三菱鉛筆眞崎鉛筆製造所の創業と、輸入品を使う逓信省への納入・三菱マークの商標登録
鉛筆を輸入して売るか、自ら作って官庁に納めるか——眞崎仁六氏はなぜ10年の試作を選んだか
- 概要
- 1878年のパリ万国博覧会で鉛筆を見た眞崎仁六氏が、約10年の試作を経て1887年に眞崎鉛筆製造所を創業し、輸入品を使っていた逓信省を最初の顧客に据えた経営判断。返品に苦しんだのち1901年に正式採用が決まり、1903年には三種の局用鉛筆を表す三菱マークを商標登録した。
- 背景
- 当時の日本で鉛筆は一般大衆にまったく未知の品であり、使っていたのは一部の官庁、なかでも逓信省にほぼ限られ、その全量が輸入品であった。国内には作る技術も買う客も無く、眞崎氏は万博から創業まで約10年を試作に費やした。
- 内容
- 輸入品を仕入れて売るのではなく、水車を動力とする個人経営の製造所を興し、わが国で初めて鉛筆の製造を始めた。売り先は輸入品と品質を比べられる官庁に置き、鉛筆を知らない人々には「はさみ鉛筆」を一本ずつ売り歩いた。
- 含意
- 品質で輸入品に並ぶまで採用されない相手を最初の顧客に選んだため、創業後は返品が続いた。1901年の逓信省採用で社業の基礎が固まり、1903年の商標は社章として現在まで残る。1925年4月の大和鉛筆合併により、黒芯・色芯ともに国内第一人者の地歩を固めた。
顧客の品番が、そのまま社章になった
三菱鉛筆の社章は、自社の中から出てきた意匠ではない。三個のダイヤが表しているのは、逓信省に採用された局用鉛筆1号・2号・3号という顧客側の品番である。眞崎家代々の家紋である三鱗にも重ねられているが、三つという数は発注する側の区分から来ている。最初の顧客を官庁に置いた判断は、販路を一つ得たにとどまらず、会社が現在まで使い続ける印までを外から決めた。
顧客の側から名前をもらう関係は、品質でしか成り立たない。輸入品と同じ用途で、同じ基準で判定される場所に製品を置いた以上、劣れば返品され、並べば採用される以外の道は無かった。万博から正式採用まで23年、創業からでも14年がかかっている。三菱鉛筆がいまも1887年からの社是として品質だけを挙げるのは、その23年に代わる手立てを持たなかった事業の形をたどっているからだとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
鉛筆を使っていたのは、輸入品を買う官庁だけだった
1878年のパリ万国博覧会で、佐賀県出身の眞崎仁六氏は鉛筆を見た。日本ではまだ作られていない筆記具であり、眞崎氏はその国産化を思い立った。思い立った時点の国内に、鉛筆の市場と呼べるものはほとんど無かった。一般大衆にはまったく未知の品であり、使っていたのは一部の官庁、なかでも逓信省にほぼ限られていた。しかもその全量が輸入品で、作る技術も買う客も国内には存在しなかった[1][2]。
三菱鉛筆は、日本にも鉛筆を普及させたいという願いから創業者が事業を始めたと説明している。ただし、普及させる相手はまだ鉛筆を知らない人々であり、需要は自分で作り出すほかなかった。国産化の試作には約10年を要している。売れる商品を早く仕上げるための期間ではなく、国内で作れるかどうかを確かめるための10年だった。万博で鉛筆を見てから会社を興すまでに、1878年から1887年までの歳月が過ぎている[3][4]。
決断
輸入品を売る側ではなく、作る側に回る
1887年、眞崎氏は東京都四谷区内藤新宿1番地に眞崎鉛筆製造所を興した。個人経営であり、水車を動力として鉛筆の製造を始めている。輸入品を仕入れて売る道もあったはずだが、眞崎氏は作る側に回った。わが国で鉛筆の製造が始まったのは、この個人経営の製造所からである[5][6]。
売り先の選び方には、より強い意思が表れている。鉛筆を現に使っていたのは輸入品を買う官庁であり、そこへ納めるとは、輸入品と同じ卓の上で品質を比べられることを意味した。眞崎氏は、その逓信省を最初の顧客に据えた。一方で、まだ鉛筆を知らない人々には「はさみ鉛筆」を一本ずつ売り歩いている。官庁で品質を証明し、民間には一本ずつ広げる。創業期の販売は、この二本立てであった[7][8]。
結果
返品に追われた14年と、1901年の逓信省採用
創業から10年あまり、眞崎鉛筆製造所は返品に苦しんだ。製品は馴染みが薄いうえ、品質の面でも輸入品に遅れていたためである。輸入品と比べられる相手を最初の顧客に選んだ以上、この返品は避けようのない代償だった。転機は1901年に訪れる。逓信省の正式採用が決まり、社業の基礎が固まった。パリ万博から23年、創業から14年が経っていた[9]。
官庁への納入が決まった意味は、注文が安定したことにとどまらない。輸入品と同じ用途で使われ、同じ基準で判定される場に、国産の鉛筆が並んだことにある。三菱鉛筆はいまも「最高の品質こそ 最大のサービス」を社是に掲げ、1887年の創業以来のものと説明している。品質で輸入品に追いつく以外に道がない売り先を選んだ創業期の設計が、そのまま社是の形で残っている[10]。
三種の局用鉛筆から生まれた三菱マーク
1903年、眞崎鉛筆製造所は商標を登録した。逓信省に採用された局用鉛筆1号・2号・3号の三種を表す三個のダイヤであり、眞崎家代々の家紋である三鱗を象徴させている。採用された喜びを後世に伝えるための商標であり、以後これを社章として使ってきた。三菱財閥による商標の登録は、この10年後にあたる[11][12]。
商標が定まったのち、事業は輸入の途絶に助けられて伸びた。第一次世界大戦で欧州からの輸入が滞り、国産品への需要が国内に回ったためである。1916年には品川区大井町へ工場を新設移転した。1925年4月には、色鉛筆の専業として独自の地位を占めていた大和鉛筆を合併し、眞崎大和鉛筆株式会社が発足する。創業から38年を経て、黒芯・色芯の両方で国内第一人者の地歩を固めた[13][14]。
- 企業の歴史 : 明治百年 3編(東洋経済新報社, 1968)「三菱鉛筆」
- 証券 1962年11月号「新規上場会社紹介(第二部・その他製造業)三菱鉛筆株式会社」
- 三菱鉛筆 有価証券報告書【沿革】(2025年12月期)
- 三菱鉛筆 有価証券報告書【経営方針、経営環境及び対処すべき課題等】(2025年12月期)