HAMを設立・米国での現地生産を開始
日米貿易摩擦の深刻化と輸出依存型の事業モデルの限界
1970年代を通じて日米貿易摩擦が深刻化し、日本製の二輪車および四輪車の北米輸出が政治問題に発展しつつあった。ホンダは1959年に北米現地法人を設立して以来、日本国内の工場で生産した製品を輸出する事業モデルを採っていたが、米国側の対日輸入規制の強化が現実味を帯びるなかで、輸出に依存した事業構造の持続可能性に疑問が生じていた。北米市場はホンダの四輪車事業にとって最大の販売先であり、市場へのアクセスを安定的に確保することが経営上の最重要課題となっていた。
こうした環境のなかで1974年からホンダ社内では若手有志が「生産拠点の世界戦略」に関する勉強会を開始し、海外での現地生産の検討が本格化していた。当時の日本の自動車メーカーのなかで北米に完成車の生産拠点を持つ企業は存在せず、現地生産は前例のない挑戦であった。労働慣行の違い、部品調達網の構築、品質管理の維持といった課題が想定されるなかで、どの地域にどの規模で進出するかという判断が求められていた。
ホンダにとって北米での現地生産は貿易摩擦への防衛的な対応にとどまらず、グローバルな生産体制を構築するための戦略的な投資でもあった。日本国内の生産拠点は鈴鹿製作所と狭山製作所を中心に二輪車と四輪車の製造を担っていたが、為替変動による採算の悪化や輸送コストの増大を考慮すると、主要販売市場に近接した生産拠点の確保が中長期的な競争力の維持に不可欠であった。北米での現地生産の成否は、ホンダが輸出型の日本メーカーにとどまるかグローバルな生産体制を持つ企業へ転換するかを規定する分岐点であった。
オハイオ州への二輪車工場の設立と四輪車の現地生産への段階的拡張
1977年にホンダは北米における二輪車の現地生産を決定し、米国オハイオ州と工場進出に関する誘致協定に調印した。1978年3月に現地生産法人としてHonda of America Manufacturing(HAM)を設立し、約1年の工場建設を経て1979年9月にオハイオ州メアリズビルにおいて二輪車の生産を開始した。まず二輪車から着手して現地での製造ノウハウを蓄積し、段階的に四輪車へ拡張するという進出戦略がとられた。
1980年1月にホンダは日本の乗用車メーカーとして初となる米国における四輪車の現地生産を決定した。すでに二輪車の生産拠点として稼働していたメアリズビル工場を拡張し、1982年11月から四輪車アコードの生産を開始した。エンジンやトランスミッションなどの基幹部品は日本から輸入しつつ、ボディやプレスは現地工場で内製する体制をとった。日系のサプライヤーの海外進出による支援を受けながら現地調達網の構築が進められた。
ホンダが採用した進出方式は、まず二輪車工場を設立して小規模に操業を開始し、現地の労働慣行や品質管理の手法を確立したうえで四輪車に拡張するという段階的なアプローチであった。二輪車の生産開始から四輪車の製造着手まで約3年間の移行期間を設けたことで、現地での生産管理の経験を四輪車の立ち上げに反映させることが可能となった。日本の自動車メーカーとして初の北米現地生産であり、前例のない環境下でリスクを段階的に管理する進出戦略が採用された。
オハイオ州を基盤とした北米生産体制の確立と累計25億ドルの投資
1980年代を通じてホンダはオハイオ州において四輪車の増産投資を継続的に実施した。メアリズビル工場では1986年に第2ラインを稼働させ、1989年までに年産36万台の生産体制を構築した。主力生産車種はアコードであり、北米市場での販売好調を受けて生産規模は段階的に拡大された。1985年にはアンナエンジン工場で二輪車用エンジンの製造を開始し、翌年から四輪車用エンジンの生産にも着手して基幹部品の現地調達比率を引き上げた。
1989年12月にはメアリズビルから約50キロメートルの地点にイーストリバティ工場を新設し、シビックセダンの生産を開始した。同工場は1993年までに年産15万台の体制を確立し、ホンダはオハイオ州に2つの完成車工場を持つ体制となった。1992年度における北米の現地生産台数は累計45万台に達し、アコード35万台とシビック10万台が生産の中心であった。北米を最大の販売市場とするホンダにとって、現地生産体制の確立は事業構造の転換を意味していた。
1978年の現地法人設立から1992年頃までの累計投資額は推計約25.7億ドルに達した。完成車工場2拠点、エンジン工場1拠点、二輪車工場1拠点を擁する生産体制は、ホンダの経営資源の相当部分を北米に振り向ける判断の結果であった。日本の自動車メーカーとして最初に北米での現地生産に踏み切った判断は、後にトヨタや日産など他社が北米生産を拡大する先例となった。ホンダは輸出型の二輪車メーカーから、北米に生産基盤を持つグローバルな四輪車メーカーへと構造転換を果たした。