コクヨ鋼製家具・ファイリング用品への参入と、協力工場生産によるコクヨ商標での販売

紙製品の枠にとどまるか、オフィスの什器まで手を伸ばすか——黒田暲之助社長は先代の黒田善太郎氏をどう説いたか

時期 1960年4月
意思決定者(推定) 黒田暲之助黒田善太郎 社長・会長
論点 紙製品からの多角化と主力事業の入れ替え
概要
1960年4月、コクヨ(当時の商号は黒田国光堂)が鋼製家具とファイリング用品の販売を始めた経営判断。和式帳簿の表紙から出発した紙製品メーカーが、鋼の什器へ移った。同年1月に社長へ就いた黒田暲之助氏が、紙製品の伝統に固執する父で会長の黒田善太郎氏を説き、当初は協力工場に生産を委ねて自社商標で売る形をとった。
背景
1957年ごろから紙製品の売上高の伸びは年に1、2億円程度に鈍り、販売先も中小企業と一般消費者に偏っていた。一方で大企業への納品業者がデスクやキャビネットに力を入れ始め、IBMの日本上陸などオフィス革命と呼ばれる変化の兆しも見えていた。
内容
キャビネットを皮切りにロッカー、1965年10月のスチールデスク、事務用イス、学習机へと品目を広げた。生産は協力工場に委ね、自家生産は1971年7月の柏原工場まで待った。販売には紙製品で築いた専門代理店と文具小売店の網をそのまま使った。
含意
1978年以降、岡村製作所とイトーキの先発2社を抜いて業界首位に立ち、売上構成比は1966年度の10.1%から1981年度の45.9%へ伸びて紙製品を上回った。新事業を既存事業の延長として説明する作法は、以後の多角化を選ぶ基準として社内に残った。
筆者の見解

入れ物という一語で渡った

1960年の会長室で黒田暲之助氏が口にしたのは、ルーズリーフが売れ、バインダーが売れ、それを納める入れ物が要る、という一続きの話だけであった。鋼製家具という新分野の宣言ではなく、紙製品に付いてまわる入れ物の話に組み替えてある。言い換えは父を通すための方便にとどまらず、参入の設計そのものでもあったとみられる。工場は建てず協力工場に作らせ、文具店までつながる自前の販売網に乗せた。売る力の延長として始めたので、しくじっても紙製品の本体は傷まない。

自家生産へ移るまでには11年を要した。その間スチール製品の大半は6社からの仕入販売で、品質では先発2社に一日の長があると社内でも認めていた。首位に立った後の1981年9月期は、競争の激化で6年ぶりの経常減益に沈んでいる。それでも黒田暲之助氏は、以後の多角化に踏み出すたびに、父を納得させるにはどうしたらよいか、既存事業とどこでどうつながるかを自らに問うたという。先代を説く作法が、そのまま事業を選ぶ基準になったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

紙製品の伸びが止まった1950年代末

戦後の青色申告制度の広がりに乗って帳簿と便せんを伸ばした黒田国光堂は、中小企業向けの帳簿類で市場の80%以上を押さえていた。ところが1957年ごろから売上高の伸びは年に1、2億円程度にとどまる。創業から55年を経た1960年でも年商は約40億円であった。市場に商品が行き渡り、強い新製品も出ていない。黒田暲之助氏は当時を、このまま安全運転はできるが将来を思えば危機的な状態であったと振り返っている[1][2]

販売先にも偏りがあった。帳簿も便せんも売れる相手は中小企業と一般消費者に限られ、黒田暲之助氏には、一流といわれる企業のオフィスで使ってもらえないものかという思いが長く残っていた。紙製品は全盛で、目に見える不安があったわけではない。それでも水平線の彼方に小さな雲が見え、手をこまねいていればいつか黒雲になって襲ってくるのではないか、という感覚を書き残している[3]

オフィス革命の兆しと、使える販売網

1950年代の後半になると、外の動きが見えてきた。大企業へ出入りする納品業者の間で、デスクやキャビネットなどスチール製品に力を入れる機運が出てくる。一方でIBMの日本上陸が話題に上り、オフィス革命と呼ばれる変化の兆しが感じられた。早く流れに乗らなければ立ち遅れるという焦りにも似た思いが、日を追ってつのったと黒田暲之助氏は記している[4]

参入を支える売り先も育っていた。1950年に東京の伊藤商店がコクヨ製品だけを扱う専門代理店になったのを皮切りに、同種の卸が各地に生まれ、20社に達した1957年には全国コクヨ専門店会が発足する。コクヨ製品しか置かない一次卸が地域ごとに並ぶ販売網であり、新しい商品を流す経路としてそのまま使える見込みがあった[5]

決断

紙製品メーカーという自己定義を説き崩す

最大の障害は、会長に退いた父の黒田善太郎氏であった。善太郎氏にとってのコクヨは紙製品メーカーであり、和帳から帳票、便せんへと品目を広げてもなお紙製品の域を一歩も出ていない。1960年1月に社長を継いだ黒田暲之助氏も、何でも好き勝手にやっていいという雰囲気ではなかったと書いている。先代が紙製品の伝統に固執して新製品への参入をなかなか許さず、毎日が先代との戦いであったとも語り残している[6][7]

社内外への根回しを終えたうえで、黒田暲之助氏は弟の靖之助氏と2人で会長室に立った。持ち出したのはルーズリーフの好調である。リーフをとじるバインダーも売れ、帳票類を収めるファイルの需要も増えている。ならばそれらを納める入れ物が要る、そこでキャビネットも作りたい。鋼という語は一度も使わなかった。善太郎氏はそれは道理だと応じ、拍子抜けするほどあっさり許しを出した[8]

工場を持たずに始める

有価証券報告書の沿革は、鋼製家具およびファイリング用品の販売開始を1960年4月と記す。『私の履歴書』巻末の年譜では1959年5月に販売準備、翌1960年5月にファイリングキャビネット発売とあり、いずれにせよ社長交代の直後にあたる。始め方は慎重であった。自前の工場は建てず、当初は協力工場に作らせ、そこへコクヨの商標を付けて売った[9][10]

この仕入販売の形は長く続いた。1971年3月の上場に際して開示された1970年9月期の販売実績では、スチール製品が34.9%を占めながら、その大半は他社製品の仕入販売である。仕入先は共栄興業、メイコー、稲葉製作所、桝田製作所、チトセフ、フジコーの6社であった。参入から10年を経てなお、コクヨが持ち込んだのは作る力ではなく売る力であった[11]

結果

品目の拡張と、11年後の自家生産

品目は順に増えた。キャビネットを皮切りにロッカー、1965年10月にスチールデスク、翌1966年に事務用イス、1967年に学習机が並ぶ。デスクの生産へ踏み込んだ1965年以降が本格参入にあたる。自家生産へ移ったのは上場直後の1971年7月で、大阪府柏原市に柏原工場を新設し、家具製品の自家生産体制を確立した。参入から11年が過ぎていた[12][13]

柏原工場への投資は16億円ほどであった。必要な200人は深江・八尾両工場の合理化で浮いた人員の配転で賄い、新規採用は1人も出していない。紙製品の生産を自動機で締め、そこで余った人手を鋼の組立へ回す。新事業に要る人を既存事業の合理化から出す組み立てになっていた。工場計画を打ち出したころ、紙製品の熟練工である社員の夫婦3組が日曜日に黒田暲之助氏の自宅を訪ね、仕事が広がる職場へ移りたいと申し出ている[14][15]

主力の入れ替わり

主力は入れ替わった。売上構成比でみると、1966年度は紙製品72.3%に対し家具は10.1%にすぎない。それが1971年度に35.2%、1981年度には45.9%となり、紙製品の32.6%を上回る。出荷額でも1978年以降、岡村製作所とイトーキの先発2社を抜いて業界首位に立ち、1980年度の家具部門599億円は岡村の525億円、イトーキの486億円を上回った[16]

伸びを支えたのは流通であった。紙製品で築いた代理店と小売店の網に新製品を乗せたため、先発2社が直販で押さえていた中堅以上の企業や官公庁とは売り先が重ならない。家具事業部長の黒田章裕氏は、流通ルートも売り先もほとんど競合せずにシェアを高められたと述べ、同時に品質では先発2社に一日の長があるとも認めていた。1981年9月期はスチール家具の競争激化で6年ぶりの経常減益となった[17][18]

出典・参考
  • 黒田暲之助『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1986年)
  • 証券アナリストジャーナル 1980年3月号「企業 コクヨ 時代を先取りして業容を積極拡大」(黒田暲之助)
  • 証券アナリストジャーナル 1977年3月号「企業 コクヨ 消費者の"求め"を指針に」(黒田暲之助)
  • 日経ビジネス 1981年11月30日号「ケーススタディ コクヨ/紙→スチール→OA "オフィスはおまかせ"」
  • 証券 1971年3月号「新規上場会社紹介(第二部・その他製造業) コクヨ株式会社」
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】

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