コクヨ受注残240億円の全件白紙撤回と紙製品の3割減産、三事業部制への移行
殺到する注文は実需か、思惑買いか——7カ月分の受注残を自ら消した2カ月
- 概要
- 1974年、石油危機で膨らんだ紙製品・文房具の受注残240億円を、黒田暲之助社長が全件白紙に戻し、支店長が数え直した実需に合わせて受け直した判断。3月から操業短縮に入り、労働組合との事前協議を経て紙製品を3割減産した。
- 背景
- 注文は1973年9月から急増し、同年秋の石油危機で加速した。1974年1月末の紙製品・文房具の受注残は240億円で、月35億円ほどの生産能力に対して7カ月分にあたる。催促は最終消費者から社長の自宅にまで届いていた。
- 内容
- 1974年2月に全国の支店長を本社へ集め、得意先の注文をいったん全件取り消し、支店長が足で歩いて必要数量を数え直したうえで受け直した。受注残は3月に60億円、4月に10億円へ。約5,000種類の商品を低価格へ作り替え、1975年7月には4部制を解いて三事業部制へ移した。
- 含意
- 1975年9月期は売上高624億円で創業以来初の減収となったが、翌期は672億円へ戻った。増産を9月ごろまで続けた同業他社が返品と在庫を抱えた一方、コクヨは低成長に合う商品構成と組織へ先に移った。
読みを2カ月で数字に変えたもの
7カ月分の受注残は、売り手にとって最良の数字にみえる。黒田社長がそこで疑ったのは金額ではなく、ノートや帳簿の使われ方であった。年に一度12月に集中する需要を見てきた会社に、使用量が急に2倍、3倍になるという説明は通らない。全国の中小企業の帳票をほとんど一手に供給する立場が、注文の内訳を最も早く読み取れる場所を与えていた。同氏が先見の明ではなく市場シェアの効用として振り返っているのは、読みの出所を正確に述べたものとみることができる。
ただ、白紙撤回で守れたのは減収を1期にとどめる範囲までで、需要そのものではなかった。1975年9月期の減収は避けられず、5,000種類の作り替えには2年半を要し、本社の8割を入れ替えた1975年7月の機構改革は、直販部門の新設をめぐって既存の流通との摩擦も抱え込んだ。それでも2月に読み、2カ月で受注残を24分の1まで数え直せたのは、全国の支店長と総括店という、注文の中身を人が確かめられる販売網があったからだとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
帳票という商売が持っていた観測点
コクヨは1905年、黒田善太郎氏が大阪で和式帳簿の表紙店として創業し、1913年ごろから洋式帳簿の製造に移った。帳票は金銭出納帳から補助帳まで種類が多く、判型・ページ数・装丁の違いを数えれば何千種類に及ぶ。しかも需要は年に一度、12月に集中し、あとの11カ月はほとんど動かない。買うか買わないか分からない小口の相手に応じるため、同社は創業期から品種も在庫も厚く構えることを当然としてきた[1]。
1960年に社長へ就いた黒田暲之助氏は、この紙製品の販売網に鋼製家具を乗せ、1971年には大阪府柏原市に柏原工場を建てて家具の自家生産に入った。販売はコクヨ商品だけを扱う総括店が全国を覆い、その先の小売店までひとつながりであった。中小企業が使うレディメイドの帳票は同社がほとんど一手に供給しており、この位置は、注文の動きを誰よりも早く広く観測できる場所でもあった[2][3]。
7カ月分の受注残
注文が増え始めたのは1973年9月であった。同年秋の石油危機で紙の不足が伝えられると、注文は一段と加速して殺到した。倉庫のほこりでもいいから売ってほしいと言われ、最終消費者から電話や電報が届き、催促は黒田社長の自宅にまで及んだ。製紙会社や商社の幹部が売り惜しみを国会で叱責される時期であり、供給の責任を感じないわけにはいかない状況であった[4][5]。
1974年1月末に注文残を集計すると、紙製品・文房具だけで240億円あった。この分野の生産能力は月35億円ほどで、7カ月分の受注を抱えた計算になる。売り手として、これほど恵まれた数字はない。ただし黒田氏自身の『私の履歴書』は同じ受注残を250億円と記しており、金額は資料により一致しない。本稿は同時代に語られた1977年の講演録の240億円を採る[6][7]。
決断
注文を全件白紙に戻す
黒田社長は、周りが熱に浮かされているときにかえって冷静になる癖があると自らを評している。240億円を前に同氏が疑ったのは、これが全部実需なのか、思惑買いが混じっているのではないか、という一点であった。過去の売上推移に照らせば、ノートや帳簿が急に2倍、3倍も使われるはずはない。同氏は後年、この見極めを自分の先見の明ではなく、コクヨが高い市場シェアを持っていたことによると説明している[8]。
1974年2月、黒田社長は全国の支店長を本社へ集めた。総括店からは強い催促が続いていたが、得意先の注文をいったん全件白紙に戻し、支店長が足で歩いて本当に必要な数量を数え直したうえで、改めて受け直すことにした。増産で埋めれば当面の売上になるはずの240億円を、実需を確かめるためにいったん帳簿から消す指示であり、決めたのは受注が最も厚みを増した月であった[9][10]。
在庫の山と3割減産
数え直した注文は、3月に60億円、4月には10億円へ落ちた。2カ月で24分の1である。実需の水準は月35億円の生産能力に遠く及ばず、受注残が消えた分だけ在庫が積み上がった。同社は3月から操業短縮に入った。同業他社が9月ごろまで増産態勢を続けたのに対し、2月に気付いて3月に生産を絞ったことを、黒田社長は業績が早く戻った遠因のひとつに挙げている[11]。
減産は労使の合意を先に取ってから実行した。副社長であった弟の黒田靖之助氏と相談し、格好は悪くとも早いほうがよいと決めたうえで、労働組合との事前協議を重ねて了解を得た。『私の履歴書』は紙製品の3割減産を4月からと記し、講演録は操短の開始を3月と語っており、開始時期の記述は1カ月ずれる。1974年11月には工場社員59名が総括店へ応援出向し、余った人手は販売の側へ回った[12]。
結果
1期だけの減収と、5,000種類の作り替え
代償は売上高に出た。1975年9月期の売上高は624億円で、創業以来初めての減収となる。『私の履歴書』は同期を625億円、前期の1974年9月期を665億円と記しており、1年で40億円ほど減った計算になる。ただし翌1976年9月期は672億円へ戻り、減収は1期で終わった。日経ビジネスは1981年に、第1次石油ショック後の1975年9月期を除けば20年間増収増益が続いたと書いている[13][14][15]。
減産と並んで進めたのが、商品そのものの作り替えであった。減速経済では企業も家庭もできるだけ安いものを求めると読み、約5,000種類の商品から過剰品質と見た部分を取り除いた。デスクは2年半ほどかけて1万3,000円から7,500円へ、折りたたみ椅子は1,800円から1,100円へ下げ、5,000円の品を2,500円にしたものもある。売上が3割減っても十分な収益をあげられる体質にする、というのが社内に掲げた目標であった[16]。
1975年7月の三事業部制
1975年7月、黒田社長は社内の機構を組み替えた。戦後一貫して続けてきた資材・製造・営業・商品企画の4部制を解き、紙製品と文具を第一事業部、鋼製品を第二事業部とし、大口ユーザーへ直接売る特販事業部を新たに置いた。鋼製品の売上が伸びるなかで紙と同じ枠のまま扱っていては動きが取れず、一方で直販部隊の新設は既存の流通と競合しかねないため、相当な抵抗も受けた[17][18]。
人事は一新した。各部門を担ってきた専務・常務からは全員が辞表を出し、そのうえで配置し直した。本社勤務の約500人のうち約400人を入れ替えても、退職者はほとんど出なかった。効果が表に出たのは1976年の後半からで、同年10〜12月の売上高は前年同期の148億円に対し208億円へ4割増えた。この三事業部制は1977年に六事業部制へ分かれ、金属系の消耗品を集めた文具事業部が独立した[19][20][21]。
- 証券アナリストジャーナル 1977年3月号「企業 コクヨ 消費者の"求め"を指針に」(黒田暲之助・日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
- 証券アナリストジャーナル 1980年3月号「企業 コクヨ 時代を先取りして業容を積極拡大」(黒田暲之助 講演要旨)
- 黒田暲之助『私の履歴書』(日本経済新聞社, 1986年)
- 日経ビジネス 1981年11月30日号「ケーススタディ コクヨ/紙→スチール→OA "オフィスはおまかせ"」
- コクヨ 有価証券報告書【沿革】