{"spec_version":"3","endpoint":"history","stock_code":"7984","company_name":"コクヨ","content_lang":"ja","meta_lang":"en","canonical_url":"https://the-shashi.com/tse/7984/","api_url":"/api/7984/history.json","updated":"2026-08-11","license":"© 2026 Yutaka Sugiura. All rights reserved.","attribution":"The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/7984/","title":"コクヨの歴史概略","sections":[{"start_year":1905,"end_year":1960,"main_title":"和式帳簿の表紙から始まった大阪の紙製品メーカー（1905〜1960）","subsections":[{"title":"富山のマッチ工場が流され、大阪で表紙張りを覚える","text":"コクヨの創業者である黒田善太郎氏は、1879年に富山市の商家に生まれた。生家は1880年前後にマッチの製造へ乗り出し、女工だけで約100人を抱えるまでになったが、神通川の河川敷に建てた新工場が1889年から1890年ごろの洪水で流された。再建はならず、父の善三郎氏は1892年に世を去り、善太郎氏は12歳で母と3人の弟妹を抱えた。家業を再興する当てのないまま19歳まで富山にとどまり、北陸線が高岡まで通じたのを機に大阪へ出た。運送店と乾物店の奉公を経て20歳でマッチ製造会社に入ったが、機械化された製法は富山のやり方とまるで違い、半年で見切りをつけた。次に小僧として入ったのが堺筋備後町の小林紙店で、ここから紙を商う道に入った。\n\n小林紙店は紙の卸問屋で、和式帳簿の表紙の加工販売も手がけていた。善太郎氏は番頭となって表紙の仲買いに携わり、紙の買い付けから職人への発注、製品の販売までをひと通り身につけた。その仕事を元手に、1905年10月、27歳で大阪市西区に黒田表紙店を構え、和式帳簿用表紙の製造を始めた。開業のあいさつに行った先で、良い商売は世間が先に手をつけており残っているのは滓ばかりだと忠告された。善太郎氏は滓であればあるほど人はやらないと受け止め、そこに精根を尽くすと決めた。この決心は1954年に定めた社訓「天職」の由来となった。\n\n表紙だけでは商いが広がらない。創業から3年目の1908年、黒田表紙店は和式帳簿そのものの製造に踏み込んだ。当時の小売店は夜なべで版木印刷と製本をこなす和帳の製造業者でもあり、既製の和帳を売り込むことは得意先をそのまま競合に変える意味を持った。小売店を一軒ずつ回る効率の悪さもあり、善太郎氏は卸問屋に協力を求める道を選んだ。代理店を置くというより、一緒に仕事をする仲間を作るという考え方であり、これが後年の販売網のもとになった。長男の黒田暲之助氏は、和帳こそが紙製品事業の始まりだったと書き残している。","references":[{"title":"コクヨ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』（1986年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1971年3月号「新規上場会社紹介 コクヨ株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1980年3月号「企業 コクヨ 時代を先取りして業容を積極拡大」（黒田暲之助社長）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"洋式帳簿への転換と、郷土を込めた国誉の商標","text":"1913年5月、洋式帳簿の製造が始まった。ただし洋式帳簿は複式簿記を前提とし、採用するのは大企業と大商店に限られたうえ、印刷業へのオーダーメードが当たり前で、既製品として売る道はなかなか開けず、販売には長く苦心した。1914年10月に店名を黒田国光堂へ改め、1917年には商標として国誉を定めた。国は越中、すなわち富山を指す。大阪へ出るには呉羽山を越えねばならず、峠の茶屋で人を見送った。自分の商品は故郷につながっている以上、郷土の名を汚してはならないと、善太郎氏は自らに言い聞かせていた。その心が国の光、国の誉れという商標になり、現在の社名もこの商標に由来する。\n\n生産設備も少しずつ整え、1922年には初の生産工場となる猪飼野工場を設けて洋式帳簿の自家生産に入った。輸入紙に頼っていた帳簿用紙は、1927年に王子製紙へ依頼して国産の帳簿紙を開発してもらい、その原紙を生かして手形用紙や領収書用紙へ品目を広げた。1932年には便箋を発売し、先発メーカーを超えるために伊東深水氏ら大家の描いた美人画の色紙を挿んだ。1936年11月には大阪市東成区の現在地へ事務所と工場を移し、紙製品の全品種を一つの敷地で作れるようにし、1938年1月に個人商店から合名会社へ組織を改めた。\n\n1940年に入ると原材料の統制が強まり、原紙は軍需関係へ優先して割り当てられた。軍需産業への転換を善太郎氏が拒んだため、物資の配給が優先される輸出に活路を求めるほかなかった。暲之助氏は蘭領インドで青表紙ノートの需要があることに目をつけ、1940年12月に神戸を発ってスラバヤへ渡り、ジャワコクヨ商店を設けた。1942年には新京の印刷会社を買い取って満州国誉印刷紙工を設立し、満州政府印刷廠から紙幣や外食券の印刷を受注して、終戦の直前には従業員が3,000人にふくらんだ。いずれも1945年8月の敗戦とともに放棄した。","references":[{"title":"コクヨ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』（1986年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1971年3月号「新規上場会社紹介 コクヨ株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1980年3月号「企業 コクヨ 時代を先取りして業容を積極拡大」（黒田暲之助社長）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"青色申告が生んだ需要と、専門代理店の始まり","text":"1949年5月12日、合名会社黒田国光堂は戦前の販売代理店だったコクヨ商店・東京国誉商店・西部コクヨ商店を合併し、資本金1,044万5,000円の株式会社黒田国光堂として発足した。この時期に暲之助氏が副社長として製品企画と製造を、弟の靖之助氏が常務として営業を受け持つ分担が定まった。追い風になったのはシャウプ勧告による税制改革である。大衆課税へ移って青色申告が制度化されると、帳簿をつける事業者が全国で一気に増え、既製の洋式帳簿の需要が広がった。1954年1月には大阪市東成区深江に深江工場を設け、帳簿やルーズリーフの量産体制を整えた。\n\n販売網もこの時期に形を得た。1950年6月、東京で文具の卸問屋を営んでいた伊藤商店の伊藤賢治氏が善太郎氏を訪ね、他社の商品を扱うのをやめてコクヨ製品だけで商売をしたいと申し出た。他の仕入先に迷惑がかかると断られると、伊藤氏はすでに他社の代理店権を返上してきたと答えて引かず、これが専門代理店の第1号となった。1957年1月には全国20社が会社の知らないところで相談して全国コクヨ専門店会を結成し、黒田善太郎氏を親と思い黒田国光堂と生死を共にする覚悟を記した宣誓の一巻を贈った。専門代理店はその後、一県に一社の割合で全国へ広がった。\n\n生産の側では機械化が課題として残った。1953年に800人まで増えた従業員の仕事は、紙を数える工程も表紙を差し込む工程も人手に頼っていた。暲之助氏は1956年9月に欧州へ渡って自動製造機械を探したが、欧州でも帳票類はオーダーメードで、既製の帳票を世に出しているのは黒田国光堂だけだと気づいて手ぶらで帰った。1958年4月にデュッセルドルフの印刷見本市で見つけたハンスビル社のノート製造機が糸口になり、技師長を招いて開発させた7台を2億8,000万円で発注した。年商38億円の会社にとっては大きな買い物だった。1960年1月、善太郎氏が会長に退き、暲之助氏が社長に就いた。","references":[{"title":"コクヨ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』（1986年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1971年3月号「新規上場会社紹介 コクヨ株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1980年3月号「企業 コクヨ 時代を先取りして業容を積極拡大」（黒田暲之助社長）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1960,"end_year":1975,"main_title":"紙から鋼へ、全館ショールームの本社と株式上場（1960〜1975）","subsections":[{"title":"入れ物という説得で始めた鋼製家具","text":"社長に就いた暲之助氏には危機感があった。1957年ごろから売上高の伸びは年に1億円か2億円にとどまり、紙製品は市場に行き渡って強力な新製品も出ていなかった。業界の首位にはいたが、このまま安全運転を続ければ将来が危ういと考えた。販売先が中小企業と一般消費者に偏っていたことも気にかかっていた。一流と呼ばれる企業のオフィスで使ってもらえないか、という思いが長く胸にあった。1950年代後半には大企業への納品業者がデスクやキャビネットに力を入れ始め、IBMの日本上陸が話題にのぼるなど、オフィスの様子が変わる兆しも見えていた。\n\n最大の障害は父だった。善太郎氏にとってのコクヨは紙製品のメーカーであり、和帳から帳票、便箋へと品目を広げてはいても、紙の域を一歩も出ていない。暲之助氏は弟の靖之助氏と2人で父の前に立ち、ルーズリーフとバインダーが売れ、帳票を収める需要も増えているので、それを納める入れ物としてキャビネットを作りたいと説いた。鋼という語を一度も使わない説得であり、父は道理だと認めて許した。もっとも暲之助氏は後年の講演では、父が紙製品の伝統に固執して新製品への参入をなかなか許さず、毎日が先代との戦いだったとも述べている。1960年4月、コクヨは鋼製家具とファイリング用品の販売を始めたが、当初の生産は協力工場に任せ、コクヨの商標で売った。\n\n1961年6月、社名を黒田国光堂からコクヨへ改めた。大卒の定期採用が増えるなか、次の世代のために古い屋号を改めると判断した。父は承知したが、あとで母から聞いたところでは残念だともらしていた。同じ月には西ドイツ製の自動製造機械を据えた八尾工場が動き出し、便箋や複写簿の製造を機械へ置き換えた。1962年12月には鳥取市に紙製品の製造会社である日本事務用品工業を設けた。1965年10月にはスチールデスクを発売して鋼製家具の品目を広げ、同じ1965年11月期に売上高は111億円へ伸びて初めて100億円を超えた。社長就任時の売上高は約40億円で、創業から55年かけて到達した水準だったから、6年足らずでその2倍半に届いたことになる。就任の年の11月には労働組合が結成後初のストライキに入った。暲之助氏は第二組合を作る案を退けて正面から交渉し、労使は1961年9月の執行部交代で落ち着いた。","references":[{"title":"コクヨ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』（1986年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1971年3月号「新規上場会社紹介 コクヨ株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1977年3月号「企業 コクヨ 消費者の求めを指針に」（黒田暲之助社長）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1980年3月号「企業 コクヨ 時代を先取りして業容を積極拡大」（黒田暲之助社長）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"全館をショールームにした本社と1971年の上場","text":"1966年3月、善太郎氏が87歳で世を去った。暲之助氏は一年間喪に服して新しいことをしないと決め、経営者としての仕事を1967年以降に託した。その最初が本社ビルの建て替えで、1968年に旧本社を取り壊し、1969年11月に地上8階、延べ面積8,767平方メートルの新社屋を完成させた。旧本社の15倍の広さがあり、社員が働く階も含めて全館に自社の鋼製家具を置き、応接室を大小32室設けた。営業部門には赤いイスと黒い机、経理にはベージュ、開発には青と、部門ごとに色を変えた。鋼製家具はカタログだけでは伝わらないという判断から、本社そのものをショールームにした。\n\n1969年10月、販売部門を担って1953年から休業状態にあった国誉商事がコクヨを吸収合併し、商号をコクヨへ改めた。形式上の存続会社は国誉商事だが、営業の実態は被合併会社であるコクヨが引き継いだ。1970年9月期に年間売上高が300億円を超え、証券会社の勧めもあって株式公開の準備に入った。社長就任から10年が経とうとしていた。この体裁を整えたうえで1971年3月1日、東京と大阪の両証券取引所市場第二部へ株式を上場した。公開価格430円に対して売り2万株に数百万株の買いが集まり、前場は値がつかず、大引け直前に720円で最初の売買が成立した。翌1972年2月には両取引所の市場第一部へ指定替えとなった。父の死後も株式の9割以上を黒田一族が持っていたが、上場によって株主は6,038人になった。\n\n上場時のコクヨは、事務用紙製品が売上の29.5%、日用と学用の紙製品が20.5%、鋼製品が34.9%、感光紙と事務機が15.1%という構成だった。鋼製品はなお大半が他社からの仕入販売で、1971年7月に大阪府柏原市へ柏原工場を建てて自社生産に踏み切った。販売はコクヨ製品だけを扱う専門代理店47店が総売上の約8割を扱った。1968年10月には取扱高の大きい小売店1,133社をコクヨジュウリーメンバーズとして組織し、取引高に応じた5段階の格付けと報奨金の制度を設けた。専門代理店は1969年6月に総括店と改称された。","references":[{"title":"コクヨ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』（1986年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1971年3月号「新規上場会社紹介 コクヨ株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1977年3月号「企業 コクヨ 消費者の求めを指針に」（黒田暲之助社長）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1980年3月号「企業 コクヨ 時代を先取りして業容を積極拡大」（黒田暲之助社長）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"石油ショックで240億円の注文を白紙に戻す","text":"紙製品への注文は1973年9月から急増し、同年秋の石油危機のあとで一段と加速した。倉庫のほこりでもいいから売ってほしいと言われるほどで、最終消費者から電話や電報が入り、暲之助氏の自宅にまで催促が来た。1974年1月末に集計した紙製品と文房具の注文残高は240億円に達した。当時の生産能力は月に35億円ほどで、7か月分の注文を一度に抱えた計算になる。周囲が熱に浮かされているときにかえって冷静になる癖があったという暲之助氏は、ノートや帳簿が急に2倍3倍と使われるはずはないと考え、思惑買いが混じっているのではないかと疑った。\n\n1974年2月、暲之助氏は全国の支店長を本社へ集め、注文をいったん全部白紙に戻すよう指示した。そのうえで支店長が足で歩いて実際に必要な数量を数え直し、改めて注文を受け直すことにした。3月に集計した注文残は60億円へ、4月には10億円へと、2か月で24分の1に落ちた。逆に在庫が積み上がったため、3月から操業を短縮し、労働組合と事前に協議したうえで4月には紙製品の3割減産に入った。同業他社が9月ごろまで増産を続けたのに対し、コクヨは半年早く動いた。1975年9月期の売上高は624億円と前期を下回り、初の減収となった。\n\n1975年7月、社内の機構を一変させた。それまでは資材・製造・営業・商品企画の4部制で全商品を一括して扱っていたが、鋼製品の伸びに紙製品と同じ扱いでは追いつかなくなっていた。組織を紙製品、鋼製品、そして大口顧客への直販を担う特販の3事業部へ組み替え、各部門の専務と常務からは全員が辞表を出させて配置し直した。本社勤務のおよそ500人のうち約400人を入れ替えた。狙いは安い商品を供給できる体制を作ることにあり、デスクは2年半かけて1万3,000円のものと似た品を7,500円で作れるようにし、1,800円の折りたたみ椅子は1,100円で供給できるようにした。工場の集約も並行して進めており、今里・深江・布施に分かれていた7工場から八尾へ寄せる作業は13年を要して1974年11月に終わった。","references":[{"title":"コクヨ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』（1986年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1971年3月号「新規上場会社紹介 コクヨ株式会社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1977年3月号「企業 コクヨ 消費者の求めを指針に」（黒田暲之助社長）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1980年3月号「企業 コクヨ 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有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』（1986年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1980年3月号「企業 コクヨ 時代を先取りして業容を積極拡大」（黒田暲之助社長）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1986年10月号「企業 コクヨ 商品を通じて社会に役立つことを」（黒田暲之助会長）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1981年11月30日号「ケーススタディ コクヨ 紙→スチール→OA」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1992年11月2日号「コクヨ 次代にらみ社員大異動 支店廃止で問屋活性化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1993年9月27日号 編集長インタビュー 黒田章裕氏","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"倉庫を先に置き、総括店と回線でつなぐ","text":"売り方は物流が支えた。1974年1月に物流本部を設け、それまで営業部の管理下にあった商品倉庫を営業から切り離した。各地に工場を展開するのが最善ではあるが、低成長下では過大投資になりかねず、人材や設備も分散する。そこで、消費地に密着した倉庫を持てば工場建設と同じ効果が出ると考えた。1986年の時点で物流拠点は22カ所、敷地面積は約49万平方メートル、床面積は約28万平方メートルに達し、倉庫会社1社に匹敵する規模になった。この10年余りで最大の投資先は物流であり、1980年代半ばには年間100億円の設備投資のうち7割を物流とその情報化へ充てていた。\n\n倉庫は回線でつないだ。1971年に電電公社の公衆通信回線が民間へ開放されると、コクヨは1974年8月に総括店と結ぶ受発注システムのKOPSを動かした。メーカーと問屋という異業種のあいだをオンラインで結んだのは、これが幕開けだった。1980年3月にはKOINSを加え、鋼製品を共同で保管し共同で配送する仕組みにした。総括店は在庫を抱えずに商売ができるようになり、資金と人件費の負担から解放された。1983年には310社の各種代理店をつなぐKAPSが動き、リアルタイムの受発注ができるようになった。\n\n1986年6月には販売店まで届く仕組みへ広げた。KROSはメーカー、卸、小売の3段階をオンラインで結ぶもので、コクヨはNTTと端末を共同開発し、電話やワープロの機能も持たせたうえで販売店のリース料を月7,500円に抑えた。一般の相場は月10万円から15万円だった。端末のフロッピーを入れ替えれば他社の商品も扱えるようにしたため、競合に塩を送ることになるという異論も社内にあったが、業界へ門戸を開いた。総括店ではオペレーターの3分の1にあたる要員が要らなくなり、年に3億円強の省力化になった。","references":[{"title":"コクヨ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』（1986年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1980年3月号「企業 コクヨ 時代を先取りして業容を積極拡大」（黒田暲之助社長）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1986年10月号「企業 コクヨ 商品を通じて社会に役立つことを」（黒田暲之助会長）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1981年11月30日号「ケーススタディ コクヨ 紙→スチール→OA」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1992年11月2日号「コクヨ 次代にらみ社員大異動 支店廃止で問屋活性化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1993年9月27日号 編集長インタビュー 黒田章裕氏","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"二度の承継と、支店を畳んだ1992年","text":"1985年12月、暲之助氏が会長へ退き、弟の靖之助氏が社長に就いた。父から受け継いで26年にわたった。1986年1月には売上高1,639億円の会社が5,000億円を目標に掲げた。実績の3倍を担ごうという呼びかけは1967年ごろから繰り返されており、150億円の段階で500億円、345億円の段階で1,000億円、760億円の段階で2,000億円と掲げ直してきたものである。ところが1989年8月、靖之助氏が急逝した。跡を継いだのは暲之助氏の長男で、当時39歳の黒田章裕氏だった。章裕氏は1972年にコクヨへ入り、1977年12月に取締役となっていた。\n\n1992年10月1日、章裕氏は創業以来の規模という組織改革を実施した。約3,400人の社員のほぼ全員に辞令が出た。東京と大阪の統括本部と7支店を廃止し、地域の営業を担っていた1,256人を本社の各部門へ配転した。文具とオフィス家具で営業を分け、三大都市圏の大口顧客には直販の部署を置いた。支店は総括店の営業を支えるだけでなく、本来は問屋がすべき仕事まで肩代わりしてきた。その結果メーカーが強くなり問屋の力が相対的に弱まった。章裕氏はそう見て支店を畳んだ。廃止した支店の業務を引き継ぐ営業支援本部は置いたが、人員は10分の1に縮めた。\n\n業績が悪かったわけではない。1992年3月期の売上高は3,215億円で前期比4.4%増、経常利益も5.0%増えた。売上高に占める経常利益の割合は過去5年平均で8.65%あり、岡村製作所の4.77%、イトーキの3.0%を大きく上回っていた。それでも数年前に全国で3万3,000店あった文具店は2万6,000店を切り、コンビニエンスストアやディスカウントストアが台頭しており、章裕氏はこのままではジリ貧になると語った。翌1993年3月期は減収減益となり、石油危機のときと違って停滞は続いた。オフィス家具と紙製品・文具の売上の比は6対4となり、家具が上回っていた。この間の1990年には決算期を9月から3月へ改めている。","references":[{"title":"コクヨ 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞社『私の履歴書 黒田暲之助』（1986年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1980年3月号「企業 コクヨ 時代を先取りして業容を積極拡大」（黒田暲之助社長）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1986年10月号「企業 コクヨ 商品を通じて社会に役立つことを」（黒田暲之助会長）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1981年11月30日号「ケーススタディ コクヨ 紙→スチール→OA」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1992年11月2日号「コクヨ 次代にらみ社員大異動 支店廃止で問屋活性化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1993年9月27日号 編集長インタビュー 黒田章裕氏","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1993,"end_year":2025,"main_title":"通販の衝撃と業界再編、オフィスへの傾斜（1993〜2025）","subsections":[{"title":"通販と黒船が文具流通の前提を壊す","text":"新しい競争相手は業界の外からではなく、中堅メーカーだったプラスの子会社から現れた。アスクルは1993年に通信販売を始めた。顧客企業へカタログを配り、ファクスやインターネットで注文を受けて直接届ける仕組みである。その後アスクルは自らを流通商社と位置づけ直し、プラス以外の商品や飲料などの生活用品へ扱いを広げ、既存の流通との関係でタブーとされてきた値下げにも踏み切った。2001年初には顧客企業120万社、年商800億円の規模に育っていた。町の文具店と問屋の頭上を越えて顧客に届く売り方であり、コクヨが半世紀かけて築いた流通の前提を外から崩した。アスクルの2020年5月期の売上高は4,003億円で、コクヨの売上高を上回るまでになった。\n\n1997年には米国の安売りチェーンであるオフィス・デポとオフィス・マックスが日本で営業を始め、外資系の通販会社も文具を扱い始めた。米国の店は床面積1,000坪ほどで、日本の文具店の二十数坪とは比べものにならない。章裕氏はこれを黒船と受け止め、淘汰は進むと見た。当時2万3,500あった小売店は、何も手を打たなければ数千店まで減りうるが、支援の手立てをそろえれば1万数千店は残ると語った。差は1万店であり、あとは販売店の勇気次第だと見ていた。コクヨにとって販売店を残すことは、商品を取りそろえて売ってもらう自社の売り方を守ることでもあった。\n\n生産の側でも手を打ち、1996年12月にタイへ初の海外製造会社コクヨIK（タイランド）を設け、1997年3月にはマレーシアにオフィス家具の製造会社を作った。日本の技術でアジアに作り、米国市場で現地と同じ価格で納められれば勝負になると読んだ。国内の協力工場は400社から500社あったが、これからはアジアのどこかでコクヨより安く作らない限りやっていけないとして、章裕氏はここでは冷たくなると明言した。コクヨは協力工場のために働いているのではなく、ユーザーのために働いているというのがその理由である。","references":[{"title":"コクヨ 有価証券報告書【沿革】【経営方針、経営環境及び対処すべき課題等】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年5月19日号 編集長インタビュー 黒田章裕氏","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年3月3日号「通販参入で始まった聖域なき大手術 コクヨ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2019年12月7日号「ぺんてる争奪戦が過熱 コクヨを激怒させた密告書」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2020年8月8日号「文具業界を揺るがす動乱 コクヨvs.プラスの全真相」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2021年9月25日号「トップに直撃 コクヨ 社長 黒田英邦」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2022年11月26日号「ぺんてる争奪戦に白旗 コクヨは王座を守れるか」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"コクヨ 有価証券報告書【セグメント情報等】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"総括店の再編と、持株会社を経て事業会社へ戻るまで","text":"2000年10月、コクヨはオフィス用品の通販子会社カウネットを設立し、翌2001年1月に事業を始めた。アスクルに8年遅れての参入である。その8か月前の2000年5月、章裕氏は北海道での総括店との懇親会で、全国に59あった総括店を40に減らす地図を広げていた。ねぎらいの席で再編を切り出された参加者は言葉を失った。通販は総括店の頭越しに顧客へ届く仕組みであり、コクヨの強みだった流通支配力がそのまま弱みに変わりかねなかった。章裕氏は、アスクルが伸びるなかで最も変わりたかったのはコクヨで、最も変わりたくなかったのは総括店だったと振り返っている。8年遅れで始めたこの通販は、2025年12月期にはビジネスサプライ流通事業として売上1,083億円を上げている。\n\n三段階の流通は残すと宣言したうえで、中身を変えた。2000年12月には東京支社のメーカー営業機能を人ごと総括店の東京コクヨへ移し、地方では隣接する総括店を統合して広域の卸にする計画を示し、総括店が担ってきた物流はコクヨ主導の物流網へ移すことにした。総括店にとっては、売上の半分を占めるコクヨ製品の物流と在庫管理が手元から消えることを意味した。引き換えに他メーカー製品の取り扱いを解禁し、事業計画を提出させて達成できなければ総括店から外す条項を契約へ入れた。1985年に3万を超えていた販売店は1万9,000店に減っており、既得権に安住していた側も強くは出られなくなっていた。\n\n組織の形も変え、2004年10月に全事業を会社分割して持株会社制へ移り、2007年には決算期を12月へ改めた。2011年10月にはインドの文具・画材メーカーであるコクヨカムリンの株式の過半を取得し、同年11月に名古屋証券取引所の上場を廃止した。2015年3月、黒田英邦氏が社長に就いた。創業者である善太郎氏の曽孫にあたり、2001年にコクヨへ入ってファニチャー事業の法人営業と経営企画部長を務めていた。同年10月、コクヨはコクヨS&Tとコクヨファニチャーを吸収合併し、11年ぶりに事業を自ら営む会社へ戻った。","references":[{"title":"コクヨ 有価証券報告書【沿革】【経営方針、経営環境及び対処すべき課題等】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年5月19日号 編集長インタビュー 黒田章裕氏","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年3月3日号「通販参入で始まった聖域なき大手術 コクヨ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2019年12月7日号「ぺんてる争奪戦が過熱 コクヨを激怒させた密告書」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2020年8月8日号「文具業界を揺るがす動乱 コクヨvs.プラスの全真相」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2021年9月25日号「トップに直撃 コクヨ 社長 黒田英邦」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2022年11月26日号「ぺんてる争奪戦に白旗 コクヨは王座を守れるか」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"コクヨ 有価証券報告書【セグメント情報等】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"ぺんてる争奪の3年と、オフィスへの傾斜","text":"2019年、文具業界の主導権をめぐる争いが表に出た。発端は2018年1月、ぺんてるの創業家が持っていた株式37%を投資ファンドのマーキュリアインベストメントが1株2,000円で取得したことである。プラスは複数のメーカーで分散して買い取る案を主導したが、2019年5月にコクヨがファンドの持分をすべて買い取って間接保有に回った。プラス主導で業界再編が進むのを阻みたかったからである。同年11月15日、コクヨはぺんてるの子会社化を発表した。ぺんてるはプラスをホワイトナイトとして迎え、両社の買い付け合戦になった。9月にはぺんてるの取締役会がコクヨによる直接保有を認め、コクヨは約38%を持つ筆頭株主になった。\n\n子会社化へ動いた直接のきっかけは、2019年10月に届いた差出人不明の封書だった。文書はぺんてるの内部資料で、コクヨの支配力を弱めるためにプラスが株式を取得する案が具体的に記されていた。買い付けの結果、プラスが30%を確保し、コクヨは過半数に届かなかった。2021年には持分に50億円の減損を計上しながら、英邦氏は売却は考えていないと述べていた。しかし2022年9月30日、保有していた45.6%すべてをプラスへ売り、ぺんてる商品を中国市場でコクヨの販路に乗せる提携と引き換えに、3年に及んだ争奪戦から降りた。プラスの保有比率は76.3%になった。\n\nぺんてるを逃したコクヨが傾いた先は家具だった。2021年2月に長期ビジョンCCC2030で2030年の売上高5,000億円を掲げ、2022年7月には香港のオフィス家具メーカーを94億円で買収した。東京の品川オフィスはTHE CAMPUSとして改装し、エントランスを公園のように開いた。2024年3月には指名委員会等設置会社へ移り、2025年には創業120周年に合わせてロゴを含む企業表示を刷新した。2025年12月期の売上高は3,599億円、営業利益は262億円である。うちファニチャー事業が売上1,706億円を占め、そのセグメント利益261億円は全社の営業利益に匹敵する。この261億円は4事業のセグメント利益の合計394億円の3分の2にあたる。","references":[{"title":"コクヨ 有価証券報告書【沿革】【経営方針、経営環境及び対処すべき課題等】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年5月19日号 編集長インタビュー 黒田章裕氏","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年3月3日号「通販参入で始まった聖域なき大手術 コクヨ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2019年12月7日号「ぺんてる争奪戦が過熱 コクヨを激怒させた密告書」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2020年8月8日号「文具業界を揺るがす動乱 コクヨvs.プラスの全真相」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2021年9月25日号「トップに直撃 コクヨ 社長 黒田英邦」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2022年11月26日号「ぺんてる争奪戦に白旗 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