コクヨ の歴史

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創業 1905年
創業者 黒田善太郎
創業地 大阪市西区
創業
1905年10月、黒田善太郎氏が大阪市西区で黒田表紙店を創業し、和式帳簿用の表紙の製造を始めた。富山の商家に生まれた同氏は、生家のマッチ工場が洪水で流されたのち大阪へ出て、堺筋備後町の小林紙店で紙を商う道に入っている。1908年に和式帳簿そのものの製造へ進み、1913年5月には洋式帳簿を手がけた。1914年10月に店名を黒田国光堂へ改め、1917年には郷里の越中にちなむ『国誉』を商標に定めている。1922年に猪飼野工場で自家生産に入り、1949年5月には戦前の販売代理店3社を合併して株式会社黒田国光堂として発足した。1961年6月、社名を現在のコクヨへ改めている。
決断
新しい商品は、紙で作った販売網に載せられるかどうかで選んできた。1960年4月、社長に就任した黒田暲之助氏は鋼製家具とファイリング用品の販売を始めた。当初の生産は協力工場に委ね、紙製品で築いた専門代理店と文具小売店の網へそのまま乗せている。1965年10月のスチールデスク発売を経て自家生産に入るのは1971年7月の柏原工場からで、販路が先、工場が後という順序を崩さなかった。1974年2月には石油危機で膨らんだ受注残240億円を全件白紙に戻し、支店長が足で数え直した実需に合わせて受け直した。注文残は2か月で240億円から10億円へ落ち、4月には紙製品を3割減産している。売り先を先に確かめてから設備を動かす手順が、石油危機の在庫整理を同業より半年早く終わらせた。
現況
文具の会社として知られながら、セグメント利益の3分の2は家具が生んでいる。2025年12月期の連結売上高3,599億円のうち、ファニチャー事業が1,706億円でセグメント利益261億円、ビジネスサプライ流通が1,026億円で55億円、ステーショナリーが628億円で71億円、インテリアリテールが236億円で7億円である。4事業の利益合計394億円に対し、ファニチャー1事業が261億円を占める。海外売上は441億円で全体の12%にとどまり、2022年7月に94億円で取得した香港のオフィス家具企業がその一部を担う。1960年に紙製品の入れ物として説明された鋼製家具が、現在は会社の利益のほとんどを引き受けている。
競合
同じ事務用品でも、商品で先に立った領域と流通で後れを取った領域が分かれた。鋼製家具の売上は1978年に岡村製作所とイトーキを抜いて首位に立ち、1980年度は599億円で両社の525億円と486億円を上回った。注文の受け方を先に変えたのはプラスで、1993年に同社が始めた法人向け通販のアスクルはインターネット受注による法人向けBtoB ECを先に確立した。コクヨが通販子会社カウネットを設けたのは2000年10月で、8年の差がついた。2019年にはぺんてる株37%を取得して子会社化に動き、筆記具の技術と海外販路を資本で得ようとしたが、プラスの対抗で議決権の過半に達せず、2022年9月に全株を売却している。海外売上比率はパイロットの69%、三菱鉛筆三菱鉛筆の47%に対し1割強にとどまる。ぺんてるを取得できなかったことで、海外へ持ち出せる商品を欠いたまま国内のオフィス需要に依存する構成が残った。
コクヨ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2012年12月期2025年12月期

創業ストーリー 和式帳簿の表紙から始まった大阪の紙製品メーカー(1905〜1960) (1905年〜)

富山のマッチ工場が流され、大阪で表紙張りを覚える

コクヨの創業者である黒田善太郎氏は、1879年に富山市の商家に生まれた[1]。生家は1880年前後にマッチの製造へ乗り出し、女工だけで約100人[2]を抱えるまでになったが、神通川の河川敷に建てた新工場が1889年から1890年ごろの洪水で流された[3]。再建はならず、父の善三郎氏は1892年に世を去り[4]、善太郎氏は12歳で母と3人の弟妹を抱えた。家業を再興する当てのないまま19歳まで富山にとどまり[5]、北陸線が高岡まで通じたのを機に大阪へ出た。運送店と乾物店の奉公を経て20歳でマッチ製造会社に入った[6]が、機械化された製法は富山のやり方とまるで違い、半年で見切りをつけた。次に小僧として入ったのが堺筋備後町の小林紙店[7]で、ここから紙を商う道に入った。

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [1]黒田善太郎は1879年(明治12)2月、富山市で黒田屋七代目・善三郎の長男として生まれた
    • [2]生家のマッチ製造は女工だけで約100人を抱える規模だった
    • [3]神通川河川敷の新工場は明治22、23年ごろの大洪水で流失した
    • [4]父の善三郎は明治25年(1892)2月に死去し、善太郎は12歳で、母と3人の弟妹が残された
    • [5]善太郎は19歳まで富山にとどまり、北陸線が金沢-高岡間に開通したのを機に大阪へ出た
    • [6]大阪で運送店・乾物店の奉公を経て、20歳で今宮のマッチ製造会社「電光社」に入ったが半年で辞めた
    • [7]次に勤めたのが堺筋・備後町の紙の卸問屋「小林紙店」で、これが紙製品の世界に入る一歩となった

小林紙店は紙の卸問屋で、和式帳簿の表紙の加工販売[8]も手がけていた。善太郎氏は番頭となって表紙の仲買い[9]に携わり、紙の買い付けから職人への発注、製品の販売までをひと通り身につけた。その仕事を元手に、1905年10月、27歳で大阪市西区に黒田表紙店を構え[10]、和式帳簿用表紙の製造を始めた[11]。開業のあいさつに行った先で、良い商売は世間が先に手をつけており残っているのは滓ばかりだと忠告された[12]。善太郎氏は滓であればあるほど人はやらないと受け止め、そこに精根を尽くす[13]と決めた。この決心は1954年に定めた社訓『天職』[14]の由来となった。

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [8]小林紙店は紙の卸問屋で、和表紙(和式帳簿の表紙)の加工販売も手掛けていた
    • [9]善太郎は小林紙店で番頭となり表紙の仲買いをするようになった
    • [12]創業のあいさつ回りで恩人から「ええ仕事は世間さまが先にやってしまっている。残っているのは滓の商売ばかりやと思いなさい」と忠告された
    • [13]善太郎は「滓の商売、結構やないか。滓であればあるほど人はやらない。一生うだつがあがらないかもしれんが、精根の限り滓の仕事をやってみよう」と決心した
    • [14]この逸話が昭和29年(1954)の創業50周年にあたって定めた社訓「天職」になった
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [10]1905年10月、故黒田善太郎の個人経営による黒田表紙店を大阪市西区において開業した
    • [11]黒田表紙店は和式帳簿用表紙の製造を開始した

表紙だけでは商いが広がらない。創業から3年目[15]の1908年[16]、黒田表紙店は和式帳簿そのものの製造に踏み込んだ。当時の小売店は夜なべで版木印刷と製本をこなす和帳の製造業者[17]でもあり、既製の和帳を売り込むことは得意先をそのまま競合に変える意味を持った。小売店を一軒ずつ回る効率の悪さもあり、善太郎氏は卸問屋に協力を求める道を選んだ[18]。代理店を置くというより、一緒に仕事をする仲間を作るという考え方[19]であり、これが後年の販売網のもとになった。長男の黒田暲之助氏は、和帳こそが紙製品事業の始まりだった[20]と書き残している。

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [15]表紙をつくり始めた当初から父は「滓の商売なりに、もっと手広くできないか」と考えており、和帳本体の品質が表紙の責任にされる理不尽さへの反発も手伝って和帳そのものの製造に進んだ
    • [16]創業から3年目の明治41年(1908)に和帳そのものの製造へ進んだ
    • [17]当時は小売店自体が夜なべで版木印刷・製本をする和帳業者であり、得意先がそのまま商売がたきになる構造だった
    • [18]小売店を一軒ずつ回る非効率を避けるため卸問屋に協力を求めた
    • [19]善太郎の考えは代理店ではなく「仲間づくり」であり、のちに「販売のコクヨ」を支える輪になった
    • [20]黒田暲之助は「和帳こそ当社の事業の出発点なのである」と記した
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [1]黒田善太郎は1879年(明治12)2月、富山市で黒田屋七代目・善三郎の長男として生まれた
    • [2]生家のマッチ製造は女工だけで約100人を抱える規模だった
    • [3]神通川河川敷の新工場は明治22、23年ごろの大洪水で流失した
    • [4]父の善三郎は明治25年(1892)2月に死去し、善太郎は12歳で、母と3人の弟妹が残された
    • [5]善太郎は19歳まで富山にとどまり、北陸線が金沢-高岡間に開通したのを機に大阪へ出た
    • [6]大阪で運送店・乾物店の奉公を経て、20歳で今宮のマッチ製造会社「電光社」に入ったが半年で辞めた
    • [7]次に勤めたのが堺筋・備後町の紙の卸問屋「小林紙店」で、これが紙製品の世界に入る一歩となった
    • [8]小林紙店は紙の卸問屋で、和表紙(和式帳簿の表紙)の加工販売も手掛けていた
    • [9]善太郎は小林紙店で番頭となり表紙の仲買いをするようになった
    • [12]創業のあいさつ回りで恩人から「ええ仕事は世間さまが先にやってしまっている。残っているのは滓の商売ばかりやと思いなさい」と忠告された
    • [13]善太郎は「滓の商売、結構やないか。滓であればあるほど人はやらない。一生うだつがあがらないかもしれんが、精根の限り滓の仕事をやってみよう」と決心した
    • [14]この逸話が昭和29年(1954)の創業50周年にあたって定めた社訓「天職」になった
    • [15]表紙をつくり始めた当初から父は「滓の商売なりに、もっと手広くできないか」と考えており、和帳本体の品質が表紙の責任にされる理不尽さへの反発も手伝って和帳そのものの製造に進んだ
    • [16]創業から3年目の明治41年(1908)に和帳そのものの製造へ進んだ
    • [17]当時は小売店自体が夜なべで版木印刷・製本をする和帳業者であり、得意先がそのまま商売がたきになる構造だった
    • [18]小売店を一軒ずつ回る非効率を避けるため卸問屋に協力を求めた
    • [19]善太郎の考えは代理店ではなく「仲間づくり」であり、のちに「販売のコクヨ」を支える輪になった
    • [20]黒田暲之助は「和帳こそ当社の事業の出発点なのである」と記した
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [10]1905年10月、故黒田善太郎の個人経営による黒田表紙店を大阪市西区において開業した
    • [11]黒田表紙店は和式帳簿用表紙の製造を開始した

洋式帳簿への転換と、郷土を込めた国誉の商標

1913年5月、洋式帳簿の製造が始[21]まった。ただし洋式帳簿は複式簿記を前提とし[22]、採用するのは大企業と大商店に限られたうえ、印刷業へのオーダーメードが当たり前で、既製品として売る道はなかなか開けず[23]、販売には長く苦心した。1914年10月に店名を黒田国光堂へ改め[24]、1917年には商標として国誉を定めた[25]。国は越中、すなわち富山[26]を指す。大阪へ出るには呉羽山を越えねばならず、峠の茶屋で人を見送った[27]。自分の商品は故郷につながっている以上、郷土の名を汚し[28]てはならないと、善太郎氏は自らに言い聞かせていた。その心が国の光、国の誉れという商標に[29]なり、現在の社名もこの商標に由[30]来する。

  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [21]1913年5月、洋式帳簿の製造を開始した
    • [24]1914年10月、店名を黒田国光堂と改称した
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [22]洋式帳簿は複式簿記が前提で採用は大企業・大商店に限られ、オーダーメードが当たり前だったため既製品メーカーとしては永年販売に苦心した
    • [23]洋式帳簿は印刷業へのオーダーメードが当たり前で、既製品メーカーとしては永年、販売に苦心さんたんした
    • [25]大正6年(1917)に初めて商標「国誉」をつくった
    • [26]「国」は越中・富山を指し、郷土の名を汚してはならないという善太郎の思いが国の光・国の誉れという形になった
    • [27]富山から大阪に出るには呉羽山を越えねばならず、峠の白壁の茶屋が見送りの別れの場所で、「あんま(兄さん)、しっかりやってこられませ」と励ましの言葉が飛んだ
    • [28]父が常に自らに言い聞かせていた言葉は「自分の商品は故郷につながっている。仮にも郷土の名を汚すようなことをしてはいけない」だった
    • [29]黒田暲之助は「その心が国の光、国の誉れという形になって表現されたものと信じている」と記した
    • [30]現在の社名コクヨは商標「国誉」に由来する

生産設備も少しずつ整え、1922年には初の生産工場[31]となる猪飼野工場を設け[32]て洋式帳簿の自家生産に入った。輸入紙に頼っていた帳簿用紙は、1927年に王子製紙へ依頼して国産の帳簿紙を開発[33]してもらい、その原紙を生かして手形用紙や領収書用紙へ品目を広げた。1932年には便箋を発売[34]し、先発メーカーを超えるために伊東深水氏ら大家の描いた美人画の色紙を挿んだ。1936年11月には大阪市東成区の現在地へ事務所と工場を移し[35]、紙製品の全品種を一つの敷地で作れるようにし、1938年1月に個人商店から合名会社へ組織を改めた[36]

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [31]大正11年(1922)に初の生産工場・猪飼野工場を設立し、昭和2年(1927)には中道工場を設立するなど生産設備を順次増やした
    • [32]大正11年(1922)に初の生産工場・猪飼野工場を設立し、洋式帳簿の自家生産を開始した
    • [33]昭和2年(1927)に王子製紙へ依頼して国産初の帳簿紙を開発してもらい、その副産物の原紙で手形用紙・領収書用紙を開発した
    • [34]便箋「書翰箋」の登場は昭和7年(1932)で、伊東深水ら大家の美人画の色紙を挿入した
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [35]1936年11月、大阪市東成区の現在地に事務所及び工場を移転した
    • [36]1938年1月、合名会社黒田国光堂に組織変更した

1940年に入ると原材料の統制が強まり[37]、原紙は軍需関係へ優先して割り当てられた。軍需産業への転換を善太郎氏が拒んだ[38]ため、物資の配給が優先される輸出に活路を求めるほかなかった。暲之助氏は蘭領インドで青表紙ノートの需要があることに目をつけ、1940年12月に神戸を発ってスラバヤへ渡り、ジャワコクヨ商店を設けた[39]。1942年には新京の印刷会社を買い取って満州国誉印刷紙工を設立[40]し、満州政府印刷廠から紙幣や外食券の印刷を受注して、終戦の直前には従業員が3,000人にふくらんだ[41]。いずれも1945年8月の敗戦とともに放棄した[42]

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [37]昭和15年(1940)になると統制色が強まり、原紙は軍需関係に優先割り当てされ一般民需は後回しになった
    • [38]軍需産業への転換は善太郎がガンとして首を縦に振らなかった
    • [39]昭和15年12月30日に神戸港を出港し、昭和16年1月18日にスラバヤへ到着、ジャワコクヨ商店を設立した
    • [40]昭和17年(1942)2月に新京の印刷会社「満州秀英舎」を買収して満州国誉印刷紙工を設立した
    • [41]満州政府印刷廠から紙幣・外食券などの印刷を受注し、従業員は終戦直前には3,000人に膨らんだ
    • [42]昭和20年8月、満州国誉印刷紙工とジャワコクヨ商店を終戦のため放棄した
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [21]1913年5月、洋式帳簿の製造を開始した
    • [24]1914年10月、店名を黒田国光堂と改称した
    • [35]1936年11月、大阪市東成区の現在地に事務所及び工場を移転した
    • [36]1938年1月、合名会社黒田国光堂に組織変更した
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [22]洋式帳簿は複式簿記が前提で採用は大企業・大商店に限られ、オーダーメードが当たり前だったため既製品メーカーとしては永年販売に苦心した
    • [23]洋式帳簿は印刷業へのオーダーメードが当たり前で、既製品メーカーとしては永年、販売に苦心さんたんした
    • [25]大正6年(1917)に初めて商標「国誉」をつくった
    • [26]「国」は越中・富山を指し、郷土の名を汚してはならないという善太郎の思いが国の光・国の誉れという形になった
    • [27]富山から大阪に出るには呉羽山を越えねばならず、峠の白壁の茶屋が見送りの別れの場所で、「あんま(兄さん)、しっかりやってこられませ」と励ましの言葉が飛んだ
    • [28]父が常に自らに言い聞かせていた言葉は「自分の商品は故郷につながっている。仮にも郷土の名を汚すようなことをしてはいけない」だった
    • [29]黒田暲之助は「その心が国の光、国の誉れという形になって表現されたものと信じている」と記した
    • [30]現在の社名コクヨは商標「国誉」に由来する
    • [31]大正11年(1922)に初の生産工場・猪飼野工場を設立し、昭和2年(1927)には中道工場を設立するなど生産設備を順次増やした
    • [32]大正11年(1922)に初の生産工場・猪飼野工場を設立し、洋式帳簿の自家生産を開始した
    • [33]昭和2年(1927)に王子製紙へ依頼して国産初の帳簿紙を開発してもらい、その副産物の原紙で手形用紙・領収書用紙を開発した
    • [34]便箋「書翰箋」の登場は昭和7年(1932)で、伊東深水ら大家の美人画の色紙を挿入した
    • [37]昭和15年(1940)になると統制色が強まり、原紙は軍需関係に優先割り当てされ一般民需は後回しになった
    • [38]軍需産業への転換は善太郎がガンとして首を縦に振らなかった
    • [39]昭和15年12月30日に神戸港を出港し、昭和16年1月18日にスラバヤへ到着、ジャワコクヨ商店を設立した
    • [40]昭和17年(1942)2月に新京の印刷会社「満州秀英舎」を買収して満州国誉印刷紙工を設立した
    • [41]満州政府印刷廠から紙幣・外食券などの印刷を受注し、従業員は終戦直前には3,000人に膨らんだ
    • [42]昭和20年8月、満州国誉印刷紙工とジャワコクヨ商店を終戦のため放棄した

青色申告が生んだ需要と、専門代理店の始まり

1949年5月12日、合名会社黒田国光堂は戦前の販売代理店だったコクヨ商店・東京国誉商店・西部コクヨ商店を合併し、資本金1,044万5,000円の株式会社黒田国光堂として発足した[43]。この時期に暲之助氏が副社長として製品企画と製造を、弟の靖之助氏が常務として営業を受け持つ[44]分担が定まった。追い風になったのはシャウプ勧告による税制改革[45]である。大衆課税へ移って青色申告が制度化されると、帳簿をつける事業者が全国で一気に増え[46]、既製の洋式帳簿の需要が広がった。1954年1月には大阪市東成区深江に深江工場を設け[47]、帳簿やルーズリーフの量産体制を整えた。

  • 証券 1971年3月号
    • [43]1949年5月、傍系会社の株式会社コクヨ商店・株式会社東京国誉商店・株式会社西部コクヨ商店と合併し、資本金10,445千円の株式会社黒田国光堂を設立した
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [44]戦後、暲之助が副社長として製品企画・製造、弟の靖之助が常務で営業と業務分担を明確にした
    • [45]戦後復興の「天の時」はシャウプ勧告による税制改革だった
    • [46]シャウプ勧告による税制改革で大衆課税方式に移行し青色申告が制度化され、帳簿の需要が全国的な規模でわき起こった
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1954年1月、大阪市東成区深江に深江工場を新設し、帳簿・リーフ等主要製品の量産体制を確立した

販売網もこの時期に形を得た。1950年6月[48]、東京で文具の卸問屋を営んでいた伊藤商店の伊藤賢治氏が善太郎氏を訪ね[49]、他社の商品を扱うのをやめてコクヨ製品だけで商売をしたいと申し出た[50]。他の仕入先に迷惑がかかると断られると、伊藤氏はすでに他社の代理店権を返上してきたと答えて引かず、これが専門代理店の第1号[51]となった。1957年1月には全国20社が会社の知らないところで相談して全国コクヨ専門店会を結成[52]し、黒田善太郎氏を親と思い黒田国光堂と生死を共にする覚悟を記した宣誓の一巻[53]を贈った。専門代理店はその後、一県に一社の割合で全国へ広がった[54]

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [48]黒田暲之助は販売組織のでき方を問われ「まわりの熱意に押されて、いつの間にか出来上がったのですよ」と答えており、その起点が昭和25年の伊藤商店だった
    • [49]昭和25年6月、株式会社伊藤商店が全国で初めてのコクヨ製品専門代理店となった
    • [50]伊藤社長は「他社の商品を扱うのをやめてコクヨの製品だけで商売をしたい」と申し出て、断られると「他のメーカーには代理店権を返上してきた」と答えて引かなかった
    • [51]父が「皆さんに迷惑がかかるでしょう」と断ると、伊藤は「そうおっしゃるだろうと思って、他のメーカーさんには代理店権を返上してきました」と一歩も引かず、これがコクヨ専門店(のちの総括店)第1号となった
    • [52]昭和32年(1957)1月、専門店各社が会社の知らない間に相談して全国コクヨ専門店会を20社で結成した
    • [53]結成時に会員各社の社長が署名した「宣誓」には、黒田善太郎氏を親と思い、黒田国光堂と生死を共にする覚悟を自覚した同志が宣誓する旨が記されていた
    • [54]以後全国各地に専門店が生まれ、一県に一社の割合で全国ネットワークが形成された

生産の側では機械化が課題として残った。1953年に800人まで増えた従業員[55]の仕事[56]は、紙を数える工程も表紙を差し込む工程も人手に頼っていた。暲之助氏は1956年9月に欧州へ渡って自動製造機械を探した[57]が、欧州でも帳票類はオーダーメードで、既製の帳票を世に出しているのは黒田国光堂だけだと気づいて[58]手ぶらで帰った。1958年4月にデュッセルドルフの印刷見本市で見つけたハンスビル社のノート製造機[59]が糸口になり、技師長を招いて開発させた7台を2億8,000万円で発注した。年商38億円の会社にとっては大きな買い物だった[60]。1960年1月、善太郎氏が会長に退き、暲之助氏が社長[61]に就いた。

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [55]終戦時60人足らずだった従業員は昭和28年(1953)には800人に膨らみ、印刷・断裁を除く工程はすべて人手だった
    • [56]仕事柄ほとんどが手作業工程で、増産は人海戦術に頼るしかなく、機械も旧式ばかりだった
    • [57]昭和31年(1956)9月に欧州へ自動製造機械を探しに渡ったが、3カ月かけて何の実りもなく帰国した
    • [58]欧州でも帳票類はオーダーメードであり、既製の帳票類を世に出しているのは世界で黒田国光堂だけだと気づいた
    • [59]昭和33年(1958)4月、デュッセルドルフの印刷と紙の見本市でハンスビル社のノート自動製造機械を見つけた
    • [60]帳票・便箋の自動製造機械など計7台を2億8,000万円で発注した。当時の年間売上高は38億円だった
    • [61]昭和35年(1960)1月、黒田善太郎が会長に、黒田暲之助が社長に就任した
  • 証券 1971年3月号
    • [43]1949年5月、傍系会社の株式会社コクヨ商店・株式会社東京国誉商店・株式会社西部コクヨ商店と合併し、資本金10,445千円の株式会社黒田国光堂を設立した
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [44]戦後、暲之助が副社長として製品企画・製造、弟の靖之助が常務で営業と業務分担を明確にした
    • [45]戦後復興の「天の時」はシャウプ勧告による税制改革だった
    • [46]シャウプ勧告による税制改革で大衆課税方式に移行し青色申告が制度化され、帳簿の需要が全国的な規模でわき起こった
    • [48]黒田暲之助は販売組織のでき方を問われ「まわりの熱意に押されて、いつの間にか出来上がったのですよ」と答えており、その起点が昭和25年の伊藤商店だった
    • [49]昭和25年6月、株式会社伊藤商店が全国で初めてのコクヨ製品専門代理店となった
    • [50]伊藤社長は「他社の商品を扱うのをやめてコクヨの製品だけで商売をしたい」と申し出て、断られると「他のメーカーには代理店権を返上してきた」と答えて引かなかった
    • [51]父が「皆さんに迷惑がかかるでしょう」と断ると、伊藤は「そうおっしゃるだろうと思って、他のメーカーさんには代理店権を返上してきました」と一歩も引かず、これがコクヨ専門店(のちの総括店)第1号となった
    • [52]昭和32年(1957)1月、専門店各社が会社の知らない間に相談して全国コクヨ専門店会を20社で結成した
    • [53]結成時に会員各社の社長が署名した「宣誓」には、黒田善太郎氏を親と思い、黒田国光堂と生死を共にする覚悟を自覚した同志が宣誓する旨が記されていた
    • [54]以後全国各地に専門店が生まれ、一県に一社の割合で全国ネットワークが形成された
    • [55]終戦時60人足らずだった従業員は昭和28年(1953)には800人に膨らみ、印刷・断裁を除く工程はすべて人手だった
    • [56]仕事柄ほとんどが手作業工程で、増産は人海戦術に頼るしかなく、機械も旧式ばかりだった
    • [57]昭和31年(1956)9月に欧州へ自動製造機械を探しに渡ったが、3カ月かけて何の実りもなく帰国した
    • [58]欧州でも帳票類はオーダーメードであり、既製の帳票類を世に出しているのは世界で黒田国光堂だけだと気づいた
    • [59]昭和33年(1958)4月、デュッセルドルフの印刷と紙の見本市でハンスビル社のノート自動製造機械を見つけた
    • [60]帳票・便箋の自動製造機械など計7台を2億8,000万円で発注した。当時の年間売上高は38億円だった
    • [61]昭和35年(1960)1月、黒田善太郎が会長に、黒田暲之助が社長に就任した
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1954年1月、大阪市東成区深江に深江工場を新設し、帳簿・リーフ等主要製品の量産体制を確立した

入れ物という説得で始めた鋼製家具

社長に就いた暲之助氏には危機感があった。1957年ごろから[62]売上高の伸びは年に1億円か2億円にとどまり[63]、紙製品は市場に行き渡って強力な新製品も出ていなかった。業界の首位にはいたが、このまま安全運転を続ければ将来が危ういと考えた[64]。販売先が中小企業と一般消費者に偏っていた[65]ことも気にかかっていた。一流と呼ばれる企業のオフィスで使ってもらえないか[66]、という思いが長く胸にあった。1950年代後半には大企業への納品業者がデスクやキャビネットに力を入れ始め、IBMの日本上陸が話題にのぼる[67]など、オフィスの様子が変わる兆しも見えていた。

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [62]黒田暲之助は「今のところは紙製品全盛で、影一つない青空だが、目をこらすと水平線の彼方に小さな雲が見える。手をこまねいていては、いつか大きな黒雲になってコクヨを襲ってくるのではないか」という不安を覚えていた
    • [65]事務用紙製品では少しは知られたコクヨではあったが、販売先は中小企業や一般消費者に限られていた
    • [66]事務用紙製品の販売先は中小企業や一般消費者に限られており、一流といわれる企業のオフィスで使ってもらえないかという思いが長く心の中にあった
    • [67]昭和30年代前半には大企業への納品業者の間でデスクやキャビネットなどスチール製品に力を入れる機運が出て、IBMの日本上陸などが話題に上りオフィス革命の兆しが感じられた
  • 証券アナリストジャーナル 1980年3月号(黒田暲之助社長)
    • [63]昭和32年ごろから売上高は年に1〜2億円程度で伸び悩み、紙製品は市場に一応行きわたり強力な新製品の開発もなく、将来を思えば危機的な状態だと考えた
    • [64]業界のトップに立っており、このまま安全運転はできるが将来を思えば危機的な状態と考えた

最大の障害は父だった。善太郎氏にとってのコクヨは紙製品のメーカー[68]であり、和帳から帳票、便箋へと品目を広げてはいても、紙の域を一歩も出ていない[69]。暲之助氏は弟の靖之助氏と2人で父の前に立ち[70]、ルーズリーフとバインダーが売れ、帳票を収める需要も増えているので、それを納める入れ物としてキャビネットを作りたいと説いた。鋼という語を一度も使わない説得[71]であり、父は道理だと認めて[72]許した。もっとも暲之助氏は後年の講演では、父が紙製品の伝統に固執して新製品への参入をなかなか許さず、毎日が先代との戦いだった[73]とも述べている。1960年4月、コクヨは鋼製家具とファイリング用品の販売[74]を始めたが、当初の生産は協力工場に任せ、コクヨの商標[75]で売った。

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [68]黒田暲之助は鋼製家具進出の「最大の障害は父だった」と書き、父が会長に退いても「何でも好き勝手にやっていい」という雰囲気ではなかったと述べている
    • [69]父にとってのコクヨは紙製品メーカーであり、和帳から帳票、便箋と多角化しても紙製品の域を一歩も出ていなかった
    • [70]弟の靖之助と2人で会長室の父の前に立ち、ファイルやバインダーを納める入れ物としてキャビネットを作りたいと説得した
    • [71]説得ではスチール製品のスの字も使わなかった
    • [72]父は「それは道理やな。なるほど、入れ物がないと不便や。よし、やりなさい」と拍子抜けするほどあっさり許した
    • [75]当初は協力工場で生産し、コクヨの商標で販売した
  • 証券アナリストジャーナル 1980年3月号(黒田暲之助社長)
    • [73]先代社長の父が紙製品の伝統に固執し、新製品への参入をなかなか許さず、毎日が先代との戦いだった
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [74]1960年4月、鋼製家具及びファイリング用品の販売を開始した

1961年6月、社名を黒田国光堂からコクヨ[76]へ改めた。大卒の定期採用が増えるなか、次の世代のために古い屋号を改める[77]と判断した。父は承知したが、あとで母から聞いたところでは残念だともらしていた[78]。同じ月には西ドイツ製の自動製造機械を据えた八尾工場が動き出し、便箋や複写簿の製造を機械へ置き換えた[79]。1962年12月には鳥取市に紙製品の製造会社である日本事務用品工業[80]を設けた。1965年10月にはスチールデスクを発売[81]して鋼製家具の品目を広げ、同じ1965年11月期に売上高は111億円へ伸びて初めて100億円を超えた[82]。社長就任時の売上高は約40億円で、創業から55年かけて到達した水準[83]だったから、6年足らずでその2倍半に届いたことになる。就任の年の11月には労働組合が結成後初のストライキに入った[84]。暲之助氏は第二組合を作る案を退けて正面から交渉し、労使は1961年9月の執行部交代で落ち着いた[85]

  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [76]1961年6月、株式会社黒田国光堂をコクヨ株式会社に社名変更した
    • [79]1961年6月、大阪府八尾市に八尾工場を新設し、オートメーション機により便箋・複写簿等の製造を合理化した
    • [80]1962年12月、鳥取県鳥取市に紙製品の製造会社日本事務用品工業株式会社(現株式会社コクヨMVP)を設立した
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [77]定期採用の大卒社員も増えてきたため、次の時代を担う人たちのためにこのままではいけないと考えた
    • [78]父は思いのほかあっさり承知したが、後で母から聞いたところでは「残念だ」ともらしていた
    • [81]昭和40年(1965)10月にスチールデスクを発売した
    • [84]昭和35年(1960)11月、労組結成後初のストライキが発生し、本社前には赤旗が立ち並んだ
    • [85]第二組合を作ってはという雑音も耳に入ったが、たとえ数カ月売り上げゼロが続いてもという不退転の決意で交渉にあたり、労使関係は昭和36年9月に組合執行部が大きく代替わりして落ち着いた
  • 証券 1971年3月号
    • [82]期別売上高は昭39.11期9,980百万円、昭40.11期11,117百万円で、100億円を超えたのは昭和40年11月期である
  • 証券アナリストジャーナル 1980年3月号(黒田暲之助社長)
    • [83]社長就任当時は創業から55年で売上高が約40億円で、100億円の達成は到底無理と思われていた
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [62]黒田暲之助は「今のところは紙製品全盛で、影一つない青空だが、目をこらすと水平線の彼方に小さな雲が見える。手をこまねいていては、いつか大きな黒雲になってコクヨを襲ってくるのではないか」という不安を覚えていた
    • [65]事務用紙製品では少しは知られたコクヨではあったが、販売先は中小企業や一般消費者に限られていた
    • [66]事務用紙製品の販売先は中小企業や一般消費者に限られており、一流といわれる企業のオフィスで使ってもらえないかという思いが長く心の中にあった
    • [67]昭和30年代前半には大企業への納品業者の間でデスクやキャビネットなどスチール製品に力を入れる機運が出て、IBMの日本上陸などが話題に上りオフィス革命の兆しが感じられた
    • [68]黒田暲之助は鋼製家具進出の「最大の障害は父だった」と書き、父が会長に退いても「何でも好き勝手にやっていい」という雰囲気ではなかったと述べている
    • [69]父にとってのコクヨは紙製品メーカーであり、和帳から帳票、便箋と多角化しても紙製品の域を一歩も出ていなかった
    • [70]弟の靖之助と2人で会長室の父の前に立ち、ファイルやバインダーを納める入れ物としてキャビネットを作りたいと説得した
    • [71]説得ではスチール製品のスの字も使わなかった
    • [72]父は「それは道理やな。なるほど、入れ物がないと不便や。よし、やりなさい」と拍子抜けするほどあっさり許した
    • [75]当初は協力工場で生産し、コクヨの商標で販売した
    • [77]定期採用の大卒社員も増えてきたため、次の時代を担う人たちのためにこのままではいけないと考えた
    • [78]父は思いのほかあっさり承知したが、後で母から聞いたところでは「残念だ」ともらしていた
    • [81]昭和40年(1965)10月にスチールデスクを発売した
    • [84]昭和35年(1960)11月、労組結成後初のストライキが発生し、本社前には赤旗が立ち並んだ
    • [85]第二組合を作ってはという雑音も耳に入ったが、たとえ数カ月売り上げゼロが続いてもという不退転の決意で交渉にあたり、労使関係は昭和36年9月に組合執行部が大きく代替わりして落ち着いた
  • 証券アナリストジャーナル 1980年3月号(黒田暲之助社長)
    • [63]昭和32年ごろから売上高は年に1〜2億円程度で伸び悩み、紙製品は市場に一応行きわたり強力な新製品の開発もなく、将来を思えば危機的な状態だと考えた
    • [64]業界のトップに立っており、このまま安全運転はできるが将来を思えば危機的な状態と考えた
    • [73]先代社長の父が紙製品の伝統に固執し、新製品への参入をなかなか許さず、毎日が先代との戦いだった
    • [83]社長就任当時は創業から55年で売上高が約40億円で、100億円の達成は到底無理と思われていた
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [74]1960年4月、鋼製家具及びファイリング用品の販売を開始した
    • [76]1961年6月、株式会社黒田国光堂をコクヨ株式会社に社名変更した
    • [79]1961年6月、大阪府八尾市に八尾工場を新設し、オートメーション機により便箋・複写簿等の製造を合理化した
    • [80]1962年12月、鳥取県鳥取市に紙製品の製造会社日本事務用品工業株式会社(現株式会社コクヨMVP)を設立した
  • 証券 1971年3月号
    • [82]期別売上高は昭39.11期9,980百万円、昭40.11期11,117百万円で、100億円を超えたのは昭和40年11月期である

全館をショールームにした本社と1971年の上場

1966年3月、善太郎氏が87歳で世[86]を去った。暲之助氏は一年間喪に服して新しいことをしないと決め[87]、経営者としての仕事を1967年以降に託した。その最初が本社ビルの建て替えで、1968年に旧本社を取り壊し[88]、1969年11月に地上8階、延べ面積8,767平方メートルの新社屋を完成させた[89]。旧本社の15倍の広さがあり[90]、社員が働く階も含めて全館に自社の鋼製家具を置き、応接室を大小32室設けた[91]。営業部門には赤いイスと黒い机、経理にはベージュ、開発には青[92]と、部門ごとに色を変えた。鋼製家具はカタログだけでは伝わらないという判断から、本社そのものをショールームにした[93]

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [86]昭和41年(1966)3月27日、父・黒田善太郎が87歳で死去した
    • [87]「向こう一年間、喪に服する。新しいことは何もするまい」と決め、経営者としてのすべてを昭和42年以降に託した
    • [88]昭和43年(1968)初めから旧本社(大阪市東成区今里)を取り壊して建設に着手し、昭和44年(1969)11月に新社屋が完成した
    • [90]旧本社(大阪市東成区今里)を取り壊して建設し、旧本社の15倍の広さがあった
    • [91]社員が実際に働くフロアを含めすべて自社スチール製品を配置し、応接室をサンプルとして大小32室設けた
    • [92]営業部門に真っ赤なイスと黒の机、経理はベージュ、開発はブルーと職場のカラー化に踏み込んだ
    • [93]スチール製品の展開はオフィス空間の一新の提案であり、カタログだけでは到底不可能なので本社をショールームを兼ねた実験ビルにした
  • 証券 1971年3月号
    • [89]本社社屋は昭和44年に竣工した地上8階建、延面積8,767平方メートルの建物で、全館が生きたショールームとして設計されているのが特徴である

1969年10月、販売部門を担って1953年から休業状態にあった国誉商事がコクヨを吸収合併し[94]、商号をコクヨへ改めた。形式上の存続会社は国誉商事だが、営業の実態は被合併会社であるコクヨが引き[95]継いだ。1970年9月期に年間売上高が300億円を超え、証券会社の勧めもあって株式公開の準備に入った。社長就任から10年[96]が経とうとしていた。この体裁を整えたうえで1971年3月1日、東京と大阪の両証券取引所市場第二部へ株式を上場した。公開価格430円[97]に対して売り2万株に数百万株の買いが集まり、前場は値がつかず、大引け直前に720円で最初の売買が成立した[98]。翌1972年2月には両取引所の市場第一部へ指定替え[99]となった。父の死後も株式の9割以上を黒田一族が持っていた[100]が、上場によって株主は6,038人になった[101]

  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [94]1969年10月1日を合併期日として国誉商事株式会社がコクヨ株式会社を吸収合併し、商号をコクヨ株式会社と改めた。国誉商事は1953年以降休業状態にあった販売部門担当会社である
    • [99]1972年2月、東京・大阪両証券取引所市場第一部に指定された
  • 証券 1971年3月号
    • [95]合併前の国誉商事は営業活動をほとんど行っていない形式上の存続会社であり、営業の実態は消滅会社であるコクヨの営業を継承したものだった
    • [97]上場年月日は昭和46年3月1日、東京・大阪両証券取引所市場第二部への上場で、公開価格は430円だった
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [96]昭和45年(1970)9月期に年間売上高が300億円を突破し、証券会社のすすめもあって株式公開の準備を始めた。社長就任から10年だった
    • [98]公開当日は午前9時に売り2万株へ数百万株の買いが殺到し、前場は値がつかず、大引け直前に720円で売買が成立した
    • [100]父の死後でも総株式数の90%以上を黒田一族が所有していた
  • 証券アナリストジャーナル 1980年3月号(黒田暲之助社長)
    • [101]株主総数は昭和46年3月に第二部へ上場したときが6,038人だった

上場時のコクヨは、事務用紙製品が売上の29.5%、日用と学用の紙製品が20.5%、鋼製品が34.9%、感光紙と事務機が15.1%[102]という構成だった。鋼製品はなお大半が他社からの仕入販売で[103]、1971年7月に大阪府柏原市へ柏原工場を建てて自社生産に踏み切った[104]。販売はコクヨ製品だけを扱う専門代理店47店が総売上の約8割を扱っ[105]た。1968年10月には取扱高の大きい小売店1,133社をコクヨジュウリーメンバーズとして組織[106]し、取引高に応じた5段階の格付けと報奨金の制度を設けた。専門代理店は1969年6月に総括店と改称[107]された。

  • 証券 1971年3月号
    • [102]昭和45年9月期の販売実績は事務用紙製品29.5%、日・学用紙製品20.5%、スチール製品34.9%、感光紙・事務機15.1%だった
    • [103]スチール製品、感光紙、事務機はほとんどが他社製品の仕入販売だった
    • [105]専門代理店は全国各地に47店あり、同社の総売上高の約80%を取り扱っていた
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [104]1971年7月、大阪府柏原市に柏原工場を新設し家具製品の自家生産体制を確立した
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [106]昭和43年(1968)10月、コクヨ製品を扱う全国小売店1,133社でコクヨジュウリーメンバーズを結成し、取引高に応じたランク制と報奨金の制度を設けた
    • [107]昭和44年(1969)6月、「専門店」を「総括店」と名称変更した
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [86]昭和41年(1966)3月27日、父・黒田善太郎が87歳で死去した
    • [87]「向こう一年間、喪に服する。新しいことは何もするまい」と決め、経営者としてのすべてを昭和42年以降に託した
    • [88]昭和43年(1968)初めから旧本社(大阪市東成区今里)を取り壊して建設に着手し、昭和44年(1969)11月に新社屋が完成した
    • [90]旧本社(大阪市東成区今里)を取り壊して建設し、旧本社の15倍の広さがあった
    • [91]社員が実際に働くフロアを含めすべて自社スチール製品を配置し、応接室をサンプルとして大小32室設けた
    • [92]営業部門に真っ赤なイスと黒の机、経理はベージュ、開発はブルーと職場のカラー化に踏み込んだ
    • [93]スチール製品の展開はオフィス空間の一新の提案であり、カタログだけでは到底不可能なので本社をショールームを兼ねた実験ビルにした
    • [96]昭和45年(1970)9月期に年間売上高が300億円を突破し、証券会社のすすめもあって株式公開の準備を始めた。社長就任から10年だった
    • [98]公開当日は午前9時に売り2万株へ数百万株の買いが殺到し、前場は値がつかず、大引け直前に720円で売買が成立した
    • [100]父の死後でも総株式数の90%以上を黒田一族が所有していた
    • [106]昭和43年(1968)10月、コクヨ製品を扱う全国小売店1,133社でコクヨジュウリーメンバーズを結成し、取引高に応じたランク制と報奨金の制度を設けた
    • [107]昭和44年(1969)6月、「専門店」を「総括店」と名称変更した
  • 証券 1971年3月号
    • [89]本社社屋は昭和44年に竣工した地上8階建、延面積8,767平方メートルの建物で、全館が生きたショールームとして設計されているのが特徴である
    • [95]合併前の国誉商事は営業活動をほとんど行っていない形式上の存続会社であり、営業の実態は消滅会社であるコクヨの営業を継承したものだった
    • [97]上場年月日は昭和46年3月1日、東京・大阪両証券取引所市場第二部への上場で、公開価格は430円だった
    • [102]昭和45年9月期の販売実績は事務用紙製品29.5%、日・学用紙製品20.5%、スチール製品34.9%、感光紙・事務機15.1%だった
    • [103]スチール製品、感光紙、事務機はほとんどが他社製品の仕入販売だった
    • [105]専門代理店は全国各地に47店あり、同社の総売上高の約80%を取り扱っていた
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [94]1969年10月1日を合併期日として国誉商事株式会社がコクヨ株式会社を吸収合併し、商号をコクヨ株式会社と改めた。国誉商事は1953年以降休業状態にあった販売部門担当会社である
    • [99]1972年2月、東京・大阪両証券取引所市場第一部に指定された
    • [104]1971年7月、大阪府柏原市に柏原工場を新設し家具製品の自家生産体制を確立した
  • 証券アナリストジャーナル 1980年3月号(黒田暲之助社長)
    • [101]株主総数は昭和46年3月に第二部へ上場したときが6,038人だった

石油ショックで240億円の注文を白紙に戻す

紙製品への注文は1973年9月から急増し[108]、同年秋の石油危機[109]のあとで一段と加速した。倉庫のほこりでもいいから売ってほしいと言われるほど[110]で、最終消費者から電話や電報が入り、暲之助氏の自宅にまで催促が来た[111]。1974年1月末に集計した紙製品と文房具の注文残高は240億円[112]に達した。当時の生産能力は月に35億円ほどで、7か月分の注文を一度に抱えた[113]計算になる。周囲が熱に浮かされているときにかえって冷静になる癖があったという暲之助氏は、ノートや帳簿が急に2倍3倍と使われるはずはないと考え、思惑買いが混じっているのではないかと疑った[114]

  • 証券アナリストジャーナル 1977年3月号(黒田暲之助社長)
    • [108]注文は昭和48年9月から急増し、石油ショック以来一段と加速して殺到した。最終消費者から電話や電報、ときには社長の自宅にまで催促が来た
    • [111]最終消費者から電話や電報、ときには社長の自宅にまで催促が来た
    • [112]昭和49年1月末に注文残高を調べたら紙製品・文房具関係だけで240億円だった
    • [113]当時の全生産力は1カ月35億円程度で、7カ月分の注文残を抱えていた
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [109]昭和48年(1973)暮れの第一次石油ショックで買い手が殺到し、たちまち在庫が空になった
    • [110]「倉庫のほこりでもいいから売ってほしい」とばかりに買い手が殺到し、たちまち在庫が空になった
    • [114]周りが熱に浮かされている時にかえって冷静になる癖があり、全部が実需なのか、思惑買いが入り込んでいるのではないかと疑った

1974年2月、暲之助氏は全国の支店長を本社へ集め、注文をいったん全部白紙に戻すよう指[115]示した。そのうえで支店長が足で歩いて実際に必要な数量を数え直し、改めて注文を受け直す[116]ことにした。3月に集計した注文残は60億円へ、4月には10億円[117]へと、2か月で24分の1[118]に落ちた。逆に在庫が積み上がったため、3月から操業を短縮し、労働組合と事前に協議したうえで4月には紙製品の3割減産に入った[119]。同業他社が9月ごろまで増産を続けたのに対し、コクヨは半年早く[120]動いた。1975年9月期の売上高は624億円と前期を下回り、初の減収[121]となった。

  • 証券アナリストジャーナル 1977年3月号(黒田暲之助社長)
    • [115]昭和49年2月に全支店長を召集し、すべての得意先に対して注文残をいったん白紙に戻して正しい注文に切り替えるよう頼むことにした
    • [117]3月に集計した紙製品・文房具の注文残は60億円に減り、4月には10億円になった
    • [118]2カ月間で240億円から10億円へと、なんと24分の1に減った
    • [120]同業他社はその後も9月ごろまで増産態勢を続けたが、コクヨは2月に気付き3月から操短に入った
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [116]支店長を本社に招集した緊急会議で「白紙に戻した上で、君たちが足で歩いて、本当に必要な数量を調べてほしい。それを見て改めて注文に応じたい」と指示した
    • [119]副社長の靖之助と相談し、労働組合と事前協議を重ねて了解を得たうえで4月から紙製品の3割減産に踏み切った
    • [121]50年9月期は売上高624億円で利益は25億円、51年9月期は売上高672億円で前期比7.6%増だった

1975年7月、社内の機構を一変[122]させた。それまでは資材・製造・営業・商品企画の4部制で全商品を一括して扱っていた[123]が、鋼製品の伸びに紙製品と同じ扱いでは追いつかなくなっていた。組織を紙製品、鋼製品、そして大口顧客への直販を担う特販の3事業部へ組み替え[124]、各部門の専務と常務からは全員が辞表を出させて配置し直した。本社勤務のおよそ500人のうち約400人を入れ替え[125]た。狙いは安い商品を供給できる体制を作ることにあり、デスクは2年半かけて1万3,000円のものと似た品を7,500円で作れるようにし、1,800円の折りたたみ椅子は1,100円で供給できるようにした[126]。工場の集約も並行して進めており、今里・深江・布施に分かれていた7工場から八尾へ寄せる作業は13年を要して1974年11月に終わった[127]

  • 証券アナリストジャーナル 1977年3月号(黒田暲之助社長)
    • [122]昭和50年7月に社内の体制を一変させ、資材・開発・製造・営業の四部門をすべて解体して紙製品部門、スチール製品部門、トータルで販売する部門に統合再編成した
    • [125]各部門の担当専務・常務の全員から辞表を求めて再配置し、本社勤務の約500人の社員のうち約400人を総入れ替えした
    • [126]デスクは1万3,000円のものを2年半ほどかけてよく似たものを7,500円で作れるようにし、1,800円の折りたたみ椅子は1,100円で供給できるようにした
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [123]従来の本社組織は資材部・製造部・営業部・商品企画部の4部制で、スチール製品の売上が急増すると紙と一緒に扱っていては身動きがとれなくなった
    • [124]新体制は第一事業部(紙製品・文具)、第二事業部(スチール製品)、特販事業部(コクヨ初の直販部隊)の3事業部制だった
    • [127]本社工場・平版・複写用紙・ファイル/バインダー(今里)、帳簿便せん・便せん(深江)、バインダー(布施)の7工場制から八尾工場への集約は、紙製品の直営工場が八尾一本になった昭和49年(1974)11月まで13年かかった
  • 証券アナリストジャーナル 1977年3月号(黒田暲之助社長)
    • [108]注文は昭和48年9月から急増し、石油ショック以来一段と加速して殺到した。最終消費者から電話や電報、ときには社長の自宅にまで催促が来た
    • [111]最終消費者から電話や電報、ときには社長の自宅にまで催促が来た
    • [112]昭和49年1月末に注文残高を調べたら紙製品・文房具関係だけで240億円だった
    • [113]当時の全生産力は1カ月35億円程度で、7カ月分の注文残を抱えていた
    • [115]昭和49年2月に全支店長を召集し、すべての得意先に対して注文残をいったん白紙に戻して正しい注文に切り替えるよう頼むことにした
    • [117]3月に集計した紙製品・文房具の注文残は60億円に減り、4月には10億円になった
    • [118]2カ月間で240億円から10億円へと、なんと24分の1に減った
    • [120]同業他社はその後も9月ごろまで増産態勢を続けたが、コクヨは2月に気付き3月から操短に入った
    • [122]昭和50年7月に社内の体制を一変させ、資材・開発・製造・営業の四部門をすべて解体して紙製品部門、スチール製品部門、トータルで販売する部門に統合再編成した
    • [125]各部門の担当専務・常務の全員から辞表を求めて再配置し、本社勤務の約500人の社員のうち約400人を総入れ替えした
    • [126]デスクは1万3,000円のものを2年半ほどかけてよく似たものを7,500円で作れるようにし、1,800円の折りたたみ椅子は1,100円で供給できるようにした
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [109]昭和48年(1973)暮れの第一次石油ショックで買い手が殺到し、たちまち在庫が空になった
    • [110]「倉庫のほこりでもいいから売ってほしい」とばかりに買い手が殺到し、たちまち在庫が空になった
    • [114]周りが熱に浮かされている時にかえって冷静になる癖があり、全部が実需なのか、思惑買いが入り込んでいるのではないかと疑った
    • [116]支店長を本社に招集した緊急会議で「白紙に戻した上で、君たちが足で歩いて、本当に必要な数量を調べてほしい。それを見て改めて注文に応じたい」と指示した
    • [119]副社長の靖之助と相談し、労働組合と事前協議を重ねて了解を得たうえで4月から紙製品の3割減産に踏み切った
    • [121]50年9月期は売上高624億円で利益は25億円、51年9月期は売上高672億円で前期比7.6%増だった
    • [123]従来の本社組織は資材部・製造部・営業部・商品企画部の4部制で、スチール製品の売上が急増すると紙と一緒に扱っていては身動きがとれなくなった
    • [124]新体制は第一事業部(紙製品・文具)、第二事業部(スチール製品)、特販事業部(コクヨ初の直販部隊)の3事業部制だった
    • [127]本社工場・平版・複写用紙・ファイル/バインダー(今里)、帳簿便せん・便せん(深江)、バインダー(布施)の7工場制から八尾工場への集約は、紙製品の直営工場が八尾一本になった昭和49年(1974)11月まで13年かかった

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コクヨの沿革1905〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1905〜1960年和式帳簿の表紙から始まった大阪の紙製品メーカー(1905〜1960)黒田表紙店を大阪市西区に開業し和式帳簿用表紙の製造を開始★★★
洋式帳簿の製造を開始★★
店名を黒田国光堂に変更
大阪市東成区の現在地に事務所と工場を移転
合名会社黒田国光堂に組織変更
黒田善太郎傍系3社と合併し資本金1,044万5,000円の黒田国光堂を設立★★
黒田善太郎大阪市東成区深江に深江工場を新設し帳簿・リーフの量産体制を確立
黒田暲之助鋼製家具・ファイリング用品への参入と、協力工場生産によるコクヨ商標での販売

1960年4月、コクヨ(当時の商号は黒田国光堂)が鋼製家具とファイリング用品の販売を始めた経営判断。和式帳簿の表紙から出発した紙製品メーカーが、鋼の什器へ移った。同年1月に社長へ就いた黒田暲之助氏が、紙製品の伝統に固執する父で会長の黒田善太郎氏を説き、当初は協力工場に生産を委ねて自社商標で売る形をとった。

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★★★
1960〜1975年紙から鋼へ、全館ショールームの本社と株式上場(1960〜1975)黒田暲之助黒田国光堂からコクヨに社名を変更★★
黒田暲之助大阪府八尾市に八尾工場を新設し便箋・複写簿の製造を合理化
黒田暲之助鳥取市に紙製品の製造会社日本事務用品工業を設立
黒田暲之助国誉商事と合併
黒田暲之助東京・大阪両証券取引所市場第二部に上場
黒田暲之助大阪府柏原市に柏原工場を新設し家具の自家生産体制を確立
黒田暲之助東京・大阪両証券取引所市場第一部に指定
黒田暲之助岡山県真備町に間仕切の製造会社コクヨメーベルを設立
黒田暲之助受注残240億円の全件白紙撤回と紙製品の3割減産、三事業部制への移行

1974年、石油危機で膨らんだ紙製品・文房具の受注残240億円を、黒田暲之助社長が全件白紙に戻し、支店長が数え直した実需に合わせて受け直した判断。3月から操業短縮に入り、労働組合との事前協議を経て紙製品を3割減産した。

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1975〜1992年家具で首位に立ち、流通を情報でつなぐ(1975〜1992)黒田暲之助千葉県八千代市に間仕切を製造する千葉工場を新設
黒田靖之助名古屋証券取引所市場第一部に上場
黒田靖之助滋賀県秦荘町に紙製品の製造会社コクヨ工業滋賀を設立
黒田章裕三重県名張市にデスクを製造する三重工場を新設
1993〜2025年通販の衝撃と業界再編、オフィスへの傾斜(1993〜2025)黒田章裕千葉県芝山町にOA床材を製造する芝山工場を新設
黒田章裕タイに初の海外製造会社コクヨIK(タイランド)を設立★★
黒田章裕マレーシアにオフィス家具の製造会社コクヨ(マレーシア)を設立
黒田章裕通販事業の子会社カウネットを設立★★
黒田章裕千葉工場を芝山工場に統合
黒田章裕岡山工場を芝山工場に統合
黒田章裕八尾工場を滋賀工場に統合
黒田章裕全事業を会社分割し持株会社制に移行★★
黒田章裕中国に国誉商業(上海)有限公司を設立
黒田章裕ベトナムに事務用品の製造会社コクヨベトナムを設立
黒田章裕中国に国誉家具商貿(上海)有限公司を設立
黒田章裕東名阪の販売会社を統合しコクヨマーケティングを設立
黒田章裕コクヨマーケティングが中国販売・九州販売を吸収合併
黒田章裕コクヨファニチャーがコクヨオフィスシステムを吸収合併
黒田章裕コクヨファニチャーがコクヨストアクリエーションを吸収合併
黒田章裕インドの文具・画材メーカーであるコクヨカムリンを子会社化★★
黒田章裕名古屋証券取引所の上場を廃止
黒田章裕コクヨビジネスサービスと合併
黒田章裕中国の国誉商業(上海)有限公司が上海工場を新設
黒田章裕大阪証券取引所市場第一部が東京証券取引所市場第一部に統合
黒田英邦コクヨS&Tとコクヨファニチャーを吸収合併し事業会社に回帰★★★
黒田英邦店舗用什器のストア事業を三協立山に会社分割
黒田英邦コクヨエンジニアリング&テクノロジーと合併
黒田英邦ぺんてる株37%の取得と子会社化の試み、45.6%全株のプラスへの売却

2019年5月、コクヨが投資ファンドの保有するぺんてる株37%を間接取得し、11月15日には1株3,500円で議決権50%超を取ると発表した経営判断。プラスの対抗を受けて買付価格は3,750円まで上がったが過半数には届かず、2022年9月30日に保有する45.6%の全株をプラスへ売却して撤退した。

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黒田英邦東京証券取引所プライム市場に移行
黒田英邦香港のオフィス家具メーカーHNI Hong Kongを子会社化★★
黒田英邦保有するぺんてる株45.6%をプラスに売却★★
黒田英邦指名委員会等設置会社へ移行★★
黒田英邦創業120周年に合わせコーポレートアイデンティティを刷新★★
出典・参考
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
  • 証券 1971年3月号
  • 証券アナリストジャーナル 1977年3月号(黒田暲之助社長)
  • 証券アナリストジャーナル 1980年3月号(黒田暲之助社長)
  • 日経ビジネス 1981年11月30日号
  • 証券アナリストジャーナル 1986年10月号(黒田暲之助会長)
  • 日経ビジネス 1992年11月2日号
  • 日経ビジネス 1992年11月2日号「コクヨ 次代にらみ社員大異動 支店廃止で問屋活性化"
  • 日経ビジネス 1993年9月27日号 編集長インタビュー 黒田章裕氏
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)

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