三菱鉛筆 の歴史

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創業 1887年
創業者 眞崎仁六
創業地 東京・内藤新宿(現・新宿区)
創業
1887年、眞崎仁六氏が東京・内藤新宿(現・新宿区)で眞崎鉛筆製造所を創業し、水車を動力に鉛筆の製造を始めた。佐賀県の出身で、1878年のパリ万国博覧会で鉛筆を目にして国産化を志したが、当時の日本に量産の技術はなく、黒鉛と粘土を練り合わせて焼き固める芯の製法から独力で試すほかなく、実用に足る製品まで約10年を要している。創業のころ鉛筆は一般に知られておらず、輸入品を使うのは一部の官庁だけで、返品が相次いだ。1901年に逓信省が正式採用したことで社業の基礎が固まる。1903年には三つのダイヤを組み合わせた図案を商標に登録し、三菱財閥が同じ意匠を登録したのはその10年後にあたる。1925年4月17日に色鉛筆の大和鉛筆と合併して眞崎大和鉛筆となり、1952年に三菱鉛筆へ商号を改めた。
決断
品目を広げた30年が戻せなかった売上を、1本のボールペンが戻した。1962年の上場に際し、三菱鉛筆は5年後に鉛筆60%・非鉛筆40%の総合文具メーカーをめざすと表明した。1975年3月に手芸用品のホビーラホビーレ、1979年2月に粘着テープのユニ工業を設立し、1990年5月には英国のROYAL SOVEREIGNを買収して海外に製造拠点を持つ鉛筆の外へ品目を広げる。それでも連結売上高は2001年12月期の627億円から2005年12月期の539億円へ4年で87億円減り、英国のメーカーは2002年5月に売却した。2006年7月末、単色1本150円の油性ボールペンを発売する。芯の仕様を先に固定したことが、軸を替えるだけで商品を増やす方法を作り、2012年12月期の505億円から2014年12月期の603億円へ売上を戻した。
現況
過去最高益の翌期に、利益は4割減った。2024年3月にドイツ・ハイデルベルクの筆記具メーカーC. Josef Lamyの全持分を取得し、2024年12月期の連結売上高は888億円で18.7%増、当期純利益112億円と過去最高を更新した。ところが2025年12月期は売上高898億円と1.1%増にとどまり、営業利益96億円で20.5%減、当期純利益62億円で44.7%減となる。欧州でPOSCAを中心とした流通在庫の調整が長引いたためである。売上の97%は筆記具及び筆記具周辺商品事業が占め、地域別では日本383億円、欧州171億円、アジア159億円、米国126億円で海外が57%を占める。取得した会社の市場が最大の海外市場になったことが、業績を欧州の在庫の動きに委ねた。
競合
数を売るのではなく、単価で差をつけてきた。1962年の上場時、トンボ鉛筆やコーリン鉛筆を含む同業およそ70社のなかで、三菱鉛筆は販売量の30%、販売金額の45%を占め、金額のシェアが量を15ポイント上回っている。1958年に海外製品にも劣らない品質を掲げた『ユニ』、1966年に『ハイユニ』を出して高価格帯を自ら作ったことが、この差を生んだ。2000年代前半は安価な海外製品の流入で価格低下の圧力が強まったが、値ごろな品を並べる側へは動いていない。同じ選び方は海外でも変わらず、2016年のMITSUBISHI PENCIL France、2024年のLAMYと、量産の工場ではなく老舗ブランドを取得して拠点を増やした。
三菱鉛筆:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2012年12月期2025年12月期

創業ストーリー パリ万博で見た鉛筆を10年かけて国産化し、逓信省に納めるまで(1878〜1925) (1878年〜)

パリ万国博覧会で鉛筆を見て、水車で作りはじめた

三菱鉛筆の創業者である眞崎仁六氏[1]は、1878年のパリ万国博覧会で鉛筆を目にし[2]、その国産化を志した。佐賀県の出身で、当時の日本には鉛筆を量産する技術[3]がなかった。黒鉛と粘土を練り合わせて焼き固める芯の製法から独力で試すほかなく、実用に足る製品にたどり着くまでに約10年を費やした[4]。1887年、東京・内藤新宿で眞崎鉛筆製造所を創業[5]し、水車を動力として鉛筆の製造を始めた[6]。創業の時点で国内に鉛筆を量産する事業者はほとんどなく、官庁が使っていたのは輸入品だった[7]。三菱鉛筆はこの創業の年から、『最高の品質こそ 最大のサービス』[引用元]を社是に掲げている[8]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)「三菱鉛筆」
    • [1]創業者は眞崎仁六。佐賀県の出身
    • [2]明治11年(1878年)のパリ万国博覧会で鉛筆を見て、その国産化を思い立った
    • [3]明治11年のパリ万国博覧会で鉛筆を見た「佐賀県の人」眞崎仁六が国産化を思い立った。創業のころ鉛筆は一般大衆には全く未知のもので、わずかに一部の官庁(主として逓信省)が輸入品を用いていた
    • [4]約10年間苦心の末に鉛筆の製造にこぎつけた
    • [6]明治20年(1887年)に眞崎鉛筆製造所を設立し、水車を動力として鉛筆の製造を開始したのが同社の創業にあたる
    • [7]創業のころ鉛筆は一般大衆には全く未知のもので、わずかに一部の官庁(主として逓信省)が輸入品を用いていた
  • 三菱鉛筆 有価証券報告書【沿革】
    • [5]有価証券報告書【沿革】は「眞崎鉛筆製造所として東京都四谷区内藤新宿1番地において創業」と記す
  • 三菱鉛筆 有価証券報告書【経営方針、経営環境及び対処すべき課題等】(第151期)
    • [8]当社グループは1887年(明治20年)の創業以来、「最高の品質こそ 最大のサービス」を社是としている

創業からしばらくは苦しい時期が続いた[9]。眞崎仁六氏は日本にも鉛筆を普及させたいと願い、『はさみ鉛筆』を一本ずつ販売することから事業を始めた[10]。鉛筆は一般には知られておらず、眞崎鉛筆製造所の製品は市場での馴染みが薄いうえ、品質でも輸入品に及ばなかった[11]。納めた先からの返品が相次ぎ[12]、事業は容易に軌道に乗らなかった。転機は1901年に訪れる。この年に逓信省が同社の鉛筆を正式に採用し[13]、官庁需要という安定した販路を得たことで社業の基礎が固まった[14]。国産鉛筆が官の調達品として認められるまでに、創業から14年を要した[15]ことになる。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)「三菱鉛筆」
    • [9]創業のころ鉛筆は一般大衆には全く未知のものだった
    • [11]同社の製品は馴染みがうすい上、品質の面でもおくれていた
    • [12]返品に悩まされる苦難の時が続いた
    • [13]明治34年(1901年)に逓信省の正式採用が決まった
    • [14]逓信省の正式採用により社業の基礎が固まった
    • [15]創業は1887年、逓信省の正式採用は1901年で、その間は14年
  • 三菱鉛筆 有価証券報告書【経営方針、経営環境及び対処すべき課題等】(第151期)
    • [10]創業者である眞崎仁六が日本にも鉛筆を普及させたいと願い、「はさみ鉛筆」を一本ずつ販売することから事業が始まった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)「三菱鉛筆」
    • [1]創業者は眞崎仁六。佐賀県の出身
    • [2]明治11年(1878年)のパリ万国博覧会で鉛筆を見て、その国産化を思い立った
    • [3]明治11年のパリ万国博覧会で鉛筆を見た「佐賀県の人」眞崎仁六が国産化を思い立った。創業のころ鉛筆は一般大衆には全く未知のもので、わずかに一部の官庁(主として逓信省)が輸入品を用いていた
    • [4]約10年間苦心の末に鉛筆の製造にこぎつけた
    • [6]明治20年(1887年)に眞崎鉛筆製造所を設立し、水車を動力として鉛筆の製造を開始したのが同社の創業にあたる
    • [7]創業のころ鉛筆は一般大衆には全く未知のもので、わずかに一部の官庁(主として逓信省)が輸入品を用いていた
    • [9]創業のころ鉛筆は一般大衆には全く未知のものだった
    • [11]同社の製品は馴染みがうすい上、品質の面でもおくれていた
    • [12]返品に悩まされる苦難の時が続いた
    • [13]明治34年(1901年)に逓信省の正式採用が決まった
    • [14]逓信省の正式採用により社業の基礎が固まった
    • [15]創業は1887年、逓信省の正式採用は1901年で、その間は14年
  • 三菱鉛筆 有価証券報告書【沿革】
    • [5]有価証券報告書【沿革】は「眞崎鉛筆製造所として東京都四谷区内藤新宿1番地において創業」と記す
  • 三菱鉛筆 有価証券報告書【経営方針、経営環境及び対処すべき課題等】(第151期)
    • [8]当社グループは1887年(明治20年)の創業以来、「最高の品質こそ 最大のサービス」を社是としている
    • [10]創業者である眞崎仁六が日本にも鉛筆を普及させたいと願い、「はさみ鉛筆」を一本ずつ販売することから事業が始まった

三つのダイヤは、三菱財閥より10年早く登録された

1903年、眞崎鉛筆製造所は三つのダイヤを組み合わせた図案を商標として登録した[16]。逓信省の指定商品として採用された局用鉛筆1号・2号・3号の3種を表徴する商標[17]であり、三種が採用された喜びを後世に伝える意味[18]と、眞崎家に代々伝わる家紋『三鱗』[19]を象徴する意味を込めていた。この意匠は以後、社章として使われている[20]。三菱財閥が同じ三つの菱形を商標に登録するのは、これより10年後のことだった[21]。1952年に社名を三菱鉛筆へ変えたのも、この商標が商品名として先に定着していたため[22]だった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)「三菱鉛筆」
    • [16]明治36年(1903年)に三個のダイヤを商標登録した
    • [18]一号、二号、三号の三種の鉛筆が始めて逓信省に採用された喜びを後世に伝えるためだった
    • [19]三種の鉛筆と眞崎家代々の家紋「三鱗」を象徴するものとして三個のダイヤを商標とした
    • [20]商標登録のときから社章として使用している
    • [21]三菱財閥の登録に先立つこと10年であった
  • 三菱鉛筆 有価証券報告書【沿革】
    • [17]逓信省指定商品として採用された局用鉛筆1号、2号、3号の三種の鉛筆を表徴する商標として「三菱」のマークを登録した
    • [22]1952年6月、商号と商品名の統一を図るため、眞崎大和鉛筆株式会社の社名を三菱鉛筆株式会社と改称した

1916年、眞崎鉛筆製造所は品川区大井町に工場を新設して移転した。創業の地である内藤新宿から、生産の場を移したことになる。大正に入ると、第一次世界大戦により欧州からの輸入が途絶えて[23]国産品への需要が高まり、社業は飛躍した[24]。1925年4月17日、眞崎鉛筆製造所は色鉛筆の製造を専業として独自の地位を占めていた大和鉛筆と合併[25]し、資本金13万5000円の眞崎大和鉛筆株式会社[26]として発足した。黒芯を得意とする自社と色芯の大和鉛筆が一つになったことで、両方の分野で国内首位の地歩を固めた[27]。現在の三菱鉛筆は、この1925年4月17日を会社の設立日[28]としている。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)「三菱鉛筆」
    • [23]大正時代になるや欧州大戦により輸入の杜絶もあって社業は一層の飛躍を遂げた
    • [24]輸入途絶により社業は一層の飛躍を遂げた
    • [25]大正14年4月17日、色鉛筆の製造を専業とし独自の地位を占めていた大和鉛筆を合併して眞崎大和鉛筆株式会社となった
    • [27]合併により黒芯、色芯ともに国内第一人者の地歩を確立した
  • 証券 1962年11月号
    • [26]合併により発足した眞崎大和鉛筆株式会社の資本金は135千円
    • [28]証券1962年11月号は「設立 大正14年4月17日」と記す。有価証券報告書【沿革】は「1925年4月 大和鉛筆株式会社と合併し、眞崎大和鉛筆株式会社設立」として日までは記載しない
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)「三菱鉛筆」
    • [16]明治36年(1903年)に三個のダイヤを商標登録した
    • [18]一号、二号、三号の三種の鉛筆が始めて逓信省に採用された喜びを後世に伝えるためだった
    • [19]三種の鉛筆と眞崎家代々の家紋「三鱗」を象徴するものとして三個のダイヤを商標とした
    • [20]商標登録のときから社章として使用している
    • [21]三菱財閥の登録に先立つこと10年であった
    • [23]大正時代になるや欧州大戦により輸入の杜絶もあって社業は一層の飛躍を遂げた
    • [24]輸入途絶により社業は一層の飛躍を遂げた
    • [25]大正14年4月17日、色鉛筆の製造を専業とし独自の地位を占めていた大和鉛筆を合併して眞崎大和鉛筆株式会社となった
    • [27]合併により黒芯、色芯ともに国内第一人者の地歩を確立した
  • 三菱鉛筆 有価証券報告書【沿革】
    • [17]逓信省指定商品として採用された局用鉛筆1号、2号、3号の三種の鉛筆を表徴する商標として「三菱」のマークを登録した
    • [22]1952年6月、商号と商品名の統一を図るため、眞崎大和鉛筆株式会社の社名を三菱鉛筆株式会社と改称した
  • 証券 1962年11月号
    • [26]合併により発足した眞崎大和鉛筆株式会社の資本金は135千円
    • [28]証券1962年11月号は「設立 大正14年4月17日」と記す。有価証券報告書【沿革】は「1925年4月 大和鉛筆株式会社と合併し、眞崎大和鉛筆株式会社設立」として日までは記載しない

生産再開から5年で戦前に戻り、経営は数原家が担った

戦時中の1940年5月には子安工場を、1944年12月には小松工場を新設していた[29]が、第二次世界大戦により眞崎大和鉛筆は全施設を失った[30]。子安工場は現在の横浜事業所、小松工場は現在の山形工場にあたり、いずれも戦後に再建され[31]、操業は今日まで続いている。それでも1946年には早くも生産を再開し[32]、1951年には戦前のピークにあたる生産水準へ戻した[33]。終戦時に70万円だった資本金は、1948年10月に300万円、1949年6月に800万円、1950年8月に1600万円[34]と短い間隔で積み増された。1953年11月には真和工業を吸収合併して資本金を2500万円とし、翌12月にはこれを5000万円へ倍増[35]させた。終戦から8年で資本金は70倍を超えた[36]

  • 三菱鉛筆 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1940年5月に子安工場(現・横浜事業所)、1944年12月に小松工場(現・山形工場)を新設
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)「三菱鉛筆」
    • [30]第二次大戦により全施設を失った
    • [32]昭和21年(1946年)には早くも生産を開始した
    • [33]昭和26年(1951年)に戦前のピークの生産量を達成した。明治百年は「日産五万五〇〇〇グロス」と記すが、1962年の年間販売量2,742千グロス(月産約22.9万グロス)および1968年の月産能力26万グロスと整合せず、月産の誤記とみられるため本文では数量を書かない
  • 三菱鉛筆 有価証券報告書【沿革】【主要な設備の状況】
    • [31]子安工場は現・横浜事業所、小松工場は現・山形工場。いずれも第151期【主要な設備の状況】に現存が記載されている
  • 証券 1962年11月号
    • [34]資本金は終戦時700千円、昭和23年10月に3,000千円、24年6月に8,000千円、25年8月に16,000千円
    • [35]昭和28年11月に真和工業株式会社(資本金800千円)を吸収合併し資本金を25,000千円へ、昭和28年12月に50,000千円へ増資
    • [36]終戦時700千円から昭和28年12月の50,000千円までは71.4倍

1952年、眞崎大和鉛筆は商号を三菱鉛筆へ変更した[37]。商品名と社名を統一するための変更[38]で、その月は資料により4月・5月・6月と分かれる。資本金の増強はその後も続き、1957年4月に7500万円、1959年4月に1億円、1961年10月には公募40万株を含む増資で1億5000万円[39]となった。この時期の本社は横浜市神奈川区入江町にあり、東京営業所を品川区大井立会町に置いていた[40]。取引銀行は日本興業銀行や住友銀行など7行[41]に及ぶ。1962年6月末の財務は支払手形3億9084万円と短期借入金3億1335万円が積み上がり、流動負債は総資産の55.5%を占めた[42]。自己資本は5億9732万円で、総資産の33%[43]にとどまる。

  • 三菱鉛筆 有価証券報告書【沿革】
    • [37]昭和27年に社名を三菱鉛筆に改めた(有価証券報告書は1952年6月、証券誌は昭和27年5月と記す)
    • [38]商号と商品名の統一を図るための商号変更だった
  • 証券 1962年11月号
    • [39]資本金は昭和32年4月に75,000千円、34年4月に100,000千円、36年10月に150,000千円(公募400千株を含む)
    • [40]本社は横浜市神奈川区入江町2丁目250番地、東京営業所は品川区大井立会町620番地
    • [41]取引銀行は日本興業銀行・住友銀行・三菱銀行・富士銀行・三和銀行・第一信託銀行・群馬銀行の7行
    • [42]昭和37年6月期末の支払手形390,836千円、短期借入金313,349千円、流動負債994,931千円は負債資本合計1,791,885千円の55.5%
    • [43]昭和37年6月期末の資本合計597,316千円は負債資本合計1,791,885千円の33.3%

戦後の経営は創業者の眞崎家ではなく数原家が担った[44]。1962年時点の会長は数原三郎氏、社長は数原洋二氏で、常務に大川義幸氏、取締役に数原祥三氏[45]が名を連ねた。大株主も数原洋二氏の10万4360株を筆頭に、数原三郎氏10万2200株、数原祥三氏7万7220株[46]と続いた。販売網の中核である三菱鉛筆東京販売が7万9600株、横浜銀行と日本興業銀行がそれぞれ8万株[47]を持つ。株主数は393名、平均持株数は7634株[48]で、株式数の49.3%を東京の株主が、24.4%を神奈川の株主が保有していた[49]。上場前の三菱鉛筆は、創業家の名を社名から外したうえで別の一族が経営と持株を握る会社[50]だった。

  • 証券 1962年11月号
    • [44]1962年時点の会長は数原三郎、社長は数原洋二、取締役に数原祥三。大株主も数原洋二104,360株・数原三郎102,200株・数原祥三77,220株と数原姓が並び、役員にも大株主にも眞崎姓は現れない
    • [45]1962年時点の役員は会長 数原三郎、社長 数原洋二、常務 大川義幸、取締役に大塚啓・田村文雄・桐谷文朗・坂本晃・数原祥三・青山当一
    • [46]大株主(昭和37年6月30日現在)は数原洋二104,360株、数原三郎102,200株、戎直吉102,000株、宮川好子99,670株、太田政吉83,770株、数原祥三77,220株
    • [47]大株主に三菱鉛筆東京販売79,600株、横浜銀行80,000株、日本興業銀行80,000株
    • [48]株式数3,000千株・株主数393名・平均持株数7,634株
    • [49]地域別の株式数比率は東京49.3%(1,480,650株)、神奈川24.4%(730,920株)、大阪6.6%(198,710株)
    • [50]1952年に社名を三菱鉛筆へ変更して創業家の名が社名から消え、1962年時点の経営と大株主は数原家が占める
  • 三菱鉛筆 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1940年5月に子安工場(現・横浜事業所)、1944年12月に小松工場(現・山形工場)を新設
    • [37]昭和27年に社名を三菱鉛筆に改めた(有価証券報告書は1952年6月、証券誌は昭和27年5月と記す)
    • [38]商号と商品名の統一を図るための商号変更だった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)「三菱鉛筆」
    • [30]第二次大戦により全施設を失った
    • [32]昭和21年(1946年)には早くも生産を開始した
    • [33]昭和26年(1951年)に戦前のピークの生産量を達成した。明治百年は「日産五万五〇〇〇グロス」と記すが、1962年の年間販売量2,742千グロス(月産約22.9万グロス)および1968年の月産能力26万グロスと整合せず、月産の誤記とみられるため本文では数量を書かない
  • 三菱鉛筆 有価証券報告書【沿革】【主要な設備の状況】
    • [31]子安工場は現・横浜事業所、小松工場は現・山形工場。いずれも第151期【主要な設備の状況】に現存が記載されている
  • 証券 1962年11月号
    • [34]資本金は終戦時700千円、昭和23年10月に3,000千円、24年6月に8,000千円、25年8月に16,000千円
    • [35]昭和28年11月に真和工業株式会社(資本金800千円)を吸収合併し資本金を25,000千円へ、昭和28年12月に50,000千円へ増資
    • [36]終戦時700千円から昭和28年12月の50,000千円までは71.4倍
    • [39]資本金は昭和32年4月に75,000千円、34年4月に100,000千円、36年10月に150,000千円(公募400千株を含む)
    • [40]本社は横浜市神奈川区入江町2丁目250番地、東京営業所は品川区大井立会町620番地
    • [41]取引銀行は日本興業銀行・住友銀行・三菱銀行・富士銀行・三和銀行・第一信託銀行・群馬銀行の7行
    • [42]昭和37年6月期末の支払手形390,836千円、短期借入金313,349千円、流動負債994,931千円は負債資本合計1,791,885千円の55.5%
    • [43]昭和37年6月期末の資本合計597,316千円は負債資本合計1,791,885千円の33.3%
    • [44]1962年時点の会長は数原三郎、社長は数原洋二、取締役に数原祥三。大株主も数原洋二104,360株・数原三郎102,200株・数原祥三77,220株と数原姓が並び、役員にも大株主にも眞崎姓は現れない
    • [45]1962年時点の役員は会長 数原三郎、社長 数原洋二、常務 大川義幸、取締役に大塚啓・田村文雄・桐谷文朗・坂本晃・数原祥三・青山当一
    • [46]大株主(昭和37年6月30日現在)は数原洋二104,360株、数原三郎102,200株、戎直吉102,000株、宮川好子99,670株、太田政吉83,770株、数原祥三77,220株
    • [47]大株主に三菱鉛筆東京販売79,600株、横浜銀行80,000株、日本興業銀行80,000株
    • [48]株式数3,000千株・株主数393名・平均持株数7,634株
    • [49]地域別の株式数比率は東京49.3%(1,480,650株)、神奈川24.4%(730,920株)、大阪6.6%(198,710株)
    • [50]1952年に社名を三菱鉛筆へ変更して創業家の名が社名から消え、1962年時点の経営と大株主は数原家が占める

「ユニ」を出し、年商25億円の規模で上場した

1958年、三菱鉛筆は海外製品にも負けない鉛筆をつくりたいという考えから、最高品質をうたう高級鉛筆『ユニ』を発売[51]した[52]。世界の水準を抜く品質[53]を掲げた製品だった。『ユニ』は以後の同社を代表する商品名となった[54]。1962年9月28日には東京証券取引所市場第二部に上場[55]した。上場時の資本金は2億5000万円[56]で、授権株式数1200万株のうち発行済みは500万株[57]だった。決算期は6月30日と12月31日の年2回[58]で、直前の1962年6月期の半期売上高は13億1937万円、当期純利益は1億3051万円[59]だった。前の半期の12億585万円と合わせると、1年間では25億2522万円[60]になる。1年前の同じ半期は11億5616万円で、1年で14%伸びた[61]ことになる。

  • 三菱鉛筆 有価証券報告書【経営方針、経営環境及び対処すべき課題等】(第151期)
    • [51]海外製品にも負けない鉛筆をつくりたいと考え、1958年に最高品質の鉛筆「ユニ」が生まれた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)「三菱鉛筆」
    • [52]昭和33年(1958年)に世界水準をぬく「ユニ」を発売した
    • [53]「ユニ」は世界水準をぬく品質の鉛筆として発売された
  • 三菱鉛筆 有価証券報告書【事業の内容】(第151期)
    • [54]「ユニ」の名は現在も社名・ブランド名に受け継がれている。第151期【事業の内容】は国内の主な製造会社として㈱ユニ・ユニポリマー㈱、その他の事業としてユニ工業㈱、海外の主な販売会社として uni-ball Corporation を挙げる
  • 証券 1962年11月号
    • [55]昭和37年9月28日に東京証券取引所市場第二部へ上場した
    • [56]上場時の資本金は250,000千円
    • [57]授権株式数12,000千株、未発行株式数7,000千株、上場株式数は旧3,000千株・新2,000千株
    • [58]決算期は6月30日と12月31日の年2回。したがって各期の売上高は半期の数字にあたる
    • [59]昭和37年6月期の売上高1,319,371千円、当期純利益130,510千円
    • [60]昭和36年12月期の売上高1,205,851千円。37年6月期と合わせた1年間は2,525,222千円
    • [61]昭和36年6月期の売上高は1,156,164千円

上場時点の販売構成は鉛筆が85.5%を占め、シャープナーが9.7%、各種ボールペンは3.0%[62]にとどまっていた。主力の鉛筆は墨芯と色芯に大別され、品目は100に及んだ[63]。販路は全国7ブロックに置いた販売会社を頂点として、その下に販売所50店、代理店30店、小売店およそ4万軒[64]が連なっていた。トンボ鉛筆やコーリン鉛筆を含む同業約70社のなかで、三菱鉛筆は販売量の30%、販売金額の45%を占めた[65]。金額のシェアは量のシェアを15ポイント上回った[66]。年間の販売量は274万2000グロス、金額では22億5681万円[67]だった。1グロスは144本なので、本数にすればおよそ3億9500万本[68]になる。

  • 証券 1962年11月号
    • [62]昭和37年6月期の販売内訳比率は鉛筆85.5%、シャープナー9.7%、各種ボールペン3.0%、その他1.8%
    • [63]主要製品である鉛筆は墨芯・色芯鉛筆に大別され、その種類は100品目に及んでいる
    • [64]全国7ブロックにある販売会社、その下部機構の販売所(50店)、代理店(30店)、小売店(約4万軒)等を通じ販売
    • [65]トンボ鉛筆、コーリン鉛筆を始め同業社約70社中、販売量で30%、販売金額では45%の占有率
    • [66]販売金額シェア45%と販売量シェア30%の差は15ポイント
    • [67]鉛筆の年間販売量は2,742千グロス、同金額2,256,810千円
    • [68]1グロスは144本。2,742千グロスは394,848千本にあたる

1962年の時点で、三菱鉛筆は鉛筆以外への拡張をすでに公言していた。上場に際して同社は、非鉛筆部門を拡充して5年後には鉛筆部門60%、非鉛筆部門40%とする総合文具メーカーをめざす[69]と表明した。当時の消費傾向として鉛筆が高級品へ移りつつあり、ボールペンの需要も旺盛だった[70]。ボールペンの増産に対処するため、横浜工場を1963年末までに約3億円かけて拡充する計画[71]を立てていた。年商25億円に対して1割強にあたる投資[72]である。同じ半期の広告宣伝費は8789万円で、一般管理販売費2億7739万円の32%、売上高の6.7%[73]を占めた。

  • 証券 1962年11月号
    • [69]今後も非鉛筆部門を拡充し5年後には鉛筆部門60%、非鉛筆部門40%とする総合文具メーカーをめざしている
    • [70]最近の消費傾向として鉛筆は高級品に移る傾向があり、またボールペンの需要も旺盛
    • [71]これら増産に対処すべく横浜工場を昭和38年末までに約3億円をかけ拡充する
    • [72]約3億円の投資は年間売上高2,525,222千円の11.9%にあたる
    • [73]昭和37年6月期の広告宣伝費87,892千円は一般管理販売費277,392千円の31.7%、売上高1,319,371千円の6.7%
  • 三菱鉛筆 有価証券報告書【経営方針、経営環境及び対処すべき課題等】(第151期)
    • [51]海外製品にも負けない鉛筆をつくりたいと考え、1958年に最高品質の鉛筆「ユニ」が生まれた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)「三菱鉛筆」
    • [52]昭和33年(1958年)に世界水準をぬく「ユニ」を発売した
    • [53]「ユニ」は世界水準をぬく品質の鉛筆として発売された
  • 三菱鉛筆 有価証券報告書【事業の内容】(第151期)
    • [54]「ユニ」の名は現在も社名・ブランド名に受け継がれている。第151期【事業の内容】は国内の主な製造会社として㈱ユニ・ユニポリマー㈱、その他の事業としてユニ工業㈱、海外の主な販売会社として uni-ball Corporation を挙げる
  • 証券 1962年11月号
    • [55]昭和37年9月28日に東京証券取引所市場第二部へ上場した
    • [56]上場時の資本金は250,000千円
    • [57]授権株式数12,000千株、未発行株式数7,000千株、上場株式数は旧3,000千株・新2,000千株
    • [58]決算期は6月30日と12月31日の年2回。したがって各期の売上高は半期の数字にあたる
    • [59]昭和37年6月期の売上高1,319,371千円、当期純利益130,510千円
    • [60]昭和36年12月期の売上高1,205,851千円。37年6月期と合わせた1年間は2,525,222千円
    • [61]昭和36年6月期の売上高は1,156,164千円
    • [62]昭和37年6月期の販売内訳比率は鉛筆85.5%、シャープナー9.7%、各種ボールペン3.0%、その他1.8%
    • [63]主要製品である鉛筆は墨芯・色芯鉛筆に大別され、その種類は100品目に及んでいる
    • [64]全国7ブロックにある販売会社、その下部機構の販売所(50店)、代理店(30店)、小売店(約4万軒)等を通じ販売
    • [65]トンボ鉛筆、コーリン鉛筆を始め同業社約70社中、販売量で30%、販売金額では45%の占有率
    • [66]販売金額シェア45%と販売量シェア30%の差は15ポイント
    • [67]鉛筆の年間販売量は2,742千グロス、同金額2,256,810千円
    • [68]1グロスは144本。2,742千グロスは394,848千本にあたる
    • [69]今後も非鉛筆部門を拡充し5年後には鉛筆部門60%、非鉛筆部門40%とする総合文具メーカーをめざしている
    • [70]最近の消費傾向として鉛筆は高級品に移る傾向があり、またボールペンの需要も旺盛
    • [71]これら増産に対処すべく横浜工場を昭和38年末までに約3億円をかけ拡充する
    • [72]約3億円の投資は年間売上高2,525,222千円の11.9%にあたる
    • [73]昭和37年6月期の広告宣伝費87,892千円は一般管理販売費277,392千円の31.7%、売上高1,319,371千円の6.7%

5年で鉛筆の比率は85%から70%へ下がった

1966年、三菱鉛筆はさらに上位の『ハイユニ』を発売した[74]。1967年の売上高は51億円[75]に達し、そのうち鉛筆が約70%、ボールペンが約15%、シャープナーが約8%[76]を占めた。1962年に85.5%だった鉛筆の比率は、5年で15ポイント下がった[77]ことになる。主力の鉛筆は月産26万グロスの生産能力を備え、金額で約50%のシェア[78]を持っていた。1968年時点の資本金は4億円、従業員は1233名で、本社は東京都品川区東大井[79]へ移った。鉛筆はすでに普及して伸び率が低くなったと自認しており、他の分野の伸び余地は大きいとして、将来は筆記具以外へも進出する計画[80]を立てていた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)「三菱鉛筆」
    • [74]昭和41年(1966年)に「ハイ・ユニ」を売り出した
    • [75]年間売上高は51億円(昭和42年)
    • [76]売上のうち鉛筆は約70%、ボールペン約15%、シャープナー約8%、残りはサインペン他
    • [78]主力の鉛筆は月産26万グロスの能力を有し、金額で約50%のシェアを持つ
    • [79]1968年時点の資本金4億円、従業員1233名、本社は東京都品川区東大井五の二三
    • [80]鉛筆はかなり普及し伸び率は低くなっているが、その他の分野にまだ伸び余地は大きく、将来は筆記具以外の分野にも進出を計画している
  • 証券 1962年11月号
    • [77]昭和37年6月期の鉛筆比率85.5%と1967年の約70%との差は15ポイント

1965年1月には、現在の群馬工場[81]にあたる藤岡工場を新設した[82]。1967年9月には大阪支店を設け[83]、西日本の販売網を厚くした。1972年5月、三菱鉛筆は東京証券取引所市場第一部への指定替え[84]を果たした。二部上場から10年足らずでの昇格だった。鉛筆の年間販売量は1962年の時点ですでに世界最大とされており[85]、1968年には品質と生産量の両面で世界のトップメーカーと評されていた[86]。1969年6月期の売上原価率は61.7%で、マックスの67.3%や伊藤喜工作所の73.2%を下回る[87]。単価の高さと原価の低さ[88]が同居していた。

  • 三菱鉛筆 有価証券報告書【沿革】
    • [81]藤岡工場は現在の群馬工場
    • [82]1965年1月に藤岡工場(現・群馬工場)を新設
    • [83]1967年9月に大阪支店を設置
    • [84]1972年5月に東京証券取引所市場第一部へ指定替え
  • 証券 1962年11月号
    • [85]鉛筆の年間販売量は世界最大の生産量である(1962年時点)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)「三菱鉛筆」
    • [86]品質・生産量ともに世界のトップメーカーとしての地位を占めている(1968年時点)
  • 証券 1970年4月号
    • [87]昭和44年6月期の売上原価率は三菱鉛筆61.7%、マックス67.3%、伊藤喜工作所73.2%
  • 証券 1962年11月号/証券 1970年4月号
    • [88]販売金額シェア45%に対し販売量シェア30%であり、かつ業界内で最も原価率が低い
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)「三菱鉛筆」
    • [74]昭和41年(1966年)に「ハイ・ユニ」を売り出した
    • [75]年間売上高は51億円(昭和42年)
    • [76]売上のうち鉛筆は約70%、ボールペン約15%、シャープナー約8%、残りはサインペン他
    • [78]主力の鉛筆は月産26万グロスの能力を有し、金額で約50%のシェアを持つ
    • [79]1968年時点の資本金4億円、従業員1233名、本社は東京都品川区東大井五の二三
    • [80]鉛筆はかなり普及し伸び率は低くなっているが、その他の分野にまだ伸び余地は大きく、将来は筆記具以外の分野にも進出を計画している
    • [86]品質・生産量ともに世界のトップメーカーとしての地位を占めている(1968年時点)
  • 証券 1962年11月号
    • [77]昭和37年6月期の鉛筆比率85.5%と1967年の約70%との差は15ポイント
    • [85]鉛筆の年間販売量は世界最大の生産量である(1962年時点)
  • 三菱鉛筆 有価証券報告書【沿革】
    • [81]藤岡工場は現在の群馬工場
    • [82]1965年1月に藤岡工場(現・群馬工場)を新設
    • [83]1967年9月に大阪支店を設置
    • [84]1972年5月に東京証券取引所市場第一部へ指定替え
  • 証券 1970年4月号
    • [87]昭和44年6月期の売上原価率は三菱鉛筆61.7%、マックス67.3%、伊藤喜工作所73.2%
  • 証券 1962年11月号/証券 1970年4月号
    • [88]販売金額シェア45%に対し販売量シェア30%であり、かつ業界内で最も原価率が低い

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三菱鉛筆の沿革1887〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1878〜1925年パリ万博で見た鉛筆を10年かけて国産化し、逓信省に納めるまで(1878〜1925)眞崎鉛筆製造所の創業と、輸入品を使う逓信省への納入・三菱マークの商標登録

1878年のパリ万国博覧会で鉛筆を見た眞崎仁六氏が、約10年の試作を経て1887年に眞崎鉛筆製造所を創業し、輸入品を使っていた逓信省を最初の顧客に据えた経営判断。返品に苦しんだのち1901年に正式採用が決まり、1903年には三種の局用鉛筆を表す三菱マークを商標登録した。

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★★★
逓信省指定の局用鉛筆の商標として「三菱」のマークを登録★★
品川区大井町に工場を新設移転
大和鉛筆と合併し眞崎大和鉛筆を設立★★★
1926〜1972年全施設を失った会社が「ユニ」で世界水準に届き、東証二部へ上場した(1926〜1972)子安工場(現・横浜事業所)を新設
小松工場(現・山形工場)を新設
商品名にそろえ社名を三菱鉛筆へ変更★★
東京証券取引所市場第二部に上場
藤岡工場(現・群馬工場)を新設
大阪支店を設置
東京証券取引所市場第一部へ指定替え
1972〜2005年鉛筆の外へ広げ、海外に出て、それでも売上が減り続けた(1972〜2005)手芸用品・粘着テープ・化粧品・印章への多角化と、英ROYAL SOVEREIGNの買収・売却

1973年の粘着テープ参入から2001年の印章事業の買収まで、三菱鉛筆が鉛筆の外へ事業を広げ、1990年に買った英ROYAL SOVEREIGNを2002年に売却して筆記具への集中へ戻した一連の判断。

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★★★
米国に MITSUBISHI PENCIL CORP., OF AMERICA を設立
ユニ工業を設立
本社社屋が竣工
英国に MITSUBISHI PENCIL CO.U.K. を設立
創業100年
数原英一郎英国 ROYAL SOVEREIGN を買収★★
数原英一郎山形三菱鉛筆精工を設立
数原英一郎シンガポールに MITSUBISHI PENCIL CO(S.E.A.) を設立
数原英一郎スペインに MITSUBISHI PENCIL ESPAÑA を設立
数原英一郎台湾三菱鉛筆股份有限公司を設立
数原英一郎豪州に MITSUBISHI PENCIL(AUSTRALIA) を設立
数原英一郎ベトナムに MITSUBISHI PENCIL VIETNAM を設立
数原英一郎印章・スタンプの永江印祥堂を買収
数原英一郎英国 ROYAL SOVEREIGN を売却★★
数原英一郎大阪支店を閉鎖
数原英一郎三菱鉛筆関西販売を設立
数原英一郎三菱鉛筆東京販売が西関東販売を合併
数原英一郎三菱鉛筆商務(香港)を設立
数原英一郎三菱鉛筆中国販売を設立
数原英一郎上海新華菱文具制造を設立
2006〜2025年摩擦を半分にしたボールペンが売上を反転させ、ドイツの老舗を買った(2006〜2025)数原英一郎摩擦を半減させた油性ボールペンの発売と、芯を固定した軸展開によるシリーズ化

2006年、三菱鉛筆が油性インクの溶剤を入れ替えて筆記摩擦を最大50%下げた『ジェットストリーム』を1本150円で発売し、以後は芯の仕様を固定したまま軸だけを替えて、年間1億本・国内120種類以上のシリーズへ広げた商品判断。

詳細を読む
★★★
数原英一郎深圳新華菱文具制造有限公司を設立
数原英一郎三菱鉛筆貿易(上海)有限公司を設立
数原英一郎三菱鉛筆岡山香川販売を買収
数原英一郎タイに MITSUBISHI PENCIL(THAILAND) を設立
数原英一郎MITSUBISHI PENCIL EUROPE SAS を設立
数原英一郎健亨万豊文具塑胶(深圳)を設立
数原英一郎三菱鉛筆関西販売が岡山香川販売を合併
数原英一郎フランスの MITSUBISHI PENCIL France を買収
数原英一郎三菱鉛筆中部販売が中部産業から事業を譲受
数原英一郎新本社社屋が竣工し研究開発などの一部組織を集約
数原英一郎北米に uni Mitsubishi Pencil North America を設立
数原英一郎北米に uni-ball Corporation を設立
数原滋彦横浜ロジスティクスセンターが竣工
数原滋彦東京証券取引所プライム市場へ移行
数原滋彦ドイツの筆記具メーカー C. Josef Lamy を買収★★★
数原滋彦インドに UNI LINC INDIA を設立
出典・参考
  • 三菱鉛筆 有価証券報告書【沿革】
  • 三菱鉛筆 有価証券報告書【経営方針、経営環境及び対処すべき課題等】(第151期)
  • 三菱鉛筆 有価証券報告書【沿革】【主要な設備の状況】
  • 三菱鉛筆 有価証券報告書【事業の内容】(第151期)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)「三菱鉛筆」
  • 証券 1962年11月号
  • 証券 1962年11月号/証券 1970年4月号
  • 証券 1970年4月号

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