1960年の会長室で黒田暲之助氏が口にしたのは、ルーズリーフが売れ、バインダーが売れ、それを納める入れ物が要る、という一続きの話だけであった。鋼製家具という新分野の宣言ではなく、紙製品に付いてまわる入れ物の話に組み替えてある。言い換えは父を通すための方便にとどまらず、参入の設計そのものでもあったと思われる。工場は建てず協力工場に作らせ、文具店までつながる自前の販売網に乗せた。売る力の延長として始めたので、しくじっても紙製品の本体は傷まない。
黒田暲之助氏は後に多角化へ踏み出すたび、どうすれば父が納得するか、今の事業とどの点で結びつくかを自問したという。スチール製品では自家生産に移行するまで11年がかかり、それまでは大半を6社から仕入れて売っており、品質の面では先発2社が勝ると社内も認めていた。首位を取ってからも、1981年9月期には競争が激しくなって経常利益が6年ぶりに前年を下回った。父を説得するための問いが、事業を選ぶ物差しに転じたとみられる。