郊外ロードサイド店への転換(1975年・靴のマルトミの決断)

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論点 都心から郊外へ店舗網を転換するか
靴のマルトミ:業績の推移
売上高(億円)当期純利益率(%)
都心の不振店60店の閉鎖と、駐車場付き郊外店80店への振り替え

何をなぜ決めたか:都心の不振店60店の閉鎖と、駐車場付き郊外店80店への振り替え

概要

1975年、店舗数が100店に達した靴のマルトミが、売上が下降線をたどる6割の店を1980年までの5年間で閉じ、郊外への出店に主力を切り替えて80店を新たに出した経営判断。1980年に整理を終えたとき、店舗数は120店になっていた。

背景

1957年3月に名古屋の地下街へ支店の第1号を出し、昭和40年代にはスーパーマーケットなど各地の大型店と組んで全国へ店を広げた。SCや大型店の進出先は都心で、マルトミもその中に店を構えていた。

富永光行社長は転機を 『気がついたら、居住空間は郊外に移っていたわけです』 と明かしている。都心の商店街が寂れていく現象も重なった。

内容

1979年に郊外型靴店の実験店を開き、1号店は岐阜に置いた。市価より1〜2割安いディスカウント方式で実用品に絞り、300坪の土地に売場100坪と駐車場200坪を併設した店を借りて構える。出店投資は保証金約1,000万円と什器・造作など約350万円の計1,350万円程度で、1店の年間売上高は1億円前後だった。

この方式を「靴流通センター」と名付け、3年の実験ののち1982年と1983年に各40店、1984年に160店、1985年に207店を出した。

含意

都心のファッションビルで20坪を借りれば造作を含めて6,000万円かかり、採算が合わない。郊外へ移ったことで、同じ靴を数分の1の投資で売れるようになった。売上高は1984年度の270億円から1985年度に421億円へ伸び、1986年中に750店へ達する見込みとなった。

一方で1994年には、10年前に無かった国道のバイパスで車の流れが変わり、閉鎖する店の中にロードサイド店も多く含まれた。

いつ何が起きたか 6件
考察:立地の値段を選び直した転換
考察

考察:立地の値段を選び直した転換

この決断の核心は、売れなくなった店を閉じたことよりも、店を構える費用の桁を組み替えた点にあると推察される。都心で20坪を借りれば6,000万円かかるところ、郊外では駐車場付きの店を1,350万円程度で出せた。人口の移動という店側からは制御できない変化を、出店の単価を下げる好機へ置き換えたことで、ディスカウントの価格でも採算の合う型ができた。閉店を縮小ではなく資源の振り替えとして扱ったところに、後年の大量閉店との性格の違いがうかがえる。

もっとも、新しい立地には新しい前提がついてきた。郊外の店が客を集められるかは、道路と車の流れという、やはり自社の外にある条件に左右される。1994年の閉鎖にロードサイド店が多く含まれたのは、バイパスの開通で流れが変わったためであった。都心の衰退から逃れて得た立地も、別の外部条件に依存していたことになる。立地を選ぶという判断がどこまで自社の力で、どこから環境の産物だったのか——その線引きは、急成長のさなかには見えにくかったのだろう。

Yutaka Sugiura, 2026年7月
参考文献

参考文献

参考
  • ショッピングセンター 1986年8月号「トップは語る 新時代を創る専門店(22) "立地革命"で急成長を遂げた『靴のマルトミ』」
  • 日経ビジネス 1989年6月5日号
  • 中部財界 1982年6月号「話題の企業――靴販売チェーンの『靴のマルトミ』」
  • 日経ビジネス 1994年3月14日号

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