日産自動車の創業は、新興財閥の資本力を背景に自動車の量産に挑んだ事業投資であった。鮎川義介氏は「年に数百台では事業にならない」と量産を前提とした参入を志向し、日産財閥の傘下企業が稼いだ収益を自動車事業に投下する戦略をとった。輸入車が席巻する国内市場において、国産メーカーとして量産…
戦後の日産自動車がオースチン社と結んだ技術提携は、敗戦で生じた技術的空白を埋めるための戦略的な選択であった。単なる完成車の輸入ではなく、ノックダウン生産と段階的な部品国産化を組み合わせることで、自社の技術水準を引き上げる仕組みを契約に組み込んだ。ロイヤリティ3.5%の対価で図面・…
追浜工場の新設は、トヨタの元町工場稼働に対する日産の回答であった。旧海軍基地跡地という広大な用地を確保し、ワシントン輸出入銀行からの借款で139億円の投資資金を調達するという大胆な資金計画により、年間12万台の乗用車専門工場を実現した。吉原工場からの生産移管と部品工場への転換も含…
日産自動車によるプリンス自動車の合併は、トヨタとのシェア競争を意識した戦略的な再編であった。シェアの単純合算ではトヨタを上回る計算であったが、トヨタがカローラの販売拡大で対抗したため、首位奪取には至らなかった。ただし、村山工場という量産拠点の取得は日産の生産能力拡大に直接貢献して…
ジャトコの設立は、自動変速機の輸出における特許リスクを回避するための戦略的な選択であった。ボルグワーナーがトヨタ系のアイシン精機と合弁関係にあったことから、日産はクロスライセンス先であるフォードとの提携を選択。フォード主導の出資比率を受け入れることで、AT関連特許の問題を解消し、…