三菱鉛筆の創業者である眞崎仁六氏[1]は、1878年のパリ万国博覧会で鉛筆を目にし[2]、その国産化を志した。佐賀県の出身で、当時の日本には鉛筆を量産する技術[3]がなかった。黒鉛と粘土を練り合わせて焼き固める芯の製法から独力で試すほかなく、実用に足る製品にたどり着くまでに約10年を費やした[4]。1887年、東京・内藤新宿で眞崎鉛筆製造所を創業[5]し、水車を動力として鉛筆の製造を始めた[6]。創業の時点で国内に鉛筆を量産する事業者はほとんどなく、官庁が使っていたのは輸入品だった[7]。三菱鉛筆はこの創業の年から、『最高の品質こそ 最大のサービス』[引用元]を社是に掲げている[8]。
創業からしばらくは苦しい時期が続いた[9]。眞崎仁六氏は日本にも鉛筆を普及させたいと願い、『はさみ鉛筆』を一本ずつ販売することから事業を始めた[10]。鉛筆は一般には知られておらず、眞崎鉛筆製造所の製品は市場での馴染みが薄いうえ、品質でも輸入品に及ばなかった[11]。納めた先からの返品が相次ぎ[12]、事業は容易に軌道に乗らなかった。転機は1901年に訪れる。この年に逓信省が同社の鉛筆を正式に採用し[13]、官庁需要という安定した販路を得たことで社業の基礎が固まった[14]。国産鉛筆が官の調達品として認められるまでに、創業から14年を要した[15]ことになる。
1903年、眞崎鉛筆製造所は三つのダイヤを組み合わせた図案を商標として登録した[16]。逓信省の指定商品として採用された局用鉛筆1号・2号・3号の3種を表徴する商標[17]であり、三種が採用された喜びを後世に伝える意味[18]と、眞崎家に代々伝わる家紋『三鱗』[19]を象徴する意味を込めていた。この意匠は以後、社章として使われている[20]。三菱財閥が同じ三つの菱形を商標に登録するのは、これより10年後のことだった[21]。1952年に社名を三菱鉛筆へ変えたのも、この商標が商品名として先に定着していたため[22]だった。
1916年、眞崎鉛筆製造所は品川区大井町に工場を新設して移転した。創業の地である内藤新宿から、生産の場を移したことになる。大正に入ると、第一次世界大戦により欧州からの輸入が途絶えて[23]国産品への需要が高まり、社業は飛躍した[24]。1925年4月17日、眞崎鉛筆製造所は色鉛筆の製造を専業として独自の地位を占めていた大和鉛筆と合併[25]し、資本金13万5000円の眞崎大和鉛筆株式会社[26]として発足した。黒芯を得意とする自社と色芯の大和鉛筆が一つになったことで、両方の分野で国内首位の地歩を固めた[27]。現在の三菱鉛筆は、この1925年4月17日を会社の設立日[28]としている。
戦時中の1940年5月には子安工場を、1944年12月には小松工場を新設していた[29]が、第二次世界大戦により眞崎大和鉛筆は全施設を失った[30]。子安工場は現在の横浜事業所、小松工場は現在の山形工場にあたり、いずれも戦後に再建され[31]、操業は今日まで続いている。それでも1946年には早くも生産を再開し[32]、1951年には戦前のピークにあたる生産水準へ戻した[33]。終戦時に70万円だった資本金は、1948年10月に300万円、1949年6月に800万円、1950年8月に1600万円[34]と短い間隔で積み増された。1953年11月には真和工業を吸収合併して資本金を2500万円とし、翌12月にはこれを5000万円へ倍増[35]させた。終戦から8年で資本金は70倍を超えた[36]。
1952年、眞崎大和鉛筆は商号を三菱鉛筆へ変更した[37]。商品名と社名を統一するための変更[38]で、その月は資料により4月・5月・6月と分かれる。資本金の増強はその後も続き、1957年4月に7500万円、1959年4月に1億円、1961年10月には公募40万株を含む増資で1億5000万円[39]となった。この時期の本社は横浜市神奈川区入江町にあり、東京営業所を品川区大井立会町に置いていた[40]。取引銀行は日本興業銀行や住友銀行など7行[41]に及ぶ。1962年6月末の財務は支払手形3億9084万円と短期借入金3億1335万円が積み上がり、流動負債は総資産の55.5%を占めた[42]。自己資本は5億9732万円で、総資産の33%[43]にとどまる。
戦後の経営は創業者の眞崎家ではなく数原家が担った[44]。1962年時点の会長は数原三郎氏、社長は数原洋二氏で、常務に大川義幸氏、取締役に数原祥三氏[45]が名を連ねた。大株主も数原洋二氏の10万4360株を筆頭に、数原三郎氏10万2200株、数原祥三氏7万7220株[46]と続いた。販売網の中核である三菱鉛筆東京販売が7万9600株、横浜銀行と日本興業銀行がそれぞれ8万株[47]を持つ。株主数は393名、平均持株数は7634株[48]で、株式数の49.3%を東京の株主が、24.4%を神奈川の株主が保有していた[49]。上場前の三菱鉛筆は、創業家の名を社名から外したうえで別の一族が経営と持株を握る会社[50]だった。
1958年、三菱鉛筆は海外製品にも負けない鉛筆をつくりたいという考えから、最高品質をうたう高級鉛筆『ユニ』を発売[51]した[52]。世界の水準を抜く品質[53]を掲げた製品だった。『ユニ』は以後の同社を代表する商品名となった[54]。1962年9月28日には東京証券取引所市場第二部に上場[55]した。上場時の資本金は2億5000万円[56]で、授権株式数1200万株のうち発行済みは500万株[57]だった。決算期は6月30日と12月31日の年2回[58]で、直前の1962年6月期の半期売上高は13億1937万円、当期純利益は1億3051万円[59]だった。前の半期の12億585万円と合わせると、1年間では25億2522万円[60]になる。1年前の同じ半期は11億5616万円で、1年で14%伸びた[61]ことになる。
上場時点の販売構成は鉛筆が85.5%を占め、シャープナーが9.7%、各種ボールペンは3.0%[62]にとどまっていた。主力の鉛筆は墨芯と色芯に大別され、品目は100に及んだ[63]。販路は全国7ブロックに置いた販売会社を頂点として、その下に販売所50店、代理店30店、小売店およそ4万軒[64]が連なっていた。トンボ鉛筆やコーリン鉛筆を含む同業約70社のなかで、三菱鉛筆は販売量の30%、販売金額の45%を占めた[65]。金額のシェアは量のシェアを15ポイント上回った[66]。年間の販売量は274万2000グロス、金額では22億5681万円[67]だった。1グロスは144本なので、本数にすればおよそ3億9500万本[68]になる。
1962年の時点で、三菱鉛筆は鉛筆以外への拡張をすでに公言していた。上場に際して同社は、非鉛筆部門を拡充して5年後には鉛筆部門60%、非鉛筆部門40%とする総合文具メーカーをめざす[69]と表明した。当時の消費傾向として鉛筆が高級品へ移りつつあり、ボールペンの需要も旺盛だった[70]。ボールペンの増産に対処するため、横浜工場を1963年末までに約3億円かけて拡充する計画[71]を立てていた。年商25億円に対して1割強にあたる投資[72]である。同じ半期の広告宣伝費は8789万円で、一般管理販売費2億7739万円の32%、売上高の6.7%[73]を占めた。
1966年、三菱鉛筆はさらに上位の『ハイユニ』を発売した[74]。1967年の売上高は51億円[75]に達し、そのうち鉛筆が約70%、ボールペンが約15%、シャープナーが約8%[76]を占めた。1962年に85.5%だった鉛筆の比率は、5年で15ポイント下がった[77]ことになる。主力の鉛筆は月産26万グロスの生産能力を備え、金額で約50%のシェア[78]を持っていた。1968年時点の資本金は4億円、従業員は1233名で、本社は東京都品川区東大井[79]へ移った。鉛筆はすでに普及して伸び率が低くなったと自認しており、他の分野の伸び余地は大きいとして、将来は筆記具以外へも進出する計画[80]を立てていた。
1965年1月には、現在の群馬工場[81]にあたる藤岡工場を新設した[82]。1967年9月には大阪支店を設け[83]、西日本の販売網を厚くした。1972年5月、三菱鉛筆は東京証券取引所市場第一部への指定替え[84]を果たした。二部上場から10年足らずでの昇格だった。鉛筆の年間販売量は1962年の時点ですでに世界最大とされており[85]、1968年には品質と生産量の両面で世界のトップメーカーと評されていた[86]。1969年6月期の売上原価率は61.7%で、マックスの67.3%や伊藤喜工作所の73.2%を下回る[87]。単価の高さと原価の低さ[88]が同居していた。
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| 1878〜1925年パリ万博で見た鉛筆を10年かけて国産化し、逓信省に納めるまで(1878〜1925) | 眞崎鉛筆製造所の創業と、輸入品を使う逓信省への納入・三菱マークの商標登録 1878年のパリ万国博覧会で鉛筆を見た眞崎仁六氏が、約10年の試作を経て1887年に眞崎鉛筆製造所を創業し、輸入品を使っていた逓信省を最初の顧客に据えた経営判断。返品に苦しんだのち1901年に正式採用が決まり、1903年には三種の局用鉛筆を表す三菱マークを商標登録した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 逓信省指定の局用鉛筆の商標として「三菱」のマークを登録 | ★★ | |||
| 品川区大井町に工場を新設移転 | ★ | |||
| 大和鉛筆と合併し眞崎大和鉛筆を設立 | ★★★ | |||
| 1926〜1972年全施設を失った会社が「ユニ」で世界水準に届き、東証二部へ上場した(1926〜1972) | 子安工場(現・横浜事業所)を新設 | ★ | ||
| 小松工場(現・山形工場)を新設 | ★ | |||
| 商品名にそろえ社名を三菱鉛筆へ変更 | ★★ | |||
| 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| 藤岡工場(現・群馬工場)を新設 | ★ | |||
| 大阪支店を設置 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部へ指定替え | ★ | |||
| 1972〜2005年鉛筆の外へ広げ、海外に出て、それでも売上が減り続けた(1972〜2005) | 手芸用品・粘着テープ・化粧品・印章への多角化と、英ROYAL SOVEREIGNの買収・売却 1973年の粘着テープ参入から2001年の印章事業の買収まで、三菱鉛筆が鉛筆の外へ事業を広げ、1990年に買った英ROYAL SOVEREIGNを2002年に売却して筆記具への集中へ戻した一連の判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 米国に MITSUBISHI PENCIL CORP., OF AMERICA を設立 | ★ | |||
| ユニ工業を設立 | ★ | |||
| 本社社屋が竣工 | ★ | |||
| 英国に MITSUBISHI PENCIL CO.U.K. を設立 | ★ | |||
| 創業100年 | ★ | |||
| 数原英一郎 | 英国 ROYAL SOVEREIGN を買収 | ★★ | ||
| 数原英一郎 | 山形三菱鉛筆精工を設立 | ★ | ||
| 数原英一郎 | シンガポールに MITSUBISHI PENCIL CO(S.E.A.) を設立 | ★ | ||
| 数原英一郎 | スペインに MITSUBISHI PENCIL ESPAÑA を設立 | ★ | ||
| 数原英一郎 | 台湾三菱鉛筆股份有限公司を設立 | ★ | ||
| 数原英一郎 | 豪州に MITSUBISHI PENCIL(AUSTRALIA) を設立 | ★ | ||
| 数原英一郎 | ベトナムに MITSUBISHI PENCIL VIETNAM を設立 | ★ | ||
| 数原英一郎 | 印章・スタンプの永江印祥堂を買収 | ★ | ||
| 数原英一郎 | 英国 ROYAL SOVEREIGN を売却 | ★★ | ||
| 数原英一郎 | 大阪支店を閉鎖 | ★ | ||
| 数原英一郎 | 三菱鉛筆関西販売を設立 | ★ | ||
| 数原英一郎 | 三菱鉛筆東京販売が西関東販売を合併 | ★ | ||
| 数原英一郎 | 三菱鉛筆商務(香港)を設立 | ★ | ||
| 数原英一郎 | 三菱鉛筆中国販売を設立 | ★ | ||
| 数原英一郎 | 上海新華菱文具制造を設立 | ★ | ||
| 2006〜2025年摩擦を半分にしたボールペンが売上を反転させ、ドイツの老舗を買った(2006〜2025) | 数原英一郎 | 摩擦を半減させた油性ボールペンの発売と、芯を固定した軸展開によるシリーズ化 2006年、三菱鉛筆が油性インクの溶剤を入れ替えて筆記摩擦を最大50%下げた『ジェットストリーム』を1本150円で発売し、以後は芯の仕様を固定したまま軸だけを替えて、年間1億本・国内120種類以上のシリーズへ広げた商品判断。 詳細を読む | ★★★ | |
| 数原英一郎 | 深圳新華菱文具制造有限公司を設立 | ★ | ||
| 数原英一郎 | 三菱鉛筆貿易(上海)有限公司を設立 | ★ | ||
| 数原英一郎 | 三菱鉛筆岡山香川販売を買収 | ★ | ||
| 数原英一郎 | タイに MITSUBISHI PENCIL(THAILAND) を設立 | ★ | ||
| 数原英一郎 | MITSUBISHI PENCIL EUROPE SAS を設立 | ★ | ||
| 数原英一郎 | 健亨万豊文具塑胶(深圳)を設立 | ★ | ||
| 数原英一郎 | 三菱鉛筆関西販売が岡山香川販売を合併 | ★ | ||
| 数原英一郎 | フランスの MITSUBISHI PENCIL France を買収 | ★ | ||
| 数原英一郎 | 三菱鉛筆中部販売が中部産業から事業を譲受 | ★ | ||
| 数原英一郎 | 新本社社屋が竣工し研究開発などの一部組織を集約 | ★ | ||
| 数原英一郎 | 北米に uni Mitsubishi Pencil North America を設立 | ★ | ||
| 数原英一郎 | 北米に uni-ball Corporation を設立 | ★ | ||
| 数原滋彦 | 横浜ロジスティクスセンターが竣工 | ★ | ||
| 数原滋彦 | 東京証券取引所プライム市場へ移行 | ★ | ||
| 数原滋彦 | ドイツの筆記具メーカー C. Josef Lamy を買収 | ★★★ | ||
| 数原滋彦 | インドに UNI LINC INDIA を設立 | ★ |
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事実根拠:出所(三菱鉛筆)