英オースチン社と提携
敗戦による技術的空白と乗用車技術の導入
戦後の日本の自動車産業は、敗戦による技術的空白に直面していた。戦時中はトラックや軍用車両の生産に集中しており、乗用車の設計・製造技術は欧米に大きく遅れをとっていた。1950年代に入り、国内における乗用車需要の回復が見込まれるなか、日産自動車は自社の技術力だけでは先進国の水準に追いつくことが困難であると認識していた。 浅原源七社長は「世界の水準から見れば田舎者である」との認識のもと、先進国の自動車メーカーから技術を導入する方針を決定。提携先として英国の老舗自動車メーカーであるオースチン社を選定した。選定理由は、エンジン技術の水準が高いこと、欧米市場において一流のブランド力を有していたことであった。
ノックダウン生産と段階的な国産化
1952年12月に日産自動車はオースチン社と技術提携契約を締結した。提携の骨子は、オースチンA40サルーン型乗用車のノックダウン生産(年間2,000台)を行うこと、生産に必要な部品を順次国産化すること、オースチン社が図面・材料・仕様書・部品表を開示して技術支援を行うこと、A40部品の日産の他車種への転用を許可することであった。 契約の対価として、日産自動車はロイヤリティの支払を実施。初年度は無料、2年度は工場出荷価格の2.0%、3年度以降は同3.5%とし、契約期間は7カ年に設定した。日産自動車は「オースチン部」を新設し、1953年3月から鶴見工場内でオースチンA40の組立生産を開始した。
国内自動車メーカーの技術導入の先駆け
日産自動車による英オースチン社との提携は、戦後の国内自動車メーカーにおける海外技術導入の先駆けとなった。1953年までに、日野自動車(ルノー)、いすゞ自動車(ルーツ)、新三菱重工(ウイリス・オーバーランド)も相次いで海外メーカーと提携し、ノックダウン生産を開始した。 オースチン社から導入した技術は、図面や仕様書の開示を通じて日産の技術者に吸収され、部品の国産化率を段階的に高めることで自社の技術水準を引き上げた。この技術提携で蓄積した乗用車の設計・製造ノウハウは、のちのダットサンブルーバードなど自社開発車種の基盤となり、日産自動車が乗用車メーカーとして成長する礎を築いた。