二輪車の増産投資
国産工作機械の精度不足が量産拡大と四輪車参入を制約した局面
1952年の時点で本田宗一郎は二輪車における世界シェアの獲得を経営目標として掲げていた。しかし当時の日本の製造現場では国産の工作機械が切削加工などの工程で使用されており、加工精度に限界があった。部品の品質を一定水準に保つには熟練工の技術と経験に依存する必要があり、未経験の工員を含む大規模な量産ラインの構築は工作機械の性能不足によって制約されていた。二輪車の生産台数を拡大するうえで、工作機械そのものの性能向上が前提条件として認識されていた。
加えてホンダは将来的に二輪車の海外輸出および四輪車事業への参入を経営構想に据えていた。四輪車の部品加工には二輪車以上の精度が求められるため、二輪車の量産段階から高精度な工作機械を導入して生産技術のノウハウを蓄積する必要があった。当時の国内四輪車市場はトヨタ自動車と日産自動車の2社が占有しており、参入には巨額の設備投資と生産技術の蓄積が不可欠であった。ホンダは二輪車事業の設備投資を将来の四輪車参入に向けた技術基盤の整備と位置づけていた。
一方でこの時点のホンダは資本金6000万円、従業員数百名規模の中小企業にすぎなかった。三菱銀行京橋支店との取引関係は構築されていたものの手元の自己資本は限られており、大規模な設備投資に耐えうる財務基盤は整っていなかった。本田宗一郎が構想する規模の工作機械の導入を実行するには銀行借入への全面的な依存が避けられず、投資の回収に失敗すれば企業の存続そのものが危ぶまれる状況にあった。経営資源の制約と世界市場を目指す経営目標との間には大きな乖離が存在していた。
資本金の7.5倍に相当する工作機械の輸入と量産拠点の新設
1952年にホンダは欧米から高性能な工作機械を輸入する大規模な設備投資を決定した。発注先にはスイスのマーグ社やジョージフィッシャー社、米国のシンシナティ社などが含まれ、工作機械の発注額は合計約4.5億円に達した。資本金6000万円に対して約7.5倍の規模であり、同業他社には例を見ない投資判断であった。導入した工作機械の加工性能は国産品の2倍から3倍の精度を持つとされ、調達資金の大半は三菱銀行京橋支店からの借入金で賄われた。
同時にホンダは二輪車の量産拠点の新設に着手した。1952年3月に埼玉県和光市で遊休工場の敷地3600坪を取得し、1953年に大和工場として二輪車ドリーム号の一貫生産を開始した。ベルトコンベア方式を採用して月産3000台の生産体制を構築し、浜松の工場では自転車据付エンジンのカブ生産に特化する品種別の分業体制を敷いた。1953年8月時点でホンダの全社従業員数は1891名に達し、そのうち大和工場には約1000名の工員が配置された。
この投資判断に対して業界内では「本田は気が違った」という評価が広まった。二輪車メーカーのみならず四輪車メーカーも、中小企業が資本金の数倍に及ぶ工作機械を輸入する判断に驚きを示した。しかし本田宗一郎は国内市場での競争優位ではなく、輸入した工作機械で製造した製品を海外に輸出して外貨を稼ぐことを投資の目的として明言していた。国のドルで購入した機械で逆にドルを稼ぐという構想が、この投資判断の根底にあった。
財務危機の発生と株式上場による自己資本の回復
工作機械の導入資金を三菱銀行からの短期借入金に依存した結果、1953年2月の時点でホンダの自己資本比率は6.7%にまで低下した。資産17.7億円に対して負債は16.5億円に達し、自己資本は1.2億円にすぎなかった。1955年に景気後退局面を迎えて二輪車の販売台数が減少すると、返済期限の短い短期借入金の返済が困難となりホンダは債務超過に近い水準の財務状態に陥った。業界内では投資判断の失敗と認識され、存続が危ぶまれる局面であった。
この危機を回避したのはメインバンクである三菱銀行の融資継続の判断であった。三菱銀行がホンダへの融資支援を継続する方針を決定したことで短期借入金の返済猶予が実現し、ホンダは資金繰りの破綻を免れた。不況期を乗り切ると二輪車の増産体制が軌道に乗り、農村部の好景気が二輪車の販売台数を押し上げた。業績の回復に伴い1957年12月にホンダは東京証券取引所への株式上場を実施し、資本市場からの資金調達が可能となった。
株式上場後は二輪車の販売拡大に伴う利益剰余金の蓄積と株式市場からの調達により、借入金への依存度は段階的に低下した。1960年8月の時点で自己資本比率は44.1%に達し、1953年の6.7%から大幅に改善された。欧米から輸入した高精度の工作機械は、未経験の工員による均質な部品加工を可能とし、後の二輪車の海外輸出と四輪車参入を支える生産技術の基盤として機能した。資本金の7.5倍に相当する投資は結果的にホンダの量産体制と技術蓄積の起点となった。