1918年〜 国産万年筆の確立と三者鼎立・量産直販によるトップメーカー化
パイロットコーポレーションの業績推移:単体
- 1918年 並木製作所を設立
- 1926年 インキ製造・販売開始
- 1927年 シャープペンシル製造・販売開始
- 1935年 並木製作所志村工場を新設
- 1938年 並木製作所をパイロット萬年筆に商号変更
- 1950年 名古屋インキ工場の分離独立によるパイロットインキの設立 万年筆の需要に追われる復興期に、なぜ売れている本業でなくインキを外へ出したか
- 1961年 ボールペン製造・販売開始
並木製作所の設立と戦時下・戦後復興期
パイロットコーポレーションの原点は、1918年1月に並木良輔氏が東京で設立した株式会社並木製作所である。東京高等商船学校の教官であった並木氏は、インキをつけずに書ける烏口を考案し、錆びないペン先を求めて船のコンパスの軸先に使われていたイリジウムに行き着いたことから万年筆の製造を始めた。当初は自宅で手がけていたが、和田正雄氏(後の社長和田正一郎氏の父)の出資を得て会社設立に至った。1926年10月にインキ、1927年6月にシャープペンシルへと品目を広げ、創業10年以内に万年筆・インキ・シャープペンシルの3製品系列を整えた。 [1][2][3][4][5]
- 有価証券報告書
- [1]1918年1月 並木良輔が株式会社並木製作所を設立(万年筆の製造・販売開始)
- [4]1926年10月 インキ製造・販売開始
- [5]1927年6月 シャープペンシル製造・販売開始
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [2]創業者並木良輔は越中島の高等商船学校の教官で、烏口の考案から錆びないペン先としてイリジウム(船のコンパス軸先に使用)を見出し万年筆製造を始めた
- [3]当初は自宅で製造、和田正雄(和田正一郎前社長の尊父)の出資を得て会社設立に至った
1926年3月にはロンドン・ニューヨーク・上海・シンガポールに支店や出張所を開いて輸出も始め、海外へ販路を広げた。1935年12月に並木製作所志村工場(東京都板橋区、1966年5月に東京工場へ改称)を構えて生産拠点を拡張、1938年6月に商号をパイロット萬年筆株式会社へ改称した。終戦により海外の工場・支店・出張所をすべて喪失したが、1945年4月に志村工場を復旧して生産を再開し、1948年1月から文具品の販売にも進出した。戦後は万年筆の普及が早く、品質に優れた同社製品は需要に追われるほど好調で、1948年11月に平塚工場を開設して発展に備えた。 [6][7][8][9][10]
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [6]1926年3月 ロンドン・ニューヨーク・上海・シンガポールに支店・出張所を開設し輸出を開始
- [9]終戦で海外の工場・支店・出張所をすべて喪失、1945年4月に志村工場を復旧して生産を再開、1948年1月から文具品販売に進出
- 有価証券報告書
- [7]1935年12月 並木製作所志村工場を開設(1966年5月に東京工場へ改称)
- [8]1938年6月 並木製作所をパイロット萬年筆株式会社と改称
- [10]1948年11月 平塚工場を開設
- 有価証券報告書
- [1]1918年1月 並木良輔が株式会社並木製作所を設立(万年筆の製造・販売開始)
- [4]1926年10月 インキ製造・販売開始
- [5]1927年6月 シャープペンシル製造・販売開始
- [7]1935年12月 並木製作所志村工場を開設(1966年5月に東京工場へ改称)
- [8]1938年6月 並木製作所をパイロット萬年筆株式会社と改称
- [10]1948年11月 平塚工場を開設
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [2]創業者並木良輔は越中島の高等商船学校の教官で、烏口の考案から錆びないペン先としてイリジウム(船のコンパス軸先に使用)を見出し万年筆製造を始めた
- [3]当初は自宅で製造、和田正雄(和田正一郎前社長の尊父)の出資を得て会社設立に至った
- [6]1926年3月 ロンドン・ニューヨーク・上海・シンガポールに支店・出張所を開設し輸出を開始
- [9]終戦で海外の工場・支店・出張所をすべて喪失、1945年4月に志村工場を復旧して生産を再開、1948年1月から文具品販売に進出
インキ事業の分社化とボールペン参入
1950年4月、インキ事業をパイロットインキ株式会社へ分社化し、1960年1月にパイロット機工株式会社を設立して生産系子会社体制を整えた。並行して海外でも合弁会社を相次いで設立し、1952年7月にパイロット万年筆(インド)、1954年4月に同(ブラジル)、1959年5月に同(ビルマ)、1962年3月に同(タイ国)を各国の資本と組んで立ち上げ、戦前に失った海外拠点を合弁方式で再建した。1961年3月にはボールペンの製造販売を開始し、万年筆専業からボールペンへと品目を広げた。 [11][12][13][14]
- 有価証券報告書
- [11]1950年4月 パイロットインキ株式会社を設立(インキ事業分社化)
- [12]1960年1月 パイロット機工株式会社を設立
- [14]1961年3月 ボールペン製造・販売開始
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [13]海外合弁を相次ぎ設立(1952年7月 インド/1954年4月 ブラジル/1959年5月 ビルマ/1962年3月 タイ国のパイロット万年筆)
1961年9月にパイロット萬年筆が東京証券取引所市場第二部に上場、1962年8月に東証市場第一部と大阪証券取引所市場第一部へ指定替え・新規上場し、創業44年で資本市場での地位を固めた。製品面では1955年12月に万年筆の新製品パイロットスーパーを発売して人気を集め、1963年11月には世界で初めてキャップのない万年筆パイロットキャップレスを発売した。1961年11月のメタルビー、1966年4月のホワイトボードと新分野の製品も投入し、1965年12月にはコンピュータリボン製造販売へも踏み出して戦後の電子事務機器普及に対応する品揃えを加えた。 [15][16][17][18][19][20]
- 有価証券報告書
- [15]1961年9月 パイロット萬年筆が東京証券取引所市場第二部に上場
- [16]1962年8月 東証一部へ指定替えおよび大証一部に新規上場
- [20]1965年12月 コンピュータリボン製造・販売開始
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [17]1955年12月 新製品パイロットスーパーを発売し人気を集めた
- [18]1963年11月 世界で初めてキャップのない万年筆パイロットキャップレスを発売
- [19]1961年11月 メタルビー、1966年4月 ホワイトボードを発売(新分野の開発)
- 有価証券報告書
- [11]1950年4月 パイロットインキ株式会社を設立(インキ事業分社化)
- [12]1960年1月 パイロット機工株式会社を設立
- [14]1961年3月 ボールペン製造・販売開始
- [15]1961年9月 パイロット萬年筆が東京証券取引所市場第二部に上場
- [16]1962年8月 東証一部へ指定替えおよび大証一部に新規上場
- [20]1965年12月 コンピュータリボン製造・販売開始
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [13]海外合弁を相次ぎ設立(1952年7月 インド/1954年4月 ブラジル/1959年5月 ビルマ/1962年3月 タイ国のパイロット万年筆)
- [17]1955年12月 新製品パイロットスーパーを発売し人気を集めた
- [18]1963年11月 世界で初めてキャップのない万年筆パイロットキャップレスを発売
- [19]1961年11月 メタルビー、1966年4月 ホワイトボードを発売(新分野の開発)
三者鼎立による万年筆トップメーカー化と1968年危機
パイロット萬年筆は創業以来、使う者・売る者・造る者がともに栄えることを掲げる三者鼎立の経営基本方針を貫き、優れた製品を低コストで送り出すことを企業の型とした。問屋を介さず小売店へ直接届ける流通と量産能力で輸入品との価格競争を凌ぎ、戦後の万年筆普及期に品質で抜きん出た同社製品は、国内市場で金額シェア約50%を占める圧倒的な地位を築いた。パイロットは万年筆の代名詞といわれるまでになり、資産内容の良さでも知られた。創業から約半世紀をかけて、国産筆記具のトップメーカーとしての地位が固まった時期である。 [21][22]
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [21]創業以来、使う者・売る者・造る者の共存共栄を掲げる三者鼎立の経営基本方針を貫いた
- [22]国内市場における金額シェアは約50%で圧倒的、パイロットは万年筆の代名詞といわれた
万年筆の輸入が自由化された1962年以降、同社はパーカーやモンブランなど先進国メーカーと競える品質・価格を整え、先進国製品の輸入は年間100万本前後で頭打ちとなった。ところがコストを度外視した中国製の安価な万年筆が1967年に497万本も流入して国産のシェアを侵食し、同社は230万本の過剰在庫を抱えた。この在庫を一度に処理する強硬策により、1968年6月期には約14億円の欠損金を計上し、年1割6分配当から無配へ転落した。年間約600万本だった生産販売を適正水準の450万本へ絞り込む再編に着手し、万年筆中心の事業構成そのものの見直しを迫られた。 [23][24][25][26]
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [23]万年筆の輸入自由化は1962年、パーカー・モンブランなど先進国メーカーと競える体制を確立し先進国製品の輸入は年間100万本前後で頭打ち
- [24]1967年に中国製の安価な万年筆が497万本流入、同社は230万本の過剰在庫を抱えた
- [25]過剰在庫の一括処理により1968年6月期に約14億円の欠損金を計上、年1割6分配当から無配へ転落
- [26]年間約600万本だった生産販売を適正水準の年450万本へ絞り込む再編に着手
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [21]創業以来、使う者・売る者・造る者の共存共栄を掲げる三者鼎立の経営基本方針を貫いた
- [22]国内市場における金額シェアは約50%で圧倒的、パイロットは万年筆の代名詞といわれた
- [23]万年筆の輸入自由化は1962年、パーカー・モンブランなど先進国メーカーと競える体制を確立し先進国製品の輸入は年間100万本前後で頭打ち
- [24]1967年に中国製の安価な万年筆が497万本流入、同社は230万本の過剰在庫を抱えた
- [25]過剰在庫の一括処理により1968年6月期に約14億円の欠損金を計上、年1割6分配当から無配へ転落
- [26]年間約600万本だった生産販売を適正水準の年450万本へ絞り込む再編に着手