靴のマルトミ都心100店のうち60店を閉じ、駐車場付きの郊外ロードサイド店へ切り替えた判断
地下街と商店街に残るか、国道沿いへ出るか——名古屋の人の流れが変わるなかで冨永光行社長が選んだ立地
- 概要
- 1975年、名古屋市内の商店街と地下街に100店を構えていた靴のマルトミが、都心の60店を5年かけて閉じ、駐車場を備えた郊外ロードサイドへ80店を出す立地転換に踏み切った経営判断。
- 背景
- 1970年代後半、都心部からの人口流出で既存店の売上が低迷した。路面電車の廃止で繁華街の通行量が細る一方、自家用車で動く郊外の商圏が広がりつつあった。
- 内容
- 都心店を残したまま郊外へ足すのではなく、100店のうち60店を閉じて郊外へ振り替えた。1979年には岐阜に「靴流通センター」1号店を出し、地名を冠した小型・駐車場付きの店舗形式を定めた。
- 含意
- 大型店の出店を抑える大店法の下で、規制対象にならない小型店を郊外に並べる型を先に押さえた。総店舗数は1984年2月期の204店から1987年2月期の775店へ増えた一方、同じ規制環境への依存も深まった。
立地を選び直した会社が、次に受け取ったもの
この決断の核心は、売れなくなった店を閉じたことよりも、稼いでいる本拠地を先に手放した点にあるとみることができる。1975年当時の60店は不良資産の山ではなく、名古屋一と呼ばれた店舗網そのものであった。人口の移動と自家用車の普及という、店側からは制御できない変化を読み、まだ体力のあるうちに立地の前提を書き換えた判断であったとみられる。閉店を縮小ではなく資源の振り替えとして扱ったところに、後年の大量閉店との性格の違いがうかがえる。
もっとも、新しい立地には新しい前提がついてきた。郊外の小型店が安定して客を集められたのは、大店法が大型店の出店を抑えていたためでもある。マルトミが手にしたのは自由な競争の場ではなく、別の制度に守られた場所であった。1990年代に規制の運用が緩み、郊外に総合的な商業施設が現れたとき、この選択は改めて問い直される。立地を選ぶという判断が、どこまで自社の力で、どこから制度の産物だったのか——その線引きは、当時の成功のなかでは見えにくかったとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
1000円の既製靴と、名古屋の都心店網
靴のマルトミの出発点は、1950年11月に冨永光行氏が名古屋の闇市で靴を売り始めたところにある。当時の革靴は職人が客の足を測って仕立てる注文品で、大卒の初任給が3000円ほどの時代に1足3000円した。冨永氏は靴工場を回り、流れ作業で作ればもっと安くできると持ちかけ、1足600円で作らせた靴を1000円で売った。注文靴の相場からみて極端な安値で、靴を特別な買い物から日常の消耗品へ置き換える売り方であった[1]。
名古屋一の靴屋になると決めた冨永氏は、1957年に開いたばかりの名古屋駅地下街へ第1号店を構え、栄などの繁華街と合わせて4店を出した。同じ年に合資会社靴のマルトミを設立している。1965年には4店舗で従業員の不正が見つかり、掛け売りを禁じて現金取引に徹する原則をここで定めた。1973年2月に株式会社へ改組したころ、商店街と地下街を中心とする店舗網は100店に達していた[2][3]。
都心から人が出ていった1970年代後半
店舗網が100店に届いたころ、名古屋の都心では客足の前提が崩れ始めていた。冨永氏が1970年代後半に直面したのは、街の中心部からの人口流出に伴う売上の低迷であった。都心部では路面電車の廃止が繁華街の通行量を細らせ、地下街や商店街の店は駅と職場を往復する人の動線に依存する度合いを強めた。一等地の家賃を払いながら来店客の総量が減る立地に、100店の大半が置かれていた[4][5]。
入れ替わりに伸びたのが、自家用車で動く郊外の商圏であった。国道沿いには広い駐車場を備えた店が並び、買い物は歩いて回るものから車で乗りつけるものへ変わった。靴は一足を選ぶのに試し履きの時間がかかり、家族連れが車で来て並んだ商品を見比べる売場との相性は悪くない。都心の一等地に家賃を払い続けるか、地価の安い郊外で売場と駐車場を確保するか。マルトミの選択肢はこの二つに絞られていた[6]。
決断
100店のうち60店を閉じる
1975年、冨永氏は100店に届いた店舗網のうち60店を閉じると決めた。閉店は一度きりではなく、以後5年をかけて都心の60店を順に整理し、その間に郊外へ80店を出した。既存店を保ったまま郊外へ足すのではなく、都心で回収した資金と人員を郊外へ振り替える方法をとっている。売上の落ちた店を抱えたまま新規出店の資金を工面する道を選ばなかった点に、この判断の性格が表れている[7]。
短期間に60店を閉じて80店を出す入れ替えを支えたのは、創業期に定めた現金取引の原則であった。1965年の不正発覚を機に掛け売りを禁じて以来、マルトミは売掛金を持たない商売を続けていた。日々の売上が現金で入る一方、閉店した店の敷金と什器は回収に回せる。仕入先への支払いと新店の投資を同じ資金の流れで賄える体質が、都心と郊外の同時進行を成り立たせた[8]。
「靴流通センター」という郊外店の型
郊外へ移した店舗が一つの形式に固まったのは1979年であった。この年、岐阜に「靴流通センター」の1号店を出している。出店地の地名を冠した店名を掲げ、幹線道路沿いに広い駐車場と平屋の売場を置く。以後の出店はこの型を反復する作業となり、1980年前後から名古屋圏を越えて全国へ広がった。単店の投資額を抑えた設計は、出店の速度をそのまま店舗数の伸びに変えた[9][10]。
出店の設計思想は商圏人口に置かれた。マルトミは人口10万人を「靴流通センター」1店の商圏とみなし、日本の人口から逆算した店舗数を出店余地の上限としていた。加えて、1974年に施行された大規模小売店舗法は大型店の出店を抑えており、規制の対象にならない小型店には郊外に出る余地が残されていた。マルトミが選んだ小型・多店舗の型は、この規制環境と正面から噛み合っていた[11][12]。
結果
店舗数と利益の伸び、そして分散した市場
郊外への切り替えは店舗数の伸びに表れた。総店舗数は1984年2月期の204店から1985年2月期344店、1986年2月期534店と増え、1987年2月期には775店に達した。経常利益も1984年2月期の2億6600万円から1989年2月期の24億4800万円へ伸びている。1983年10月には全店舗にオンラインシステムを入れ、在庫と販売の数字を本部で束ねる仕組みを整えた[13][14]。
規模の面では1986年に靴販売金額の国内シェア首位に立った。ただしその値は4.47%で、2位のチヨダの4.25%とわずかな差にとどまる。靴の小売は首位でも二十分の一しか取れない分散した市場であった。1989年2月期の売上高は767億3400万円、従業員は1294人。売場を増やせば売上が伸びる構造の裏で、同じ型を模倣する競合が現れたとき何が残るのかという問いは、この時点では前面に出ていなかった[15][16]。
- 日経ビジネス 1989年6月5日号「独立採算制で店長に喝!」
- 日経ビジネス 1994年3月14日号「後手後手の不採算店整理 180店閉鎖へ今は忍耐」
- 靴のマルトミ 有価証券報告書【沿革】