1917年5月、中島知久平氏は日本海軍の予備役中尉を退役した後[1]、群馬県太田町で民間の飛行機研究所を創設した[2]。中島氏は『経済的に貧しいわが国の国防は、航空機を中心にするべきであり、世界の航空情勢に追いつくには、民間航空機産業を起こさなければならない』[引用元]と考え、民営の飛行機研究所から事業を立ち上げた。1931年に株式会社中島飛行機製作所へ組織改組して事業規模を拡大し[3]、陸軍の九七式戦闘機や海軍の零式艦上戦闘機のエンジンなど主力機種の設計と量産を担った。最盛期の1941〜1945年には、日本航空機生産に占めるシェアは機体28%(2位三菱17.9%)、発動機31.3%(1位三菱35.6%)であり、三菱重工業(株)とともに最大の生産量を占め、文字通り業界を二分した。
1945年8月の敗戦と同時に連合国軍最高司令官総司令部の指令で中島飛行機は富士産業株式会社へ改組され[4]、航空機製造の全面禁止という占領政策の厳しい制約の下で事業転換を迫られた。1950年の企業再建整備法により富士産業は12社に解体され[5]、日本最大級を誇った航空機メーカーは組織として一度解体された。分割された12社のうち富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車輌、東京富士産業の5社が払込資本金5000万円を共同出資して1953年7月に再結集する形で富士重工業株式会社が発足し[6][7][8]、1955年4月にはこれら5社を吸収合併して資本金8億3050万円へと規模を固めた[9]。中島飛行機時代の技術者集団が戦後の自動車産業で再び結集する出発点である。航空機メーカーの解体という占領政策の現実が、逆に自動車メーカーへの転身を促した皮肉な帰結が、後のSUBARUのアイデンティティを規定した。
五社が合同した1953年から1955年にかけての日本では、乗用車の国産化がなお課題として残っていた。1955年3月のダイヤモンドは、カメラや造船が世界水準に達したのに乗用車だけが一本立ちできず、国民が4割の保護関税を負担し続けていると論じ[10]、当時の代表的な国産乗用車についても、旧来の設計を手直ししただけのもの、あるいは貨物車の車体に覆いをかぶせただけのものにすぎないと酷評した[11]。国産乗用車への不満が誰の目にも見える形で語られていた時期である。富士重工業の側も、日本の経済基調と産業構造が大きく変わるという見通しのもとで五社合同の機運が醸成されたと後年に整理しており[12]、五社を吸収合併した後は航空機の生産と修理の再開だけでなく、民需生産への進出をあわせて掲げていた[13]。
1958年5月、富士重工業は軽自動車『スバル360』[14]を市場投入した。航空機設計者出身の百瀬晋六氏が中心となり、独自のモノコックボディ構造と後部エンジン駆動方式という当時先進的な技術パッケージを開発した。同時期、業界誌は『カメラも造船も世界水準に達したというのに、乗用車だけがまだ一本立ちできない』[引用元]『ダットサンはエンジン、シャシー共に、20年前の骨董品ボディーを若干お茶を濁したという代物』[引用元]と既存乗用車への不満を表明し、国民車待望論が高まっていた。『てんとう虫』の愛称で親しまれたスバル360は10年以上にわたって生産が続き、1961年には『当社は1958年に系四輪乗用車へ進出、スバル360を発売した。これが、最近急速に売上げを増大して、当社の業績向上に寄与している』[引用元]と評価された。量産の受け皿となった群馬製作所は、戦後に接収され米軍キャンプとして使われていた旧中島飛行機の太田製作所の払い下げを1960年10月に受け[15]、設備を改装して開設したものである[16]。航空機時代の生産基盤が、そのままスバルの増産設備として再利用された。
1960年代後半には自動車業界で過剰設備問題が深刻化し、1965年のダイヤモンドは『需要急増の予想された1959年〜1960年に、各社は大増設を計画、つぎつぎに新工場を建設した』[引用元]『消滅する会社はどこなのか?』[引用元]と再編機運を伝えた。1968年には富士重工業が日産自動車との提携検討を経て撤回した件で[17]、『F自身、とても単独では生き残れないメーカーである』[引用元]『1対1の対等合併など夢物語になる』[引用元]と観測された。しかし1966年発売の初代スバル1000では水平対向エンジンと前輪駆動の組み合わせを採用し、1972年には世界に先駆けて乗用車へ四輪駆動方式を市販化した初代レオーネを投入した。『水平対向+AWD』の独自技術パッケージを確立し、1985年にはいすゞ自動車との合弁で米国インディアナ州に設立したSubaru of Indiana Automotive工場が1989年から稼働を開始した。
スバル360は発売から数年で会社の形を変えた。1961年初頭には、軽四輪乗用車への進出による売上の急増が業績の向上に寄与するようになっており[18]、群馬製作所の新しい量産設備が完成したことでプレス工場の増強を含む増産が可能になり、1961年中には月産4000台へ達する見通しが立っていた[19]。もともと主力だったスクーター部門から軽四輪部門へ、社内の主力もこの時期に移りつつあった[20]。1963年末の同社は、飛行機、スバル、スクーター、バス、車両、農業機械へ製品を広げ、旧中島飛行機時代の飛行機技術を中心に機械の総合メーカーを目指す多角経営を進めており[21]、進出からわずか5年で中心製品になったのが軽四輪のスバルだった[22]。
軽四輪の量産が軌道に乗る一方で、自動車業界の全体は過剰な生産能力を抱え込んでいた。1965年4月のダイヤモンドは、その年に本格化した乱売戦の原因はすべてメーカーの側にあると断じ、需要の急増が見込まれた1959年から1960年にかけて各社がいっせいに大増設を計画した結果だと指摘した[23]。トヨタの元町、日産の追浜、いすゞの藤沢、プリンスの村山、東洋工業の組立工場、ダイハツの池田第二といった当時の新工場は、いずれもこの時期の産物だった[24]。設備が先に立ち上がり、需要が追いつかないまま値引き競争へなだれ込んだ。富士重工業の増産もまた、この過剰能力の時代のただ中で進んだ。
では消えるのはどこか、という問いも同じ記事が正面から扱っている。生産台数の過半を乗用車が占める会社は当時プリンス1社だけで、1964年の生産8万5104台のうち52%が乗用車だった[25]。そのプリンスは乗用車の運命がそのまま会社の運命に直結する一方、ほかの各社は他車種との兼業を抱え、他業界に比べて蓄積も厚いため短期間で消えることはないという見立てだった[26]。航空機、鉄道車両、バス車体、産業機械を併せ持つ富士重工業は、この見立てでいえば守りの利く側にいた。もっとも1968年5月のダイヤモンドは、前年に軽四輪でトップに立った同社が早くも5位へ後退したと伝えており[27]、多角経営の厚みが自動車そのものの競争を免除するわけではなかった。
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|---|---|---|---|---|
| 1917〜1989年中島飛行機から富士重工業への再編、大衆車参入 | 飛行機研究所を創業 | ★ | ||
| 中島飛行機を設立 | ★ | |||
| 富士産業に商号変更・軍需から民需転換 | ★ | |||
| 企業再建整備法により富士産業を12社に解体 | ★ | |||
| 北謙治 | SUBARU創業——中島飛行機の戦後解体と旧5社の再結集による富士重工業 1953年7月15日、旧中島飛行機系の5社(富士工業・富士自動車工業・大宮富士工業・宇都宮車輌・東京富士産業)が出資する持株会社として、富士重工業株式会社が東京都新宿区に資本金1億円で設立された。初代社長には旧中島飛行機の常務で富士工業の社長を務めた北謙治氏が就いた。1955年4月に5社を吸収合併して旧中島系の工場群を1つの事業会社へ統合し、1958年のスバル360で乗用車メーカーへ転じた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 吉田孝雄 | 旧富士産業5社を吸収合併 | ★ | ||
| 吉田孝雄 | 乗用車「スバル360」を発表 | ★★ | ||
| 吉田孝雄 | 群馬製作所を新設 | ★ | ||
| 横田信夫 | 日産自動車と業務提携を締結 | ★ | ||
| 大原栄一 | 群馬製作所・矢島工場を稼働 | ★ | ||
| 佐々木定道 | 4WD「レオーネ」を発売 | ★★ | ||
| 田島敏弘 | ベスパ社と合弁の大慶汽車工業を設立 | ★ | ||
| 田島敏弘 | 系列を超えたいすゞとの北米合弁SIAの設立 1987年3月、富士重工業(現SUBARU)が、系列の異なる中堅いすゞ自動車と51対49の共同出資で米インディアナ州に合弁会社スバル・いすゞオートモーティブ(SIA)を設立し、北米での現地生産に踏み切った経営判断。田島敏弘社長の下で富士重工業が北米に構えた最初の生産拠点であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 川合勇 | 乗用車「レガシィ」を発売 | ★ | ||
| 1990〜2005年業績低迷から3度の資本変遷、独自路線の再確認 | 川合勇 | 川合流経営による本体黒字化への再建 1990年、北米事業の重い固定費と量産志向の誤算で営業赤字に転落した富士重工業が、日産から迎えた川合勇社長のもとで米国販売会社の立て直しと現場重視の経営に取り組み、5年かけて本体を黒字化させた再建。 詳細を読む | ★★★ | |
| 川合勇 | 販売会社SUBARU Of America Inc.を買収 | ★ | ||
| 田中毅 | 埼玉製作所を新設 | ★ | ||
| 田中毅 | 米GMから20%の出資を受け入れ、主体性を保ったままグループ入りする資本提携 1999年12月、富士重工業は米ゼネラル・モーターズ(GM)から20%の出資を受け入れ、主体性を保ったままGMグループに入る資本提携を結んだ。田中毅社長が主導し、水平対向エンジンと四輪駆動の技術を中心にGMとの相乗効果を狙った経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 竹中恭二 | 鉄道車両・バス車体製造から撤退 | ★ | ||
| 竹中恭二 | 北米市場への集中とクロスオーバーSUVの本格投入 2005年、富士重工業(スバル)は米国デトロイトの自動車ショーで7人乗りクロスオーバーSUV『B9トライベッカ』を発表し、北米を主戦場とする製品戦略を対外的に明確にした。2003年に単独化した米インディアナ工場(SIA)を生産基盤に、レガシィ・アウトバックに続くSUVで北米市場の深耕を進めた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 竹中恭二 | GMと提携解消 | ★ | ||
| 2006〜2023年トヨタ連携とアイサイト、北米SUVへの一点集中 | 竹中恭二 | トヨタ自動車と業務提携 | ★ | |
| 森郁夫 | トヨタの出資を16.5%まで受け入れ、実質的なグループ入りを選ぶ 2008年4月10日、トヨタ自動車は富士重工業への出資比率を8.7%から16.5%へ引き上げ、富士重工業が2005年にGMから買い取って抱えていた金庫株を約311億円で取得した。あわせて小型・軽自動車のOEM供給とスポーツ車の共同開発で提携を拡大し、富士重工業は実質的なトヨタグループ入りを選んだ経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 森郁夫 | 運転支援システム「アイサイト」を開発 | ★ | ||
| 吉永泰之 | 風力発電システム事業を日立に売却 | ★ | ||
| 吉永泰之 | SUBARUに商号変更 | ★ | ||
| 吉永泰之 | 汎用エンジン・発電機事業から撤退 | ★★ | ||
| 中村知美 | トヨタ自動車と資本業務提携で合意 | ★ |
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事実根拠:出所(SUBARU)