本田技術研究所を個人創業
自動車修理工から部品製造業への転身を経た創業前史
本田宗一郎は1906年に静岡県磐田郡に生まれた。生家は鍛冶屋を営んでおり、幼少期から機械に触れる環境のなかで育った。1922年に東京の自動車修理工場であるアート商会に丁稚奉公し、翌年に発生した関東大震災の復興過程で東京に自動車が急速に普及するなかで、エンジンの分解整備に関する実践的な技術を習得した。6年間の修業を経て1928年にアート商会浜松支店としてのれん分けで独立し、25歳の頃には工員50名を抱え毎月1000円の利益を確保する規模の修理工場に成長していた。
ところが浜松市内で自動車修理業者が増加して競合が生じたため、本田宗一郎は修理業からの撤退を決めた。代わりにエンジン部品であるピストンリングの製造に転じることとし、1938年に東海精機重工業を設立した。ピストンリングの製造には鋳物に関する専門知識が不可欠であったが、本田宗一郎は浜松高等工業学校に通いながら約9か月の開発期間を経て製造技術を確立した。修理工から部品製造業への転身は、自動車産業における下流の整備事業から上流の部品製造への移行を意味していた。
ピストンリングの主要な販売先はトヨタ自動車であり、この取引関係を通じて1942年に豊田自動織機が東海精機の株式40%を取得した。戦時中は自動車、船舶、航空機向けのピストンリング製造に従事し、東海精機はトヨタ系の部品メーカーとして位置づけられていた。しかし戦時中の三河地震で工場が被災し、終戦によって軍需を喪失したことで東海精機の事業継続は困難な局面を迎えた。本田宗一郎が39歳を迎えた1945年の時点で、次の事業をどのように構想するかが問われる状況にあった。
トヨタ系列を離れ独立した事業を一から創る選択
1945年に本田宗一郎は東海精機の全株式を豊田自動織機に売却し、トヨタ系列を離れることを選んだ。トヨタの下請け部品メーカーとして事業を存続させる選択肢もあったが、本田宗一郎は系列に留まらず独立した事業を一から築くことを意図した。株式売却によって45万円の現金を確保したものの、終戦直後は物資の調達がヤミ市場を経由せざるを得ず、発覚すれば逮捕される可能性もあった。このため本田宗一郎は即座に事業を開始せず、約1年間の「休業」期間を置いた。
1946年10月、本田宗一郎は浜松市内に「本田技術研究所」を個人創業した。事業の着眼点は、終戦によって不要となった軍需用の通信機エンジンを民生転用することにあった。小型の通信機用エンジンを仕入れて自転車のフレームに取り付け、補助動力付き自転車として製造販売する事業を開始した。自動車修理工として培った技術とピストンリング製造で得た金属加工の知見が、小型エンジンの生産における技術的な基盤として機能した。
創業時点では二輪車の完成品製造には着手せず、自転車に取り付ける補助エンジンの生産販売に特化した。終戦直後の日本では公共交通の復旧が遅れており、自転車は庶民の主要な移動手段であった。この自転車にエンジンを装着して動力化する製品は、移動手段の不足という切迫した需要を捉えて販売が好調に推移した。1948年9月には法人化して本田技研工業株式会社を設立し、資本金100万円で本田宗一郎が社長に就任した。
藤沢武夫の参画による経営体制の確立と二輪車メーカーへの転身
法人化後のホンダはエンジンおよび二輪車の販売が好調に推移する一方で、終戦直後の混乱のなかで販売代金の回収業務に苦戦していた。1949年8月に常務の竹島の紹介により藤沢武夫がホンダの経営に参画し、本田宗一郎が開発と生産を担当し藤沢武夫が販売と財務を担当する分業体制が確立された。この二人体制はホンダの経営構造の原型となり、1973年に両者が同時退任するまで約25年間にわたって機能した。
藤沢武夫の参画を機にホンダは東京進出を決定し、1950年に東京営業所を開設するとともに東京都北区十条に組立工場を設置した。消費地に近い生産拠点の確保は、浜松の一地方メーカーから全国展開を志向する製造業への移行を示していた。同時期にメインバンクとなる三菱銀行京橋支店との取引が開始され、後年の大規模な設備投資を支える金融関係の基盤が形成された。
1949年8月にドリーム号の生産を開始し、自転車据付型のエンジンメーカーから二輪車の完成品メーカーへと転身を果たした。エンジン単品の販売から完成車の製造へと事業領域を拡張したことで、設計から組立までの一貫生産に必要な技術と設備の蓄積が始まった。本田宗一郎が自動車修理工として培った技術、東海精機で習得した金属加工の知見、そして創業期のエンジン製造で得た小型動力機関の設計経験が、二輪車完成品メーカーとしての出発点を形成した。