1917年 飛行機研究所を創業
海軍機関大尉を退役した中島知久平が、1917年5月に群馬県太田で民営の飛行機研究所を創設、1931年改組の中島飛行機は戦時に機体・発動機で業界2位に成長。1945年敗戦と1950年の過度経済力集中排除法で12社分割の後、1953年7月に旧中島系5社が富士重工業として再結集した。
創業〜設立から上場前後までどのようにして経営を軌道に乗せたのか?
- 中島知久平は1884年に群馬県新田郡尾島町の農家に生まれ、海軍機関学校を経て海軍機関大尉に任官、横須賀海軍工廠で水上機設計に従事した後、欧米の航空機実用化を見て民営による国産航空機産業の育成こそが世界に追いつく道と判断し、1917年5月に予備役中尉となり故郷の群馬県太田で民営の「飛行機研究所」を創設した。
- 1919年の陸軍機初受注を起点に1931年12月の株式会社中島飛行機製作所改組で事業基盤を拡張し、太田・武蔵・三鷹・大宮等に大規模工場群を構えて従業員25万人規模に成長、1941〜1945年の最盛期には機体シェア28%(2位)・発動機シェア31.3%(2位)と三菱重工業と並ぶ業界2位の航空機メーカーへ達した。
- 1945年8月の敗戦でGHQ指令により富士産業株式会社へ改組、航空機製造の全面禁止下で民需品への転換を迫られた末、1950年7月の過度経済力集中排除法で12社に強制分割され、1953年7月15日に旧中島系5社(富士工業・富士自動車工業・大宮富士工業・宇都宮車輌・東京富士産業)が富士重工業株式会社として再結集、1955年4月の5社吸収合併で旧中島工場群を1つの事業会社に統合した。
- 1955年5月の通産省「国民車構想」を受けて、航空機設計者出身の百瀬晋六を主任とする開発チームがモノコックボディ・後部エンジン駆動という航空機由来の軽量化思想で1958年5月にスバル360を投入、「てんとう虫」として10年以上の長期生産が続き、1960年10月には群馬製作所を新設、1968年10月の日産自動車との業務提携で資本・販売の補完体制を整えた。
民営による国産航空機産業の育成という中島知久平の創業理念は、1945年の敗戦と1950年の分割で組織として一度解体された。1953年再結集後は旧中島系技術者集団による集団指導体制となり、創業者個人を欠いたまま「機械の総合メーカー」を志向、1958年のスバル360で大衆乗用車市場への転身を果たした。
1917年の飛行機研究所は中島知久平個人の私財で創設、1931年改組時に資本金100万円の株式会社へ移行、戦時下の軍需拡大で大企業化した。1953年の富士重工業発足は5社出資の持株会社形式で資本金1億円、1955年の5社吸収合併で本格事業会社へ、1961年10月の東京・大阪証券取引所市場第一部上場で公開企業となった。
1919年の陸軍機初受注以降、九七式戦闘機・一式戦闘機「隼」・零式艦上戦闘機の発動機「栄」「誉」など陸海軍主力機種を量産、戦後はスクーター(ラビット)・バス車体・鉄道車両・農業機械への民需転換を経て、1958年5月のスバル360で軽自動車市場へ参入、1960年代に主力製品が乗用車へ移行した。
1919年以降は陸海軍が主要顧客となり戦時下の航空機納入で業界2位の地位を築いたが、1945年の敗戦で需要が消失した。戦後は富士産業として進駐軍向け車両整備・国鉄向け車両・運輸事業者向けバス車体などへ顧客を分散させ、1958年のスバル360投入で個人向け乗用車市場へ顧客基盤を再構築した。
中島飛行機の最盛期1944年には全国の工場群で従業員25万人規模に達したが、1945年の敗戦と1950年の12社分割で旧中島系の人員は完全に分散した。1953年の富士重工業発足時は5社合計で約1.4万人、1955年の正式合併後に約1.8万人、スバル360量産が軌道に乗った1960年代前半に2万人台へ回復した。
1917年創設の太田尾島工場を中島飛行機の原点として、戦時下に武蔵製作所(東京武蔵野)・三鷹研究所・大宮製作所・宇都宮製作所・浜松工場など全国展開を遂げた。1953年の富士重工業発足で群馬太田・東京三鷹・埼玉大宮・栃木宇都宮の旧中島工場群を再統合、1960年10月に群馬製作所を新設、1969年2月には矢島工場が稼働した。
SUBARU 創業地の主な拠点一都三県 の地理(飛行機研究所(中島飛行機発祥地) → 富士重工業・群馬製作所)
創業時のエピソード人物・ブランド・資金調達の細部
| 1917年5月 なぜ中島知久平は海軍を退役して民営の飛行機研究所を作ったのか? | 中島は欧米で実用化が進む飛行機を国防の中核と見て、官営ではなく民営による国産機産業の育成こそが世界に追いつく道と判断し、海軍予備役中尉として将来を約束された地位を辞して故郷の太田で研究所を起こした。 中島知久平は1884年に群馬県新田郡尾島町(現太田市)の農家に生まれ、海軍機関学校を経て海軍機関大尉に任官し、横須賀海軍工廠の飛行機工場で水上機の設計に従事した。第一次世界大戦中の欧米で飛行機の実用化と量産化が一気に進む様子に接し、日本でも民営による国産航空機産業の育成が不可欠と判断するに至った。 社史は「経済的に貧しいわが国の国防は、航空機を中心にするべきであり、世界の航空情勢に追いつくには、民間航空機産業を起こさなければならない」(富士重工・社史 1984/7)と中島の問題意識を記録している。1917年5月、海軍予備役中尉となった中島は将来を約束された官の地位を辞し、故郷の群馬県新田郡尾島町に民営の「飛行機研究所」を創設した。陸海軍からの直接的な発注を当てにせず民間の立場で機体設計から取り組む点が、当時の官営優位の航空産業構造のなかでの独自選択であった。 |
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| 1931〜1945年 なぜ中島飛行機は戦時に三菱と並ぶ業界2位の地位を築けたのか? | 1931年の中島飛行機株式会社改組で資本と設備を本格拡張し、陸軍の九七式戦闘機・「隼」、海軍の零式艦上戦闘機の発動機など主力機種の設計と量産を相次いで受注し、太田・武蔵・三鷹・大宮等に大規模工場群を構えた。 飛行機研究所は1919年に陸軍機を初受注し、民間企業として日本初の軍用機受注事例となった。1931年12月には株式会社中島飛行機製作所へ組織改組して資本と設備を本格的に拡張し、陸軍の九七式戦闘機や一式戦闘機「隼」、海軍の零式艦上戦闘機の発動機(「栄」「誉」)など主力機種の設計と量産を相次いで担った。太田、武蔵、三鷹、宇都宮、大宮、浜松などに大規模な機体・発動機工場群を構え、戦時下に従業員25万人規模の航空機コングロマリットへ成長した。 社史は「最盛期、日本航空機生産に占めるシェア(1941〜1945年)は、機体28%(2位三菱17.9%)、発動機31.3%(1位三菱35.6%)であり、三菱重工業(株)とともに最大の生産量を占め、文字通り業界を二分した」(富士重工・社史 1984/7)と記録している。中島知久平本人は1939年に経営の第一線を退き、1940年に商工大臣、1945年に軍需大臣を歴任し、戦後の1949年に没した。創業者が戦前のうちに経営から離れていた点が、戦後の解体と再結集の局面で創業者個人を欠いた集団指導体制の遠因となった。 |
| 1945〜1950年 なぜ富士産業は12社に分割されたのか? | 1945年8月のGHQ指令で航空機製造が全面禁止となり、中島飛行機は富士産業に改組のうえ事業転換を迫られた。1950年の過度経済力集中排除法の適用で旧軍需企業の集中排除が決定し、富士産業は12の独立した小会社へ強制分割された。 1945年8月15日の敗戦と同時に連合国軍最高司令官総司令部の指令で全国の航空機製造が全面禁止となり、中島飛行機は同年11月に富士産業株式会社へ改組して鍋・釜・スクーター・バス車体など民需品への事業転換を迫られた。占領政策のもとで航空関係技術者数万人が転業を余儀なくされ、富士産業は事業を細分化しながら糊口をしのぐ局面に置かれた。 1950年7月、過度経済力集中排除法の適用で富士産業は12社へ強制分割された。富士工業(群馬太田)、富士自動車工業(東京三鷹)、大宮富士工業(埼玉大宮)、宇都宮車輌(栃木宇都宮)、東京富士産業(東京)の5社のほか、富士機械、富士精密工業(後にプリンス自動車工業へ統合)など7社が同時に独立した。日本最大級を誇った航空機メーカーは組織として一度解体され、戦前の中島飛行機の事業基盤は地理的にも資本的にも完全に分散した状態となった。 |
| 1953年7月 なぜ1953年に旧中島系5社が再結集できたのか? | 過度経済力集中排除法の規制緩和と1952年の航空機製造再開許可を機に、旧中島系工場間の取引慣行と技術者ネットワークが残っていた5社が、富士工業を母体とする形で資本統合を進め、1953年7月15日に富士重工業株式会社として再結集した。 1952年4月のサンフランシスコ講和条約発効と前後して、過度経済力集中排除法の運用が緩和され、航空機製造の再開が許可された。旧中島飛行機系の分割12社のうち5社(富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車輌、東京富士産業)は、戦前から続く工場間の部品取引慣行と技術者ネットワークが温存されていたため、再統合の現実的な条件を備えていた。 1953年7月15日、5社が出資する持株会社の形で富士重工業株式会社が東京都新宿区西新宿に設立された。資本金は1億円、初代社長には旧中島飛行機常務で富士工業社長を務めた北謙治が就任した。1955年4月には5社を正式に吸収合併し、群馬太田・東京三鷹・埼玉大宮・栃木宇都宮の旧中島系工場群を1つの事業会社の傘下に統合した。中島飛行機時代の技術者集団が、戦後の自動車産業で再び結集する出発点となった。 |
| 1955〜1958年 なぜ百瀬晋六らはスバル360を1958年に世に出せたのか? | 1955年の通産省「国民車構想」が排気量360cc級の超小型車を奨励したことを受け、富士重工業は航空機設計者出身の百瀬晋六を主任とする少数精鋭チームに開発を委ね、モノコックボディ・後部エンジン駆動という航空機由来の軽量化思想で1958年5月に投入した。 1955年5月、通商産業省は乗用車普及を目的に「国民車構想」を発表し、排気量360cc級・4人乗り・最高速度100km/h以上・燃費30km/L以上の超小型乗用車を業界に奨励した。当時の業界誌は「カメラも造船も世界水準に達したというのに、乗用車だけがまだ一本立ちできない」「ダットサンはエンジン、シャシー共に、20年前の骨董品ボディーを若干お茶を濁したという代物」(ダイヤモンド 1955/3/21)と既存乗用車への不満を表明し、国民車待望論が高まっていた。 富士重工業は1954年から試作車P-1(後に「スバル1500」と命名)の開発を進めていたが量産化を断念し、軽自動車枠での参入に方針転換した。航空機設計者出身の百瀬晋六を主任とする20人弱の開発チームに委ねられ、機体構造の軽量化技術を応用したモノコックボディと後部エンジン後輪駆動方式を採用、1958年5月にスバル360として発売された。「てんとう虫」の愛称で長期生産が続き、富士重工業を航空・産業機械メインから乗用車メインへ転換させる主力商品となった。 |
歴史的証言当事者が何を考えていたか。その思想について
1917年の飛行機研究所創設にあたり、官営優位の航空産業構造の中で民営による国産機開発を志した問題意識
「経済的に貧しいわが国の国防は、航空機を中心にするべきであり、世界の航空情勢に追いつくには、民間航空機産業を起こさなければならない」
1917年の飛行機研究所創設から戦時下の中島飛行機隆盛期までの中島知久平の業績を社史が総括した記述
「1917年5月、中島知久平はいち早く航空機時代の到来を予見し、将来を約束された職をなげうって、毅然として自らの信ずるところに従って民営の「飛行機研究所」を創設、一台にして中島飛行機(株)を築き上げ、のちに「隼」をはじめとする数々の名機を世に送り出し、「日本の飛行機王」と呼ぶにふさわしい業績を上げた」
1941〜1945年の中島飛行機が三菱重工業と並ぶ業界2位の航空機メーカーであったことを示す記録
「最盛期、日本航空機生産に占めるシェア(1941〜1945年)は、機体28%(2位三菱17.9%)、発動機31.3%(1位三菱35.6%)であり、三菱重工業(株)とともに最大の生産量を占め、文字通り業界を二分した」
1955年5月の通産省「国民車構想」発表前後、既存乗用車への業界誌の不満と国民車待望論が高まった時期の論調
「カメラも造船も世界水準に達したというのに、乗用車だけがまだ一本立ちできない。国民はもう4割の保護関税を払うことにアキアキしているのだ。ダットサンはエンジン、シャシー共に、20年前の骨董品ボディーを若干お茶を濁したという代物」
スバル360発売3年後、群馬製作所の新量産設備稼働で月産4000台規模に到達する見通しを富士重工業自身が示した発言
「当社は1958年に系四輪乗用車へ進出、スバル360を発売した。これが、最近急速に売上げを増大して、当社の業績向上に寄与している。群馬製作所の新量産設備完成で、急速な増産が可能となり、このスバルの増産は今後も続くわけで、プレス工場の増強などで1961年中には月産4000台に達しよう」
スバル360発売から5年で乗用車が富士重工業の中心製品へ転じた1963年時点の業界誌評価
「富士重工は「機械の総合メーカー」を目指して多角経営を行っている。旧中島飛行機時代の「飛行機技術」を中心に関連製品多岐にわたる。飛行機から始まって、スバル、スクーター、バス、車両、農業機械と幅広い。これらの製品のうち、わずか5年で中心製品になったのが系四輪車スバルである」
参考文献
- 富士重工・社史 1984/7
- 有価証券報告書
- ダイヤモンド 1955/3/21
- 経済展望 1961/3/1
- 週刊野田経済 1963/12
- ダイヤモンド 1965/4/26
- ダイヤモンド 1968/5/27