コクヨの創業者である黒田善太郎氏は、1879年に富山市の商家に生まれた[1]。生家は1880年前後にマッチの製造へ乗り出し、女工だけで約100人[2]を抱えるまでになったが、神通川の河川敷に建てた新工場が1889年から1890年ごろの洪水で流された[3]。再建はならず、父の善三郎氏は1892年に世を去り[4]、善太郎氏は12歳で母と3人の弟妹を抱えた。家業を再興する当てのないまま19歳まで富山にとどまり[5]、北陸線が高岡まで通じたのを機に大阪へ出た。運送店と乾物店の奉公を経て20歳でマッチ製造会社に入った[6]が、機械化された製法は富山のやり方とまるで違い、半年で見切りをつけた。次に小僧として入ったのが堺筋備後町の小林紙店[7]で、ここから紙を商う道に入った。
小林紙店は紙の卸問屋で、和式帳簿の表紙の加工販売[8]も手がけていた。善太郎氏は番頭となって表紙の仲買い[9]に携わり、紙の買い付けから職人への発注、製品の販売までをひと通り身につけた。その仕事を元手に、1905年10月、27歳で大阪市西区に黒田表紙店を構え[10]、和式帳簿用表紙の製造を始めた[11]。開業のあいさつに行った先で、良い商売は世間が先に手をつけており残っているのは滓ばかりだと忠告された[12]。善太郎氏は滓であればあるほど人はやらないと受け止め、そこに精根を尽くす[13]と決めた。この決心は1954年に定めた社訓『天職』[14]の由来となった。
表紙だけでは商いが広がらない。創業から3年目[15]の1908年[16]、黒田表紙店は和式帳簿そのものの製造に踏み込んだ。当時の小売店は夜なべで版木印刷と製本をこなす和帳の製造業者[17]でもあり、既製の和帳を売り込むことは得意先をそのまま競合に変える意味を持った。小売店を一軒ずつ回る効率の悪さもあり、善太郎氏は卸問屋に協力を求める道を選んだ[18]。代理店を置くというより、一緒に仕事をする仲間を作るという考え方[19]であり、これが後年の販売網のもとになった。長男の黒田暲之助氏は、和帳こそが紙製品事業の始まりだった[20]と書き残している。
1913年5月、洋式帳簿の製造が始[21]まった。ただし洋式帳簿は複式簿記を前提とし[22]、採用するのは大企業と大商店に限られたうえ、印刷業へのオーダーメードが当たり前で、既製品として売る道はなかなか開けず[23]、販売には長く苦心した。1914年10月に店名を黒田国光堂へ改め[24]、1917年には商標として国誉を定めた[25]。国は越中、すなわち富山[26]を指す。大阪へ出るには呉羽山を越えねばならず、峠の茶屋で人を見送った[27]。自分の商品は故郷につながっている以上、郷土の名を汚し[28]てはならないと、善太郎氏は自らに言い聞かせていた。その心が国の光、国の誉れという商標に[29]なり、現在の社名もこの商標に由[30]来する。
生産設備も少しずつ整え、1922年には初の生産工場[31]となる猪飼野工場を設け[32]て洋式帳簿の自家生産に入った。輸入紙に頼っていた帳簿用紙は、1927年に王子製紙へ依頼して国産の帳簿紙を開発[33]してもらい、その原紙を生かして手形用紙や領収書用紙へ品目を広げた。1932年には便箋を発売[34]し、先発メーカーを超えるために伊東深水氏ら大家の描いた美人画の色紙を挿んだ。1936年11月には大阪市東成区の現在地へ事務所と工場を移し[35]、紙製品の全品種を一つの敷地で作れるようにし、1938年1月に個人商店から合名会社へ組織を改めた[36]。
1940年に入ると原材料の統制が強まり[37]、原紙は軍需関係へ優先して割り当てられた。軍需産業への転換を善太郎氏が拒んだ[38]ため、物資の配給が優先される輸出に活路を求めるほかなかった。暲之助氏は蘭領インドで青表紙ノートの需要があることに目をつけ、1940年12月に神戸を発ってスラバヤへ渡り、ジャワコクヨ商店を設けた[39]。1942年には新京の印刷会社を買い取って満州国誉印刷紙工を設立[40]し、満州政府印刷廠から紙幣や外食券の印刷を受注して、終戦の直前には従業員が3,000人にふくらんだ[41]。いずれも1945年8月の敗戦とともに放棄した[42]。
1949年5月12日、合名会社黒田国光堂は戦前の販売代理店だったコクヨ商店・東京国誉商店・西部コクヨ商店を合併し、資本金1,044万5,000円の株式会社黒田国光堂として発足した[43]。この時期に暲之助氏が副社長として製品企画と製造を、弟の靖之助氏が常務として営業を受け持つ[44]分担が定まった。追い風になったのはシャウプ勧告による税制改革[45]である。大衆課税へ移って青色申告が制度化されると、帳簿をつける事業者が全国で一気に増え[46]、既製の洋式帳簿の需要が広がった。1954年1月には大阪市東成区深江に深江工場を設け[47]、帳簿やルーズリーフの量産体制を整えた。
販売網もこの時期に形を得た。1950年6月[48]、東京で文具の卸問屋を営んでいた伊藤商店の伊藤賢治氏が善太郎氏を訪ね[49]、他社の商品を扱うのをやめてコクヨ製品だけで商売をしたいと申し出た[50]。他の仕入先に迷惑がかかると断られると、伊藤氏はすでに他社の代理店権を返上してきたと答えて引かず、これが専門代理店の第1号[51]となった。1957年1月には全国20社が会社の知らないところで相談して全国コクヨ専門店会を結成[52]し、黒田善太郎氏を親と思い黒田国光堂と生死を共にする覚悟を記した宣誓の一巻[53]を贈った。専門代理店はその後、一県に一社の割合で全国へ広がった[54]。
生産の側では機械化が課題として残った。1953年に800人まで増えた従業員[55]の仕事[56]は、紙を数える工程も表紙を差し込む工程も人手に頼っていた。暲之助氏は1956年9月に欧州へ渡って自動製造機械を探した[57]が、欧州でも帳票類はオーダーメードで、既製の帳票を世に出しているのは黒田国光堂だけだと気づいて[58]手ぶらで帰った。1958年4月にデュッセルドルフの印刷見本市で見つけたハンスビル社のノート製造機[59]が糸口になり、技師長を招いて開発させた7台を2億8,000万円で発注した。年商38億円の会社にとっては大きな買い物だった[60]。1960年1月、善太郎氏が会長に退き、暲之助氏が社長[61]に就いた。
社長に就いた暲之助氏には危機感があった。1957年ごろから[62]売上高の伸びは年に1億円か2億円にとどまり[63]、紙製品は市場に行き渡って強力な新製品も出ていなかった。業界の首位にはいたが、このまま安全運転を続ければ将来が危ういと考えた[64]。販売先が中小企業と一般消費者に偏っていた[65]ことも気にかかっていた。一流と呼ばれる企業のオフィスで使ってもらえないか[66]、という思いが長く胸にあった。1950年代後半には大企業への納品業者がデスクやキャビネットに力を入れ始め、IBMの日本上陸が話題にのぼる[67]など、オフィスの様子が変わる兆しも見えていた。
最大の障害は父だった。善太郎氏にとってのコクヨは紙製品のメーカー[68]であり、和帳から帳票、便箋へと品目を広げてはいても、紙の域を一歩も出ていない[69]。暲之助氏は弟の靖之助氏と2人で父の前に立ち[70]、ルーズリーフとバインダーが売れ、帳票を収める需要も増えているので、それを納める入れ物としてキャビネットを作りたいと説いた。鋼という語を一度も使わない説得[71]であり、父は道理だと認めて[72]許した。もっとも暲之助氏は後年の講演では、父が紙製品の伝統に固執して新製品への参入をなかなか許さず、毎日が先代との戦いだった[73]とも述べている。1960年4月、コクヨは鋼製家具とファイリング用品の販売[74]を始めたが、当初の生産は協力工場に任せ、コクヨの商標[75]で売った。
1961年6月、社名を黒田国光堂からコクヨ[76]へ改めた。大卒の定期採用が増えるなか、次の世代のために古い屋号を改める[77]と判断した。父は承知したが、あとで母から聞いたところでは残念だともらしていた[78]。同じ月には西ドイツ製の自動製造機械を据えた八尾工場が動き出し、便箋や複写簿の製造を機械へ置き換えた[79]。1962年12月には鳥取市に紙製品の製造会社である日本事務用品工業[80]を設けた。1965年10月にはスチールデスクを発売[81]して鋼製家具の品目を広げ、同じ1965年11月期に売上高は111億円へ伸びて初めて100億円を超えた[82]。社長就任時の売上高は約40億円で、創業から55年かけて到達した水準[83]だったから、6年足らずでその2倍半に届いたことになる。就任の年の11月には労働組合が結成後初のストライキに入った[84]。暲之助氏は第二組合を作る案を退けて正面から交渉し、労使は1961年9月の執行部交代で落ち着いた[85]。
1966年3月、善太郎氏が87歳で世[86]を去った。暲之助氏は一年間喪に服して新しいことをしないと決め[87]、経営者としての仕事を1967年以降に託した。その最初が本社ビルの建て替えで、1968年に旧本社を取り壊し[88]、1969年11月に地上8階、延べ面積8,767平方メートルの新社屋を完成させた[89]。旧本社の15倍の広さがあり[90]、社員が働く階も含めて全館に自社の鋼製家具を置き、応接室を大小32室設けた[91]。営業部門には赤いイスと黒い机、経理にはベージュ、開発には青[92]と、部門ごとに色を変えた。鋼製家具はカタログだけでは伝わらないという判断から、本社そのものをショールームにした[93]。
1969年10月、販売部門を担って1953年から休業状態にあった国誉商事がコクヨを吸収合併し[94]、商号をコクヨへ改めた。形式上の存続会社は国誉商事だが、営業の実態は被合併会社であるコクヨが引き[95]継いだ。1970年9月期に年間売上高が300億円を超え、証券会社の勧めもあって株式公開の準備に入った。社長就任から10年[96]が経とうとしていた。この体裁を整えたうえで1971年3月1日、東京と大阪の両証券取引所市場第二部へ株式を上場した。公開価格430円[97]に対して売り2万株に数百万株の買いが集まり、前場は値がつかず、大引け直前に720円で最初の売買が成立した[98]。翌1972年2月には両取引所の市場第一部へ指定替え[99]となった。父の死後も株式の9割以上を黒田一族が持っていた[100]が、上場によって株主は6,038人になった[101]。
上場時のコクヨは、事務用紙製品が売上の29.5%、日用と学用の紙製品が20.5%、鋼製品が34.9%、感光紙と事務機が15.1%[102]という構成だった。鋼製品はなお大半が他社からの仕入販売で[103]、1971年7月に大阪府柏原市へ柏原工場を建てて自社生産に踏み切った[104]。販売はコクヨ製品だけを扱う専門代理店47店が総売上の約8割を扱っ[105]た。1968年10月には取扱高の大きい小売店1,133社をコクヨジュウリーメンバーズとして組織[106]し、取引高に応じた5段階の格付けと報奨金の制度を設けた。専門代理店は1969年6月に総括店と改称[107]された。
紙製品への注文は1973年9月から急増し[108]、同年秋の石油危機[109]のあとで一段と加速した。倉庫のほこりでもいいから売ってほしいと言われるほど[110]で、最終消費者から電話や電報が入り、暲之助氏の自宅にまで催促が来た[111]。1974年1月末に集計した紙製品と文房具の注文残高は240億円[112]に達した。当時の生産能力は月に35億円ほどで、7か月分の注文を一度に抱えた[113]計算になる。周囲が熱に浮かされているときにかえって冷静になる癖があったという暲之助氏は、ノートや帳簿が急に2倍3倍と使われるはずはないと考え、思惑買いが混じっているのではないかと疑った[114]。
1974年2月、暲之助氏は全国の支店長を本社へ集め、注文をいったん全部白紙に戻すよう指[115]示した。そのうえで支店長が足で歩いて実際に必要な数量を数え直し、改めて注文を受け直す[116]ことにした。3月に集計した注文残は60億円へ、4月には10億円[117]へと、2か月で24分の1[118]に落ちた。逆に在庫が積み上がったため、3月から操業を短縮し、労働組合と事前に協議したうえで4月には紙製品の3割減産に入った[119]。同業他社が9月ごろまで増産を続けたのに対し、コクヨは半年早く[120]動いた。1975年9月期の売上高は624億円と前期を下回り、初の減収[121]となった。
1975年7月、社内の機構を一変[122]させた。それまでは資材・製造・営業・商品企画の4部制で全商品を一括して扱っていた[123]が、鋼製品の伸びに紙製品と同じ扱いでは追いつかなくなっていた。組織を紙製品、鋼製品、そして大口顧客への直販を担う特販の3事業部へ組み替え[124]、各部門の専務と常務からは全員が辞表を出させて配置し直した。本社勤務のおよそ500人のうち約400人を入れ替え[125]た。狙いは安い商品を供給できる体制を作ることにあり、デスクは2年半かけて1万3,000円のものと似た品を7,500円で作れるようにし、1,800円の折りたたみ椅子は1,100円で供給できるようにした[126]。工場の集約も並行して進めており、今里・深江・布施に分かれていた7工場から八尾へ寄せる作業は13年を要して1974年11月に終わった[127]。
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|---|---|---|---|---|
| 1905〜1960年和式帳簿の表紙から始まった大阪の紙製品メーカー(1905〜1960) | 黒田表紙店を大阪市西区に開業し和式帳簿用表紙の製造を開始 | ★★★ | ||
| 洋式帳簿の製造を開始 | ★★ | |||
| 店名を黒田国光堂に変更 | ★ | |||
| 大阪市東成区の現在地に事務所と工場を移転 | ★ | |||
| 合名会社黒田国光堂に組織変更 | ★ | |||
| 黒田善太郎 | 傍系3社と合併し資本金1,044万5,000円の黒田国光堂を設立 | ★★ | ||
| 黒田善太郎 | 大阪市東成区深江に深江工場を新設し帳簿・リーフの量産体制を確立 | ★ | ||
| 黒田暲之助 | 鋼製家具・ファイリング用品への参入と、協力工場生産によるコクヨ商標での販売 1960年4月、コクヨ(当時の商号は黒田国光堂)が鋼製家具とファイリング用品の販売を始めた経営判断。和式帳簿の表紙から出発した紙製品メーカーが、鋼の什器へ移った。同年1月に社長へ就いた黒田暲之助氏が、紙製品の伝統に固執する父で会長の黒田善太郎氏を説き、当初は協力工場に生産を委ねて自社商標で売る形をとった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 1960〜1975年紙から鋼へ、全館ショールームの本社と株式上場(1960〜1975) | 黒田暲之助 | 黒田国光堂からコクヨに社名を変更 | ★★ | |
| 黒田暲之助 | 大阪府八尾市に八尾工場を新設し便箋・複写簿の製造を合理化 | ★ | ||
| 黒田暲之助 | 鳥取市に紙製品の製造会社日本事務用品工業を設立 | ★ | ||
| 黒田暲之助 | 国誉商事と合併 | ★ | ||
| 黒田暲之助 | 東京・大阪両証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 黒田暲之助 | 大阪府柏原市に柏原工場を新設し家具の自家生産体制を確立 | ★ | ||
| 黒田暲之助 | 東京・大阪両証券取引所市場第一部に指定 | ★ | ||
| 黒田暲之助 | 岡山県真備町に間仕切の製造会社コクヨメーベルを設立 | ★ | ||
| 黒田暲之助 | 受注残240億円の全件白紙撤回と紙製品の3割減産、三事業部制への移行 1974年、石油危機で膨らんだ紙製品・文房具の受注残240億円を、黒田暲之助社長が全件白紙に戻し、支店長が数え直した実需に合わせて受け直した判断。3月から操業短縮に入り、労働組合との事前協議を経て紙製品を3割減産した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 1975〜1992年家具で首位に立ち、流通を情報でつなぐ(1975〜1992) | 黒田暲之助 | 千葉県八千代市に間仕切を製造する千葉工場を新設 | ★ | |
| 黒田靖之助 | 名古屋証券取引所市場第一部に上場 | ★ | ||
| 黒田靖之助 | 滋賀県秦荘町に紙製品の製造会社コクヨ工業滋賀を設立 | ★ | ||
| 黒田章裕 | 三重県名張市にデスクを製造する三重工場を新設 | ★ | ||
| 1993〜2025年通販の衝撃と業界再編、オフィスへの傾斜(1993〜2025) | 黒田章裕 | 千葉県芝山町にOA床材を製造する芝山工場を新設 | ★ | |
| 黒田章裕 | タイに初の海外製造会社コクヨIK(タイランド)を設立 | ★★ | ||
| 黒田章裕 | マレーシアにオフィス家具の製造会社コクヨ(マレーシア)を設立 | ★ | ||
| 黒田章裕 | 通販事業の子会社カウネットを設立 | ★★ | ||
| 黒田章裕 | 千葉工場を芝山工場に統合 | ★ | ||
| 黒田章裕 | 岡山工場を芝山工場に統合 | ★ | ||
| 黒田章裕 | 八尾工場を滋賀工場に統合 | ★ | ||
| 黒田章裕 | 全事業を会社分割し持株会社制に移行 | ★★ | ||
| 黒田章裕 | 中国に国誉商業(上海)有限公司を設立 | ★ | ||
| 黒田章裕 | ベトナムに事務用品の製造会社コクヨベトナムを設立 | ★ | ||
| 黒田章裕 | 中国に国誉家具商貿(上海)有限公司を設立 | ★ | ||
| 黒田章裕 | 東名阪の販売会社を統合しコクヨマーケティングを設立 | ★ | ||
| 黒田章裕 | コクヨマーケティングが中国販売・九州販売を吸収合併 | ★ | ||
| 黒田章裕 | コクヨファニチャーがコクヨオフィスシステムを吸収合併 | ★ | ||
| 黒田章裕 | コクヨファニチャーがコクヨストアクリエーションを吸収合併 | ★ | ||
| 黒田章裕 | インドの文具・画材メーカーであるコクヨカムリンを子会社化 | ★★ | ||
| 黒田章裕 | 名古屋証券取引所の上場を廃止 | ★ | ||
| 黒田章裕 | コクヨビジネスサービスと合併 | ★ | ||
| 黒田章裕 | 中国の国誉商業(上海)有限公司が上海工場を新設 | ★ | ||
| 黒田章裕 | 大阪証券取引所市場第一部が東京証券取引所市場第一部に統合 | ★ | ||
| 黒田英邦 | コクヨS&Tとコクヨファニチャーを吸収合併し事業会社に回帰 | ★★★ | ||
| 黒田英邦 | 店舗用什器のストア事業を三協立山に会社分割 | ★ | ||
| 黒田英邦 | コクヨエンジニアリング&テクノロジーと合併 | ★ | ||
| 黒田英邦 | ぺんてる株37%の取得と子会社化の試み、45.6%全株のプラスへの売却 2019年5月、コクヨが投資ファンドの保有するぺんてる株37%を間接取得し、11月15日には1株3,500円で議決権50%超を取ると発表した経営判断。プラスの対抗を受けて買付価格は3,750円まで上がったが過半数には届かず、2022年9月30日に保有する45.6%の全株をプラスへ売却して撤退した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 黒田英邦 | 東京証券取引所プライム市場に移行 | ★ | ||
| 黒田英邦 | 香港のオフィス家具メーカーHNI Hong Kongを子会社化 | ★★ | ||
| 黒田英邦 | 保有するぺんてる株45.6%をプラスに売却 | ★★ | ||
| 黒田英邦 | 指名委員会等設置会社へ移行 | ★★ | ||
| 黒田英邦 | 創業120周年に合わせコーポレートアイデンティティを刷新 | ★★ |
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事実根拠:出所(コクヨ)