1946年10月、本田宗一郎氏は静岡県浜松市に本田技術研究所を開設し[1]、内燃機関および各種工作機械の製造と研究に取り組んだ。当初は幅の広い織物を織るロータリー式の織機を考えたが資金が足りず、戦争中に軍が使っていた通信機の小型エンジンが近辺に安く転がっていたのを買い集め[2]、自転車に取り付けて売ることへ切り替えた。1948年9月、研究所を継承して資本金100万円で本田技研工業株式会社を設立し[3]、浜松市山下町に本社と工場を置いてバイクモーターの生産に入った。同年のバイクモーター『カブ号』の生産台数は、全国のバイクモーター生産の5割以上を占めた[4]。1949年8月には2サイクルエンジンを積むドリーム号D型を完成させ[5]、エンジンを卸す供給者から完成車メーカーへ移った。同月には藤沢武夫氏が入社して常務に就き[6]、技術の宗一郎氏と経営の藤沢氏という分業が固まった。
1951年、ドリーム号のエンジンを小型軽量の4サイクル型へ改めて発売した[7]。当時は利用者の一部に外車の輸入を望む声が高まり、国産メーカーの大多数がこれに反対していた[8]が、同社は良品をもって正面から立ち向かった。1952年には自転車用の超小型エンジン『カブ号』を仕上げ、翌1953年6月から、これを基にした原動機付き自転車『ベンリイ号』の本格生産に入った[9]。同じ1952年4月には本社を東京都へ移し[10]、同年には汎用エンジンの生産も始めた[11]。資本金は1952年6月に600万円、同年11月に1,500万円、1953年12月に6,000万円[12]へと短期間で積み増され、1953年5月には埼玉の大和工場が稼働した[13]。1954年1月に株式を公開した時点で[14]、資本金は6,000万円に達していた。
1951年ごろ、輸出振興とあわせて輸入防止を政府に求める民間業者の会合[15]が持たれたが、本田宗一郎氏は加わらなかった。輸出を政府に頼み、そのうえ輸入防止まで依頼する安易な道に強く反発した[16]ためである。日本の技術が優れて製品が良質であれば誰も外国品を輸入せず、黙っていても輸出は増えるという読みに立ち、『良品に国境なし』を身をもって実現しよう[17]と決めた。ただし、優れた技術は道具なしには形にならない[18]。量産化となればなおさら良い機械が要るとして、外国製の工作機械の輸入に踏み切った[19]。当時の米国の援助資金は高級外車やウイスキー、化粧品といった非生産的な消費財[20]にばかり振り向けられ、生産に寄与するものはほとんど輸入されていなかった。
同社は資本金6,000万円に対し[21]、ストロームという自動旋盤をはじめとする工作機械を、スイス・アメリカ・ドイツから4億円も輸入した[22]。世界の進歩から取り残されて自滅するか、危険を冒して新鋭機械を入れて勝負するか[23]。ともに危険であるならば少しでも前進の可能性がある方を選ぶのが経営者の責務[24]だという判断による。本田宗一郎氏は1952年10月の社内月報で『私の会社では機械を買うドルは国のドルであります。国のドルを用いて買った機械で逆にドルを稼ごうというのが私の願いであります』[引用元]と説き、輸出で外貨を取り返す前提を示した。輸入は1953年から1954年の不況とぶつかり[25]、誰の目にも冒険と映る買い物に銀行が資金を貸すはずもなかった。
苦境は、藤沢武夫専務が考えた販売方式[26]で乗り切った。製品の出荷後十数日で代金を全額回収し[27]、そのうち75%を現金、残りは問屋・代理店が裏書きした使用者自身の手形[28]で受け取る方式である。輸入した機械は、据付工場の地盤をあらかじめ整え、入ったその日からスイッチを入れて動かせる状態[29]にしておいた。説明書と首っ引きで扱いを覚える通例では、借金で買った機械の償却が遅れるため[30]である。扱ったことのない精密機械を無理にでも習得させた結果は、その後の生産技術の水準を押し上げた[31]。1955年には本田宗一郎氏が『とても、自分には、金融の方途が立たない。投げ出す以外にない』[引用元]と漏らすほど追い込まれた時期もあった。
1954年3月、本田宗一郎氏は英国マン島のTTレースへ参加すると代理店の人たちに宣言した[32]。狙いは二つあり、レースで優秀な成績を得なければイタリアやドイツから世界の二輪市場を奪えない[33]という計算と、技術による勝利がとくに若い層に希望を与える[34]という見立てであった。同年6月に現地でレースを見た本田宗一郎氏は、同じ気筒容量で自社の3倍もの馬力を出すドイツのNSUやイタリアのジレラ[35]の走りに驚き、帰国してすぐ研究部を設けた。1957年6月には技術研究所を白子工場内に設立し[36]、社長の陣頭指揮でエンジン性能の追求にあたらせた。
1957年12月2日[37]、同社は東京証券取引所に株式を上場した。資本金は3億6,000万円へ増え[38]、大株主には本田宗一郎氏の118万4千株、藤沢武夫氏の70万3千株、三菱銀行の40万株[39]が並んだ。翌1958年8月には、のちに原動機付き自転車の決定版とされたC100型スーパーカブが発売され[40]、社名は一躍高まった。この一台の累計生産は、60年余りを経て世界で1億台を超えている。1959年6月には米国にアメリカンホンダモーターカンパニーを設立し[41]、同じ月のマン島TTレースでは125cc級に初参加して団体優勝を収めた[42]。スーパーカブの量産工場として1959年末に着手した三重県の鈴鹿製作所[43]は、1960年5月に稼働した[44]。1961年には125ccと250ccの二種目を制し[45]、メーカーチャンピオンを獲得した。
1963年6月、同社は四輪車の生産を始めた[46]。軽トラックT360と小型スポーツカーS500の二車種からの参入で、二輪で世界の頂点に立ってからの転身であった。同じ1963年3月、政府は国際競争力の強化を理由に特定産業振興臨時措置法案を決定し[47]、乗用車メーカーを少数へ集約する構想を掲げていたため、この枠に乗れば規模を得る代わりに独立性を手放す立場に置かれた。同社は再編の枠に加わらず、独立したメーカーとして四輪へ根を張る道を選んだ。1964年10月にはタイにアジアホンダモーターカンパニーを設立し[48]、同じ1964年には四輪の量産拠点として狭山製作所を稼働させた[49]。
1967年3月に発売した軽四輪乗用車N360は、Nシリーズとして乗用・ライトバン・トラックの三部門で短期間に国内販売の首位[50]を占めた。1968年6月の月間届出台数は3万4,400台に達し[51]、国産車で最高の量産車種へ育った。1967年2月期の大幅な減収減益決算を境に[52]二輪車メーカーから四輪車メーカーへの転身が進み、1967年8月期以降は軽四輪部門が加わって売上高が著しく増えた[53]。四輪の最新鋭の量産設備を備えた鈴鹿製作所の四輪工場も竣工して稼働した[54]。1970年9月には狭山製作所第2工場の工機部門を分離してホンダ工機を設立し[55]、生産設備を自前で作る体制も整えた。
1970年12月、米議会でマスキー上院議員が主導した自動車の排出ガス規制法案が成立した[56]。日本でも1970年に東京・牛込柳町で光化学スモッグが発生[57]して大気汚染が社会問題となり、中央公害対策審議会がマスキー法案に準じた1975年度規制と1976年度規制を答申した[58]。窒素酸化物を走行1キロメートル当たり0.25グラムまで減らす[59]1976年度規制は、車の性能を落とさずに達成するのが想像以上に難しいとされ、業界は価格上昇を理由に猛反発した[60]。1973年夏には乗用車メーカー9社の首脳が環境庁へ呼び出され[61]、聴聞会が開かれた。このなかで本田技研工業は、独自に開発したCVCCエンジンで達成できるといち早く名乗りを上げた[62]。
CVCCは複合渦流調速燃焼の略[63]で、エンジンの外側に触媒装置を付けて浄化するのではなく、燃焼の仕組みそのものを組み替えて有害成分の発生を抑える方式[64]であった。1972年10月、同社はCVCCエンジン車を公開した[65]。中央公害対策審議会が米国のマスキー法に準じた自動車排出ガス規制措置を答申した[66]のと同じ月にあたる。同じ1972年には、このエンジンを載せる受け皿となる小型車シビックを発売している。1973年12月からは業界の先陣を切って低公害のCVCC搭載車を売り出した[67]。シビックは極力ムダを排した設計と、米国でも燃費最高の折り紙がつけられた経済性[68]を備えた小型車であった。
1973年10月に第4次中東戦争が起きて石油ショックが発生する[69]と、自動車業界の売れ行きは前年の暮れから前年比3〜5割も減った[70]。そのなかで本田技研工業1社だけが小型車の売上を伸ばし、1974年3月には東洋工業と三菱自動車を抜いて業界第3位のシェアを確保した[71]。商品企画と技術力が当たった結果[72]であった。1973年12月に売り出した低公害のCVCC搭載車は、値段が安く商品に魅力があるという二点で、石油危機後の消費性向と噛み合っていた[73]。四輪車の半期売上は1964年2月期に初めて計上された10億円から1975年2月期には1,113億円[74]へ伸び、同期の二輪車1,332億円に迫る規模[75]となった。
1973年10月、66歳の本田宗一郎社長と62歳の藤沢武夫副社長がそろって経営の第一線を退き[76]、創業一族に属さない45歳の河島喜好氏が社長を継いだ[77]。本田宗一郎氏は本田技研は本田家のものではなく株主のもの、世間のものだ[78]として世襲を退け、業績が好調なさなかに身を引いた。二人は20年ほど前から一番良い時期に家の者へ渡さずに辞めると公言し[79]、1970年ごろには4人の専務へ代表権を分けていた[80]。宗一郎氏自身が企業という垢がたまっている[81]と語り、環境技術のCVCCも実際の開発は若い技術陣が担っていた。
以後の経営は、大部屋の重役室とトロイカ方式[82]による全員参加の組織運営へ移った。河島喜好氏はニーズへの感受性が決め手だ[83]としてホンダ哲学を語り、10年後の1983年には55歳で社長を退いて久米是志氏へ引き継いだ[84]。後年、河島喜好氏は世襲を否定した創業者の決断が成長の源泉だった[85]と総括している。1975年7月にはブラジルにモトホンダ・ダ・アマゾニアを設け[86]、1976年3月には熊本製作所を稼働させ[87]、1977年2月には米国預託証券をニューヨーク証券取引所へ上場した[88]。次の大きな判断となる北米での四輪現地生産は、この体制のもとで下された[89]。
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|---|---|---|---|---|
| 1946〜1963年良品に国境なし——町工場から世界の二輪へ | 旧軍払下げエンジンから起こした本田技術研究所の創業と、完成車への転身 1946年10月、本田宗一郎氏が静岡県浜松市で本田技術研究所を個人創業した判断。旧日本陸軍が通信機に使っていた小型エンジンの払下げを安く買い集め、自転車に取り付けて売ることから事業を起こし、1948年9月に資本金100万円で本田技研工業株式会社へ改組した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 本田宗一郎 | 本田技研工業創業——旧軍払下げの補助エンジンから始めた戦後二輪国産化 1948年9月、本田宗一郎氏が資本金100万円で本田技研工業株式会社を設立した創業。前身の本田技術研究所は1946年10月、旧日本陸軍の無線機用発電エンジンを転用した自転車用補助動力エンジンの製造販売から、浜松で個人創業していた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 本田宗一郎 | 藤沢武夫氏が参画 | ★★ | ||
| 本田宗一郎 | 二輪車の製造を開始 | ★★ | ||
| 本田宗一郎 | 二輪車の増産投資 | ★★ | ||
| 本田宗一郎 | 本社を移転 | ★ | ||
| 本田宗一郎 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 本田宗一郎 | 二輪車の北米輸出を積極化 | ★★ | ||
| 本田宗一郎 | 本田技術研究所を分社化 | ★★ | ||
| 本田宗一郎 | 四輪車に本格参入 | ★ | ||
| 1963〜1978年四輪への参入と、CVCCで越えた排出ガス規制 | 本田宗一郎 | アジアホンダモーターを設立 | ★ | |
| 本田宗一郎 | 二輪車の現地生産を開始 | ★ | ||
| 本田宗一郎 | 四輪車シビックを発売 | ★ | ||
| 本田宗一郎 | CVCCエンジンの独力開発と石油危機下の四輪シェア逆転 1972年、本田技研工業が触媒装置に頼らず排出ガス規制へ適合するCVCCエンジンを独力で開発し、シビックに搭載した経営判断。1973年末からの石油危機のなかで低燃費・低公害のシビックが支持を集め、1974年3月には東洋工業・三菱自動車を抜いて四輪の国内シェア3位へ躍り出た。本田宗一郎社長が主導した独立路線の帰結であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 河島喜好 | 創業者2人の同時引退と河島喜好氏への事業承継 1973年10月、本田技研工業の創業者・本田宗一郎社長(当時66歳)と、経営を支えた藤沢武夫副社長(同62歳)が同時に経営の第一線を退き、創業一族に属さない河島喜好氏(同45歳)が社長を継いだ経営判断。宗一郎氏は『本田技研は本田家のものじゃない。株主のもの、世間のものだ』と世襲を退け、業績が好調なさなかに潔く身を引いた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 河島喜好 | 河島喜好氏が社長に就任 | ★ | ||
| 河島喜好 | 日本メーカー初の北米四輪現地生産(HAM設立) 1978年、本田技研工業が日本の自動車メーカーとして初めて米国オハイオ州メアリズビルに四輪車の現地生産拠点ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング(HAM)を設ける計画を正式発表し、1982年11月に四輪の現地生産を始めた経営判断。日米貿易摩擦の高まりに対し、輸出ではなく現地生産で応えた先行例であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 1978〜2002年北米現地生産と、規模に背を向けた単独路線 | 河島喜好 | 株式をロンドン証券取引所に上場 | ★ | |
| 久米是志 | 本田宗一郎氏・藤沢武夫氏が退任 | ★ | ||
| 久米是志 | HUMを設立・英国での現地生産を開始 | ★ | ||
| 久米是志 | 北米統轄会社ホンダノースアメリカを設立 | ★ | ||
| 久米是志 | 欧州統轄会社ホンダモーターヨーロッパを設立 | ★ | ||
| 川本信彦 | 二輪車・四輪車の現地生産を本格化 | ★ | ||
| 川本信彦 | 「規模の論理」に背を向けた単独路線——1995年の川本改革 1990年代、世界の自動車業界で大型合併・資本提携が相次ぐなか、ホンダ(本田技研工業)は川本信彦社長のもとで合併・資本提携を退け、RVへの集中と権限集中による社内改革で自力再建を選んだ。1998年に社長を継いだ吉野浩行氏もこれを引き継ぎ、2001年には『自主独立』を貫く独立メーカーとしての姿を確立した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 川本信彦 | 現地生産を本格化 | ★ | ||
| 吉野浩行 | アラバマに四輪車工場を設立 | ★ | ||
| 吉野浩行 | 埼玉製作所・和光工場を閉鎖 | ★★ | ||
| 2003〜2026年北米依存の頂点から、脱エンジンの宣言と撤回へ | 福井威夫 | 中国事業統轄会社を設立 | ★ | |
| 伊東孝紳 | 国内工場の再編 | ★ | ||
| 伊東孝紳 | 埼玉製作所寄居工場が稼働 | ★ | ||
| 八郷隆弘 | タカタ製エアバッグでリコール問題 | ★ | ||
| 八郷隆弘 | 狭山工場の閉鎖と寄居工場への国内四輪生産の集約 2017年秋にホンダが埼玉県狭山市の狭山工場の四輪車生産を寄居工場へ集約する方針を示し、2018年7月に2023年度までの閉鎖として具体化した経営判断。1964年の稼働以来維持してきた最初の四輪専用工場を畳み、2021年12月に完成車の生産を終え、2024年6月末に部品を含む生産を終えて閉鎖した。八郷隆弘社長の主導による国内生産再編の一環である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 三部敏宏 | 三部敏宏氏が社長に就任 | ★ | ||
| 三部敏宏 | 「2040年 四輪EV・FCV100%」宣言による脱エンジンへの転換 2021年4月、就任したばかりの三部敏宏社長が、2040年に四輪車の販売をすべてEV(電気自動車)とFCV(燃料電池車)へ切り替えると宣言した経営判断。エンジンで事業を築いてきたホンダが、内燃機関からの全面撤退を期限つきで打ち出し、これをホンダの『第2の創業』と位置づけた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 三部敏宏 | 英国スウィンドン工場の閉鎖と欧州完成車生産からの全面撤退 2019年2月19日、ホンダが2021年中に英国スウィンドン工場とトルコ工場での四輪車生産を終了し、欧州における完成車の現地生産から全面撤退すると発表した経営判断。八郷隆弘社長のもとでの決定で、跡地は不動産開発会社へ売却された。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 三部敏宏 | 早期退職優遇制度「ライフシフト・プログラム」と想定の2倍を超えた応募 2020年12月に発表し2021年度から実施した、55歳以上の正社員を対象とする早期退職優遇制度『ライフシフト・プログラム』。電動化への転換と国内外の生産再編を背景に、人員構成の若返りと固定費の圧縮をねらった経営判断である。当初想定の約1,000人に対して2,000人を超える応募が殺到し、2023年9月に2024年度からの廃止を決めた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 三部敏宏 | 日産との経営統合構想への踏み込みと、二カ月弱での協議打ち切り 2024年12月23日、ホンダは日産自動車との経営統合に向けた協議開始で基本合意し、2026年8月の共同持株会社設立を目指すと発表した。しかし統合の枠組みをめぐる両社の隔たりが埋まらず、2025年2月13日に基本合意書を解約して協議を終了した。三部敏宏社長が主導した、自主独立路線の一時転換と撤回である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 三部敏宏 | 「2040年脱エンジン」の事実上撤回と上場来初の最終赤字 2026年3月12日、ホンダが2026年3月期の連結最終損益が最大6,900億円の赤字になる見通しを発表し、EV関連資産の除却・減損と次世代EV『0(ゼロ)』シリーズ3車種の開発中止を決めた経営判断。最終赤字は1957年の上場以来初で、2021年に掲げた『2040年脱エンジン』目標も『達成が困難』として事実上修正した。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(ホンダ)