減量から増産への転換と生産調整の「運動神経」
オイルショック後の不況で、東洋ベアリングはなぜ同業に先んじて立ち直れたか
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- 概要
- オイルショック後の長期不況で3年連続の経常赤字に沈んでいたエヌ・テー・エヌ東洋ベアリングが、同業に先んじた減量作戦と増産への機敏な転換、成長商品の等速ボールジョイントの育成によって、1979年3月期にV字回復を果たした経営判断。
- 背景
- 軸受の大手4社が生産の8割超を占める業界で、オイルショック後の景気停滞が続いた。東洋ベアリングは1976年3月期以降3年連続の経常赤字に陥り、生産調整の巧拙が各社の明暗を分ける状況にあった。
- 内容
- 不況初期に操業を落として固定費を抑え、従業員をピークから1000人減らして金利負担も軽くした。減産から増産への転換を機敏に読み、FF車向けの等速ボールジョイントを成長商品として先手で増産した。
- 含意
- 早期の減量と成長商品の先取りという「運動神経」の良さが回復を支えた。それを可能にした大津体制の強い指導力は、独立採算の小群管理のつまずきや人材育成という歪みも残し、退任後の反ワンマン改革を招いた。
機敏さと、それを支える体制の両義性
この経営判断の核心は、不況という同じ外部環境のもとで、生産調整のタイミングをいかに読むかという一点にあった。東洋ベアリングは、在庫を積んで粘るのでなく早期に減量し、回復の兆しをとらえて増産へ転じ、加えてFF車という次の需要を等速ボールジョイントで先取りした。この機敏な「運動神経」が、同業の光洋精工が赤字転落から再建を他社に委ねたのと対照的な回復を生んだとみることができる。危機のさなかで動く速さそのものが、競争の勝敗を分けた。
もっとも、その速さを支えたのは、一人の経営者に権限が集まったワンマン体制であった。強い指導力は、成長商品の技術導入や減量の即断を可能にした反面、独立採算の小群を束ねる仕組みの欠落や人材育成の停滞という歪みも残した。回復の立役者である体制が、同時に是正すべき対象にもなるという両義性は、危機を素早く乗り切る力と、平時に組織を持続させる力とが別物であることを示している。等速ボールジョイントに始まる駆動部品は、その後NTNの軸受と並ぶ2本柱へと育っていく。速さと持続をどう両立させるか——1979年の東洋ベアリングの回復は、その問いを残したといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
軸受業界の寡占と3年連続の赤字
軸受はあらゆる回転機構を支える基礎部品であり、その市場は寡占の色が濃かった。日本精工、エヌ・テー・エヌ東洋ベアリング、光洋精工、不二越の大手4社が、国内の軸受生産高に占めるシェアの80%超を握っていた。抜きん出た存在のこの4社にとって、1973年の第一次石油危機以降の長期の景気停滞は、収益を大きく揺さぶる試練であった。とりわけエヌ・テー・エヌ東洋ベアリングは、1976年3月期以降3年連続の経常赤字に沈み、1978年3月期は売上高1049億円に対して経常損益が21億円の赤字であった[1]。
明暗を分けたのは、生産調整に対する考え方の違いであった。同じ不況下でも、東洋ベアリングが1979年3月期に売上高1181億円・経常利益7億円で立ち直った一方、ライバルの光洋精工は同期に経常損益で68億円の大幅赤字を記録し、ついにトヨタ自動車工業に経営再建を委ねた。同じ業界の似た規模の2社が、正反対の業績を示した背景には、オイルショック後の景気停滞のなかでとった生産調整の判断の差があった[2]。
決断
減量作戦の先手
東洋ベアリングは、不況に直面するや早い時期に減量へ動いた。須磨吉仲専務は、不況にとりうる道は二つあると説明した。一つは生産を落として操業率を下げる道で、これは固定費の上昇を招く。もう一つは生産を落とさず在庫を増やす道で、これも在庫金融が必要になり経費が上がる。須磨専務は「在庫を増やして粘ったあげく、ついに生産調整に踏み切ると、そのダメージは最初から生産調整をした時の何倍という形になって出てくる」と述べた。東洋ベアリングは前者を早期に選び、金利軽減と人減らしに先手を打った[3]。
減量は、人員の面に端的に表れた。従業員数はピークの1972年3月末の4191人から、1979年3月末には3191人へと1000人圧縮された。1977年3月期からは借入金の返済に転じ、長期借入金を短期に切り替えるなどして金利負担の軽減に努めた。これに対し光洋精工は、在庫を増やして粘った結果、1978年3月末に6574人という従業員数のピークを記録し、減量どころか過剰人員を抱え込んで、1978年10月に1400人の人員整理を実施する後手に回った。生産調整に入るタイミングと増産へ移るタイミングの「読み」の差が、両社の明暗を分けた[4]。
増産への転換と成長商品の先取り
減量に続いて、東洋ベアリングは増産への転換を機敏に読んだ。生産高の推移をたどると、1975年に減産、1976年に減産、1977年に増産、1978年に増産と、日本精工と同じトレンドを描いた。これに対し光洋精工は、1975年減産・1976年増産・1977年増産・1978年減産と、転換のタイミングがずれた。復活をさらに強く印象づけたのが、非ベアリング部門の活況、なかでも等速ボールジョイントの大増産であった。等速ボールジョイントは駆動軸と被駆動軸を結ぶ結合部品で、1963年に英国のGKNバーフィールド社から技術を導入して国内特許の実施権を押さえていた[5]。
等速ボールジョイントは、前輪駆動車の重要部品であった。国産車メーカーが争ってFF車を発表するブームのなかで「作っても作っても間に合わない」ほどの需要が続いた。同社の磐田製作所は、製造能力を1979年9月に月間30万本から40万本へ増強したばかりで、さらに1980年6月までに月間50万本体制へ持っていくための増設工事に着手した。等速ボールジョイントの売り上げは1979年度上期で110億円弱に達し、全体の売上高に占める比率は約16%であった。単価の低い軸受の価格競争を、付加価値の高い成長商品で補う収益構造が、この時期に姿を現していた[6]。
結果
V字回復と反ワンマン革命
早期の減量と成長商品の先取りが、業績のV字回復を生んだ。1979年3月期に3年連続の赤字から立ち直った東洋ベアリングは、翌1980年3月期には売上高1490億円・経常利益84億円へと急回復した。回復の要因は、日本精工と並んで早い時期に減量作戦をとれたこと、次の時代を見越した成長商品を業界他社に先がけて手がけたことの2点に集約された。同時代のビジネス誌は、この2点に共通する要素を、企業体としての「運動神経」の良さと表現した[7]。
もっとも、この機敏さを支えた経営体制は、影も落としていた。減量と成長商品の判断は、1964年から20年にわたりトップを務めた大津孝太郎前社長の強い指導力の産物であった。だが、そのワンマン体制のもとで進めた小群管理システム——各事業部を細分化して別会社の独立採算とし、親会社が調整する仕組み——は、90社に上る小群を束ねる管理体制を欠いてつまずき、1982年から1983年にかけて統合を余儀なくされた。大津氏の退任後、日本銀行出身の吉澤洸社長は、社員の士気向上を最重点に掲げ、資格制度の導入や配置転換への合議の導入、人事委員会の創設など、組織・人事制度にメスを入れる「反ワンマン革命」を進めた[8]。
- 日経ビジネス 1979年10月8日号「エヌ・テー・エヌ東洋ベアリングスタディ 減量→増産、際立つ“運動神経”のよさ」(日経マグロウヒル社)
- エヌ・テー・エヌ東洋ベアリング 会社年鑑