日産自動車 の歴史

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創業 1933年
創業者 鮎川義介
創業地 神奈川県横浜市
創業
1933年12月、鮎川義介氏が神奈川県横浜市に自動車製造株式会社を設立した。源流は1911年の快進社自動車工場で、そのダット号を継いだダット自動車製造を鮎川氏が戸畑鋳物のもとへ集め、量産の材料にしている。年に500台や1,000台では研究にしかならないとみて、はじめから年1万台を前提に設備と提携を逆算し、必要な投資は日産コンツェルン傘下の好業績企業の収益で支えた。1934年6月に日産自動車へ改称し、横浜工場で流れ作業による量産を始める。ただし中身は自前ではなく、米グラハムページ社から図面一式と遊休設備を買い受け、米国人技術者に生産の立ち上げを指導させたものだった。
決断
規模を先に決め、資本と設備をあとから合わせてきた。1966年8月にはプリンス自動車工業と合併し、スカイラインと村山工場を取り込んで国内2位の陣容を整えた。1984年2月には完成車輸出の限界を破るため英国サンダーランドでの現地生産に参入し、労働組合との対立を越えて実行する。しかし積み上がった国内の生産能力は、1993年2月に座間工場の車両生産を中止して減量へ転じても解けなかった。1999年3月にルノーの出資を受け入れ、同年10月の日産リバイバルプランで国内5工場の閉鎖と約2万1,000名の削減を含む1兆円のコスト削減を実行する。その規律を持ち込んだ当人は2018年11月に報酬の不記載で逮捕され会長職を解かれ、外から入れた統治そのものが途中で崩れた。
現況
車を売る事業は赤字で、利益は販売金融が出している。2026年3月期、自動車事業は売上10兆7,603億円に対し2,929億円の営業損失を計上し、販売金融事業が1兆2,476億円の売上で2,979億円の利益を上げた。全社の営業利益580億円はほぼ販売金融の額に等しい。当期は5,331億円の純損失となり、前期の6,709億円と合わせて2期連続の最終赤字である。生産能力500万台に対し生産実績は320万台にとどまり、稼働率は64%まで低下した。2025年5月に示した経営再建計画『Re:Nissan』は2027年度までに車両工場を17から10へ統合し約2万名を削減する内容で、1999年に外から来た経営陣が実行した工場閉鎖と人員削減を、今度は日産自身が決めて進めている。
競合
1999年は出資者を選べたが、2024年には条件を出す側に回れなかった。1999年の日産は複数の候補のなかからルノーを選んで資本を受け入れ、経営の主導権と引き換えに再建の資金と執行力を得ている。2024年12月に始まったホンダ・三菱自動車との3社統合協議では立場が逆になり、ホンダが株式交換で日産を完全子会社とする案を示したのに対し内田誠社長は自主性を保てないとして応じず、協議は2カ月弱で打ち切られた。EVとSDVの開発費を規模で分担するという狙いは双方とも果たせていない。傘下に収めた三菱自動車工業も2020年に東南アジアへ資源を集中する構造改革を決めして欧州から退いており、規模を追った側も追われた側も、現在は縮小で採算を作る同じ道を進んでいる。

創業ストーリー ダット号の系譜と、技術を買って始めた量産 (1911年〜)

快進社のDAT号から自動車製造の設立へ

1930年代初頭の国内自動車市場では、日本フォードと日本ゼネラル・モーターズの組立車が大半を占めていた[1]。日産自動車の源流は、橋本増治郎氏が1911年に設立した快進社自動車工場[2]にさかのぼる。同社は1914年にDAT号を完成させ[3]、車名は出資者である田健治郎氏・青山禄郎氏・竹内明太郎氏の頭文字[4]を並べたものだった。快進社は合資会社ダット自動車商会へ改組したのち実用自動車製造と合併してダット自動車製造となり[5]、1910年に鮎川義介氏が設立した戸畑鋳物がその株式の大半を買収した[6]。ダット自動車製造は1931年から小型車を『ダットソン』の名で生産し、翌1932年に『ダットサン』と改めて[7]全国へ売り出していた。

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「自動車-強引に陸軍が助成」
    • [1]1930年代初頭 日本フォード・日本ゼネラル・モーターズの組立車が国内市場の大半
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日産自動車」の項
    • [2]1911年 橋本増治郎氏が快進社自動車工場を設立
    • [3]1914年 DAT号完成
    • [4]DATの由来 出資者 田健治郎・青山禄郎・竹内明太郎の頭文字
    • [5]快進社→ダット自動車商会→実用自動車製造と合併しダット自動車製造
    • [6]1910年 鮎川義介氏が戸畑鋳物を設立 ダット自動車製造の株式の大半を買収
    • [7]1931年 ダットソンとして生産 1932年 ダットサンへ改名

鮎川氏は『自動車は年に一万台や一万五千台を造らなければならぬ。年に五百台や千台造ったのでは、それは自動車というものは何んであるかという研究は出来るが、自動車の製造というものは、そんな位では駄目である。到底事業にならぬ』[引用元][8]と述べ、1万台を超える量産を事業の前提に置いていた。1933年12月、日本産業と戸畑鋳物の共同出資[9]により、資本金1000万円の自動車製造株式会社が横浜市神奈川区宝町に設立[10]された。鮎川氏は戸畑工場を足場に、特殊鋼の安来、電装品の戸塚、ダット自動車といった工場を買収[11]したうえで横浜に新工場を起こしている。その建設では米国のグラハムページ社と結び、図面一式とノウハウ、遊休設備一式を買い受け[12]、多数の米国人技術者を招いて生産開始まで指導を受けた。外国技術には学ぶが導入はしないという方針をとったトヨタとは[13]、出発点から行き方が異なっていた。1934年5月に横浜工場が完成[14]し、6月には社名を日産自動車へ改めて[15]いる。翌1935年4月、横浜工場で一貫生産による第一号車がラインを離れた[16]

    • [8]鮎川義介氏の発言 年500〜1,000台では事業にならず1万〜1万5,000台の量産が要る
  • 日産自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [9]日本産業と戸畑鋳物の共同出資
    • [10]1933年12月 自動車製造株式会社を設立 資本金1000万円 横浜市神奈川区宝町
    • [14]1934年5月 横浜工場完成
    • [15]1934年6月 社名を日産自動車へ改称
    • [16]1935年4月 横浜工場で一貫生産による第一号車オフライン
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「自動車-強引に陸軍が助成」
    • [11]鮎川義介氏が買収した工場 安来(特殊鋼)戸塚(電装品)ダット自動車
    • [12]グラハムページ社から図面一式・ノウハウ・遊休設備一式を購入 米国人技術者が生産開始まで指導
    • [13]トヨタは外国技術を導入しない方針 両社は行き方を全く異にした
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「自動車-強引に陸軍が助成」
    • [1]1930年代初頭 日本フォード・日本ゼネラル・モーターズの組立車が国内市場の大半
    • [11]鮎川義介氏が買収した工場 安来(特殊鋼)戸塚(電装品)ダット自動車
    • [12]グラハムページ社から図面一式・ノウハウ・遊休設備一式を購入 米国人技術者が生産開始まで指導
    • [13]トヨタは外国技術を導入しない方針 両社は行き方を全く異にした
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日産自動車」の項
    • [2]1911年 橋本増治郎氏が快進社自動車工場を設立
    • [3]1914年 DAT号完成
    • [4]DATの由来 出資者 田健治郎・青山禄郎・竹内明太郎の頭文字
    • [5]快進社→ダット自動車商会→実用自動車製造と合併しダット自動車製造
    • [6]1910年 鮎川義介氏が戸畑鋳物を設立 ダット自動車製造の株式の大半を買収
    • [7]1931年 ダットソンとして生産 1932年 ダットサンへ改名
    • [8]鮎川義介氏の発言 年500〜1,000台では事業にならず1万〜1万5,000台の量産が要る
  • 日産自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [9]日本産業と戸畑鋳物の共同出資
    • [10]1933年12月 自動車製造株式会社を設立 資本金1000万円 横浜市神奈川区宝町
    • [14]1934年5月 横浜工場完成
    • [15]1934年6月 社名を日産自動車へ改称
    • [16]1935年4月 横浜工場で一貫生産による第一号車オフライン

自動車製造事業法の許可会社と、戦時の軍需転換

1936年5月、自動車製造事業法が公布[17]された。陸軍の後押しで生まれた[18]この法律は、自動車製造業を許可制として許可会社に資金・税制・設備輸入の各面で政府の支援[19]を与える一方、日本フォードと日本ゼネラル・モーターズには過去の実績を超える増産を認めなかった[20]。許可会社にはまず豊田自動織機と戸畑鋳物の二社が指定され、遅れて石川島と瓦斯電の合併会社であるいすゞ[21]が加わっている。輸入部品の関税も大幅に引き上げられ、米系二社は1939年に営業をやめて本国へ引き揚げた[22]。保護された三社の一角に入った日産自動車では、ダットサンの生産が1934年から飛躍的に増大[23]している。

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「自動車-強引に陸軍が助成」
    • [17]1936年5月 自動車製造事業法公布
    • [18]陸軍の強力な後押しで成立
    • [19]許可制 許可会社へ資金・税制・設備輸入の支援
    • [20]日本フォード・日本ゼネラル・モーターズに過去実績超の増産を認めず
    • [21]許可会社 豊田自動織機・戸畑鋳物の二社を指定 遅れていすゞ(石川島と瓦斯電の合併会社)
    • [22]1939年 日本フォード・日本ゼネラル・モーターズが営業停止し本国へ引揚
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日産自動車」の項
    • [23]1934年からダットサンの生産が飛躍的に増大

生産は1941年に年間1万9688台[24]へ伸び、資本金も当初の1000万円から1942年には6000万円[25]へ積み増された。もっとも太平洋戦争下の統制は厳しく、鉄鋼と燃料の逼迫から乗用車の生産は制限[26]され、トラックを除く自動車は受難の時代を迎えた。同社はこの間も最低月産1000台を維持し、余剰設備で航空機エンジンを製造[27]した。1943年8月には富士工場(旧吉原工場)が完成[28]している。空襲が激しくなると疎開のため[29]1944年9月に本社を横浜市から東京日本橋へ移し、社名も日産重工業へ改めた[30]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日産自動車」の項
    • [24]1941年 生産1万9688台
    • [25]資本金 当初1000万円→1942年 6000万円
    • [26]戦時統制 鉄鋼・燃料の逼迫で乗用車生産を制限
    • [27]戦時下も最低月産1000台を維持 余剰設備で航空機エンジンを製造
    • [29]本社移転の理由は空襲を避ける疎開
  • 日産自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [28]1943年8月 富士工場(旧吉原工場)完成
    • [30]1944年9月 本社を東京日本橋へ移転 社名を日産重工業へ改称
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「自動車-強引に陸軍が助成」
    • [17]1936年5月 自動車製造事業法公布
    • [18]陸軍の強力な後押しで成立
    • [19]許可制 許可会社へ資金・税制・設備輸入の支援
    • [20]日本フォード・日本ゼネラル・モーターズに過去実績超の増産を認めず
    • [21]許可会社 豊田自動織機・戸畑鋳物の二社を指定 遅れていすゞ(石川島と瓦斯電の合併会社)
    • [22]1939年 日本フォード・日本ゼネラル・モーターズが営業停止し本国へ引揚
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日産自動車」の項
    • [23]1934年からダットサンの生産が飛躍的に増大
    • [24]1941年 生産1万9688台
    • [25]資本金 当初1000万円→1942年 6000万円
    • [26]戦時統制 鉄鋼・燃料の逼迫で乗用車生産を制限
    • [27]戦時下も最低月産1000台を維持 余剰設備で航空機エンジンを製造
    • [29]本社移転の理由は空襲を避ける疎開
  • 日産自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [28]1943年8月 富士工場(旧吉原工場)完成
    • [30]1944年9月 本社を東京日本橋へ移転 社名を日産重工業へ改称

接収からの再出発と、オースチン提携

敗戦の夜、日産の工場に入った米兵は、労働者が雑炊をすするのに使っていた箸と箸箱を記念品として持ち去った[31]。米軍による接収はその後も長く[32]続く。空襲の被害が軽く、接収も受けずに済んだトヨタとは、ここで明暗が分かれた[33]。1945年9月、総司令部覚書による乗用車製造禁止が緩和[34]され、1946年1月には本社事務所が再び横浜市神奈川区宝町へ戻された[35]。1947年8月、戦後はじめて吉原工場でダットサンがラインを離れた[36]が、その後の生産は資材と食糧の極端な不足から思うに任せない[37]。1949年8月に社名を日産自動車へ復し[38]、1951年1月には東京証券取引所へ上場[39]した。

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「自動車-強引に陸軍が助成」
    • [31]敗戦直後 米兵が工場から箸と箸箱を持ち去り
    • [32]日産の米軍接収は長期間継続
    • [33]日産の米軍接収は長期間継続 トヨタは接収を免れ企業の明暗を分けた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日産自動車」の項
    • [34]1945年9月 総司令部覚書で乗用車製造禁止が緩和
    • [36]1947年8月 吉原工場で戦後初のダットサンをオフライン
    • [37]戦後の生産は資材・食糧の極端な不足で停滞
  • 日産自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [35]1946年1月 本社事務所を横浜市神奈川区宝町へ再移転
    • [38]1949年8月 社名を日産自動車へ復帰
    • [39]1951年1月 東京証券取引所上場

1952年12月、浅原源七社長のもとで日産は英オースチン社と技術提携を結んだ[40]。部品の組立から国産化へ進む方式[41]で、この間に蓄えた技術がのちの自社開発を支えた。翌1953年には組合の賃上げ要求に端を発する労働争議[42]が起こり、労使ともに苦渋をなめた。争議を経て生まれた相互信頼の労使関係は、のちに『なれあい』[引用元]と評されるほど協調的なもの[43]へ変わった。会社は見返りとして、工場管理や生産性向上、合理化にまで及ぶ大きな権限を組合へ与えた[44]。1955年には接収されていた工場の大部分が解除され[45]、生産が軌道に乗った。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日産自動車」の項
    • [40]1952年12月 英オースチン社と技術提携
    • [41]部品の組立から国産化へ進む提携方式
    • [42]1953年 賃上げ要求に端を発する労働争議
    • [45]1955年 接収工場の大部分が解除され生産が軌道に
  • 日経ビジネス 1987年4月27日号(日経マグロウヒル社)
    • [43]1953年の大争議以来 労使は「なれあい」と評される協調関係
    • [44]会社は組合へ工場管理・生産性向上・合理化に及ぶ権限を付与
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「自動車-強引に陸軍が助成」
    • [31]敗戦直後 米兵が工場から箸と箸箱を持ち去り
    • [32]日産の米軍接収は長期間継続
    • [33]日産の米軍接収は長期間継続 トヨタは接収を免れ企業の明暗を分けた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日産自動車」の項
    • [34]1945年9月 総司令部覚書で乗用車製造禁止が緩和
    • [36]1947年8月 吉原工場で戦後初のダットサンをオフライン
    • [37]戦後の生産は資材・食糧の極端な不足で停滞
    • [40]1952年12月 英オースチン社と技術提携
    • [41]部品の組立から国産化へ進む提携方式
    • [42]1953年 賃上げ要求に端を発する労働争議
    • [45]1955年 接収工場の大部分が解除され生産が軌道に
  • 日産自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [35]1946年1月 本社事務所を横浜市神奈川区宝町へ再移転
    • [38]1949年8月 社名を日産自動車へ復帰
    • [39]1951年1月 東京証券取引所上場
  • 日経ビジネス 1987年4月27日号(日経マグロウヒル社)
    • [43]1953年の大争議以来 労使は「なれあい」と評される協調関係
    • [44]会社は組合へ工場管理・生産性向上・合理化に及ぶ権限を付与

追浜工場に賭けた乗用車の集中生産

1959年8月1日に発売されたダットサンブルーバード[46]は、翌1960年3月のセドリックとともに国産乗用車のベストセラー[47]となった。1959年10月の乗用車生産では日産の2693台がトヨタの2498台を上回り、2年ぶりに首位[48]へ立っている。ただし当時、小型のブルーバードは静岡の吉原工場、セドリックは鶴見工場と、車種ごとに生産が分かれていた[49]。貿易自由化の実施が既定の事実となるなか、国際競争に勝ち残るには大量かつ集中的に生産できる工場がどうしても要り[50]、この要請から生まれたのが追浜工場だった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日産自動車」の項
    • [46]1959年8月1日 ダットサンブルーバード発売
    • [47]1960年3月 セドリック発売 両車が国産乗用車のベストセラー
  • 日本経済新聞(1959年11月19日)
    • [48]1959年10月 乗用車生産 日産2693台がトヨタ2498台を抜き2年ぶり首位
  • 証券アナリストジャーナル 1965年3巻3号(川久保康雄 取締役経理部長)
    • [49]ブルーバードは吉原工場 セドリックは鶴見工場で分散生産
    • [50]貿易自由化に備え大量・集中生産の工場が必要と判断

追浜工場は、旧海軍追浜航空隊の敷地47万坪のうち約30万坪の払い下げを受け、1961年4月に着工[51]した。半年後の10月1日にはプレス・塗装・艤装・組立の各ラインを備える3万坪の建屋が完成[52]し、1962年3月から本格稼働に入って[53]いる。従業員は4600名、稼働は1日平均16時間半[54]におよび、ブルーバードが月産1万台、セドリックほかが4000〜5000台[55]という規模だった。1964年4月にはブルーバードを1万413台生産し、単一車種の月産1万台体制を他社に先がけて確立[56]している。1965年5月には座間工場が完成[57]し、トラックの専門工場となった[58]

  • 証券アナリストジャーナル 1965年3巻3号(川久保康雄 取締役経理部長)
    • [51]追浜工場 旧海軍追浜航空隊の敷地47万坪のうち約30万坪の払い下げ 1961年4月着工
    • [52]1961年10月1日 プレス・塗装・艤装・組立ラインを備える3万坪の建屋が完成
    • [54]追浜工場 従業員4600名 稼働1日平均16時間半
    • [55]追浜工場 ブルーバード月産1万台 セドリックほか4000〜5000台
    • [56]1964年4月 ブルーバード1万413台を生産し単一車種月産1万台体制を他社に先行して確立
  • 日産自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [53]1962年3月 追浜工場が本格稼働
    • [57]1965年5月 座間工場完成
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日産自動車」の項
    • [58]座間工場はトラック専門工場として建設
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日産自動車」の項
    • [46]1959年8月1日 ダットサンブルーバード発売
    • [47]1960年3月 セドリック発売 両車が国産乗用車のベストセラー
    • [58]座間工場はトラック専門工場として建設
  • 日本経済新聞(1959年11月19日)
    • [48]1959年10月 乗用車生産 日産2693台がトヨタ2498台を抜き2年ぶり首位
  • 証券アナリストジャーナル 1965年3巻3号(川久保康雄 取締役経理部長)
    • [49]ブルーバードは吉原工場 セドリックは鶴見工場で分散生産
    • [50]貿易自由化に備え大量・集中生産の工場が必要と判断
    • [51]追浜工場 旧海軍追浜航空隊の敷地47万坪のうち約30万坪の払い下げ 1961年4月着工
    • [52]1961年10月1日 プレス・塗装・艤装・組立ラインを備える3万坪の建屋が完成
    • [54]追浜工場 従業員4600名 稼働1日平均16時間半
    • [55]追浜工場 ブルーバード月産1万台 セドリックほか4000〜5000台
    • [56]1964年4月 ブルーバード1万413台を生産し単一車種月産1万台体制を他社に先行して確立
  • 日産自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [53]1962年3月 追浜工場が本格稼働
    • [57]1965年5月 座間工場完成

特振法をめぐる再編と、対米輸出の拡大

1963年、川又克二社長は証券アナリスト向けの講演[59]で、通商産業省の産業構造調査会が示した集中合併と車種規制の方針[60]について語った。乗用車は生産も販売もその大半を日産とトヨタが占めており[61]『日産とトヨタが合併することは考えられないし又、できもしない』[引用元][62]として、合併が具体化するなら他社がどちらかにつくか、数社がまとまる形になるとの見通しを述べている。外車の輸入枠についても1万〜2万台を入れて構わない[63]とし、緩衝期間を設ける利を説いた。1962年の輸出は2万6600台で、その半数はトラック[64]だった。

  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻1号(川又克二 社長)
    • [59]1963年 川又克二社長が証券アナリスト向けに講演
    • [60]通産省 産業構造調査会が集中・合併と車種規制の中間報告
    • [61]乗用車の生産・販売の大半を日産とトヨタが占有
    • [62]川又克二氏の発言 日産とトヨタの合併は考えられずできもしない
    • [63]外車輸入枠 1万〜2万台を入れて構わないとの見解
    • [64]1962年 輸出2万6600台 うち半数がトラック

1966年8月1日、日産はプリンス自動車工業を吸収合併[65]した。前年5月31日にパレスホテルで合併覚書へ調印している[66]。合併比率はプリンス5株に対し日産2株[67]で、新会社の資本金は398億円、従業員は約3万1600人[68]となった。プリンス会長の石橋正二郎氏は合併条件の筆頭に『プリンス車名の永久存続』[69]を挙げたが、スカイラインやグロリアの技術が日産へ受け継がれた一方、プリンスの名は数年で姿を消した。合併にともない村山工場が日産へ帰属[70]している。

  • 日産自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [65]1966年8月 プリンス自動車工業を吸収合併
    • [70]合併により村山工場が日産へ帰属
  • 日産自動車 ニュースリリース(1965年5月31日)「プリンス自動車工業と合併」
    • [66]1965年5月31日 パレスホテルで合併覚書に調印
  • 歴史をつくる人々 第22(ダイヤモンド社、1966年)所収 川又克二(日産自動車社長)回想
    • [67]合併比率 プリンス5株に日産2株
    • [68]合併後 資本金398億円 従業員約3万1600人
  • 歴史をつくる人々 第13(ダイヤモンド社、1965年)所収 石橋正二郎(プリンス自動車工業会長)回想
    • [69]石橋正二郎氏が合併条件の筆頭にプリンス車名の永久存続を挙げた

対米輸出は1958年5月の乗用車輸出に始まり[71]、1960年9月には米国日産自動車会社が設立[72]された。1964年度の輸出実績は7万2000台に達し、生産台数の2割、日本の総輸出台数の過半を占める業界首位[73]の水準だった。輸出の9割近くは追浜工場に近い長浦港から船積み[74]されている。1971年8月のドル防衛策で輸入課徴金が課された際は、乗用車の関税率が3.5%だった関係で上乗せが6.5%にとどまった[75]。同年1月から7月までの対米輸出は乗用車15万3672台・トラック4万5517台にのぼり、うちブルーバードが8万7341台[76]を占めている。

  • 日産自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [71]1958年5月 乗用車の対米輸出開始
    • [72]1960年9月 米国日産自動車会社を設立
  • 証券アナリストジャーナル 1965年3巻3号(川久保康雄 取締役経理部長)
    • [73]1964年度 輸出7万2000台 生産の2割 日本の総輸出の過半で業界首位
    • [74]輸出の9割近くを長浦港から船積み
  • 証券アナリストジャーナル 1971年9巻11号(石原俊 専務取締役)
    • [75]1971年8月 ドル防衛策の輸入課徴金 乗用車は関税3.5%のため上乗せ6.5%
    • [76]1971年1〜7月 対米輸出 乗用車15万3672台 トラック4万5517台 うちブルーバード8万7341台
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻1号(川又克二 社長)
    • [59]1963年 川又克二社長が証券アナリスト向けに講演
    • [60]通産省 産業構造調査会が集中・合併と車種規制の中間報告
    • [61]乗用車の生産・販売の大半を日産とトヨタが占有
    • [62]川又克二氏の発言 日産とトヨタの合併は考えられずできもしない
    • [63]外車輸入枠 1万〜2万台を入れて構わないとの見解
    • [64]1962年 輸出2万6600台 うち半数がトラック
  • 日産自動車 有価証券報告書【沿革】
    • [65]1966年8月 プリンス自動車工業を吸収合併
    • [70]合併により村山工場が日産へ帰属
    • [71]1958年5月 乗用車の対米輸出開始
    • [72]1960年9月 米国日産自動車会社を設立
  • 日産自動車 ニュースリリース(1965年5月31日)「プリンス自動車工業と合併」
    • [66]1965年5月31日 パレスホテルで合併覚書に調印
  • 歴史をつくる人々 第22(ダイヤモンド社、1966年)所収 川又克二(日産自動車社長)回想
    • [67]合併比率 プリンス5株に日産2株
    • [68]合併後 資本金398億円 従業員約3万1600人
  • 歴史をつくる人々 第13(ダイヤモンド社、1965年)所収 石橋正二郎(プリンス自動車工業会長)回想
    • [69]石橋正二郎氏が合併条件の筆頭にプリンス車名の永久存続を挙げた
  • 証券アナリストジャーナル 1965年3巻3号(川久保康雄 取締役経理部長)
    • [73]1964年度 輸出7万2000台 生産の2割 日本の総輸出の過半で業界首位
    • [74]輸出の9割近くを長浦港から船積み
  • 証券アナリストジャーナル 1971年9巻11号(石原俊 専務取締役)
    • [75]1971年8月 ドル防衛策の輸入課徴金 乗用車は関税3.5%のため上乗せ6.5%
    • [76]1971年1〜7月 対米輸出 乗用車15万3672台 トラック4万5517台 うちブルーバード8万7341台

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日産自動車の沿革1933〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1911〜1944年ダット号の系譜と、技術を買って始めた量産自動車製造を設立
横浜工場を新設
自動車製造事業法で指定会社
1945〜1973年オースチン提携による技術の立て直しと、輸出主導への転換浅原源七東京証券取引所に株式上場
浅原源七オースチン社と提携★★
浅原源七日産自動車労働組合が発足
川又克二乗用車「ブルーバード」を発売
川又克二米国日産自動車を設立
川又克二追浜工場を新設・乗用車専門工場
川又克二座間工場を新設
川又克二大衆乗用車「サニー」を発表
川又克二日産自動車とプリンス自動車工業の合併(1966年成立)

1966年8月、日産自動車がプリンス自動車工業を吸収する形で両社が合併した、戦後日本の自動車再編の先駆けとなった案件。

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川又克二日本自動変速機を設立(ジャトコ)
川又克二栃木工場を新設
1974〜1998年現地生産への傾斜と、なれあい労使が残した過剰石原俊九州工場を新設
石原俊現地生産を開始
石原俊現地生産を開始
石原俊英国サンダーランド進出の決断——石原俊氏と労連会長・塩路一郎氏の攻防

1980年代前半、石原俊社長のもとで日産が英国での乗用車現地生産に踏み切った経営判断。貿易摩擦で完成車輸出の壁が高まるなか現地生産を『トヨタを追い越す好機』と位置づけたが、その進め方は国内の空洞化を警戒する自動車労連・塩路一郎会長との労使対立を頂点まで高めた。

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久米豊「構造不況企業」からの脱却——久米豊氏の企業文化刷新と欧州現地生産

1985年に社長へ就いた久米豊氏が、円高と国内シェアの低下で50年ぶりの営業赤字に沈んだ『技術の日産』を立て直すため、財務のリストラより先に企業文化の刷新(久米イズム)に踏み込み、あわせて貿易摩擦に対応する欧州現地生産を進めた一連の経営判断。

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辻義文座間工場の車両生産中止と「最適成長企業」への転換

1993年、バブル崩壊後の販売不振と急速な円高で経常赤字へ転落した日産自動車が、辻義文社長の主導で座間工場の乗用車生産を中止し、国内の年産能力を270万台から230万台規模へ削減した経営判断。組立工場の閉鎖は戦後の日本の自動車産業で初めてのことであった。

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辻義文販売不振で赤字転落★★
辻義文いわき工場を新設
1999〜2026年ルノーの規律による再建と、規模を追った果ての縮小塙義一ルノーと提携・カルロス・ゴーンが社長就任
塙義一ルノーとの資本提携と日産リバイバルプラン

1999年、長年の販売不振と巨額の有利子負債で行き詰まった日産自動車が、仏ルノーとの資本業務提携を受け入れ、送り込まれたカルロス・ゴーンの主導で『日産リバイバルプラン』を断行した経営判断。国内5工場の閉鎖や系列の解体を含む聖域なき再建によって、一期で黒字へ転じた。

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塙義一過去最大の赤字に転落★★
カルロス・ゴーン村山工場で車両生産を中止
カルロス・ゴーンルノーが追加出資
カルロス・ゴーングローバル展開を本格化・北米と中国に積極投資
カルロス・ゴーン本社を移転
カルロス・ゴーン三菱自動車と戦略的協力で提携
カルロス・ゴーンカルソニックカンセイを売却★★
西川廣人完成検査の無資格問題と国内全工場の出荷停止・大規模リコール

2017年9月、国土交通省の立入検査で、日産自動車の国内全6工場において無資格の従業員が新車の完成検査を担っていた事実が発覚した。同社は約116万台・38車種のリコールを届け出たうえ、是正後も検査が続いていたことが判明したため、10月に国内向け全車両の出荷を止めた経営判断である。

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★★★
西川廣人カルロス・ゴーン会長の逮捕と会長職の解職

2018年11月19日、東京地検特捜部が金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)の疑いで日産自動車のカルロス・ゴーン会長を逮捕し、日産は3日後の22日、取締役会でゴーン会長の会長職を解いた経営判断。V字回復の立役者であり、ルノー・日産・三菱の3社連合を率いたカリスマの退場劇であった。

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内田誠最終赤字に転落
内田誠ルノーと新アライアンス契約を締結★★
内田誠全世界で人員削減★★
内田誠日産との経営統合構想への踏み込みと、二カ月弱での協議打ち切り

2024年12月23日、ホンダは日産自動車との経営統合に向けた協議開始で基本合意し、2026年8月の共同持株会社設立を目指すと発表した。しかし統合の枠組みをめぐる両社の隔たりが埋まらず、2025年2月13日に基本合意書を解約して協議を終了した。三部敏宏社長が主導した、自主独立路線の一時転換と撤回である。

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★★★
イヴァン・エスピノーサ経営再建計画「Re:Nissan」——7工場の統廃合と2万人削減

2025年5月、日産自動車がイヴァン・エスピノーサ社長のもとで経営再建計画『Re:Nissan』を公表し、2027年度までに世界の車両生産工場を17から10へ減らして7工場を統廃合し、全従業員の約15%にあたる2万人を削減すると決めた経営判断。神奈川県の追浜工場も車両生産を2027年度末に終える。

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出典・参考
  • 日産自動車 ニュースリリース(1965年5月31日)「プリンス自動車工業と合併」
  • 日産自動車 有価証券報告書【沿革】
  • 日産自動車 有価証券報告書
  • 歴史をつくる人々 第13(ダイヤモンド社、1965年)所収 石橋正二郎(プリンス自動車工業会長)回想
  • 歴史をつくる人々 第22(ダイヤモンド社、1966年)所収 川又克二(日産自動車社長)回想
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「日産自動車」の項
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「自動車-強引に陸軍が助成」
  • 鮎川義介「日産の使命に就て」経済倶楽部講演(東洋経済出版部、1934年)
  • 証券アナリストジャーナル 1963年1巻1号(川又克二 社長)
  • 証券アナリストジャーナル 1965年3巻3号(川久保康雄 取締役経理部長)
  • 証券アナリストジャーナル 1971年9巻11号(石原俊 専務取締役)
  • 日経ビジネス 1987年4月27日号(日経マグロウヒル社)
  • 日経ビジネス 1993年5月17日号(日経BP社)
  • 日経ビジネス 1995年6月5日号(日経BP社)
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号(日経BP社)
  • 日本経済新聞(1959年11月19日)
  • 日本経済新聞 1995年3月21日

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