝浦の研究所は基礎技術の蓄積を担い、量産に必要な要素技術を社内へ取り込む役割[24]を負った。
1936年、日本政府は自動車の国産化を進める自動車製造事業法を公布し、豊田自動織機製作所の自動車部門を許可会社に指定[25]した。許可会社となれば軍需を背景とする保護を受けられる一方、量産投資の規模は織機本体の財務を超えた[26]。喜一郎氏は自動車部を織機事業から切り離す必要に迫られ、分離独立の準備に入った[27]。この法律は外国資本の組立会社を国内市場から締め出す効果[28]を持ち、国産メーカーに量産の機会を与えた。保護と統制を引き換えに国産化を進める産業政策のもとで、トヨタは軍需という確実な需要を得た[29]。
1937年8月28日、トヨタ自動車工業株式会社が資本金1,200万円で設立[30]された。社長には豊田利三郎氏が、副社長には喜一郎氏[31]が就いた。有価証券報告書の沿革は1937年8月を『豊田自動織機製作所より分離独立(会社創立)』[引用元]と記し、資本金を12,000千円[32]と記録している。独立直後、喜一郎氏は全国のトヨタ車販売店の代表を前に、廉価で優秀な車をつくるという企業理念を語る挨拶[33]を行っている。芝浦の研究所も同社の研究部となり[34]、英二氏は同年5月に刈谷の本社へ転勤して新設の監査改良部[35]を任された。
1938年11月3日、愛知県挙母町(現・豊田市)に本社工場が竣工[36]し、トヨタはこの日を創業記念日と定めた。敷地は約200万平方メートルで、刈谷の織機工場の約50倍[37]にあたる規模であった。大衆車の量産を一貫して行う体制を、需要が育つ前に用意した投資[38]である。挙母工場は鋳造から機械加工、組立までを一つの敷地に収め[39]、部品を工場間で運ぶ手間を省いた。喜一郎氏は工場の設計にあたり、機械の配置を工程の順に並べる方式[40]を採った。部門ごとに同種の機械を集める当時の一般的な工場[41]とは、考え方が逆であった。
喜一郎氏は挙母工場への移転に際し、流れ作業の導入を企図した克明なパンフレットを自ら作成[42]した。刈谷工場では鋳物からできた半製品をいったん倉庫に入れてから機械で削る生産方式[43]が主流であったのに対し、喜一郎氏は『毎日、必要なものを必要な数だけつくれ』[引用元]という考え方を掲げた。英二氏はこれを和製英語で『ジャスト・イン・タイム』と呼んだ[44]。ただし戦時下の資材統制のもとでは必要な部品が必要なときに届く前提が崩れ[45]、この方式は定着しないまま終わった。倉庫を経由しない生産は仕掛品の資金拘束を減らし[46]、資本の乏しい後発メーカーには切実な要請でもあった。
日中戦争の長期化でトラックの需要が急増し、挙母工場は月産500台の目標を達成[47]した。生産は軍用トラックの増産に振り向けられ[48]、乗用車の開発は事実上止まった。1940年3月には豊田製鋼(現・愛知製鋼)[49]を、1941年5月には豊田工機(現・ジェイテクト)を設立[50]して、鋼材と精密工作機械を社内で賄えるようにした。1945年8月には自動車車体の製造事業をトヨタ車体工業[51](現・トヨタ車体)へ移管した。1943年11月には中央紡績を吸収合併[52]して事業基盤を広げたが、資材不足で戦争後半には生産が急激に落ち込んだ[53]。
1945年8月14日、挙母工場は米軍機B29の空襲を受け、工場の約4分の1が破壊[54]された。翌15日の終戦を経て、8月16日に赤井久義副社長[55]は幹部を前に、トヨタには復興を支えるトラックをつくって供給する責任があると述べ、再出発を促した。工場は8月17日から生産を再開し、資材を節約した戦時規格を廃止[56]して標準規格のトラック生産に切り替えた。設備の多くは空襲を免れており[57]、資材さえ手に入れば動かせる状態にあった。焼け残った工作機械を数え直す[58]ところから、戦後の生産計画は組み直された。占領下では乗用車の生産が禁じられ[59]、当面はトラックだけが事業の柱となった。
喜一郎氏は自動車生産が全面的に禁止される事態を想定し、従業員の生活を守るため瀬戸物業や竹輪づくりなど衣食住に関わる新規事業[60]を模索した。1945年11月に乗用車を除くトラック・バスの生産継続が認められる[61]と、これらの構想は立ち消えとなった。1946年4月には関東電気自動車製造(現・トヨタ自動車東日本)を設立[62]し、東日本に生産の足場を置いた。1948年7月には日新通商(現・豊田通商)を設立[63]して資材の調達機能を分けている。1949年5月、トヨタは東京・名古屋・大阪の各証券取引所へ株式を上場[64]した。
1949年、GHQのドッジ・ラインによる超緊縮財政のもとで自動車需要が急減[65]した。月賦販売の代金回収が滞り[66]、製造資金を直接に圧迫した。トヨタは1,600名の希望退職の募集[67]と、製造と販売を別法人に分ける再建策に踏み切った。喜一郎氏は人員整理の責任を負って1950年6月に社長を退任し、後任には豊田自動織機出身の石田退三氏[68]が就いた。倒産寸前まで追い込まれた資金繰りは、日本銀行名古屋支店長の音頭による銀行団のシンジケート融資[69]で救われた。英二氏は後年、この経験を『倒産寸前までいった経験からその後の経営者は再びそのようなことにならないようにしようと、一所懸命貯めた』[引用元]と振り返っている。
1950年4月、トヨタは販売部門をトヨタ自動車販売として独立[70]させ、製造資金と販売資金が混在する状態を制度的に断ち切った。販売会社の社長には神谷正太郎氏[71]が就いた。同年5月には紡績事業を民成紡績(現・トヨタ紡織)へ移管[72]している。生産と販売を別法人に分けるこの体制は、資金繰りの破綻という代償を払って選ばれた[73]ものであった。この分離は1982年の再合併まで32年間続いた。販売会社は全国の販売店網を束ね[74]、生産側は原価と品質に責任を負う分担が定着し、両社が別々に資金を調達する体制[75]が敷かれた。
1949年の企業再建整備計画に基づき、トヨタは電装工場・刈谷南工場・中川工場の3工場を第二会社として分離独立[76]させた。同年12月に設立された日本電装(現・デンソー)[77]はトヨタの商号使用を禁じられ、1.4億円の借金返済[78]を求められる厳しい条件のもとで出発した。初代社長の林虎雄氏[79]は、喜一郎氏からグループの信用を損なうことは許されないと厳しく釘を刺されたと回顧している。1949年6月には愛知工業(現・アイシン)と名古屋ゴム(現・豊田合成)[80]が設立された。完成車メーカーと専門化された部品メーカーが分業する構造[81]は、この時期に形づくられた。
1950年6月に勃発した朝鮮戦争は米軍向けトラックの大量受注[82]をもたらし、トヨタの再建を後押しした。同じ時期、トヨタ自動車販売の神谷正太郎社長はフォード社との技術提携交渉を進め調印の直前まで[83]至ったが、朝鮮戦争を受けた米政府の禁足令で技術者の派遣が不可能となり、交渉は白紙に戻った。代わってフォード社はトヨタからの研修者受け入れを了承し、英二常務が1950年7月から約1カ月半にわたりルージュ工場[84]などで研修を受けた。英二氏は帰国後、フォードの規模の大きさを認めたうえで『フォードはトヨタが知らなかったことはやっていなかった』[引用元]と振り返っている。提携によらず自力で量産技術を組み上げる方針[85]は、この確認から定まった。
戦時にいったん定着を阻まれたジャスト・イン・タイムの考え方は、戦後、豊田自動織機出身の大野耐一氏の手で『かんばん』として蘇った[86]。後工程が前工程へ必要な数量を伝える仕組み[87]は、標準化と現場改善を軸とするトヨタ生産方式へ発展した。1951年5月には一般従業員から改善提案を募る創意くふう提案制度[88]が始まった。1951年度に789件・参加率8%だった提案は、1965年度には1万5968件・参加率30%[89]まで拡大している。設備投資に回す資金の乏しさ[90]が、現場の工夫で生産性を上げる方法を選ばせた。
1955年、トヨタは本格的な乗用車として初代クラウンとトヨペット・マスターを発売[91]し、乗用車市場への参入を果たした。クラウンは前輪独立懸架を備え、国産技術だけで設計[92]した乗用車であった。もっとも当時の需要はタクシー事業者と富裕層が中心で、月販は2000台程度[93]にとどまっていた。1956年3月にはトヨタ自動車販売が産業車両を発売[94]し、1957年10月には米国トヨタ自動車販売を設立[95]し、対米輸出の窓口を米国内に置いた。同年に輸出した小型車クラウンは高速走行の性能が足らず[96]、米国市場では受け入れられなかった。乗用車を量産する専用の工場は、まだどの国産メーカーも持っていなかった[97]。
英二専務は月産1万台の乗用車専門工場を提案したが、当時としては規模が大きすぎるとして、石田退三社長は月産5000台で建設を決断[98]した。1958年7月に社内へ乗用車専門工場建設委員会が設けられ、委員長には豊田章一郎氏[99]が就任した。設備は月産5000台に抑えながら、建屋だけは将来の月産1万台に対応する規模[100]で設計するという判断が下された。元町工場は着工から11カ月の1959年8月に竣工[101]し、同年9月18日から19日にかけて完成披露式が催された。創業以来の生産累計50万台目となるクラウン・デラックス[102]のラインオフ式も併せて行われた。式辞に立った石田退三社長は元町工場を『2割程度の完成』と位置づけ、『生産台数の5倍にあらずして内容の5倍』[引用元][103]への拡大を掲げた。同年12月、元町工場は目標としていた月産1万台を達成[104]した。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/7203/manifest.json https://the-shashi.com/api/7203/history.json https://the-shashi.com/api/7203/timeline.json https://the-shashi.com/api/7203/executives.json https://the-shashi.com/api/7203/shareholders.json https://the-shashi.com/api/7203/financials.json https://the-shashi.com/api/7203/financials-longterm.json https://the-shashi.com/api/7203/segments.json https://the-shashi.com/api/7203/regions.json https://the-shashi.com/api/7203/workforce.json | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1890〜1938年織機の発明から自動車事業の分離独立まで | 豊田自動織機製作所内で自動車研究を開始 | ★★ | ||
| トラックを発売 | ★ | |||
| 乗用車を発売 | ★ | |||
| トヨタ自動車の創業——豊田自動織機の自動車部による国産量産車の事業化 1937年8月、豊田喜一郎氏は豊田自動織機製作所の自動車部を分離し、資本金1,200万円のトヨタ自動車工業株式会社として独立させた。父・豊田佐吉氏が興した織機事業で得た資金と量産技術を土台に、米国製シボレーの分解調査から国産量産車へ挑んだ創業である。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 1939〜1959年敗戦と資金繰りの破綻、工販分離を経ての再出発 | 豊田製鋼を設立 | ★ | ||
| 豊田喜一郎 | 豊田工機を設立 | ★ | ||
| 豊田喜一郎 | トヨタ車体工業を設立 | ★ | ||
| 豊田喜一郎 | 東京・名古屋・大阪の各証券取引所に株式を上場 | ★ | ||
| 豊田喜一郎 | 愛知工業を設立 | ★ | ||
| 豊田喜一郎 | 日本電装を設立 | ★ | ||
| 豊田喜一郎 | トヨタ自動車販売を設立 | ★★ | ||
| 石田退三 | トヨタ自動車販売を設立 | ★ | ||
| 石田退三 | 日本初の乗用車専門工場・元町工場の建設と量産体制への転換 1959年、トヨタ自動車工業が石田退三社長の主導で、旧東海飛行機の挙母工場跡地に総工費約23億円を投じ、日本初の乗用車専門工場として元町工場を建設した経営判断。トラックを量の主体としてきた生産の重心を乗用車量産へ移す転換点となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 1960〜1988年大衆車カローラと量産投資、北米生産への転換 | 石田退三 | 豊田中央研究所を設立 | ★ | |
| 中川不器男 | 大衆車カローラの投入と高岡工場への集中投資 1966年、トヨタ自動車工業が月産10万台体制の第1陣として大衆車カローラ専用の高岡工場を建設し、新大衆乗用車カローラを投入した経営判断。1工場1車種の集中量産で原価を切り下げ、乗用車の勝負どころを販売力から設備投資へと移した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 中川不器男 | 日野自動車工業と業務提携 | ★★★ | ||
| 豊田英二 | ダイハツ工業と業務提携 | ★ | ||
| 豊田章一郎 | トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売の合併(1982年成立) 1982年7月、生産を担うトヨタ自動車工業と販売を担うトヨタ自動車販売が合併し、現在のトヨタ自動車株式会社が発足した案件。1950年の工販分離から32年ぶりの一体化であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 豊田章一郎 | トヨタモータークレジットを設立 | ★ | ||
| 豊田章一郎 | トヨタとGMの世界提携とNUMMIの設立 1982年、対米輸出自主規制とローカルコンテント法案の圧力を受け、トヨタは世界最大の競合であるゼネラル・モーターズ(GM)と折半出資の合弁会社を米国に設立することで合意し、1984年に日米合弁のNUMMIを発足させた経営判断。GMの遊休工場でカローラを基にした小型車を年産50万台生産する枠組みで、宿敵同士が手を組んだ。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 豊田章一郎 | 北米での単独現地生産の決断とケンタッキー工場(TMM)の建設 1985年7月の臨時取締役会でトヨタが米国・カナダへの単独工場進出を決め、全米29州の誘致からケンタッキー州を選んで1986年1月にトヨタ・モーター・マニュファクチャリング(TMM)を設立した経営判断。GMとの合弁NUMMIで得た手応えを踏まえ、逃げ場のない単独工場へ踏み込んだ。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 1989〜2026年世界販売首位への拡大と、品質・収益をめぐる立て直し | 豊田章一郎 | トヨタモーターマニュファクチャリング(UK)を設立 | ★ | |
| 豊田章一郎 | トヨタ自動車九州を設立 | ★ | ||
| 豊田達郎 | 奥田碩体制による拡大改革 1995年8月、病に倒れた豊田達郎氏に代わり、豊田家と縁のない生え抜きの奥田碩氏が28年ぶりの非創業家社長に就任した。国内シェア40%割れとRV出遅れに直面するトヨタで、即断即決と拡大・スピード経営を掲げ、販売テコ入れ・世代交代・海外拡大・環境技術に猛進した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 奥田碩 | ダイハツ工業を子会社化 | ★★ | ||
| 張富士夫 | 張富士夫氏が社長に就任 | ★ | ||
| 張富士夫 | 日野自動車を子会社化 | ★★ | ||
| 渡辺捷昭 | 渡辺捷昭氏が社長に就任 | ★ | ||
| 渡辺捷昭 | 富士重工業と業務提携 | ★ | ||
| 渡辺捷昭 | 初の営業赤字・純損失を計上 | ★★ | ||
| 豊田章男 | 豊田章男氏が社長に就任 | ★ | ||
| 豊田章男 | 米国リコール危機への対応と品質保証体制の再構築 2009年から2010年にかけて、トヨタ自動車が米国を中心とする全世界1000万台級の大規模リコールに直面し、豊田章男社長が米下院公聴会での証言を経て品質保証体制を立て直した経営判断。グローバル品質特別委員会の設置を柱に、品質のガバナンスを再構築した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 豊田章男 | 系列生産子会社3社の統合とトヨタ自動車東日本の新設 2011年7月13日、トヨタ自動車が、東北に生産拠点を置く系列子会社の関東自動車工業・セントラル自動車・トヨタ自動車東北の3社を統合し、関東自動車工業を存続会社として2012年7月にトヨタ自動車東日本を新設すると発表した経営判断。豊田章男社長の主導のもと、他社との対等統合ではなく、自社グループ内の生産子会社を束ね直す組織再編であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 豊田章男 | スズキと業務提携に向けた覚書を締結 | ★ | ||
| 豊田章男 | マツダと資本業務提携 | ★★ | ||
| 豊田章男 | SUBARUと資本業務提携を拡大 | ★ | ||
| 豊田章男 | パナソニックとの合弁でプライムプラネットエナジー&ソリューションズを設立 | ★★ | ||
| 豊田章男 | いすゞ自動車と資本提携 | ★ | ||
| 佐藤恒治 | 豊田章男氏から佐藤恒治氏への14年ぶり社長交代とEVシフトの本格化 2023年1月26日、トヨタ自動車は執行役員でレクサス・GAZOO Racingカンパニープレジデントの佐藤恒治氏(53)を4月1日付で社長・CEOに昇格させ、豊田章男社長(66)が会長に退く人事を発表した。14年ぶりのトップ交代であり、豊田家出身者から非創業家の社長へ引き継がれる、トヨタ史上3例目の交代であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 佐藤恒治 | 就任3年での社長交代と財務出身トップの起用 2026年2月6日、トヨタ自動車は4月1日付で執行役員の近健太氏(57)が社長に昇格し、佐藤恒治社長(56)が副会長に就く人事を発表した。2023年4月に豊田章男氏の後任として就いた佐藤氏の在任はわずか3年で、経理本部長やウーブン・バイ・トヨタCFOを歴任した財務畑の近氏へ、収益体質の立て直しを託す経営判断であった。 詳細を読む | ★★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(トヨタ自動車)