3工場を分離しデンソーを発足
戦時補償打ち切りと企業再建整備法がトヨタに再編を迫った
終戦後、戦時補償の打ち切りによって多くの大企業は財務内容が急激に悪化し、企業再建整備法のもとで再編が進められる趨勢にあった。トヨタも軍需生産に関与していたことから再建整備法による解体指定を受ける可能性を意識しており、本体の存続と経営自立の確保が最大の課題となっていた。1949年1月に過度経済力集中会社の指定が解除されると、あくまで本体を存続会社として残し、最小限の範囲で再編を行う基本方針のもと、国内工場の一部を第二会社として分離独立させる構想が具体化した。
電装・紡織・琺瑯の3工場を第二会社として分離独立
分離対象は電装工場(刈谷市)、刈谷南工場、中川工場の3工場であった。電装工場を継承して日本電装(現デンソー)、刈谷南工場を継承して民成紡績(現トヨタ紡織)、中川工場の琺瑯部門を継承して愛知琺瑯を設立する方針が固まった。1949年4月に政府へ再建整備計画を提出し、11月に認可を受けて12月に日本電装と愛知琺瑯が、翌1950年5月に民成紡績が発足した。日本電装はトヨタの商号使用を禁じられ、1.4億円の借金返済を求められる厳しい条件だった。初代社長の林虎雄は「豊田の信用を食い潰してもらっては困る」と釘を刺されたと回顧している。
デンソーがボッシュ提携を経てグループ中核企業に成長
日本電装は発足直後に人員整理を経験したが、朝鮮特需で追い風を得て再建の糸口をつかんだ。1953年にドイツ・ボッシュとの技術提携で燃料噴射ポンプなど先進技術を導入し、トヨタ以外の自動車メーカーにも広く部品を供給する独立した企業へ成長した。トヨタの商号を使えなかったことが逆に自立を促し、独自の技術蓄積と幅広い顧客基盤の構築につながった。民成紡績も後にトヨタ紡織として自動車内装部品へ軸足を移した。1949年の3工場分離は完成車メーカーと高度専門部品メーカーの分業体制を先取りするものとなり、トヨタグループ全体の長期的な競争力の基盤を形成した。