1930年代初頭の国内自動車市場では、日本フォードと日本ゼネラル・モーターズの組立車が大半を占めていた[1]。日産自動車の源流は、橋本増治郎氏が1911年に設立した快進社自動車工場[2]にさかのぼる。同社は1914年にDAT号を完成させ[3]、車名は出資者である田健治郎氏・青山禄郎氏・竹内明太郎氏の頭文字[4]を並べたものだった。快進社は合資会社ダット自動車商会へ改組したのち実用自動車製造と合併してダット自動車製造となり[5]、1910年に鮎川義介氏が設立した戸畑鋳物がその株式の大半を買収した[6]。ダット自動車製造は1931年から小型車を『ダットソン』の名で生産し、翌1932年に『ダットサン』と改めて[7]全国へ売り出していた。
鮎川氏は『自動車は年に一万台や一万五千台を造らなければならぬ。年に五百台や千台造ったのでは、それは自動車というものは何んであるかという研究は出来るが、自動車の製造というものは、そんな位では駄目である。到底事業にならぬ』[引用元][8]と述べ、1万台を超える量産を事業の前提に置いていた。1933年12月、日本産業と戸畑鋳物の共同出資[9]により、資本金1000万円の自動車製造株式会社が横浜市神奈川区宝町に設立[10]された。鮎川氏は戸畑工場を足場に、特殊鋼の安来、電装品の戸塚、ダット自動車といった工場を買収[11]したうえで横浜に新工場を起こしている。その建設では米国のグラハムページ社と結び、図面一式とノウハウ、遊休設備一式を買い受け[12]、多数の米国人技術者を招いて生産開始まで指導を受けた。外国技術には学ぶが導入はしないという方針をとったトヨタとは[13]、出発点から行き方が異なっていた。1934年5月に横浜工場が完成[14]し、6月には社名を日産自動車へ改めて[15]いる。翌1935年4月、横浜工場で一貫生産による第一号車がラインを離れた[16]。
1936年5月、自動車製造事業法が公布[17]された。陸軍の後押しで生まれた[18]この法律は、自動車製造業を許可制として許可会社に資金・税制・設備輸入の各面で政府の支援[19]を与える一方、日本フォードと日本ゼネラル・モーターズには過去の実績を超える増産を認めなかった[20]。許可会社にはまず豊田自動織機と戸畑鋳物の二社が指定され、遅れて石川島と瓦斯電の合併会社であるいすゞ[21]が加わっている。輸入部品の関税も大幅に引き上げられ、米系二社は1939年に営業をやめて本国へ引き揚げた[22]。保護された三社の一角に入った日産自動車では、ダットサンの生産が1934年から飛躍的に増大[23]している。
生産は1941年に年間1万9688台[24]へ伸び、資本金も当初の1000万円から1942年には6000万円[25]へ積み増された。もっとも太平洋戦争下の統制は厳しく、鉄鋼と燃料の逼迫から乗用車の生産は制限[26]され、トラックを除く自動車は受難の時代を迎えた。同社はこの間も最低月産1000台を維持し、余剰設備で航空機エンジンを製造[27]した。1943年8月には富士工場(旧吉原工場)が完成[28]している。空襲が激しくなると疎開のため[29]1944年9月に本社を横浜市から東京日本橋へ移し、社名も日産重工業へ改めた[30]。
敗戦の夜、日産の工場に入った米兵は、労働者が雑炊をすするのに使っていた箸と箸箱を記念品として持ち去った[31]。米軍による接収はその後も長く[32]続く。空襲の被害が軽く、接収も受けずに済んだトヨタとは、ここで明暗が分かれた[33]。1945年9月、総司令部覚書による乗用車製造禁止が緩和[34]され、1946年1月には本社事務所が再び横浜市神奈川区宝町へ戻された[35]。1947年8月、戦後はじめて吉原工場でダットサンがラインを離れた[36]が、その後の生産は資材と食糧の極端な不足から思うに任せない[37]。1949年8月に社名を日産自動車へ復し[38]、1951年1月には東京証券取引所へ上場[39]した。
1952年12月、浅原源七社長のもとで日産は英オースチン社と技術提携を結んだ[40]。部品の組立から国産化へ進む方式[41]で、この間に蓄えた技術がのちの自社開発を支えた。翌1953年には組合の賃上げ要求に端を発する労働争議[42]が起こり、労使ともに苦渋をなめた。争議を経て生まれた相互信頼の労使関係は、のちに『なれあい』[引用元]と評されるほど協調的なもの[43]へ変わった。会社は見返りとして、工場管理や生産性向上、合理化にまで及ぶ大きな権限を組合へ与えた[44]。1955年には接収されていた工場の大部分が解除され[45]、生産が軌道に乗った。
1959年8月1日に発売されたダットサンブルーバード[46]は、翌1960年3月のセドリックとともに国産乗用車のベストセラー[47]となった。1959年10月の乗用車生産では日産の2693台がトヨタの2498台を上回り、2年ぶりに首位[48]へ立っている。ただし当時、小型のブルーバードは静岡の吉原工場、セドリックは鶴見工場と、車種ごとに生産が分かれていた[49]。貿易自由化の実施が既定の事実となるなか、国際競争に勝ち残るには大量かつ集中的に生産できる工場がどうしても要り[50]、この要請から生まれたのが追浜工場だった。
追浜工場は、旧海軍追浜航空隊の敷地47万坪のうち約30万坪の払い下げを受け、1961年4月に着工[51]した。半年後の10月1日にはプレス・塗装・艤装・組立の各ラインを備える3万坪の建屋が完成[52]し、1962年3月から本格稼働に入って[53]いる。従業員は4600名、稼働は1日平均16時間半[54]におよび、ブルーバードが月産1万台、セドリックほかが4000〜5000台[55]という規模だった。1964年4月にはブルーバードを1万413台生産し、単一車種の月産1万台体制を他社に先がけて確立[56]している。1965年5月には座間工場が完成[57]し、トラックの専門工場となった[58]。
1963年、川又克二社長は証券アナリスト向けの講演[59]で、通商産業省の産業構造調査会が示した集中合併と車種規制の方針[60]について語った。乗用車は生産も販売もその大半を日産とトヨタが占めており[61]、『日産とトヨタが合併することは考えられないし又、できもしない』[引用元][62]として、合併が具体化するなら他社がどちらかにつくか、数社がまとまる形になるとの見通しを述べている。外車の輸入枠についても1万〜2万台を入れて構わない[63]とし、緩衝期間を設ける利を説いた。1962年の輸出は2万6600台で、その半数はトラック[64]だった。
1966年8月1日、日産はプリンス自動車工業を吸収合併[65]した。前年5月31日にパレスホテルで合併覚書へ調印している[66]。合併比率はプリンス5株に対し日産2株[67]で、新会社の資本金は398億円、従業員は約3万1600人[68]となった。プリンス会長の石橋正二郎氏は合併条件の筆頭に『プリンス車名の永久存続』[69]を挙げたが、スカイラインやグロリアの技術が日産へ受け継がれた一方、プリンスの名は数年で姿を消した。合併にともない村山工場が日産へ帰属[70]している。
対米輸出は1958年5月の乗用車輸出に始まり[71]、1960年9月には米国日産自動車会社が設立[72]された。1964年度の輸出実績は7万2000台に達し、生産台数の2割、日本の総輸出台数の過半を占める業界首位[73]の水準だった。輸出の9割近くは追浜工場に近い長浦港から船積み[74]されている。1971年8月のドル防衛策で輸入課徴金が課された際は、乗用車の関税率が3.5%だった関係で上乗せが6.5%にとどまった[75]。同年1月から7月までの対米輸出は乗用車15万3672台・トラック4万5517台にのぼり、うちブルーバードが8万7341台[76]を占めている。
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|---|---|---|---|---|
| 1911〜1944年ダット号の系譜と、技術を買って始めた量産 | 自動車製造を設立 | ★ | ||
| 横浜工場を新設 | ★ | |||
| 自動車製造事業法で指定会社 | ★ | |||
| 1945〜1973年オースチン提携による技術の立て直しと、輸出主導への転換 | 浅原源七 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | |
| 浅原源七 | オースチン社と提携 | ★★ | ||
| 浅原源七 | 日産自動車労働組合が発足 | ★ | ||
| 川又克二 | 乗用車「ブルーバード」を発売 | ★ | ||
| 川又克二 | 米国日産自動車を設立 | ★ | ||
| 川又克二 | 追浜工場を新設・乗用車専門工場 | ★ | ||
| 川又克二 | 座間工場を新設 | ★ | ||
| 川又克二 | 大衆乗用車「サニー」を発表 | ★ | ||
| 川又克二 | 日産自動車とプリンス自動車工業の合併(1966年成立) 1966年8月、日産自動車がプリンス自動車工業を吸収する形で両社が合併した、戦後日本の自動車再編の先駆けとなった案件。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 川又克二 | 日本自動変速機を設立(ジャトコ) | ★ | ||
| 川又克二 | 栃木工場を新設 | ★ | ||
| 1974〜1998年現地生産への傾斜と、なれあい労使が残した過剰 | 石原俊 | 九州工場を新設 | ★ | |
| 石原俊 | 現地生産を開始 | ★ | ||
| 石原俊 | 現地生産を開始 | ★ | ||
| 石原俊 | 英国サンダーランド進出の決断——石原俊氏と労連会長・塩路一郎氏の攻防 1980年代前半、石原俊社長のもとで日産が英国での乗用車現地生産に踏み切った経営判断。貿易摩擦で完成車輸出の壁が高まるなか現地生産を『トヨタを追い越す好機』と位置づけたが、その進め方は国内の空洞化を警戒する自動車労連・塩路一郎会長との労使対立を頂点まで高めた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 久米豊 | 「構造不況企業」からの脱却——久米豊氏の企業文化刷新と欧州現地生産 1985年に社長へ就いた久米豊氏が、円高と国内シェアの低下で50年ぶりの営業赤字に沈んだ『技術の日産』を立て直すため、財務のリストラより先に企業文化の刷新(久米イズム)に踏み込み、あわせて貿易摩擦に対応する欧州現地生産を進めた一連の経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 辻義文 | 座間工場の車両生産中止と「最適成長企業」への転換 1993年、バブル崩壊後の販売不振と急速な円高で経常赤字へ転落した日産自動車が、辻義文社長の主導で座間工場の乗用車生産を中止し、国内の年産能力を270万台から230万台規模へ削減した経営判断。組立工場の閉鎖は戦後の日本の自動車産業で初めてのことであった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 辻義文 | 販売不振で赤字転落 | ★★ | ||
| 辻義文 | いわき工場を新設 | ★ | ||
| 1999〜2026年ルノーの規律による再建と、規模を追った果ての縮小 | 塙義一 | ルノーと提携・カルロス・ゴーンが社長就任 | ★ | |
| 塙義一 | ルノーとの資本提携と日産リバイバルプラン 1999年、長年の販売不振と巨額の有利子負債で行き詰まった日産自動車が、仏ルノーとの資本業務提携を受け入れ、送り込まれたカルロス・ゴーンの主導で『日産リバイバルプラン』を断行した経営判断。国内5工場の閉鎖や系列の解体を含む聖域なき再建によって、一期で黒字へ転じた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 塙義一 | 過去最大の赤字に転落 | ★★ | ||
| カルロス・ゴーン | 村山工場で車両生産を中止 | ★ | ||
| カルロス・ゴーン | ルノーが追加出資 | ★ | ||
| カルロス・ゴーン | グローバル展開を本格化・北米と中国に積極投資 | ★ | ||
| カルロス・ゴーン | 本社を移転 | ★ | ||
| カルロス・ゴーン | 三菱自動車と戦略的協力で提携 | ★ | ||
| カルロス・ゴーン | カルソニックカンセイを売却 | ★★ | ||
| 西川廣人 | 完成検査の無資格問題と国内全工場の出荷停止・大規模リコール 2017年9月、国土交通省の立入検査で、日産自動車の国内全6工場において無資格の従業員が新車の完成検査を担っていた事実が発覚した。同社は約116万台・38車種のリコールを届け出たうえ、是正後も検査が続いていたことが判明したため、10月に国内向け全車両の出荷を止めた経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 西川廣人 | カルロス・ゴーン会長の逮捕と会長職の解職 2018年11月19日、東京地検特捜部が金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)の疑いで日産自動車のカルロス・ゴーン会長を逮捕し、日産は3日後の22日、取締役会でゴーン会長の会長職を解いた経営判断。V字回復の立役者であり、ルノー・日産・三菱の3社連合を率いたカリスマの退場劇であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 内田誠 | 最終赤字に転落 | ★ | ||
| 内田誠 | ルノーと新アライアンス契約を締結 | ★★ | ||
| 内田誠 | 全世界で人員削減 | ★★ | ||
| 内田誠 | 日産との経営統合構想への踏み込みと、二カ月弱での協議打ち切り 2024年12月23日、ホンダは日産自動車との経営統合に向けた協議開始で基本合意し、2026年8月の共同持株会社設立を目指すと発表した。しかし統合の枠組みをめぐる両社の隔たりが埋まらず、2025年2月13日に基本合意書を解約して協議を終了した。三部敏宏社長が主導した、自主独立路線の一時転換と撤回である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| イヴァン・エスピノーサ | 経営再建計画「Re:Nissan」——7工場の統廃合と2万人削減 2025年5月、日産自動車がイヴァン・エスピノーサ社長のもとで経営再建計画『Re:Nissan』を公表し、2027年度までに世界の車両生産工場を17から10へ減らして7工場を統廃合し、全従業員の約15%にあたる2万人を削減すると決めた経営判断。神奈川県の追浜工場も車両生産を2027年度末に終える。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(日産自動車)