重要な意思決定
自動車製造株式会社を設立
背景
輸入車に席巻された国内自動車市場
1930年代の日本国内における自動車市場は、米フォードおよびGMからの輸入車に席巻されていた。国内メーカーによる自動車の量産体制は未確立であり、国防的な観点からも日本国内で自動車を製造する必要性が認識されていた。こうした状況のなか、新興財閥であった日産財閥の創業者・鮎川義介氏は、国内でも自動車を量産できれば米国企業に対抗できると判断し、莫大な投資が必要な自動車事業への参入を決定した。 参入にあたっては、日産財閥傘下の戸畑鋳物(鋳物製造会社)が保有していた自動車事業を足がかりとした。戸畑鋳物はクボタの創業者から小型車「ダットサン」の事業を買収しており、この買収を通じて日産は自動車製造の技術基盤を獲得していた。
決断
日産財閥の資本力を背景とした量産投資
1933年12月に日本産業(日産財閥の持株会社)と戸畑鋳物の出資により「自動車製造株式会社」を設立。初代社長には鮎川義介氏が就任した。翌1934年6月には商号を「日産自動車株式会社」に変更し、日産財閥における自動車事業を担う事業会社として位置づけた。 鮎川社長は「年に1万台や1.5万台を造らなければ事業にならない」との方針のもと、自動車の量産に必要な設備に積極投資を実施した。日産財閥の傘下企業群が稼いだ収益を投資事業である自動車領域に投下する戦略をとり、ダットサンの年産5,000台を計画するとともに、米フォードおよびシボレー向けの部品量産を通じた技術向上を図った。