1933年 豊田自動織機製作所 自動車部を創業

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豊田佐吉の長男・喜一郎が、英プラット社への特許譲渡金約100万円を元手に、織機の量産技術を活かそうと1933年に豊田自動織機内へ自動車部を設置。シボレーの分解調査から試作を重ね、1937年に分離独立、トヨタ自動車工業を設立した。

創業〜設立から上場前後までどのようにして経営を軌道に乗せたのか?

  • 豊田佐吉の長男・豊田喜一郎は1929年のプラット社特許譲渡で得た資金を自動車研究費に充て、1933年9月に豊田自動織機製作所の社内に自動車部を設置、米国製シボレーの分解調査から試作を始めた。取締役会の正式承認は翌1934年1月の臨時株主総会で事後的に得る形で、社長の豊田利三郎が関連会社を含むグループの利益を投じて資金面で支援した。
  • 1935年にG1型トラックとA1型試作乗用車を完成し、1936年の自動車製造事業法による政府助成対象選定を経て、1937年8月28日に自動車部をトヨタ自動車工業株式会社として分離独立、本店を挙母町(現・豊田市)に置いた。翌1938年竣工の挙母本社工場は敷地約200万㎡で、刈谷組立工場の約50倍規模の量産拠点を一挙に整えた。
  • 戦時は軍用トラック増産に注力し、終戦後は戦時補償の打ち切りと企業再建整備法による事業解体圧力に直面した。1949年のドッジ・ライン下で月賦回収停滞による資金繰り破綻が表面化し、1,600名の希望退職、製販分離、創業者の喜一郎退任を経て1950年6月に石田退三が後任社長に就任、住友銀行の融資拒絶経験が自己資金中心の財務体質を社内に根づかせた。
  • 1949年の再建整備計画で電装・刈谷南・中川の3工場を第二会社として分離独立させ、日本電装(現デンソー)・民成紡績(現トヨタ紡織)・愛知工業(現アイシン)など完成車と部品の水平分業構造を形成した。大野耐一の標準化浸透と1951年の創意工夫委員会発足を経て、1955年1月の初代クラウン発売で乗用車専業メーカーへ転じる起点を築いた。
創業
上場
経営方針 何を目指していたか?

1933年9月に豊田自動織機製作所の社内に自動車部を設置し既成事実で承認を取り付け、1937年8月にトヨタ自動車工業として分離独立、戦後の経営危機を経て1950年に製販分離、人員を増やさず稼働率を高める制約条件のもと標準化と改善提案を現場に浸透させた。

1933.9 自動車部を社内設置
1937.8 トヨタ自動車工業として分離独立
1950.4 製販分離
1950.6 創業者退任・石田退三就任
1951 創意工夫委員会を発足
資金調達 どう資金を工面したか?

1929年のプラット社特許譲渡金約100万円相当を研究費に充て、1937年8月の分離独立時に資本金1,200万円で発足、1949年5月に東京・名古屋・大阪3取引所に株式上場、ドッジ・ライン下で住友銀行の融資拒絶を経験し自己資金中心の財務体質を志向した。

1937.8 資本金1,200万円
1949 住友銀行の融資拒絶
1949.5 東京・名古屋・大阪3取引所へ上場
製品サービス 何を作って売ったか?

1935年にG1型トラックとA1型試作乗用車を完成、戦時は軍用トラックの増産に注力、1947年に小型乗用車SAを発売、1955年1月に初代クラウンを発売して戦前以来途絶えていた純国産乗用車の本格量産に踏み切った。

1935 G1型トラック・A1型試作乗用車を完成
1936.9 乗用車を発売
1947 小型乗用車SAを発売
1955.1 初代クラウン発売
主要顧客 誰に売ったか?

1937年以降は陸軍向け軍用トラックが主力、終戦後は民需転換でタクシー事業者と官公庁が主力顧客となり、1950年6月の朝鮮戦争勃発で米軍向けトラック特需を獲得、1955年のクラウン発売で個人富裕層への乗用車販売が始まった。

1937 陸軍向け軍用トラック
1947 タクシー事業者・官公庁
1950.6 米軍向けトラック特需
従業員数 誰と作っていたか?

1937年8月の分離独立時に自動車部関連の従業員が独立法人へ移籍、戦時統制下で大幅増員、1949年の経営危機で1,600名の希望退職を実施、製販分離で販売部門もトヨタ自動車販売へ移籍した。

1937.8 自動車部員が新会社へ移籍
1943.11 中央紡績を吸収合併
1949 1,600名の希望退職
1950.4 販売部門が新会社へ移籍
設備投資 どこで作っていたか?

1933年に豊田自動織機製作所内に自動車部の試作工場(刈谷組立工場)、1938年に挙母町(現・豊田市)に敷地約200万㎡の本社工場、1949年の再建整備計画で電装・刈谷南・中川の3工場を第二会社として分離独立させた。

1933 刈谷組立工場(自動車部の試作工場)
1938 挙母本社工場
1940.3 豊田製鋼(現愛知製鋼)を設立
1941.5 豊田工機(現ジェイテクト)を設立
1945.8 トヨタ車体工業(現トヨタ車体)を設立
1949.6 愛知工業(現アイシン)を設立
1949.12 日本電装(現デンソー)を設立

トヨタ自動車 創業地の主な拠点全国 の地理(豊田自動織機製作所 自動車部(刈谷組立工場) → 挙母本社工場)

日本地図 1933年 豊田自動織機製作所 自動車部(刈谷組立工場) 愛知県碧海郡刈谷町豊田町1番地(現・愛知県刈谷市豊田町2丁目1番地) 自動車部設置時の試作・組立拠点(豊田自動織機内) 1937年 トヨタ自動車工業 本店 愛知県西加茂郡挙母町(現・愛知県豊田市トヨタ町1番地) 分離独立時の本店所在地(挙母町) 1938年 挙母本社工場 愛知県西加茂郡挙母町(現・愛知県豊田市トヨタ町1番地) 分離独立後の自動車本社工場(敷地約200万㎡)

創業時のエピソード人物・ブランド・資金調達の細部

1933年9月 なぜ豊田喜一郎は1933年に自動車部を社内に設置し、新会社として独立させなかったのか?

1929年のプラット社特許譲渡で得た資金を研究費に充てつつ、織機メーカーの工作機械・鋳造技術・量産経験を流用できる社内に開発拠点を置けば、別法人を新設するより短期間で試作と量産設備の構築を進められたため。

豊田佐吉の長男・豊田喜一郎は、1929年に豊田自動織機製作所が英プラット社へG型自動織機の特許実施権を譲渡して得た約10万ポンド(当時の邦貨で約100万円相当)を自動車の研究開発費に充て、約3年にわたり工場の片隅で極秘に開発を続けた。父・佐吉は1930年10月に63歳で死去しており、特許譲渡金を自動車事業の元手とせよとの遺志が喜一郎に引き継がれていた。

1933年9月、豊田自動織機製作所の社内に自動車部を設置し、米国製シボレーを分解調査する形で本格的な開発研究に着手した。取締役会の正式な承認は翌1934年1月の臨時株主総会で事後的に得る形となり、喜一郎は新事業を既成事実として押し通している。社内には織機事業で稼いだ利益を先行きの不確実な自動車事業に投入することへの反発もあったが、社長の豊田利三郎が関連会社を含むグループの利益を投じて資金面で支援した。

1937年8月 なぜ1937年8月に自動車部を分離してトヨタ自動車工業を独立させたのか?

1936年の自動車製造事業法で政府助成対象に選定され、軍用トラックの量産投資が織機本体の財務リスクを大きく超える規模に達したため、設備投資と借入を独立法人に切り分け織機本体の信用と切り離す必要があった。

1935年に喜一郎はG1型トラックとA1型試作乗用車を完成させ、自動車部としての試作段階を抜けた。1936年に日本政府は軍需の拡張を目的とした自動車国産化推進政策(自動車製造事業法)を打ち出し、豊田自動織機製作所の自動車部を政府の助成対象として選定した。政策的な追い風が大規模量産設備への投資を不可避とし、織機本体の信用と財務基盤に過大な負荷をかける規模の設備投資が現実の課題として浮上した。

1937年8月28日、自動車部をトヨタ自動車工業株式会社として分離独立させ、本店を愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市)に置いた。資本金は1,200万円、初代社長には引き続き豊田利三郎が就き、喜一郎は副社長として技術と量産を統括している。翌1938年に挙母町で竣工した本社工場は敷地面積が約200万㎡に達し、それまでの刈谷組立工場の約50倍という規模で、トラックの本格量産に必要な設備と土地を一挙に取得した。

1949〜1950年 なぜ1949年に資金繰りが破綻し、1,600名の希望退職と製販分離に追い込まれたのか?

ドッジ・ラインの超緊縮財政で自動車需要が急減し、月賦販売の回収停滞が製造側の資金繰りを直撃した。住友銀行が融資を拒んだことで、外部借入では穴埋めできず人員整理と販売部門分離による再建以外に道が残らなかった。

終戦直後のトヨタ自動車工業は戦時補償の打ち切りと企業再建整備法のもとで事業解体の圧力に直面した。1949年、GHQのドッジ・ラインによる超緊縮財政で自動車需要が急減し、月賦販売の回収が滞ったまま製造側の資金繰りを食い潰す構造が経営危機の根本となった。住友銀行が融資を拒んだ経験は、外部借入に依存しない自己資金中心の財務体質を志向する強い動機として社内に根づくこととなった。

会社は1,600名の希望退職募集に踏み切り、労組との対立は分裂を経て長期化した。創業者の喜一郎は人員整理の責任を負って1950年6月に社長を退任し、後任には豊田自動織機出身の石田退三が就任している。1950年4月に販売部門をトヨタ自動車販売として独立させ、製造資金と販売資金の混在を制度的に断ち切った。同年6月の朝鮮戦争勃発による米軍向けトラックの大量受注が、合理化と制度改革の成果を業績数値として顕在化させた。

1949年 なぜ1949年の再建整備で電装・刈谷南・中川の3工場を分社したのか?

企業再建整備法の指定に基づき過剰な事業を切り出す必要があり、自動車本体の財務再建を優先するため電装品・繊維・琺瑯の周辺事業を第二会社として独立させた。結果として完成車と部品の水平分業構造が生まれた。

1949年の再建整備計画に基づき、トヨタは電装工場・刈谷南工場・中川工場の3つの工場を第二会社として分離独立させた。電装工場を継承して設立された日本電装(現デンソー)は、トヨタの商号を使うことを禁じられ、1.4億円の借金返済を求められるという厳しい条件のもとでの出発だった。初代社長の林虎雄は、豊田喜一郎から「豊田の信用を食い潰してもらっては困る」(日本電装のあゆみ 1964)と厳しく釘を刺されたと回顧している。

刈谷南工場を継承した民成紡績(現トヨタ紡織)は繊維事業から自動車の内装部品製造へと主軸を移し、中川工場を継承した愛知琺瑯は短期間で清算に至ったが事業は後継会社へ引き継がれた。1949年6月に設立された愛知工業(現アイシン)とともに、当初は再建整備法に対応する事業整理策だった3工場分離が、結果として完成車メーカーと高度に専門化された部品メーカーの分業体制を形成した。

1955年1月 なぜ1955年に初代クラウン発売へ踏み切れたのか?

1949年の人員整理で「人員を増やさず稼働率を高める」制約条件が経営に植え付けられ、大野耐一の標準化と改善提案の現場浸透が量産能力を引き上げた。朝鮮特需で得た資金と量産経験が、戦前A1型以来の純国産乗用車の本格投入を可能にした。

1950年の人員整理という苦い経験は、できる限り人員を増やさずに工場の稼働率を高めるという制約条件をトヨタの経営に植え付けた。豊田自動織機から転じた大野耐一は、工場に残る属人的な職人芸を排除し、誰でも均質に作業できる標準化を現場に徹底して浸透させた。1951年に創意工夫委員会を発足させ、改善提案を組織的に吸い上げる仕組みを整えている。

1955年1月、トヨタは初代クラウンを発売し、戦前A1型以来途絶えていた純国産乗用車の本格量産に踏み切った。創業者の喜一郎は1952年3月に57歳で急逝し、社長復帰の道半ばで没していたが、原価低減と標準化を徹底する組織文化は後継経営陣に引き継がれていた。クラウンの発売は、戦時の軍用トラック量産と戦後の経営危機を経たトヨタが、乗用車専業メーカーへ転じる起点となった。

歴史的証言当事者が何を考えていたか。その思想について

豊田喜一郎

1949年12月の日本電装(現デンソー)分社にあたり、初代社長の林虎雄に対し喜一郎が釘を刺した発言として記録

「豊田の信用を食い潰してもらっては困る」
有価証券報告書

1933年9月の自動車部設置に関する公式記述

「豊田自動織機製作所内で自動車研究を開始した。豊田喜一郎が織機製作所の一部門として自動車の研究に着手した。」
有価証券報告書

1937年8月28日の自動車部分離独立に関する公式記述

「自動車部を分離独立し、トヨタ自動車工業株式会社(現トヨタ自動車)を設立した。豊田自動織機の自動車事業を独立法人として切り出し、後のトヨタグループ形成の起点となった。」
有価証券報告書

1949年12月の日本電装分社に関する公式記述

「自動車用電装品の製造事業を移管し、日本電装株式会社(現株式会社デンソー)を設立した。」

参考文献

  • 有価証券報告書
  • 7203-02-history.md
  • 7203-05-timeline.csv
  • 6201-11-founding.md
  • 日本電装のあゆみ 1964
  • トヨタ自動車 有価証券報告書(沿革)