コクヨ の歴史

創業

1905年

創業者

黒田善太郎

創業地

大阪市西区

直近売上高(2025/12)

3,599億円

長期業績と転換点(1996/12〜2025/12)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1960年に、紙製品メーカーのコクヨは鋼製家具へ参入したのか
A 紙製品が市場に行き渡り、1957年ごろから売上高の伸びは年に1億円か2億円にとどまっていた。業界の首位にはいたが、このまま続ければ将来が危ういと黒田暲之助氏は考えた。販売先が中小企業と一般消費者に偏っていたことも気にかかっており、一流と呼ばれる企業のオフィスで使ってもらいたいという思いが長く胸にあった。紙製品の伝統に固執する父の善太郎氏には、ファイルやバインダーを納める入れ物としてキャビネットを作りたいと説き、鋼という語を一度も使わずに許しを得た
Q なぜ1974年に、コクヨは受注残240億円を全件白紙に戻したのか
A 石油危機で注文が殺到し、1974年1月末の紙製品と文房具の受注残は240億円に達した。当時の生産能力は月に35億円ほどで、7か月分の注文を一度に抱えた計算になる。ノートや帳簿が急に2倍3倍と使われるはずはなく、思惑買いが混じっていると黒田暲之助氏は疑った。2月に全国の支店長を本社へ集めて注文をいったん全部白紙に戻し、支店長が足で歩いて実需を数え直したところ、注文残は3月に60億円、4月には10億円へ落ちた。同業他社が9月ごろまで増産を続けたのに対し、コクヨは半年早く減産へ動いた
Q なぜ2022年に、コクヨはぺんてる株45.6%をすべて手放したのか
A 2019年にぺんてるの子会社化を目指したのは、プラス主導で業界再編が進むのを阻むためだった。ぺんてるは連結売上高371億円のうち海外比率が65%あり、海外売上比率10%以下のコクヨにとって筆記具の技術とブランドは欠けている部分だった。しかしぺんてるはプラスをホワイトナイトに迎え、プラスが30%を確保してコクヨは過半数に届かなかった。2021年に50億円の減損を計上したのち、2022年9月に45.6%すべてをプラスへ売り、中国市場での提携と引き換えに3年の争いから降りた

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1905年〜 和式帳簿の表紙から始まった大阪の紙製品メーカー(1905〜1960)

  1. 1905年 黒田表紙店を大阪市西区に開業し和式帳簿用表紙の製造を開始
  2. 1913年 洋式帳簿の製造を開始
  3. 1914年 店名を黒田国光堂に変更
  4. 1936年 大阪市東成区の現在地に事務所と工場を移転
  5. 1938年 合名会社黒田国光堂に組織変更
  6. 1949年 傍系3社と合併し資本金1,044万5,000円の黒田国光堂を設立
  7. 1960年 鋼製家具・ファイリング用品への参入と、協力工場生産によるコクヨ商標での販売 紙製品の枠にとどまるか、オフィスの什器まで手を伸ばすか——黒田暲之助社長は先代の黒田善太郎氏をどう説いたか

富山のマッチ工場が流され、大阪で表紙張りを覚える

コクヨの創業者である黒田善太郎氏は、1879年に富山市の商家に生まれた[1]。生家は1880年前後にマッチの製造へ乗り出し、女工だけで約100人[2]を抱えるまでになったが、神通川の河川敷に建てた新工場が1889年から1890年ごろの洪水で流された[3]。再建はならず、父の善三郎氏は1892年に世を去り[4]、善太郎氏は12歳で母と3人の弟妹を抱えた。家業を再興する当てのないまま19歳まで富山にとどまり[5]、北陸線が高岡まで通じたのを機に大阪へ出た。運送店と乾物店の奉公を経て20歳でマッチ製造会社に入った[6]が、機械化された製法は富山のやり方とまるで違い、半年で見切りをつけた。次に小僧として入ったのが堺筋備後町の小林紙店[7]で、ここから紙を商う道に入った。

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [1]黒田善太郎は1879年(明治12)2月、富山市で黒田屋七代目・善三郎の長男として生まれた
    • [2]生家のマッチ製造は女工だけで約100人を抱える規模だった
    • [3]神通川河川敷の新工場は明治22、23年ごろの大洪水で流失した
    • [4]父の善三郎は明治25年(1892)2月に死去し、善太郎は12歳で、母と3人の弟妹が残された
    • [5]善太郎は19歳まで富山にとどまり、北陸線が金沢-高岡間に開通したのを機に大阪へ出た
    • [6]大阪で運送店・乾物店の奉公を経て、20歳で今宮のマッチ製造会社「電光社」に入ったが半年で辞めた
    • [7]次に勤めたのが堺筋・備後町の紙の卸問屋「小林紙店」で、これが紙製品の世界に入る一歩となった

小林紙店は紙の卸問屋で、和式帳簿の表紙の加工販売[8]も手がけていた。善太郎氏は番頭となって表紙の仲買い[9]に携わり、紙の買い付けから職人への発注、製品の販売までをひと通り身につけた。その仕事を元手に、1905年10月、27歳で大阪市西区に黒田表紙店を構え[10]、和式帳簿用表紙の製造を始めた[11]。開業のあいさつに行った先で、良い商売は世間が先に手をつけており残っているのは滓ばかりだと忠告された[12]。善太郎氏は滓であればあるほど人はやらないと受け止め、そこに精根を尽くす[13]と決めた。この決心は1954年に定めた社訓「天職」[14]の由来となった。

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [8]小林紙店は紙の卸問屋で、和表紙(和式帳簿の表紙)の加工販売も手掛けていた
    • [9]善太郎は小林紙店で番頭となり表紙の仲買いをするようになった
    • [12]創業のあいさつ回りで恩人から「ええ仕事は世間さまが先にやってしまっている。残っているのは滓の商売ばかりやと思いなさい」と忠告された
    • [13]善太郎は「滓の商売、結構やないか。滓であればあるほど人はやらない。一生うだつがあがらないかもしれんが、精根の限り滓の仕事をやってみよう」と決心した
    • [14]この逸話が昭和29年(1954)の創業50周年にあたって定めた社訓「天職」になった
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [10]1905年10月、故黒田善太郎の個人経営による黒田表紙店を大阪市西区において開業した
    • [11]黒田表紙店は和式帳簿用表紙の製造を開始した

表紙だけでは商いが広がらない。創業から3年目の1908年[16]、黒田表紙店は和式帳簿そのものの製造に踏み込んだ。当時の小売店は夜なべで版木印刷と製本をこなす和帳の製造業者[17]でもあり、既製の和帳を売り込むことは得意先をそのまま競合に変える意味を持った。小売店を一軒ずつ回る効率の悪さもあり、善太郎氏は卸問屋に協力を求める道を選んだ[18]。代理店を置くというより、一緒に仕事をする仲間を作るという考え方[19]であり、これが後年の販売網のもとになった。長男の黒田暲之助氏は、和帳こそが紙製品事業の始まりだった[20]と書き残している。 [15]

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [15]表紙をつくり始めた当初から父は「滓の商売なりに、もっと手広くできないか」と考えており、和帳本体の品質が表紙の責任にされる理不尽さへの反発も手伝って和帳そのものの製造に進んだ
    • [16]創業から3年目の明治41年(1908)に和帳そのものの製造へ進んだ
    • [17]当時は小売店自体が夜なべで版木印刷・製本をする和帳業者であり、得意先がそのまま商売がたきになる構造だった
    • [18]小売店を一軒ずつ回る非効率を避けるため卸問屋に協力を求めた
    • [19]善太郎の考えは代理店ではなく「仲間づくり」であり、のちに「販売のコクヨ」を支える輪になった
    • [20]黒田暲之助は「和帳こそ当社の事業の出発点なのである」と記した
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [1]黒田善太郎は1879年(明治12)2月、富山市で黒田屋七代目・善三郎の長男として生まれた
    • [2]生家のマッチ製造は女工だけで約100人を抱える規模だった
    • [3]神通川河川敷の新工場は明治22、23年ごろの大洪水で流失した
    • [4]父の善三郎は明治25年(1892)2月に死去し、善太郎は12歳で、母と3人の弟妹が残された
    • [5]善太郎は19歳まで富山にとどまり、北陸線が金沢-高岡間に開通したのを機に大阪へ出た
    • [6]大阪で運送店・乾物店の奉公を経て、20歳で今宮のマッチ製造会社「電光社」に入ったが半年で辞めた
    • [7]次に勤めたのが堺筋・備後町の紙の卸問屋「小林紙店」で、これが紙製品の世界に入る一歩となった
    • [8]小林紙店は紙の卸問屋で、和表紙(和式帳簿の表紙)の加工販売も手掛けていた
    • [9]善太郎は小林紙店で番頭となり表紙の仲買いをするようになった
    • [12]創業のあいさつ回りで恩人から「ええ仕事は世間さまが先にやってしまっている。残っているのは滓の商売ばかりやと思いなさい」と忠告された
    • [13]善太郎は「滓の商売、結構やないか。滓であればあるほど人はやらない。一生うだつがあがらないかもしれんが、精根の限り滓の仕事をやってみよう」と決心した
    • [14]この逸話が昭和29年(1954)の創業50周年にあたって定めた社訓「天職」になった
    • [15]表紙をつくり始めた当初から父は「滓の商売なりに、もっと手広くできないか」と考えており、和帳本体の品質が表紙の責任にされる理不尽さへの反発も手伝って和帳そのものの製造に進んだ
    • [16]創業から3年目の明治41年(1908)に和帳そのものの製造へ進んだ
    • [17]当時は小売店自体が夜なべで版木印刷・製本をする和帳業者であり、得意先がそのまま商売がたきになる構造だった
    • [18]小売店を一軒ずつ回る非効率を避けるため卸問屋に協力を求めた
    • [19]善太郎の考えは代理店ではなく「仲間づくり」であり、のちに「販売のコクヨ」を支える輪になった
    • [20]黒田暲之助は「和帳こそ当社の事業の出発点なのである」と記した
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [10]1905年10月、故黒田善太郎の個人経営による黒田表紙店を大阪市西区において開業した
    • [11]黒田表紙店は和式帳簿用表紙の製造を開始した

洋式帳簿への転換と、郷土を込めた国誉の商標

1913年5月、洋式帳簿の製造が始[21]まった。ただし洋式帳簿は複式簿記を前提とし[22]、採用するのは大企業と大商店に限られたうえ、印刷業へのオーダーメードが当たり前で、既製品として売る道はなかなか開けず[23]、販売には長く苦心した。1914年10月に店名を黒田国光堂へ改め[24]、1917年には商標として国誉を定めた[25]。国は越中、すなわち富山[26]を指す。大阪へ出るには呉羽山を越えねばならず、峠の茶屋で人を見送った[27]。自分の商品は故郷につながっている以上、郷土の名を汚し[28]てはならないと、善太郎氏は自らに言い聞かせていた。その心が国の光、国の誉れという商標に[29]なり、現在の社名もこの商標に由[30]来する。

  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [21]1913年5月、洋式帳簿の製造を開始した
    • [24]1914年10月、店名を黒田国光堂と改称した
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [22]洋式帳簿は複式簿記が前提で採用は大企業・大商店に限られ、オーダーメードが当たり前だったため既製品メーカーとしては永年販売に苦心した
    • [23]洋式帳簿は印刷業へのオーダーメードが当たり前で、既製品メーカーとしては永年、販売に苦心さんたんした
    • [25]大正6年(1917)に初めて商標「国誉」をつくった
    • [26]「国」は越中・富山を指し、郷土の名を汚してはならないという善太郎の思いが国の光・国の誉れという形になった
    • [27]富山から大阪に出るには呉羽山を越えねばならず、峠の白壁の茶屋が見送りの別れの場所で、「あんま(兄さん)、しっかりやってこられませ」と励ましの言葉が飛んだ
    • [28]父が常に自らに言い聞かせていた言葉は「自分の商品は故郷につながっている。仮にも郷土の名を汚すようなことをしてはいけない」だった
    • [29]黒田暲之助は「その心が国の光、国の誉れという形になって表現されたものと信じている」と記した
    • [30]現在の社名コクヨは商標「国誉」に由来する

生産設備も少しずつ整え、1922年には初の生産工場[31]となる猪飼野工場を設けて洋式帳簿の自家生産に入った。輸入紙に頼っていた帳簿用紙は、1927年に王子製紙へ依頼して国産の帳簿紙を開発[33]してもらい、その原紙を生かして手形用紙や領収書用紙へ品目を広げた。1932年には便箋を発売[34]し、先発メーカーを超えるために伊東深水氏ら大家の描いた美人画の色紙を挿んだ。1936年11月には大阪市東成区の現在地へ事務所と工場を移し[35]、紙製品の全品種を一つの敷地で作れるようにし、1938年1月に個人商店から合名会社へ組織を改めた[36][32]

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [31]大正11年(1922)に初の生産工場・猪飼野工場を設立し、昭和2年(1927)には中道工場を設立するなど生産設備を順次増やした
    • [32]大正11年(1922)に初の生産工場・猪飼野工場を設立し、洋式帳簿の自家生産を開始した
    • [33]昭和2年(1927)に王子製紙へ依頼して国産初の帳簿紙を開発してもらい、その副産物の原紙で手形用紙・領収書用紙を開発した
    • [34]便箋「書翰箋」の登場は昭和7年(1932)で、伊東深水ら大家の美人画の色紙を挿入した
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [35]1936年11月、大阪市東成区の現在地に事務所及び工場を移転した
    • [36]1938年1月、合名会社黒田国光堂に組織変更した

1940年に入ると原材料の統制が強まり[37]、原紙は軍需関係へ優先して割り当てられた。軍需産業への転換を善太郎氏が拒んだ[38]ため、物資の配給が優先される輸出に活路を求めるほかなかった。暲之助氏は蘭領インドで青表紙ノートの需要があることに目をつけ、1940年12月に神戸を発ってスラバヤへ渡り、ジャワコクヨ商店を設けた[39]。1942年には新京の印刷会社を買い取って満州国誉印刷紙工を設立[40]し、満州政府印刷廠から紙幣や外食券の印刷を受注して、終戦の直前には従業員が3,000人にふくらんだ[41]。いずれも1945年8月の敗戦とともに放棄した[42]

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [37]昭和15年(1940)になると統制色が強まり、原紙は軍需関係に優先割り当てされ一般民需は後回しになった
    • [38]軍需産業への転換は善太郎がガンとして首を縦に振らなかった
    • [39]昭和15年12月30日に神戸港を出港し、昭和16年1月18日にスラバヤへ到着、ジャワコクヨ商店を設立した
    • [40]昭和17年(1942)2月に新京の印刷会社「満州秀英舎」を買収して満州国誉印刷紙工を設立した
    • [41]満州政府印刷廠から紙幣・外食券などの印刷を受注し、従業員は終戦直前には3,000人に膨らんだ
    • [42]昭和20年8月、満州国誉印刷紙工とジャワコクヨ商店を終戦のため放棄した
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [21]1913年5月、洋式帳簿の製造を開始した
    • [24]1914年10月、店名を黒田国光堂と改称した
    • [35]1936年11月、大阪市東成区の現在地に事務所及び工場を移転した
    • [36]1938年1月、合名会社黒田国光堂に組織変更した
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [22]洋式帳簿は複式簿記が前提で採用は大企業・大商店に限られ、オーダーメードが当たり前だったため既製品メーカーとしては永年販売に苦心した
    • [23]洋式帳簿は印刷業へのオーダーメードが当たり前で、既製品メーカーとしては永年、販売に苦心さんたんした
    • [25]大正6年(1917)に初めて商標「国誉」をつくった
    • [26]「国」は越中・富山を指し、郷土の名を汚してはならないという善太郎の思いが国の光・国の誉れという形になった
    • [27]富山から大阪に出るには呉羽山を越えねばならず、峠の白壁の茶屋が見送りの別れの場所で、「あんま(兄さん)、しっかりやってこられませ」と励ましの言葉が飛んだ
    • [28]父が常に自らに言い聞かせていた言葉は「自分の商品は故郷につながっている。仮にも郷土の名を汚すようなことをしてはいけない」だった
    • [29]黒田暲之助は「その心が国の光、国の誉れという形になって表現されたものと信じている」と記した
    • [30]現在の社名コクヨは商標「国誉」に由来する
    • [31]大正11年(1922)に初の生産工場・猪飼野工場を設立し、昭和2年(1927)には中道工場を設立するなど生産設備を順次増やした
    • [32]大正11年(1922)に初の生産工場・猪飼野工場を設立し、洋式帳簿の自家生産を開始した
    • [33]昭和2年(1927)に王子製紙へ依頼して国産初の帳簿紙を開発してもらい、その副産物の原紙で手形用紙・領収書用紙を開発した
    • [34]便箋「書翰箋」の登場は昭和7年(1932)で、伊東深水ら大家の美人画の色紙を挿入した
    • [37]昭和15年(1940)になると統制色が強まり、原紙は軍需関係に優先割り当てされ一般民需は後回しになった
    • [38]軍需産業への転換は善太郎がガンとして首を縦に振らなかった
    • [39]昭和15年12月30日に神戸港を出港し、昭和16年1月18日にスラバヤへ到着、ジャワコクヨ商店を設立した
    • [40]昭和17年(1942)2月に新京の印刷会社「満州秀英舎」を買収して満州国誉印刷紙工を設立した
    • [41]満州政府印刷廠から紙幣・外食券などの印刷を受注し、従業員は終戦直前には3,000人に膨らんだ
    • [42]昭和20年8月、満州国誉印刷紙工とジャワコクヨ商店を終戦のため放棄した

青色申告が生んだ需要と、専門代理店の始まり

1949年5月12日、合名会社黒田国光堂は戦前の販売代理店だったコクヨ商店・東京国誉商店・西部コクヨ商店を合併し、資本金1,044万5,000円の株式会社黒田国光堂として発足した[43]。この時期に暲之助氏が副社長として製品企画と製造を、弟の靖之助氏が常務として営業を受け持つ[44]分担が定まった。追い風になったのはシャウプ勧告による税制改革[45]である。大衆課税へ移って青色申告が制度化されると、帳簿をつける事業者が全国で一気に増え[46]、既製の洋式帳簿の需要が広がった。1954年1月には大阪市東成区深江に深江工場を設け[47]、帳簿やルーズリーフの量産体制を整えた。

  • 証券 1971年3月号「新規上場会社紹介 コクヨ株式会社」
    • [43]1949年5月、傍系会社の株式会社コクヨ商店・株式会社東京国誉商店・株式会社西部コクヨ商店と合併し、資本金10,445千円の株式会社黒田国光堂を設立した
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [44]戦後、暲之助が副社長として製品企画・製造、弟の靖之助が常務で営業と業務分担を明確にした
    • [45]戦後復興の「天の時」はシャウプ勧告による税制改革だった
    • [46]シャウプ勧告による税制改革で大衆課税方式に移行し青色申告が制度化され、帳簿の需要が全国的な規模でわき起こった
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1954年1月、大阪市東成区深江に深江工場を新設し、帳簿・リーフ等主要製品の量産体制を確立した

販売網もこの時期に形を得た。1950年6月、東京で文具の卸問屋を営んでいた伊藤商店の伊藤賢治氏が善太郎氏を訪ね[49]、他社の商品を扱うのをやめてコクヨ製品だけで商売をしたいと申し出た[50]。他の仕入先に迷惑がかかると断られると、伊藤氏はすでに他社の代理店権を返上してきたと答えて引かず、これが専門代理店の第1号[51]となった。1957年1月には全国20社が会社の知らないところで相談して全国コクヨ専門店会を結成[52]し、黒田善太郎氏を親と思い黒田国光堂と生死を共にする覚悟を記した宣誓の一巻[53]を贈った。専門代理店はその後、一県に一社の割合で全国へ広がった[54][48]

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [48]黒田暲之助は販売組織のでき方を問われ「まわりの熱意に押されて、いつの間にか出来上がったのですよ」と答えており、その起点が昭和25年の伊藤商店だった
    • [49]昭和25年6月、株式会社伊藤商店が全国で初めてのコクヨ製品専門代理店となった
    • [50]伊藤社長は「他社の商品を扱うのをやめてコクヨの製品だけで商売をしたい」と申し出て、断られると「他のメーカーには代理店権を返上してきた」と答えて引かなかった
    • [51]父が「皆さんに迷惑がかかるでしょう」と断ると、伊藤は「そうおっしゃるだろうと思って、他のメーカーさんには代理店権を返上してきました」と一歩も引かず、これがコクヨ専門店(のちの総括店)第1号となった
    • [52]昭和32年(1957)1月、専門店各社が会社の知らない間に相談して全国コクヨ専門店会を20社で結成した
    • [53]結成時に会員各社の社長が署名した「宣誓」には、黒田善太郎氏を親と思い、黒田国光堂と生死を共にする覚悟を自覚した同志が宣誓する旨が記されていた
    • [54]以後全国各地に専門店が生まれ、一県に一社の割合で全国ネットワークが形成された

生産の側では機械化が課題として残った。1953年に800人まで増えた従業員[55]の仕事は、紙を数える工程も表紙を差し込む工程も人手に頼っていた。暲之助氏は1956年9月に欧州へ渡って自動製造機械を探した[57]が、欧州でも帳票類はオーダーメードで、既製の帳票を世に出しているのは黒田国光堂だけだと気づいて[58]手ぶらで帰った。1958年4月にデュッセルドルフの印刷見本市で見つけたハンスビル社のノート製造機[59]が糸口になり、技師長を招いて開発させた7台を2億8,000万円で発注した。年商38億円の会社にとっては大きな買い物だった。1960年1月、善太郎氏が会長に退き、暲之助氏が社長[61]に就いた。 [56][60]

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [55]終戦時60人足らずだった従業員は昭和28年(1953)には800人に膨らみ、印刷・断裁を除く工程はすべて人手だった
    • [56]仕事柄ほとんどが手作業工程で、増産は人海戦術に頼るしかなく、機械も旧式ばかりだった
    • [57]昭和31年(1956)9月に欧州へ自動製造機械を探しに渡ったが、3カ月かけて何の実りもなく帰国した
    • [58]欧州でも帳票類はオーダーメードであり、既製の帳票類を世に出しているのは世界で黒田国光堂だけだと気づいた
    • [59]昭和33年(1958)4月、デュッセルドルフの印刷と紙の見本市でハンスビル社のノート自動製造機械を見つけた
    • [60]帳票・便箋の自動製造機械など計7台を2億8,000万円で発注した。当時の年間売上高は38億円だった
    • [61]昭和35年(1960)1月、黒田善太郎が会長に、黒田暲之助が社長に就任した
  • 証券 1971年3月号「新規上場会社紹介 コクヨ株式会社」
    • [43]1949年5月、傍系会社の株式会社コクヨ商店・株式会社東京国誉商店・株式会社西部コクヨ商店と合併し、資本金10,445千円の株式会社黒田国光堂を設立した
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [44]戦後、暲之助が副社長として製品企画・製造、弟の靖之助が常務で営業と業務分担を明確にした
    • [45]戦後復興の「天の時」はシャウプ勧告による税制改革だった
    • [46]シャウプ勧告による税制改革で大衆課税方式に移行し青色申告が制度化され、帳簿の需要が全国的な規模でわき起こった
    • [48]黒田暲之助は販売組織のでき方を問われ「まわりの熱意に押されて、いつの間にか出来上がったのですよ」と答えており、その起点が昭和25年の伊藤商店だった
    • [49]昭和25年6月、株式会社伊藤商店が全国で初めてのコクヨ製品専門代理店となった
    • [50]伊藤社長は「他社の商品を扱うのをやめてコクヨの製品だけで商売をしたい」と申し出て、断られると「他のメーカーには代理店権を返上してきた」と答えて引かなかった
    • [51]父が「皆さんに迷惑がかかるでしょう」と断ると、伊藤は「そうおっしゃるだろうと思って、他のメーカーさんには代理店権を返上してきました」と一歩も引かず、これがコクヨ専門店(のちの総括店)第1号となった
    • [52]昭和32年(1957)1月、専門店各社が会社の知らない間に相談して全国コクヨ専門店会を20社で結成した
    • [53]結成時に会員各社の社長が署名した「宣誓」には、黒田善太郎氏を親と思い、黒田国光堂と生死を共にする覚悟を自覚した同志が宣誓する旨が記されていた
    • [54]以後全国各地に専門店が生まれ、一県に一社の割合で全国ネットワークが形成された
    • [55]終戦時60人足らずだった従業員は昭和28年(1953)には800人に膨らみ、印刷・断裁を除く工程はすべて人手だった
    • [56]仕事柄ほとんどが手作業工程で、増産は人海戦術に頼るしかなく、機械も旧式ばかりだった
    • [57]昭和31年(1956)9月に欧州へ自動製造機械を探しに渡ったが、3カ月かけて何の実りもなく帰国した
    • [58]欧州でも帳票類はオーダーメードであり、既製の帳票類を世に出しているのは世界で黒田国光堂だけだと気づいた
    • [59]昭和33年(1958)4月、デュッセルドルフの印刷と紙の見本市でハンスビル社のノート自動製造機械を見つけた
    • [60]帳票・便箋の自動製造機械など計7台を2億8,000万円で発注した。当時の年間売上高は38億円だった
    • [61]昭和35年(1960)1月、黒田善太郎が会長に、黒田暲之助が社長に就任した
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1954年1月、大阪市東成区深江に深江工場を新設し、帳簿・リーフ等主要製品の量産体制を確立した

1960年〜 紙から鋼へ、全館ショールームの本社と株式上場(1960〜1975)

入れ物という説得で始めた鋼製家具

社長に就いた暲之助氏には危機感があった。1957年ごろから売上高の伸びは年に1億円か2億円にとどまり[63]、紙製品は市場に行き渡って強力な新製品も出ていなかった。業界の首位にはいたが、このまま安全運転を続ければ将来が危ういと考えた[64]。販売先が中小企業と一般消費者に偏っていた[65]ことも気にかかっていた。一流と呼ばれる企業のオフィスで使ってもらえないか[66]、という思いが長く胸にあった。1950年代後半には大企業への納品業者がデスクやキャビネットに力を入れ始め、IBMの日本上陸が話題にのぼる[67]など、オフィスの様子が変わる兆しも見えていた。 [62]

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [62]黒田暲之助は「今のところは紙製品全盛で、影一つない青空だが、目をこらすと水平線の彼方に小さな雲が見える。手をこまねいていては、いつか大きな黒雲になってコクヨを襲ってくるのではないか」という不安を覚えていた
    • [65]事務用紙製品では少しは知られたコクヨではあったが、販売先は中小企業や一般消費者に限られていた
    • [66]事務用紙製品の販売先は中小企業や一般消費者に限られており、一流といわれる企業のオフィスで使ってもらえないかという思いが長く心の中にあった
    • [67]昭和30年代前半には大企業への納品業者の間でデスクやキャビネットなどスチール製品に力を入れる機運が出て、IBMの日本上陸などが話題に上りオフィス革命の兆しが感じられた
  • 証券アナリストジャーナル 1980年3月号「企業 コクヨ 時代を先取りして業容を積極拡大」(黒田暲之助社長)
    • [63]昭和32年ごろから売上高は年に1〜2億円程度で伸び悩み、紙製品は市場に一応行きわたり強力な新製品の開発もなく、将来を思えば危機的な状態だと考えた
    • [64]業界のトップに立っており、このまま安全運転はできるが将来を思えば危機的な状態と考えた

最大の障害は父だった。善太郎氏にとってのコクヨは紙製品のメーカーであり、和帳から帳票、便箋へと品目を広げてはいても、紙の域を一歩も出ていない[69]。暲之助氏は弟の靖之助氏と2人で父の前に立ち[70]、ルーズリーフとバインダーが売れ、帳票を収める需要も増えているので、それを納める入れ物としてキャビネットを作りたいと説いた。鋼という語を一度も使わない説得[71]であり、父は道理だと認めて[72]許した。もっとも暲之助氏は後年の講演では、父が紙製品の伝統に固執して新製品への参入をなかなか許さず、毎日が先代との戦いだった[73]とも述べている。1960年4月、コクヨは鋼製家具とファイリング用品の販売[74]を始めたが、当初の生産は協力工場に任せ、コクヨの商標[75]で売った。 [68]

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [68]黒田暲之助は鋼製家具進出の「最大の障害は父だった」と書き、父が会長に退いても「何でも好き勝手にやっていい」という雰囲気ではなかったと述べている
    • [69]父にとってのコクヨは紙製品メーカーであり、和帳から帳票、便箋と多角化しても紙製品の域を一歩も出ていなかった
    • [70]弟の靖之助と2人で会長室の父の前に立ち、ファイルやバインダーを納める入れ物としてキャビネットを作りたいと説得した
    • [71]説得ではスチール製品のスの字も使わなかった
    • [72]父は「それは道理やな。なるほど、入れ物がないと不便や。よし、やりなさい」と拍子抜けするほどあっさり許した
    • [75]当初は協力工場で生産し、コクヨの商標で販売した
  • 証券アナリストジャーナル 1980年3月号「企業 コクヨ 時代を先取りして業容を積極拡大」(黒田暲之助社長)
    • [73]先代社長の父が紙製品の伝統に固執し、新製品への参入をなかなか許さず、毎日が先代との戦いだった
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [74]1960年4月、鋼製家具及びファイリング用品の販売を開始した

1961年6月、社名を黒田国光堂からコクヨ[76]へ改めた。大卒の定期採用が増えるなか、次の世代のために古い屋号を改める[77]と判断した。父は承知したが、あとで母から聞いたところでは残念だともらしていた[78]。同じ月には西ドイツ製の自動製造機械を据えた八尾工場が動き出し、便箋や複写簿の製造を機械へ置き換えた[79]。1962年12月には鳥取市に紙製品の製造会社である日本事務用品工業[80]を設けた。1965年10月にはスチールデスクを発売[81]して鋼製家具の品目を広げ、同じ1965年11月期に売上高は111億円へ伸びて初めて100億円を超えた[82]。社長就任時の売上高は約40億円で、創業から55年かけて到達した水準[83]だったから、6年足らずでその2倍半に届いたことになる。就任の年の11月には労働組合が結成後初のストライキに入った[84]。暲之助氏は第二組合を作る案を退けて正面から交渉し、労使は1961年9月の執行部交代で落ち着いた[85]

  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [76]1961年6月、株式会社黒田国光堂をコクヨ株式会社に社名変更した
    • [79]1961年6月、大阪府八尾市に八尾工場を新設し、オートメーション機により便箋・複写簿等の製造を合理化した
    • [80]1962年12月、鳥取県鳥取市に紙製品の製造会社日本事務用品工業株式会社(現株式会社コクヨMVP)を設立した
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [77]定期採用の大卒社員も増えてきたため、次の時代を担う人たちのためにこのままではいけないと考えた
    • [78]父は思いのほかあっさり承知したが、後で母から聞いたところでは「残念だ」ともらしていた
    • [81]昭和40年(1965)10月にスチールデスクを発売した
    • [84]昭和35年(1960)11月、労組結成後初のストライキが発生し、本社前には赤旗が立ち並んだ
    • [85]第二組合を作ってはという雑音も耳に入ったが、たとえ数カ月売り上げゼロが続いてもという不退転の決意で交渉にあたり、労使関係は昭和36年9月に組合執行部が大きく代替わりして落ち着いた
  • 証券 1971年3月号「新規上場会社紹介 コクヨ株式会社」
    • [82]期別売上高は昭39.11期9,980百万円、昭40.11期11,117百万円で、100億円を超えたのは昭和40年11月期である
  • 証券アナリストジャーナル 1980年3月号「企業 コクヨ 時代を先取りして業容を積極拡大」(黒田暲之助社長)
    • [83]社長就任当時は創業から55年で売上高が約40億円で、100億円の達成は到底無理と思われていた
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [62]黒田暲之助は「今のところは紙製品全盛で、影一つない青空だが、目をこらすと水平線の彼方に小さな雲が見える。手をこまねいていては、いつか大きな黒雲になってコクヨを襲ってくるのではないか」という不安を覚えていた
    • [65]事務用紙製品では少しは知られたコクヨではあったが、販売先は中小企業や一般消費者に限られていた
    • [66]事務用紙製品の販売先は中小企業や一般消費者に限られており、一流といわれる企業のオフィスで使ってもらえないかという思いが長く心の中にあった
    • [67]昭和30年代前半には大企業への納品業者の間でデスクやキャビネットなどスチール製品に力を入れる機運が出て、IBMの日本上陸などが話題に上りオフィス革命の兆しが感じられた
    • [68]黒田暲之助は鋼製家具進出の「最大の障害は父だった」と書き、父が会長に退いても「何でも好き勝手にやっていい」という雰囲気ではなかったと述べている
    • [69]父にとってのコクヨは紙製品メーカーであり、和帳から帳票、便箋と多角化しても紙製品の域を一歩も出ていなかった
    • [70]弟の靖之助と2人で会長室の父の前に立ち、ファイルやバインダーを納める入れ物としてキャビネットを作りたいと説得した
    • [71]説得ではスチール製品のスの字も使わなかった
    • [72]父は「それは道理やな。なるほど、入れ物がないと不便や。よし、やりなさい」と拍子抜けするほどあっさり許した
    • [75]当初は協力工場で生産し、コクヨの商標で販売した
    • [77]定期採用の大卒社員も増えてきたため、次の時代を担う人たちのためにこのままではいけないと考えた
    • [78]父は思いのほかあっさり承知したが、後で母から聞いたところでは「残念だ」ともらしていた
    • [81]昭和40年(1965)10月にスチールデスクを発売した
    • [84]昭和35年(1960)11月、労組結成後初のストライキが発生し、本社前には赤旗が立ち並んだ
    • [85]第二組合を作ってはという雑音も耳に入ったが、たとえ数カ月売り上げゼロが続いてもという不退転の決意で交渉にあたり、労使関係は昭和36年9月に組合執行部が大きく代替わりして落ち着いた
  • 証券アナリストジャーナル 1980年3月号「企業 コクヨ 時代を先取りして業容を積極拡大」(黒田暲之助社長)
    • [63]昭和32年ごろから売上高は年に1〜2億円程度で伸び悩み、紙製品は市場に一応行きわたり強力な新製品の開発もなく、将来を思えば危機的な状態だと考えた
    • [64]業界のトップに立っており、このまま安全運転はできるが将来を思えば危機的な状態と考えた
    • [73]先代社長の父が紙製品の伝統に固執し、新製品への参入をなかなか許さず、毎日が先代との戦いだった
    • [83]社長就任当時は創業から55年で売上高が約40億円で、100億円の達成は到底無理と思われていた
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [74]1960年4月、鋼製家具及びファイリング用品の販売を開始した
    • [76]1961年6月、株式会社黒田国光堂をコクヨ株式会社に社名変更した
    • [79]1961年6月、大阪府八尾市に八尾工場を新設し、オートメーション機により便箋・複写簿等の製造を合理化した
    • [80]1962年12月、鳥取県鳥取市に紙製品の製造会社日本事務用品工業株式会社(現株式会社コクヨMVP)を設立した
  • 証券 1971年3月号「新規上場会社紹介 コクヨ株式会社」
    • [82]期別売上高は昭39.11期9,980百万円、昭40.11期11,117百万円で、100億円を超えたのは昭和40年11月期である

全館をショールームにした本社と1971年の上場

1966年3月、善太郎氏が87歳で世[86]を去った。暲之助氏は一年間喪に服して新しいことをしないと決め[87]、経営者としての仕事を1967年以降に託した。その最初が本社ビルの建て替えで、1968年に旧本社を取り壊し[88]、1969年11月に地上8階、延べ面積8,767平方メートルの新社屋を完成させた[89]。旧本社の15倍の広さがあり[90]、社員が働く階も含めて全館に自社の鋼製家具を置き、応接室を大小32室設けた[91]。営業部門には赤いイスと黒い机、経理にはベージュ、開発には青[92]と、部門ごとに色を変えた。鋼製家具はカタログだけでは伝わらないという判断から、本社そのものをショールームにした[93]

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [86]昭和41年(1966)3月27日、父・黒田善太郎が87歳で死去した
    • [87]「向こう一年間、喪に服する。新しいことは何もするまい」と決め、経営者としてのすべてを昭和42年以降に託した
    • [88]昭和43年(1968)初めから旧本社(大阪市東成区今里)を取り壊して建設に着手し、昭和44年(1969)11月に新社屋が完成した
    • [90]旧本社(大阪市東成区今里)を取り壊して建設し、旧本社の15倍の広さがあった
    • [91]社員が実際に働くフロアを含めすべて自社スチール製品を配置し、応接室をサンプルとして大小32室設けた
    • [92]営業部門に真っ赤なイスと黒の机、経理はベージュ、開発はブルーと職場のカラー化に踏み込んだ
    • [93]スチール製品の展開はオフィス空間の一新の提案であり、カタログだけでは到底不可能なので本社をショールームを兼ねた実験ビルにした
  • 証券 1971年3月号「新規上場会社紹介 コクヨ株式会社」
    • [89]本社社屋は昭和44年に竣工した地上8階建、延面積8,767平方メートルの建物で、全館が生きたショールームとして設計されているのが特徴である

1969年10月、販売部門を担って1953年から休業状態にあった国誉商事がコクヨを吸収合併し[94]、商号をコクヨへ改めた。形式上の存続会社は国誉商事だが、営業の実態は被合併会社であるコクヨが引き[95]継いだ。1970年9月期に年間売上高が300億円を超え、証券会社の勧めもあって株式公開の準備に入った。社長就任から10年が経とうとしていた。この体裁を整えたうえで1971年3月1日、東京と大阪の両証券取引所市場第二部へ株式を上場した。公開価格430円に対して売り2万株に数百万株の買いが集まり、前場は値がつかず、大引け直前に720円で最初の売買が成立した[98]。翌1972年2月には両取引所の市場第一部へ指定替え[99]となった。父の死後も株式の9割以上を黒田一族が持っていた[100]が、上場によって株主は6,038人になった[101][96][97]

  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [94]1969年10月1日を合併期日として国誉商事株式会社がコクヨ株式会社を吸収合併し、商号をコクヨ株式会社と改めた。国誉商事は1953年以降休業状態にあった販売部門担当会社である
    • [99]1972年2月、東京・大阪両証券取引所市場第一部に指定された
  • 証券 1971年3月号「新規上場会社紹介 コクヨ株式会社」
    • [95]合併前の国誉商事は営業活動をほとんど行っていない形式上の存続会社であり、営業の実態は消滅会社であるコクヨの営業を継承したものだった
    • [97]上場年月日は昭和46年3月1日、東京・大阪両証券取引所市場第二部への上場で、公開価格は430円だった
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [96]昭和45年(1970)9月期に年間売上高が300億円を突破し、証券会社のすすめもあって株式公開の準備を始めた。社長就任から10年だった
    • [98]公開当日は午前9時に売り2万株へ数百万株の買いが殺到し、前場は値がつかず、大引け直前に720円で売買が成立した
    • [100]父の死後でも総株式数の90%以上を黒田一族が所有していた
  • 証券アナリストジャーナル 1980年3月号「企業 コクヨ 時代を先取りして業容を積極拡大」(黒田暲之助社長)
    • [101]株主総数は昭和46年3月に第二部へ上場したときが6,038人だった

上場時のコクヨは、事務用紙製品が売上の29.5%、日用と学用の紙製品が20.5%、鋼製品が34.9%、感光紙と事務機が15.1%[102]という構成だった。鋼製品はなお大半が他社からの仕入販売で[103]、1971年7月に大阪府柏原市へ柏原工場を建てて自社生産に踏み切った[104]。販売はコクヨ製品だけを扱う専門代理店47店が総売上の約8割を扱っ[105]た。1968年10月には取扱高の大きい小売店1,133社をコクヨジュウリーメンバーズとして組織[106]し、取引高に応じた5段階の格付けと報奨金の制度を設けた。専門代理店は1969年6月に総括店と改称[107]された。

  • 証券 1971年3月号「新規上場会社紹介 コクヨ株式会社」
    • [102]昭和45年9月期の販売実績は事務用紙製品29.5%、日・学用紙製品20.5%、スチール製品34.9%、感光紙・事務機15.1%だった
    • [103]スチール製品、感光紙、事務機はほとんどが他社製品の仕入販売だった
    • [105]専門代理店は全国各地に47店あり、同社の総売上高の約80%を取り扱っていた
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [104]1971年7月、大阪府柏原市に柏原工場を新設し家具製品の自家生産体制を確立した
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [106]昭和43年(1968)10月、コクヨ製品を扱う全国小売店1,133社でコクヨジュウリーメンバーズを結成し、取引高に応じたランク制と報奨金の制度を設けた
    • [107]昭和44年(1969)6月、「専門店」を「総括店」と名称変更した
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [86]昭和41年(1966)3月27日、父・黒田善太郎が87歳で死去した
    • [87]「向こう一年間、喪に服する。新しいことは何もするまい」と決め、経営者としてのすべてを昭和42年以降に託した
    • [88]昭和43年(1968)初めから旧本社(大阪市東成区今里)を取り壊して建設に着手し、昭和44年(1969)11月に新社屋が完成した
    • [90]旧本社(大阪市東成区今里)を取り壊して建設し、旧本社の15倍の広さがあった
    • [91]社員が実際に働くフロアを含めすべて自社スチール製品を配置し、応接室をサンプルとして大小32室設けた
    • [92]営業部門に真っ赤なイスと黒の机、経理はベージュ、開発はブルーと職場のカラー化に踏み込んだ
    • [93]スチール製品の展開はオフィス空間の一新の提案であり、カタログだけでは到底不可能なので本社をショールームを兼ねた実験ビルにした
    • [96]昭和45年(1970)9月期に年間売上高が300億円を突破し、証券会社のすすめもあって株式公開の準備を始めた。社長就任から10年だった
    • [98]公開当日は午前9時に売り2万株へ数百万株の買いが殺到し、前場は値がつかず、大引け直前に720円で売買が成立した
    • [100]父の死後でも総株式数の90%以上を黒田一族が所有していた
    • [106]昭和43年(1968)10月、コクヨ製品を扱う全国小売店1,133社でコクヨジュウリーメンバーズを結成し、取引高に応じたランク制と報奨金の制度を設けた
    • [107]昭和44年(1969)6月、「専門店」を「総括店」と名称変更した
  • 証券 1971年3月号「新規上場会社紹介 コクヨ株式会社」
    • [89]本社社屋は昭和44年に竣工した地上8階建、延面積8,767平方メートルの建物で、全館が生きたショールームとして設計されているのが特徴である
    • [95]合併前の国誉商事は営業活動をほとんど行っていない形式上の存続会社であり、営業の実態は消滅会社であるコクヨの営業を継承したものだった
    • [97]上場年月日は昭和46年3月1日、東京・大阪両証券取引所市場第二部への上場で、公開価格は430円だった
    • [102]昭和45年9月期の販売実績は事務用紙製品29.5%、日・学用紙製品20.5%、スチール製品34.9%、感光紙・事務機15.1%だった
    • [103]スチール製品、感光紙、事務機はほとんどが他社製品の仕入販売だった
    • [105]専門代理店は全国各地に47店あり、同社の総売上高の約80%を取り扱っていた
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [94]1969年10月1日を合併期日として国誉商事株式会社がコクヨ株式会社を吸収合併し、商号をコクヨ株式会社と改めた。国誉商事は1953年以降休業状態にあった販売部門担当会社である
    • [99]1972年2月、東京・大阪両証券取引所市場第一部に指定された
    • [104]1971年7月、大阪府柏原市に柏原工場を新設し家具製品の自家生産体制を確立した
  • 証券アナリストジャーナル 1980年3月号「企業 コクヨ 時代を先取りして業容を積極拡大」(黒田暲之助社長)
    • [101]株主総数は昭和46年3月に第二部へ上場したときが6,038人だった

石油ショックで240億円の注文を白紙に戻す

紙製品への注文は1973年9月から急増し[108]、同年秋の石油危機のあとで一段と加速した。倉庫のほこりでもいいから売ってほしいと言われるほど[110]で、最終消費者から電話や電報が入り、暲之助氏の自宅にまで催促が来た[111]。1974年1月末に集計した紙製品と文房具の注文残高は240億円[112]に達した。当時の生産能力は月に35億円ほどで、7か月分の注文を一度に抱えた[113]計算になる。周囲が熱に浮かされているときにかえって冷静になる癖があったという暲之助氏は、ノートや帳簿が急に2倍3倍と使われるはずはないと考え、思惑買いが混じっているのではないかと疑った[114][109]

  • 証券アナリストジャーナル 1977年3月号「企業 コクヨ 消費者の求めを指針に」(黒田暲之助社長)
    • [108]注文は昭和48年9月から急増し、石油ショック以来一段と加速して殺到した。最終消費者から電話や電報、ときには社長の自宅にまで催促が来た
    • [111]最終消費者から電話や電報、ときには社長の自宅にまで催促が来た
    • [112]昭和49年1月末に注文残高を調べたら紙製品・文房具関係だけで240億円だった
    • [113]当時の全生産力は1カ月35億円程度で、7カ月分の注文残を抱えていた
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [109]昭和48年(1973)暮れの第一次石油ショックで買い手が殺到し、たちまち在庫が空になった
    • [110]「倉庫のほこりでもいいから売ってほしい」とばかりに買い手が殺到し、たちまち在庫が空になった
    • [114]周りが熱に浮かされている時にかえって冷静になる癖があり、全部が実需なのか、思惑買いが入り込んでいるのではないかと疑った

1974年2月、暲之助氏は全国の支店長を本社へ集め、注文をいったん全部白紙に戻すよう指[115]示した。そのうえで支店長が足で歩いて実際に必要な数量を数え直し、改めて注文を受け直す[116]ことにした。3月に集計した注文残は60億円へ、4月には10億円[117]へと、2か月で24分の1に落ちた。逆に在庫が積み上がったため、3月から操業を短縮し、労働組合と事前に協議したうえで4月には紙製品の3割減産に入った[119]。同業他社が9月ごろまで増産を続けたのに対し、コクヨは半年早く[120]動いた。1975年9月期の売上高は624億円と前期を下回り、初の減収[121]となった。 [118]

  • 証券アナリストジャーナル 1977年3月号「企業 コクヨ 消費者の求めを指針に」(黒田暲之助社長)
    • [115]昭和49年2月に全支店長を召集し、すべての得意先に対して注文残をいったん白紙に戻して正しい注文に切り替えるよう頼むことにした
    • [117]3月に集計した紙製品・文房具の注文残は60億円に減り、4月には10億円になった
    • [118]2カ月間で240億円から10億円へと、なんと24分の1に減った
    • [120]同業他社はその後も9月ごろまで増産態勢を続けたが、コクヨは2月に気付き3月から操短に入った
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [116]支店長を本社に招集した緊急会議で「白紙に戻した上で、君たちが足で歩いて、本当に必要な数量を調べてほしい。それを見て改めて注文に応じたい」と指示した
    • [119]副社長の靖之助と相談し、労働組合と事前協議を重ねて了解を得たうえで4月から紙製品の3割減産に踏み切った
    • [121]50年9月期は売上高624億円で利益は25億円、51年9月期は売上高672億円で前期比7.6%増だった

1975年7月、社内の機構を一変[122]させた。それまでは資材・製造・営業・商品企画の4部制で全商品を一括して扱っていた[123]が、鋼製品の伸びに紙製品と同じ扱いでは追いつかなくなっていた。組織を紙製品、鋼製品、そして大口顧客への直販を担う特販の3事業部へ組み替え[124]、各部門の専務と常務からは全員が辞表を出させて配置し直した。本社勤務のおよそ500人のうち約400人を入れ替えた。狙いは安い商品を供給できる体制を作ることにあり、デスクは2年半かけて1万3,000円のものと似た品を7,500円で作れるようにし、1,800円の折りたたみ椅子は1,100円で供給できるようにした[126]。工場の集約も並行して進めており、今里・深江・布施に分かれていた7工場から八尾へ寄せる作業は13年を要して1974年11月に終わった[127][125]

  • 証券アナリストジャーナル 1977年3月号「企業 コクヨ 消費者の求めを指針に」(黒田暲之助社長)
    • [122]昭和50年7月に社内の体制を一変させ、資材・開発・製造・営業の四部門をすべて解体して紙製品部門、スチール製品部門、トータルで販売する部門に統合再編成した
    • [125]各部門の担当専務・常務の全員から辞表を求めて再配置し、本社勤務の約500人の社員のうち約400人を総入れ替えした
    • [126]デスクは1万3,000円のものを2年半ほどかけてよく似たものを7,500円で作れるようにし、1,800円の折りたたみ椅子は1,100円で供給できるようにした
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [123]従来の本社組織は資材部・製造部・営業部・商品企画部の4部制で、スチール製品の売上が急増すると紙と一緒に扱っていては身動きがとれなくなった
    • [124]新体制は第一事業部(紙製品・文具)、第二事業部(スチール製品)、特販事業部(コクヨ初の直販部隊)の3事業部制だった
    • [127]本社工場・平版・複写用紙・ファイル/バインダー(今里)、帳簿便せん・便せん(深江)、バインダー(布施)の7工場制から八尾工場への集約は、紙製品の直営工場が八尾一本になった昭和49年(1974)11月まで13年かかった
  • 証券アナリストジャーナル 1977年3月号「企業 コクヨ 消費者の求めを指針に」(黒田暲之助社長)
    • [108]注文は昭和48年9月から急増し、石油ショック以来一段と加速して殺到した。最終消費者から電話や電報、ときには社長の自宅にまで催促が来た
    • [111]最終消費者から電話や電報、ときには社長の自宅にまで催促が来た
    • [112]昭和49年1月末に注文残高を調べたら紙製品・文房具関係だけで240億円だった
    • [113]当時の全生産力は1カ月35億円程度で、7カ月分の注文残を抱えていた
    • [115]昭和49年2月に全支店長を召集し、すべての得意先に対して注文残をいったん白紙に戻して正しい注文に切り替えるよう頼むことにした
    • [117]3月に集計した紙製品・文房具の注文残は60億円に減り、4月には10億円になった
    • [118]2カ月間で240億円から10億円へと、なんと24分の1に減った
    • [120]同業他社はその後も9月ごろまで増産態勢を続けたが、コクヨは2月に気付き3月から操短に入った
    • [122]昭和50年7月に社内の体制を一変させ、資材・開発・製造・営業の四部門をすべて解体して紙製品部門、スチール製品部門、トータルで販売する部門に統合再編成した
    • [125]各部門の担当専務・常務の全員から辞表を求めて再配置し、本社勤務の約500人の社員のうち約400人を総入れ替えした
    • [126]デスクは1万3,000円のものを2年半ほどかけてよく似たものを7,500円で作れるようにし、1,800円の折りたたみ椅子は1,100円で供給できるようにした
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [109]昭和48年(1973)暮れの第一次石油ショックで買い手が殺到し、たちまち在庫が空になった
    • [110]「倉庫のほこりでもいいから売ってほしい」とばかりに買い手が殺到し、たちまち在庫が空になった
    • [114]周りが熱に浮かされている時にかえって冷静になる癖があり、全部が実需なのか、思惑買いが入り込んでいるのではないかと疑った
    • [116]支店長を本社に招集した緊急会議で「白紙に戻した上で、君たちが足で歩いて、本当に必要な数量を調べてほしい。それを見て改めて注文に応じたい」と指示した
    • [119]副社長の靖之助と相談し、労働組合と事前協議を重ねて了解を得たうえで4月から紙製品の3割減産に踏み切った
    • [121]50年9月期は売上高624億円で利益は25億円、51年9月期は売上高672億円で前期比7.6%増だった
    • [123]従来の本社組織は資材部・製造部・営業部・商品企画部の4部制で、スチール製品の売上が急増すると紙と一緒に扱っていては身動きがとれなくなった
    • [124]新体制は第一事業部(紙製品・文具)、第二事業部(スチール製品)、特販事業部(コクヨ初の直販部隊)の3事業部制だった
    • [127]本社工場・平版・複写用紙・ファイル/バインダー(今里)、帳簿便せん・便せん(深江)、バインダー(布施)の7工場制から八尾工場への集約は、紙製品の直営工場が八尾一本になった昭和49年(1974)11月まで13年かかった

1975年〜 家具で首位に立ち、流通を情報でつなぐ(1975〜1992)

  1. 1982年 千葉県八千代市に間仕切を製造する千葉工場を新設
  2. 1988年 名古屋証券取引所市場第一部に上場
  3. 1988年 滋賀県秦荘町に紙製品の製造会社コクヨ工業滋賀を設立
  4. 1992年 三重県名張市にデスクを製造する三重工場を新設

紙から家具へ、主力商品が入れ替わる

鋼製家具の売上は1978年以降、岡村製作所とイトーキを抜いて[128]業界の首位に立った。1980年度の家具部門の売上は599億円で、岡村製作所の525億円、イトーキの486億円を上[130]回った。1966年度に売上の10.1%でしかなかった家具は、1971年度に35.2%、1976年度に39.2%、1981年度には45.9%を占め[131]、逆に紙製品は72.3%から32.6%へ下がった。1979年9月期の売上高1,047億円のうち家具は479億8,200万円で構成比45.8%[132]となり、この時点で中心商品が交代した。 [129]

  • 日経ビジネス 1981年11月30日号「ケーススタディ コクヨ 紙→スチール→OA」
    • [128]スチール家具部門の拡大は目覚ましく、売上全体に占める割合は家具45%に対し紙製品は3分の1で、今ではスチール家具が完全に主力製品に育っている
    • [129]スチール家具部門は昭和53年(1978)以降、岡村製作所、イトーキの先発2社を抜き去り業界トップの座を占めた
    • [130]昭和55年度の売上高は岡村製作所525億円、イトーキ486億円に対し、コクヨの家具部門は599億円だった
    • [131]売上構成比で家具は41年度10.1%、46年度35.2%、51年度39.2%、56年度45.9%と伸び、紙製品は72.3%から32.6%へ下がった
  • 証券アナリストジャーナル 1980年3月号「企業 コクヨ 時代を先取りして業容を積極拡大」(黒田暲之助社長)
    • [132]54年9月期の売上高1,047億円のうち家具は479億8,200万円で構成比45.8%となり、構成比でトップの中心商品になった

広げた先は家具だけではなかった。1981年6月に東芝と提携してオフィスコンピューターやファクシミリ、ワードプロセッサーの販売に乗り出し[134]、同年9月には米アメリカン・シーティングと代理店契約を結んで[135]ホールの移動観覧席や競技場の観客席へ入った。暲之助氏は1970年前後から需要接点の拡大という言い方で、情報関連、住宅関連、教育関連、ファッション関連の4分野を掲げていた[136]。紙製品の上に別の分野を重ねる考え方[137]であり、学習机も家庭向けの収納家具も、若い世代に向けた意匠商品も、この整理の中に置かれた。 [133]

  • 日経ビジネス 1981年11月30日号「ケーススタディ コクヨ 紙→スチール→OA」
    • [133]紙製品以外に、スチール家具、キャラクター商品、複写機、レジスターなどの事務機、その周辺用品といった分野に進出した
    • [134]1981年6月、東芝と提携してオフィスコンピューター、ファクシミリ、ワードプロセッサーなどOA機器の販売に乗り出した
    • [135]1981年9月、米国のアメリカン・シーティング社と代理店契約を結び、ホールの移動観覧席やスポーツ施設の観客席にも進出した
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [136]黒田暲之助は十五、六年前(1970年前後)から「需要接点の拡大」として情報関連・住宅関連・教育関連・ファッション関連の4分野を提唱していた
  • 証券アナリストジャーナル 1986年10月号「企業 コクヨ 商品を通じて社会に役立つことを」(黒田暲之助会長)
    • [137]紙製品の上にいろいろな分野を重ねて多層化していく考え方を企業経営の根幹に据えた

1981年8月には企業イメージを作り直す作業に着[138]手した。創業以来使ってきた社章から名刺、包装紙、小売店の看板まで、3年をかけて全面的に改め、創業80周年の1984年に新しいコクヨとして立つ計画で、費用は約10億円を見込んだ[139]。事業の実態が紙製品メーカーから離れ、外から見える姿と食い違っていた[140]ためである。見せる場も作り、1978年10月に本社敷地内へ[141]大阪ショールームを建て、1982年12月には品川に延べ床面積約1万4,000平方メートルの東京ショールームを開いた[143]。常設の展示場としては世界最大で、年に10万人近くが訪れた[144][142]

  • 日経ビジネス 1981年11月30日号「ケーススタディ コクヨ 紙→スチール→OA」
    • [138]1981年8月からCI(コーポレート・アイデンティティ)の導入に全社的に取り組み、社章・名刺・パンフレット・包装用紙・小売店の看板までを3年間で全面的に改める計画だった
    • [139]CI導入に要する費用は「ざっと10億円」で、創業80周年を迎える昭和59年に新しいイメージに生まれ変わる作戦だった
    • [140]積極的に事業転換を図った結果、企業イメージと実態がかみ合わなくなっていた
  • 証券アナリストジャーナル 1980年3月号「企業 コクヨ 時代を先取りして業容を積極拡大」(黒田暲之助社長)
    • [141]販売活動の一環として全国33カ所にショールームを設置し、主要製品を展示した
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [142]昭和53年(1978)10月、本社敷地内に鉄骨3階建て・延べ床面積約5,300平方メートルの大阪ショールームを建設した
    • [143]東京ショールームは昭和57年12月オープンで延べ床面積1万4,000平方メートル、常設展示場としては世界一の規模だった
    • [144]東京ショールームには年間10万人を超える来場者があった
  • 日経ビジネス 1981年11月30日号「ケーススタディ コクヨ 紙→スチール→OA」
    • [128]スチール家具部門の拡大は目覚ましく、売上全体に占める割合は家具45%に対し紙製品は3分の1で、今ではスチール家具が完全に主力製品に育っている
    • [129]スチール家具部門は昭和53年(1978)以降、岡村製作所、イトーキの先発2社を抜き去り業界トップの座を占めた
    • [130]昭和55年度の売上高は岡村製作所525億円、イトーキ486億円に対し、コクヨの家具部門は599億円だった
    • [131]売上構成比で家具は41年度10.1%、46年度35.2%、51年度39.2%、56年度45.9%と伸び、紙製品は72.3%から32.6%へ下がった
    • [133]紙製品以外に、スチール家具、キャラクター商品、複写機、レジスターなどの事務機、その周辺用品といった分野に進出した
    • [134]1981年6月、東芝と提携してオフィスコンピューター、ファクシミリ、ワードプロセッサーなどOA機器の販売に乗り出した
    • [135]1981年9月、米国のアメリカン・シーティング社と代理店契約を結び、ホールの移動観覧席やスポーツ施設の観客席にも進出した
    • [138]1981年8月からCI(コーポレート・アイデンティティ)の導入に全社的に取り組み、社章・名刺・パンフレット・包装用紙・小売店の看板までを3年間で全面的に改める計画だった
    • [139]CI導入に要する費用は「ざっと10億円」で、創業80周年を迎える昭和59年に新しいイメージに生まれ変わる作戦だった
    • [140]積極的に事業転換を図った結果、企業イメージと実態がかみ合わなくなっていた
  • 証券アナリストジャーナル 1980年3月号「企業 コクヨ 時代を先取りして業容を積極拡大」(黒田暲之助社長)
    • [132]54年9月期の売上高1,047億円のうち家具は479億8,200万円で構成比45.8%となり、構成比でトップの中心商品になった
    • [141]販売活動の一環として全国33カ所にショールームを設置し、主要製品を展示した
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [136]黒田暲之助は十五、六年前(1970年前後)から「需要接点の拡大」として情報関連・住宅関連・教育関連・ファッション関連の4分野を提唱していた
    • [142]昭和53年(1978)10月、本社敷地内に鉄骨3階建て・延べ床面積約5,300平方メートルの大阪ショールームを建設した
    • [143]東京ショールームは昭和57年12月オープンで延べ床面積1万4,000平方メートル、常設展示場としては世界一の規模だった
    • [144]東京ショールームには年間10万人を超える来場者があった
  • 証券アナリストジャーナル 1986年10月号「企業 コクヨ 商品を通じて社会に役立つことを」(黒田暲之助会長)
    • [137]紙製品の上にいろいろな分野を重ねて多層化していく考え方を企業経営の根幹に据えた

倉庫を先に置き、総括店と回線でつなぐ

売り方は物流が支えた。1974年1月に物流本部を設け、それまで営業部の管理下にあった商品倉庫を営業から切り[146]離した。各地に工場を展開するのが最善ではあるが、低成長下では過大投資になりかねず[147]、人材や設備も分散する。そこで、消費地に密着した倉庫を持てば工場建設と同じ効果が出る[148]と考えた。1986年の時点で物流拠点は22カ所、敷地面積は約49万平方メートル、床面積は約28万平方メートル[149]に達し、倉庫会社1社に匹敵する規模になった。この10年余りで最大の投資先は物流であり、1980年代半ばには年間100億円の設備投資のうち7割を物流とその情報化へ充てていた[150][145]

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [145]「物流を制するものは営業を制する」という考え方がまだ一般的でなかったころに、思い切って営業と物流を切り離した
    • [146]昭和49年(1974)1月に物流本部を新設し、営業部の管理下にあった商品倉庫を営業から切り離した
    • [147]商品を早く届けるには各地に工場を展開するのがベストだが、低成長経済下では過大投資の心配もあり、人材や設備が分散して総合力が弱まる恐れもあった
    • [148]各地に工場を展開するのがベストだが低成長経済下では過大投資の心配があり人材や設備も分散するため、消費地に密着した倉庫を持てば工場建設と同じ効果が出ると考えた
    • [150]この十年余りコクヨの最大の投資対象は物流部門で、年間100億円の設備投資の7割を物流およびオンライン化に投入していた
  • 証券アナリストジャーナル 1986年10月号「企業 コクヨ 商品を通じて社会に役立つことを」(黒田暲之助会長)
    • [149]全国に22カ所の物流拠点があり、敷地面積は約49万平方メートル、床面積は立体倉庫を平倉庫換算して約28万平方メートルあった

倉庫は回線でつないだ。1971年に電電公社の公衆通信回線が民間へ開放される[152]と、コクヨは1974年8月に総括店と結ぶ受発注システムのKOPSを動かした[153]。メーカーと問屋という異業種のあいだをオンラインで結んだのは、これが幕開け[154]だった。1980年3月にはKOINSを加え、鋼製品を共同で保管し共同で配送する仕組み[155]にした。総括店は在庫を抱えずに商売ができるようになり、資金と人件費の負担から解放[156]された。1983年には310社の各種代理店をつなぐKAPSが動き[157]、リアルタイムの受発注ができるようになった。 [151]

  • 証券アナリストジャーナル 1980年3月号「企業 コクヨ 時代を先取りして業容を積極拡大」(黒田暲之助社長)
    • [151]拠点倉庫ではコンピュータによって出荷業務が行われ、販売店からの注文は電話回線によって配送センターに伝わり、商品が自動的に出荷される
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [152]昭和46年(1971)に日本電信電話公社の公衆通信回線が民間企業に開放され、その3年後にコクヨと総括店を結ぶKOPSをスタートさせた
    • [154]メーカーと問屋という異業種間のオンライン化の幕開けだった
    • [156]総括店は在庫を抱え込むことによる資金や人件費の負担から完全に解放され、営業に専念できるようになった
  • 証券アナリストジャーナル 1986年10月号「企業 コクヨ 商品を通じて社会に役立つことを」(黒田暲之助会長)
    • [153]総括店とのオンライン化による在庫管理システム「KOPS」を49年8月につくった
    • [155]55年3月には「KOINS」を実施し、総括店が小売店から受けた注文の商品を共同で保管・配送する仕組みにした
    • [157]全国310社の各種代理店との受発注オンライン・システム「KAPS」が昭和58年に完成した

1986年6月には販売店まで届く仕組み[158]へ広げた。KROSはメーカー、卸、小売の3段階をオンラインで結ぶもの[159]で、コクヨはNTTと端末を共同開発し、電話やワープロの機能も持たせたうえで販売店のリース料を月7,500円に抑えた。一般の相場は月10万円から15万円だった。端末のフロッピーを入れ替えれば他社の商品も扱えるようにしたため、競合に塩を送ることになるという異論も社内にあった[161]が、業界へ門戸を開いた。総括店ではオペレーターの3分の1にあたる要員が要らなくなり、年に3億円強の省力化[162]になった。 [160]

  • 証券アナリストジャーナル 1986年10月号「企業 コクヨ 商品を通じて社会に役立つことを」(黒田暲之助会長)
    • [158]昭和61年6月から全国の販売店に端末機を設置し、メーカー・代理店・販売店の3段階をオンライン化した「KROS」を稼働させた
    • [159]メーカー・代理店・販売店の3段階を総合的にネットワーキングした流通VANシステムは業界初だった
    • [160]端末機はコクヨとNTTの共同開発で電話・ワープロ・パソコンの機能も併せ持ち、販売店のリース料は月7,500円。一般には月額10万〜15万円が普通だった
    • [161]端末機のフロッピーを入れ替えれば他メーカーや異業種のメーカーも販売店とつながる仕様で、将来ライバルに塩を送るという異論が社内にあったが業界発展のため門戸を開放した
    • [162]総括店ではオペレーターの3分の1に相当する要員を減らし、年間3億円強を省力化できた
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [145]「物流を制するものは営業を制する」という考え方がまだ一般的でなかったころに、思い切って営業と物流を切り離した
    • [146]昭和49年(1974)1月に物流本部を新設し、営業部の管理下にあった商品倉庫を営業から切り離した
    • [147]商品を早く届けるには各地に工場を展開するのがベストだが、低成長経済下では過大投資の心配もあり、人材や設備が分散して総合力が弱まる恐れもあった
    • [148]各地に工場を展開するのがベストだが低成長経済下では過大投資の心配があり人材や設備も分散するため、消費地に密着した倉庫を持てば工場建設と同じ効果が出ると考えた
    • [150]この十年余りコクヨの最大の投資対象は物流部門で、年間100億円の設備投資の7割を物流およびオンライン化に投入していた
    • [152]昭和46年(1971)に日本電信電話公社の公衆通信回線が民間企業に開放され、その3年後にコクヨと総括店を結ぶKOPSをスタートさせた
    • [154]メーカーと問屋という異業種間のオンライン化の幕開けだった
    • [156]総括店は在庫を抱え込むことによる資金や人件費の負担から完全に解放され、営業に専念できるようになった
  • 証券アナリストジャーナル 1986年10月号「企業 コクヨ 商品を通じて社会に役立つことを」(黒田暲之助会長)
    • [149]全国に22カ所の物流拠点があり、敷地面積は約49万平方メートル、床面積は立体倉庫を平倉庫換算して約28万平方メートルあった
    • [153]総括店とのオンライン化による在庫管理システム「KOPS」を49年8月につくった
    • [155]55年3月には「KOINS」を実施し、総括店が小売店から受けた注文の商品を共同で保管・配送する仕組みにした
    • [157]全国310社の各種代理店との受発注オンライン・システム「KAPS」が昭和58年に完成した
    • [158]昭和61年6月から全国の販売店に端末機を設置し、メーカー・代理店・販売店の3段階をオンライン化した「KROS」を稼働させた
    • [159]メーカー・代理店・販売店の3段階を総合的にネットワーキングした流通VANシステムは業界初だった
    • [160]端末機はコクヨとNTTの共同開発で電話・ワープロ・パソコンの機能も併せ持ち、販売店のリース料は月7,500円。一般には月額10万〜15万円が普通だった
    • [161]端末機のフロッピーを入れ替えれば他メーカーや異業種のメーカーも販売店とつながる仕様で、将来ライバルに塩を送るという異論が社内にあったが業界発展のため門戸を開放した
    • [162]総括店ではオペレーターの3分の1に相当する要員を減らし、年間3億円強を省力化できた
  • 証券アナリストジャーナル 1980年3月号「企業 コクヨ 時代を先取りして業容を積極拡大」(黒田暲之助社長)
    • [151]拠点倉庫ではコンピュータによって出荷業務が行われ、販売店からの注文は電話回線によって配送センターに伝わり、商品が自動的に出荷される

二度の承継と、支店を畳んだ1992年

1985年12月、暲之助氏が会長へ退き、弟の靖之助氏が社長[163]に就いた。父から受け継いで26年[164]にわたった。1986年1月には売上高1,639億円の会社が5,000億円を目標[165]に掲げた。実績の3倍を担ごうという呼びかけは1967年ごろから繰り返されており、150億円の段階で500億円、345億円の段階で1,000億円、760億円の段階で2,000億円と掲げ直してきた[166]ものである。ところが1989年8月、靖之助氏が急逝した。跡を継いだのは暲之助氏の長男で、当時39歳の黒田章裕氏だった。章裕氏は1972年にコクヨへ入り、1977年12月に取締役[168]となっていた。 [167]

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [163]昭和60年(1985)12月、黒田暲之助が会長に、弟の黒田靖之助が社長に就任した
    • [164]黒田暲之助は先代の父から受け継ぎ26年間にわたって社長を務めた
    • [165]昭和61年(1986)1月、売上高1,639億円の時点で五千億ビジョンを打ち出した
    • [166]昭和42〜43年ごろ150億円を目指す段階で500億円を、350億円ぐらいの段階で1,000億円を、昭和52年の750〜760億円の時点で2,000億円を掲げた
  • 日経ビジネス 1993年9月27日号 編集長インタビュー 黒田章裕氏
    • [167]黒田章裕は89年8月、叔父の黒田靖之助社長の急逝を受けて社長に就任した。1949年9月生まれである
    • [168]黒田章裕は72年3月に慶応義塾大学経済学部を卒業して同年4月にコクヨ入社、77年12月に取締役となった

1992年10月1日、章裕氏は創業以来の規模という組織改革を実施した。約3,400人の社員のほぼ全員に辞令が出た。東京と大阪の統括本部と7支店を廃止し、地域の営業を担っていた1,256人を本社の各部門へ配[170]転した。文具とオフィス家具で営業を分け、三大都市圏の大口顧客には直販の部署[171]を置いた。支店は総括店の営業を支えるだけでなく、本来は問屋がすべき仕事まで肩代わりしてきた。その結果メーカーが強くなり問屋の力が相対的に弱まった。章裕氏はそう見て支店を畳んだ。廃止した支店の業務を引き継ぐ営業支援本部は置いたが、人員は10分の1に縮めた[173][169][172]

  • 日経ビジネス 1992年11月2日号「コクヨ 次代にらみ社員大異動 支店廃止で問屋活性化」
    • [169]1992年10月1日付で「創業以来の大幅な組織改革」を実施し、約3,400人の社員ほとんど全員に辞令が出た
    • [170]東京・大阪統括本部と7支店を廃止し、計1,256人いた営業担当者はすべて本社の各部門に配転された
    • [171]文具とオフィス家具の営業部門を分離し、三大都市圏の大口顧客向けにオフィス家具を販売するBC営業統括部を新設した
    • [172]流通強化のため本来問屋がすべき仕事を支店が相当部分肩代わりし、その結果メーカーが強くなり問屋の力が相対的に弱くなったと黒田社長は述べた
    • [173]営業支援本部は廃止した支店の業務を引き継ぐために設けた部門だが、人員は10分の1に縮小した

業績が悪かったわけではない。1992年3月期の売上高は3,215億円で前期比4.4%増、経常利益も5.0%増[175]えた。売上高に占める経常利益の割合は過去5年平均で8.65%あり、岡村製作所の4.77%、イトーキの3.0%を大きく上回っ[176]ていた。それでも数年前に全国で3万3,000店[177]あった文具店は2万6,000店を切り、コンビニエンスストアやディスカウントストアが台頭しており、章裕氏はこのままではジリ貧になる[179]と語った。翌1993年3月期は減収減益となり、石油危機のときと違って停滞[180]は続いた。オフィス家具と紙製品・文具の売上の比は6対4となり[181]、家具が上回っていた。この間の1990年には決算期を9月から3月へ改めている[182][174][178]

  • 日経ビジネス 1992年11月2日号「コクヨ 次代にらみ社員大異動 支店廃止で問屋活性化」
    • [174]オフィス家具大手の岡村製作所は1992年3月期に前期比41%の大幅減益、イトーキも91年11月期は減収減益だったのに対し、コクヨは92年3月期が増収増益だった
    • [175]1979年に1,000億円を突破した年間売上高は92年3月期には3,215億円になり、同期は前期比4.4%増、経常利益も5.0%増だった
    • [176]売上高に占める経常利益の割合は過去5年間平均で8.65%、岡村製作所4.77%、イトーキ3.0%に比べて高かった
    • [177]誌面の見出しは「業績好調にもかかわらず 環境激変に強い危機意識」で、黒田社長は「3年前からずっと考えてきた21世紀をにらんだ組織改革だ」と述べた
    • [178]文具店は数年前に全国で3万3,000店ほどあったが現在は2万6,000店を切っており、コンビニエンスストアやディスカウントストアが台頭していた
    • [179]黒田社長は「コクヨを取り巻く環境が激変している。このままいくとジリ貧」と述べた
  • 日経ビジネス 1993年9月27日号 編集長インタビュー 黒田章裕氏
    • [180]1993年3月期は減収減益で、第1次石油ショック時は一時的ですぐ盛り返したが継続的な停滞状態は初めてだった
  • 日経ビジネス 1992年11月2日号「コクヨ 次代にらみ社員大異動 支店廃止で問屋活性化"
    • [181]オフィス家具と紙製品・文具の売り上げの割合は6対4とオフィス家具の方が大きくなった
    • [182]売上高・経常利益の推移グラフの注記に「1990年は決算期変更のため6カ月決算」とある
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
    • [163]昭和60年(1985)12月、黒田暲之助が会長に、弟の黒田靖之助が社長に就任した
    • [164]黒田暲之助は先代の父から受け継ぎ26年間にわたって社長を務めた
    • [165]昭和61年(1986)1月、売上高1,639億円の時点で五千億ビジョンを打ち出した
    • [166]昭和42〜43年ごろ150億円を目指す段階で500億円を、350億円ぐらいの段階で1,000億円を、昭和52年の750〜760億円の時点で2,000億円を掲げた
  • 日経ビジネス 1993年9月27日号 編集長インタビュー 黒田章裕氏
    • [167]黒田章裕は89年8月、叔父の黒田靖之助社長の急逝を受けて社長に就任した。1949年9月生まれである
    • [168]黒田章裕は72年3月に慶応義塾大学経済学部を卒業して同年4月にコクヨ入社、77年12月に取締役となった
    • [180]1993年3月期は減収減益で、第1次石油ショック時は一時的ですぐ盛り返したが継続的な停滞状態は初めてだった
  • 日経ビジネス 1992年11月2日号「コクヨ 次代にらみ社員大異動 支店廃止で問屋活性化」
    • [169]1992年10月1日付で「創業以来の大幅な組織改革」を実施し、約3,400人の社員ほとんど全員に辞令が出た
    • [170]東京・大阪統括本部と7支店を廃止し、計1,256人いた営業担当者はすべて本社の各部門に配転された
    • [171]文具とオフィス家具の営業部門を分離し、三大都市圏の大口顧客向けにオフィス家具を販売するBC営業統括部を新設した
    • [172]流通強化のため本来問屋がすべき仕事を支店が相当部分肩代わりし、その結果メーカーが強くなり問屋の力が相対的に弱くなったと黒田社長は述べた
    • [173]営業支援本部は廃止した支店の業務を引き継ぐために設けた部門だが、人員は10分の1に縮小した
    • [174]オフィス家具大手の岡村製作所は1992年3月期に前期比41%の大幅減益、イトーキも91年11月期は減収減益だったのに対し、コクヨは92年3月期が増収増益だった
    • [175]1979年に1,000億円を突破した年間売上高は92年3月期には3,215億円になり、同期は前期比4.4%増、経常利益も5.0%増だった
    • [176]売上高に占める経常利益の割合は過去5年間平均で8.65%、岡村製作所4.77%、イトーキ3.0%に比べて高かった
    • [177]誌面の見出しは「業績好調にもかかわらず 環境激変に強い危機意識」で、黒田社長は「3年前からずっと考えてきた21世紀をにらんだ組織改革だ」と述べた
    • [178]文具店は数年前に全国で3万3,000店ほどあったが現在は2万6,000店を切っており、コンビニエンスストアやディスカウントストアが台頭していた
    • [179]黒田社長は「コクヨを取り巻く環境が激変している。このままいくとジリ貧」と述べた
  • 日経ビジネス 1992年11月2日号「コクヨ 次代にらみ社員大異動 支店廃止で問屋活性化"
    • [181]オフィス家具と紙製品・文具の売り上げの割合は6対4とオフィス家具の方が大きくなった
    • [182]売上高・経常利益の推移グラフの注記に「1990年は決算期変更のため6カ月決算」とある

1993年〜 通販の衝撃と業界再編、オフィスへの傾斜(1993〜2025)

コクヨの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1996年 タイに初の海外製造会社コクヨIK(タイランド)を設立
  2. 2000年 通販事業の子会社カウネットを設立
  3. 2004年 全事業を会社分割し持株会社制に移行
  4. 2011年 インドの文具・画材メーカーであるコクヨカムリンを子会社化
  5. 2015年 コクヨS&Tとコクヨファニチャーを吸収合併し事業会社に回帰
  6. 2019年 ぺんてる株37%の取得と子会社化の試み、45.6%全株のプラスへの売却 縮む国内文具市場で、黒田英邦社長は筆記具の技術と海外販路をどう手に入れようとしたか
  7. 2022年 香港のオフィス家具メーカーHNI Hong Kongを子会社化

通販と黒船が文具流通の前提を壊す

新しい競争相手は業界の外からではなく、中堅メーカーだったプラス[183]の子会社から現れた。アスクルは1993年に通信販売を始めた。顧客企業へカタログを配り、ファクスやインターネットで注文を受けて直接届ける仕組みである。その後アスクルは自らを流通商社と位置づけ直し、プラス以外の商品や飲料などの生活用品へ扱いを広げ[186]、既存の流通との関係でタブーとされてきた値下げにも踏み切った。2001年初には顧客企業120万社、年商800億円の規模に育っ[187]ていた。町の文具店と問屋の頭上を越えて顧客に届く売り方[188]であり、コクヨが半世紀かけて築いた流通の前提を外から崩した。アスクルの2020年5月期の売上高は4,003億円[189]で、コクヨの売上高を上回るまでになった。 [184][185]

  • 週刊東洋経済 2019年12月7日号「ぺんてる争奪戦が過熱 コクヨを激怒させた密告書」
    • [183]総合文具メーカー1位のコクヨ、2位のプラスがぺんてるを奪い合った
  • 週刊東洋経済 2001年3月3日号「通販参入で始まった聖域なき大手術 コクヨ」
    • [184]オフィス用品の通信販売という新たな市場を切り開いたのは、中堅の文具メーカー、プラスの子会社アスクルである
    • [185]アスクルは1993年に顧客企業にカタログを配り、ファックスやインターネットで注文を受け付け、直接プラス製品を配送する通販事業を始めた
    • [186]以後アスクルは自らの役割を流通商社にくくり直し、プラス製品から他社製品へ、ペットボトル飲料など生活用品へ扱い品目を広げ、既存流通網との関係からタブー視されてきた値下げにも踏み切った
    • [187]2001年時点で顧客企業数120万、年商800億円規模の高成長企業に変貌していた
  • 週刊東洋経済 2020年8月8日号「文具業界を揺るがす動乱 コクヨvs.プラスの全真相」
    • [188]アスクルの販売モデルは業界の骨格を成してきた卸問屋や文具店の頭上を軽々とスルーしていった点が画期的だった
    • [189]アスクルの2020年5月期の売上高は4,003億円で、コクヨの売上高をはるかに凌駕している

1997年には米国の安売りチェーンであるオフィス・デポとオフィス・マックス[190]が日本で営業を始め、外資系の通販会社も文具を扱い始めた。米国の店は床面積1,000坪ほどで、日本の文具店の二十数坪とは比べものにな[192]らない。章裕氏はこれを黒船と受け止め、淘汰は進むと見た[193]。当時2万3,500あった小売店は、何も手を打たなければ数千店まで減りうるが、支援の手立てをそろえれば1万数千店は残る[194]と語った。差は1万店であり、あとは販売店の勇気次第[195]だと見ていた。コクヨにとって販売店を残すことは、商品を取りそろえて売ってもらう自社の売り方を守ることでもあった[196][191]

  • 日経ビジネス 1997年5月19日号 編集長インタビュー 黒田章裕氏
    • [190]米国の文具安売りチェーンの進出で1997年の文具業界は揺れていた
    • [191]米国大手の文具安売りチェーンであるオフィス・デポやオフィス・マックスが日本で営業を始め、外資系の通信販売会社も文具の通販に動いた
    • [192]米国の店の床面積は1000坪(約3300平方メートル)程度と広く、日本の普通の文具店は二十数坪だった
    • [193]黒田社長は米安売りチェーンの上陸に「黒船来襲」と販売店へ警鐘を鳴らし、淘汰を食い止められるかとの問いに「いや、淘汰は進むと思います」と答えた
    • [194]何の手も打たなければ約2万3,500の販売店は数千店に減るかもしれないが、支援メニューを用意すれば1万数千店は残れるとみていた
    • [195]黒田社長は「そういう支援をするかしないかで1万店ぐらいの差は出てくると思います。あとは販売店の勇気です」と述べた
    • [196]コクヨが大きくなれたのはコクヨ製品を揃えることで統一感や安心感を生んできたからであり、取り揃えてくれる販売店があってこそ可能だったので、販売店を残すのは重要だと述べた

生産の側でも手を打ち、1996年12月にタイへ[197]初の海外製造会社コクヨIK(タイランド)を設け、1997年3月にはマレーシアにオフィス家具の製造会社を作った[199]。日本の技術でアジアに作り、米国市場で現地と同じ価格で納められれば勝負になる[200]と読んだ。国内の協力工場は400社から500社あったが、これからはアジアのどこかでコクヨより安く作らない限りやっていけない[201]として、章裕氏はここでは冷たくなると明言した。コクヨは協力工場のために働いているのではなく、ユーザーのために働いている[202]というのがその理由である。 [198]

  • 日経ビジネス 1997年5月19日号 編集長インタビュー 黒田章裕氏
    • [197]タイに当社として初めてファイルを製造する自社工場を建設しており、アジア地域の外注工場への発注も増やしている
    • [200]日本の技術を使いアジアで高い品質のものを生産し、米国市場でいま売られているのと同じ価格で納入できれば成功すると述べた
    • [201]協力工場は400〜500社あり、これからはアジアのどこかでコクヨより安い製品を作らない限りやっていけないので「そこのところは私もドライになりたい」と述べた
    • [202]コクヨは協力工場のために働いているわけではなく、ユーザーのために働いているとした
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [198]1996年12月、タイに初の海外製造会社コクヨIK(タイランド)を設立した
    • [199]1997年3月、マレーシアにオフィス家具の製造会社コクヨ(マレーシア)を設立した
  • 週刊東洋経済 2019年12月7日号「ぺんてる争奪戦が過熱 コクヨを激怒させた密告書」
    • [183]総合文具メーカー1位のコクヨ、2位のプラスがぺんてるを奪い合った
  • 週刊東洋経済 2001年3月3日号「通販参入で始まった聖域なき大手術 コクヨ」
    • [184]オフィス用品の通信販売という新たな市場を切り開いたのは、中堅の文具メーカー、プラスの子会社アスクルである
    • [185]アスクルは1993年に顧客企業にカタログを配り、ファックスやインターネットで注文を受け付け、直接プラス製品を配送する通販事業を始めた
    • [186]以後アスクルは自らの役割を流通商社にくくり直し、プラス製品から他社製品へ、ペットボトル飲料など生活用品へ扱い品目を広げ、既存流通網との関係からタブー視されてきた値下げにも踏み切った
    • [187]2001年時点で顧客企業数120万、年商800億円規模の高成長企業に変貌していた
  • 週刊東洋経済 2020年8月8日号「文具業界を揺るがす動乱 コクヨvs.プラスの全真相」
    • [188]アスクルの販売モデルは業界の骨格を成してきた卸問屋や文具店の頭上を軽々とスルーしていった点が画期的だった
    • [189]アスクルの2020年5月期の売上高は4,003億円で、コクヨの売上高をはるかに凌駕している
  • 日経ビジネス 1997年5月19日号 編集長インタビュー 黒田章裕氏
    • [190]米国の文具安売りチェーンの進出で1997年の文具業界は揺れていた
    • [191]米国大手の文具安売りチェーンであるオフィス・デポやオフィス・マックスが日本で営業を始め、外資系の通信販売会社も文具の通販に動いた
    • [192]米国の店の床面積は1000坪(約3300平方メートル)程度と広く、日本の普通の文具店は二十数坪だった
    • [193]黒田社長は米安売りチェーンの上陸に「黒船来襲」と販売店へ警鐘を鳴らし、淘汰を食い止められるかとの問いに「いや、淘汰は進むと思います」と答えた
    • [194]何の手も打たなければ約2万3,500の販売店は数千店に減るかもしれないが、支援メニューを用意すれば1万数千店は残れるとみていた
    • [195]黒田社長は「そういう支援をするかしないかで1万店ぐらいの差は出てくると思います。あとは販売店の勇気です」と述べた
    • [196]コクヨが大きくなれたのはコクヨ製品を揃えることで統一感や安心感を生んできたからであり、取り揃えてくれる販売店があってこそ可能だったので、販売店を残すのは重要だと述べた
    • [197]タイに当社として初めてファイルを製造する自社工場を建設しており、アジア地域の外注工場への発注も増やしている
    • [200]日本の技術を使いアジアで高い品質のものを生産し、米国市場でいま売られているのと同じ価格で納入できれば成功すると述べた
    • [201]協力工場は400〜500社あり、これからはアジアのどこかでコクヨより安い製品を作らない限りやっていけないので「そこのところは私もドライになりたい」と述べた
    • [202]コクヨは協力工場のために働いているわけではなく、ユーザーのために働いているとした
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [198]1996年12月、タイに初の海外製造会社コクヨIK(タイランド)を設立した
    • [199]1997年3月、マレーシアにオフィス家具の製造会社コクヨ(マレーシア)を設立した

総括店の再編と、持株会社を経て事業会社へ戻るまで

2000年10月、コクヨはオフィス用品の通販子会社カウネットを設立し[203]、翌2001年1月に事業を始めた。アスクルに8年遅れての参入である。その8か月前の2000年5月、章裕氏は北海道での総括店との懇親会で、全国に59あった総括店を40に減らす地図を広げていた[205]。ねぎらいの席で再編を切り出された参加者は言葉を失った[206]。通販は総括店の頭越しに顧客へ届く仕組みであり、コクヨの強みだった流通支配力がそのまま弱みに変わりかねなかった[207]。章裕氏は、アスクルが伸びるなかで最も変わりたかったのはコクヨで、最も変わりたくなかったのは総括店だった[208]と振り返っている。8年遅れで始めたこの通販は、2025年12月期にはビジネスサプライ流通事業として売上1,083億円を上げている[209][204]

  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [203]2000年10月に株式会社カウネットを設立した
  • 週刊東洋経済 2001年3月3日号「通販参入で始まった聖域なき大手術 コクヨ」
    • [204]2001年1月にオフィス用品の通販子会社カウネットを立ち上げ、アスクルに8年遅れて通販市場に参入した
    • [205]2000年5月の総括店との懇親会で、当時59あった総括店を40に減らすビジョンの日本地図を広げた
    • [206]懇親会で黒田が口にしたのはねぎらいの言葉でも社交辞令でもなく「総括店の再編」で、参加者はあぜんとし、和やかなムードが一瞬にして消えた
    • [207]通販ではコクヨの強みであるはずの流通支配力が逆に弱みに転じかねない危うさが潜んでいた
    • [208]黒田社長は「アスクルが成長するなかで、いちばん変わりたかったのはコクヨ、変わりたくなかったのは総括店だった」と述べた
  • コクヨ 有価証券報告書【セグメント情報等】
    • [209]2025年12月期のビジネスサプライ流通事業の売上高は102,618百万円、セグメント利益は5,463百万円

三段階の流通は残すと宣言したうえで[210]、中身を変えた。2000年12月には東京支社のメーカー営業機能を人ごと総括店の東京コクヨへ移し[211]、地方では隣接する総括店を統合して広域の卸にする計画を示し、総括店が担ってきた物流はコクヨ主導の物流網へ移すことにした。総括店にとっては、売上の半分を占めるコクヨ製品の物流と在庫管理が手元から消える[212]ことを意味した。引き換えに他メーカー製品の取り扱いを解禁し、事業計画を提出させて達成できなければ総括店から外す条項を契約へ入れた[213]。1985年に3万を超えていた販売店は1万9,000店に減っており[214]、既得権に安住していた側も強くは出られなくなっていた。

  • 週刊東洋経済 2001年3月3日号「通販参入で始まった聖域なき大手術 コクヨ」
    • [210]黒田はカウネットを通じメーカー-総括店-販売店という流通三段階の仕組みは今後も維持することを宣言したが、すでにその中身は大きく変わり始めていた
    • [211]2000年12月、東京支社のメーカー営業機能を人も出向させる形で総括店の東京コクヨに移管統合し、地方では隣接する総括店を統合して広域卸化する計画を示した
    • [212]総括店が担ってきた物流業務はコクヨ主導で整備する大規模な物流網に移し替えられ、総括店にとっては売上高の半分を占めるコクヨ製品の物流・在庫管理業務が消えることを意味した
    • [213]引き換えに総括店はコクヨ製品以外の取り扱いを解禁され、カウネット開始に際しては各総括店に事業計画を提出させ達成できない場合は総括店から外すという条項が契約に盛り込まれた
    • [214]1985年当時に全国で3万を超えていた販売店は2001年時点で1万9,000店に減っており、総括店の強硬な姿勢にも変化が現れていた

組織の形も変え、2004年10月に全事業を会社分割[215]して持株会社制へ移り、2007年には決算期を12月へ改めた。2011年10月にはインドの文具・画材メーカーであるコクヨカムリンの株式の過半を取得し、同年11月に名古屋証券取引所の上場を廃[217]止した。2015年3月、黒田英邦氏が社長に就いた。創業者である善太郎氏の曽孫にあたり、2001年にコクヨへ入ってファニチャー事業の法人営業と経営企画部長を務めていた。同年10月、コクヨはコクヨS&Tとコクヨファニチャーを吸収合併し[219]、11年ぶりに事業を自ら営む会社へ戻った。 [216][218]

  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [215]2004年10月、全事業を会社分割し持株会社制へ移行した
    • [216]2004年10月、全事業を会社分割し持株会社制へ移行した
    • [217]2011年10月、インドの文具・画材メーカーであるコクヨカムリンリミテッドの株式の過半数を取得し連結子会社化、同年11月に名古屋証券取引所の上場を廃止した
    • [219]2015年10月、コクヨS&T株式会社及びコクヨファニチャー株式会社と合併した
  • 週刊東洋経済 2021年9月25日号「トップに直撃 コクヨ 社長 黒田英邦」
    • [218]黒田英邦は1976年生まれ、2001年4月コクヨ入社。ファニチャー事業の法人営業、経営企画部長、代表を経て2015年から社長。創業者・黒田善太郎のひ孫にあたる
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
    • [203]2000年10月に株式会社カウネットを設立した
    • [215]2004年10月、全事業を会社分割し持株会社制へ移行した
    • [216]2004年10月、全事業を会社分割し持株会社制へ移行した
    • [217]2011年10月、インドの文具・画材メーカーであるコクヨカムリンリミテッドの株式の過半数を取得し連結子会社化、同年11月に名古屋証券取引所の上場を廃止した
    • [219]2015年10月、コクヨS&T株式会社及びコクヨファニチャー株式会社と合併した
  • 週刊東洋経済 2001年3月3日号「通販参入で始まった聖域なき大手術 コクヨ」
    • [204]2001年1月にオフィス用品の通販子会社カウネットを立ち上げ、アスクルに8年遅れて通販市場に参入した
    • [205]2000年5月の総括店との懇親会で、当時59あった総括店を40に減らすビジョンの日本地図を広げた
    • [206]懇親会で黒田が口にしたのはねぎらいの言葉でも社交辞令でもなく「総括店の再編」で、参加者はあぜんとし、和やかなムードが一瞬にして消えた
    • [207]通販ではコクヨの強みであるはずの流通支配力が逆に弱みに転じかねない危うさが潜んでいた
    • [208]黒田社長は「アスクルが成長するなかで、いちばん変わりたかったのはコクヨ、変わりたくなかったのは総括店だった」と述べた
    • [210]黒田はカウネットを通じメーカー-総括店-販売店という流通三段階の仕組みは今後も維持することを宣言したが、すでにその中身は大きく変わり始めていた
    • [211]2000年12月、東京支社のメーカー営業機能を人も出向させる形で総括店の東京コクヨに移管統合し、地方では隣接する総括店を統合して広域卸化する計画を示した
    • [212]総括店が担ってきた物流業務はコクヨ主導で整備する大規模な物流網に移し替えられ、総括店にとっては売上高の半分を占めるコクヨ製品の物流・在庫管理業務が消えることを意味した
    • [213]引き換えに総括店はコクヨ製品以外の取り扱いを解禁され、カウネット開始に際しては各総括店に事業計画を提出させ達成できない場合は総括店から外すという条項が契約に盛り込まれた
    • [214]1985年当時に全国で3万を超えていた販売店は2001年時点で1万9,000店に減っており、総括店の強硬な姿勢にも変化が現れていた
  • コクヨ 有価証券報告書【セグメント情報等】
    • [209]2025年12月期のビジネスサプライ流通事業の売上高は102,618百万円、セグメント利益は5,463百万円
  • 週刊東洋経済 2021年9月25日号「トップに直撃 コクヨ 社長 黒田英邦」
    • [218]黒田英邦は1976年生まれ、2001年4月コクヨ入社。ファニチャー事業の法人営業、経営企画部長、代表を経て2015年から社長。創業者・黒田善太郎のひ孫にあたる

ぺんてる争奪の3年と、オフィスへの傾斜

2019年、文具業界の主導権をめぐる争いが表に出た。発端は2018年1月、ぺんてるの創業家が持っていた株式37%を投資ファンドのマーキュリアインベストメントが1株2,000円で取得した[221]ことである。プラスは複数のメーカーで分散して買い取る案を主導したが、2019年5月にコクヨがファンドの持分をすべて買い取って間接保有に回った[222]。プラス主導で業界再編が進むのを阻みたかった[223]からである。同年11月15日、コクヨはぺんてるの子会社化を発[224]表した。ぺんてるはプラスをホワイトナイトとして迎え、両社の買い付け合戦[225]になった。9月にはぺんてるの取締役会がコクヨによる直接保有を認め、コクヨは約38%を持つ筆頭株主[226]になった。 [220]

  • 週刊東洋経済 2019年12月7日号「ぺんてる争奪戦が過熱 コクヨを激怒させた密告書」
    • [220]ぺんてるをめぐるプラスとコクヨの争奪戦は低迷する国内文具市場での覇権争いであり、2019年11月にコクヨの子会社化発表で表面化した
    • [224]コクヨは2019年11月15日、ぺんてるについて株式の過半数を取得し子会社化すると発表した
    • [226]その後、業務提携に向けた協議や互いの工場視察などを重ね、9月にコクヨによる株式の直接保有を容認。コクヨは投資会社からぺんてる株を取得し、名実ともに筆頭株主となった(当時約38%保有)
  • 週刊東洋経済 2020年8月8日号「文具業界を揺るがす動乱 コクヨvs.プラスの全真相」
    • [221]2018年1月、ぺんてる創業家出身の堀江圭馬元社長と親族が保有していたぺんてる株37%を投資ファンドのマーキュリアインベストメントが1株2,000円で取得した
    • [222]2019年5月、コクヨがマーキュリアの有限責任持ち分をすべて買い取るという手法で37%を間接保有したと発表した
    • [223]コクヨが反発を覚悟で37%の取得に走ったのは、プラス主導で業界再編が進むのを何としても阻止したかったからである
  • 週刊東洋経済 2022年11月26日号「ぺんてる争奪戦に白旗 コクヨは王座を守れるか」
    • [225]寝耳に水のぺんてるはプラスをホワイトナイトとして受け入れ、買収防衛に当たった

子会社化へ動いた直接のきっかけは、2019年10月に届いた差出人不明の封書だった[227]。文書はぺんてるの内部資料で、コクヨの支配力を弱めるためにプラスが株式を取得する案が具体的に記されていた[228]。買い付けの結果、プラスが30%を確保し、コクヨは過半数に届かなかった[229]。2021年には持分に50億円の減損を計上しながら、英邦氏は売却は考えていないと述べ[230]ていた。しかし2022年9月30日、保有していた45.6%すべてをプラスへ売り[231]、ぺんてる商品を中国市場でコクヨの販路に乗せる提携と引き換えに、3年に及んだ争奪戦から降りた。プラスの保有比率は76.3%[232]になった。

  • 週刊東洋経済 2019年12月7日号「ぺんてる争奪戦が過熱 コクヨを激怒させた密告書」
    • [227]2019年10月16日、コクヨ代表取締役宛てに差出人不明の封書が届き、K社によるPE社の株式過半数取得を阻止するためPL社がPE社株式を取得することが望ましい旨が記されていた
    • [228]内部文書にはコクヨの支配力を弱める具体的な方策が記され、プラスがコクヨの持ち分割合を上回る40%を保有する案が挙がっていた
  • 週刊東洋経済 2022年11月26日号「ぺんてる争奪戦に白旗 コクヨは王座を守れるか」
    • [229]買い付け合戦の結果、プラスはぺんてる株の30%を確保し、コクヨは過半数を握ることに失敗した
    • [231]2022年9月30日、コクヨは保有するぺんてる株45.6%すべてをプラスに売却すると発表し、ぺんてる商品をコクヨの販路で中国市場に展開する提携がまとまった。プラスの保有比率は76.3%に達した
    • [232]プラスによるぺんてる株の保有比率は76.3%に達する
  • 週刊東洋経済 2021年9月25日号「トップに直撃 コクヨ 社長 黒田英邦」
    • [230]コクヨは今期ぺんてる持ち分について50億円の減損損失を計上したが、黒田英邦社長は「売却は考えていない」と述べた

ぺんてるを逃したコクヨが傾いた先は家具[233]だった。2021年2月に長期ビジョンCCC2030で2030年の売上高5,000億円を掲げ[234]、2022年7月には香港のオフィス家具メーカーを94億円で買収した[235]。東京の品川オフィスはTHE CAMPUSとして改装し、エントランスを公園のよう[236]に開いた。2024年3月には指名委員会等設置会社へ移り、2025年には創業120周年に合わせてロゴを含む企業表示を刷新した[237]。2025年12月期の売上高は3,599億円、営業利益は262億円[238]である。うちファニチャー事業が売上1,706億円を占め、そのセグメント利益261億円は全社の営業利益に匹[239]敵する。この261億円は4事業のセグメント利益の合計394億円の3分の2[240]にあたる。

  • 週刊東洋経済 2022年11月26日号「ぺんてる争奪戦に白旗 コクヨは王座を守れるか」
    • [233]コクヨはぺんてるを逃したことでオフィス空間・家具事業への傾斜を強めるはずで、連結営業利益のうち67%は同事業が占めている
    • [235]2022年7月、中国香港のオフィス家具の製造・販売企業であるHNI Hong Kong Limitedの株式を取得し連結子会社化した。買収額は94億円である
  • 週刊東洋経済 2021年9月25日号「トップに直撃 コクヨ 社長 黒田英邦」
    • [234]2021年2月に掲げた長期ビジョンCCC2030で、2030年の売上高目標を現在比7割増の5,000億円と定めた
    • [236]品川オフィス「THE CAMPUS」のエントランス付近は公園のようなスペースにリニューアルされ、犬の散歩をする人や子ども連れが行き交っている
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】【経営方針、経営環境及び対処すべき課題等】
    • [237]創業から120周年を迎え、ロゴを含むコーポレートアイデンティティをリニューアルする大幅なリブランディングを実施した
    • [238]2025年12月期の連結売上高は3,599億円、営業利益は262億円だった
    • [239]2025年12月期のファニチャー事業は売上高1,706億円、セグメント利益261億円で、全社の営業利益262億円に匹敵する
  • コクヨ 有価証券報告書【セグメント情報等】
    • [240]2025年12月期のセグメント利益はファニチャー事業261億円に対しステーショナリー事業70億円で、利益の大半をファニチャー事業が占める
  • 週刊東洋経済 2019年12月7日号「ぺんてる争奪戦が過熱 コクヨを激怒させた密告書」
    • [220]ぺんてるをめぐるプラスとコクヨの争奪戦は低迷する国内文具市場での覇権争いであり、2019年11月にコクヨの子会社化発表で表面化した
    • [224]コクヨは2019年11月15日、ぺんてるについて株式の過半数を取得し子会社化すると発表した
    • [226]その後、業務提携に向けた協議や互いの工場視察などを重ね、9月にコクヨによる株式の直接保有を容認。コクヨは投資会社からぺんてる株を取得し、名実ともに筆頭株主となった(当時約38%保有)
    • [227]2019年10月16日、コクヨ代表取締役宛てに差出人不明の封書が届き、K社によるPE社の株式過半数取得を阻止するためPL社がPE社株式を取得することが望ましい旨が記されていた
    • [228]内部文書にはコクヨの支配力を弱める具体的な方策が記され、プラスがコクヨの持ち分割合を上回る40%を保有する案が挙がっていた
  • 週刊東洋経済 2020年8月8日号「文具業界を揺るがす動乱 コクヨvs.プラスの全真相」
    • [221]2018年1月、ぺんてる創業家出身の堀江圭馬元社長と親族が保有していたぺんてる株37%を投資ファンドのマーキュリアインベストメントが1株2,000円で取得した
    • [222]2019年5月、コクヨがマーキュリアの有限責任持ち分をすべて買い取るという手法で37%を間接保有したと発表した
    • [223]コクヨが反発を覚悟で37%の取得に走ったのは、プラス主導で業界再編が進むのを何としても阻止したかったからである
  • 週刊東洋経済 2022年11月26日号「ぺんてる争奪戦に白旗 コクヨは王座を守れるか」
    • [225]寝耳に水のぺんてるはプラスをホワイトナイトとして受け入れ、買収防衛に当たった
    • [229]買い付け合戦の結果、プラスはぺんてる株の30%を確保し、コクヨは過半数を握ることに失敗した
    • [231]2022年9月30日、コクヨは保有するぺんてる株45.6%すべてをプラスに売却すると発表し、ぺんてる商品をコクヨの販路で中国市場に展開する提携がまとまった。プラスの保有比率は76.3%に達した
    • [232]プラスによるぺんてる株の保有比率は76.3%に達する
    • [233]コクヨはぺんてるを逃したことでオフィス空間・家具事業への傾斜を強めるはずで、連結営業利益のうち67%は同事業が占めている
    • [235]2022年7月、中国香港のオフィス家具の製造・販売企業であるHNI Hong Kong Limitedの株式を取得し連結子会社化した。買収額は94億円である
  • 週刊東洋経済 2021年9月25日号「トップに直撃 コクヨ 社長 黒田英邦」
    • [230]コクヨは今期ぺんてる持ち分について50億円の減損損失を計上したが、黒田英邦社長は「売却は考えていない」と述べた
    • [234]2021年2月に掲げた長期ビジョンCCC2030で、2030年の売上高目標を現在比7割増の5,000億円と定めた
    • [236]品川オフィス「THE CAMPUS」のエントランス付近は公園のようなスペースにリニューアルされ、犬の散歩をする人や子ども連れが行き交っている
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】【経営方針、経営環境及び対処すべき課題等】
    • [237]創業から120周年を迎え、ロゴを含むコーポレートアイデンティティをリニューアルする大幅なリブランディングを実施した
    • [238]2025年12月期の連結売上高は3,599億円、営業利益は262億円だった
    • [239]2025年12月期のファニチャー事業は売上高1,706億円、セグメント利益261億円で、全社の営業利益262億円に匹敵する
  • コクヨ 有価証券報告書【セグメント情報等】
    • [240]2025年12月期のセグメント利益はファニチャー事業261億円に対しステーショナリー事業70億円で、利益の大半をファニチャー事業が占める

コクヨの沿革1905〜2025年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
黒田表紙店を大阪市西区に開業し和式帳簿用表紙の製造を開始★★★
洋式帳簿の製造を開始★★
店名を黒田国光堂に変更
大阪市東成区の現在地に事務所と工場を移転
合名会社黒田国光堂に組織変更
傍系3社と合併し資本金1,044万5,000円の黒田国光堂を設立★★
黒田善太郎大阪市東成区深江に深江工場を新設し帳簿・リーフの量産体制を確立
黒田暲之助鋼製家具・ファイリング用品への参入と、協力工場生産によるコクヨ商標での販売紙製品の枠にとどまるか、オフィスの什器まで手を伸ばすか——黒田暲之助社長は先代の黒田善太郎氏をどう説いたか 詳細を読む★★★
黒田暲之助黒田国光堂からコクヨに社名を変更★★
黒田暲之助大阪府八尾市に八尾工場を新設し便箋・複写簿の製造を合理化
黒田暲之助鳥取市に紙製品の製造会社日本事務用品工業を設立
黒田暲之助国誉商事と合併
黒田暲之助東京・大阪両証券取引所市場第二部に上場
黒田暲之助大阪府柏原市に柏原工場を新設し家具の自家生産体制を確立
黒田暲之助東京・大阪両証券取引所市場第一部に指定
黒田暲之助岡山県真備町に間仕切の製造会社コクヨメーベルを設立
黒田暲之助受注残240億円の全件白紙撤回と紙製品の3割減産、三事業部制への移行殺到する注文は実需か、思惑買いか——7カ月分の受注残を自ら消した2カ月 詳細を読む★★★
黒田暲之助千葉県八千代市に間仕切を製造する千葉工場を新設
黒田靖之助名古屋証券取引所市場第一部に上場
黒田靖之助滋賀県秦荘町に紙製品の製造会社コクヨ工業滋賀を設立
黒田章裕三重県名張市にデスクを製造する三重工場を新設
黒田章裕千葉県芝山町にOA床材を製造する芝山工場を新設
黒田章裕タイに初の海外製造会社コクヨIK(タイランド)を設立★★
黒田章裕マレーシアにオフィス家具の製造会社コクヨ(マレーシア)を設立
黒田章裕通販事業の子会社カウネットを設立★★
黒田章裕千葉工場を芝山工場に統合
黒田章裕岡山工場を芝山工場に統合
黒田章裕八尾工場を滋賀工場に統合
黒田章裕全事業を会社分割し持株会社制に移行★★
黒田章裕中国に国誉商業(上海)有限公司を設立
黒田章裕ベトナムに事務用品の製造会社コクヨベトナムを設立
黒田章裕中国に国誉家具商貿(上海)有限公司を設立
黒田章裕東名阪の販売会社を統合しコクヨマーケティングを設立
黒田章裕コクヨマーケティングが中国販売・九州販売を吸収合併
黒田章裕コクヨファニチャーがコクヨオフィスシステムを吸収合併
黒田章裕コクヨファニチャーがコクヨストアクリエーションを吸収合併
黒田章裕インドの文具・画材メーカーであるコクヨカムリンを子会社化★★
黒田章裕名古屋証券取引所の上場を廃止
黒田章裕コクヨビジネスサービスと合併
黒田章裕中国の国誉商業(上海)有限公司が上海工場を新設
黒田章裕大阪証券取引所市場第一部が東京証券取引所市場第一部に統合
黒田英邦コクヨS&Tとコクヨファニチャーを吸収合併し事業会社に回帰★★★
黒田英邦店舗用什器のストア事業を三協立山に会社分割
黒田英邦コクヨエンジニアリング&テクノロジーと合併
黒田英邦ぺんてる株37%の取得と子会社化の試み、45.6%全株のプラスへの売却縮む国内文具市場で、黒田英邦社長は筆記具の技術と海外販路をどう手に入れようとしたか 詳細を読む★★★
黒田英邦東京証券取引所プライム市場に移行
黒田英邦香港のオフィス家具メーカーHNI Hong Kongを子会社化★★
黒田英邦保有するぺんてる株45.6%をプラスに売却★★
黒田英邦指名委員会等設置会社へ移行★★
黒田英邦創業120周年に合わせコーポレートアイデンティティを刷新★★
出典・参考
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』(1986年)
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】
  • 証券 1971年3月号「新規上場会社紹介 コクヨ株式会社」
  • 証券アナリストジャーナル 1980年3月号「企業 コクヨ 時代を先取りして業容を積極拡大」(黒田暲之助社長)
  • 証券アナリストジャーナル 1977年3月号「企業 コクヨ 消費者の求めを指針に」(黒田暲之助社長)
  • 日経ビジネス 1981年11月30日号「ケーススタディ コクヨ 紙→スチール→OA」
  • 証券アナリストジャーナル 1986年10月号「企業 コクヨ 商品を通じて社会に役立つことを」(黒田暲之助会長)
  • 日経ビジネス 1993年9月27日号 編集長インタビュー 黒田章裕氏
  • 日経ビジネス 1992年11月2日号「コクヨ 次代にらみ社員大異動 支店廃止で問屋活性化」
  • 日経ビジネス 1992年11月2日号「コクヨ 次代にらみ社員大異動 支店廃止で問屋活性化"
  • 週刊東洋経済 2019年12月7日号「ぺんてる争奪戦が過熱 コクヨを激怒させた密告書」
  • 週刊東洋経済 2001年3月3日号「通販参入で始まった聖域なき大手術 コクヨ」
  • 週刊東洋経済 2020年8月8日号「文具業界を揺るがす動乱 コクヨvs.プラスの全真相」
  • 日経ビジネス 1997年5月19日号 編集長インタビュー 黒田章裕氏
  • コクヨ 有価証券報告書【セグメント情報等】
  • 週刊東洋経済 2021年9月25日号「トップに直撃 コクヨ 社長 黒田英邦」
  • 週刊東洋経済 2022年11月26日号「ぺんてる争奪戦に白旗 コクヨは王座を守れるか」
  • コクヨ 有価証券報告書【沿革】【経営方針、経営環境及び対処すべき課題等】

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