松下幸之助氏による松下電気器具製作所の創業と、売れない改良ソケットを抱えた出発
学歴も資本もない一職工は、容れられなかったソケットの案になぜ七年の勤めを捨てたか
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- 概要
- 1917年6月、大阪電灯の検査員であった松下幸之助氏が、社内で容れられなかった改良ソケットを自らつくるために七年勤めた会社を辞め、翌1918年3月、大阪市大開町の借家に松下電気器具製作所を創立した経営判断。妻むめの氏と義弟の井植歳男氏を含む数人の家内工業として、配線器具の製造を始めた。
- 背景
- 松下幸之助氏は9歳で丁稚奉公に出て火鉢店と自転車店を経たのち、電車の普及で自転車の需要が減ると読んで電気事業へ転じた。大阪電灯では三カ月で担当者へ昇格し、24歳で検査員に就いたものの、実働二、三時間で済む職に物足りなさを覚えていた。試作した新しいソケットを見せた主任の答えは「だめだよこれは」であった。
- 内容
- 手元の資金は退職金33円20銭を含めて百円足らずで、借家の二畳と四畳半の半分を土間にして作業場とした。1917年10月に完成したソケットは四カ月で売上10円にとどまり、参加者は離れ、着物は質屋に入った。扇風機の碍盤1,000枚の注文で初めて80円ほどの利益を得て、翌年大開町へ移った。
- 含意
- 大開町ではアタッチメントプラグを市価の三割安で当て、二灯用差込みプラグが続いた。1923年の砲弾型電池式ランプは問屋がどこも扱わず、松下幸之助氏は外交員を雇って小売店の店頭に置き、一個をその場で点灯させて回る実演で販路を自ら作った。氏はこれを「松下電器の運命をかけた販売」と呼んでいた。
拒まれた者が、自分で市場をこしらえる
この創業を貫いているのは、拒まれた側がそのまま引き下がらなかったという一点にみえる。ソケットの案は主任に「だめだよこれは」と退けられ、製品にしてからは電気屋に、のちにランプは問屋に断られた。学歴も資本も後ろ盾も持たない職工に残されていたのは、拒んだ相手を説き伏せるか、拒まれない道を自分でこしらえるかの二つであった。松下幸之助氏が選んだのは後者で、会社が採らないなら自分で作り、問屋が扱わないなら外交員を雇って小売店の店頭で点けて回った。四カ月で10円という売上を前にしてなお続けられたのは、扇風機の碍盤という下請けの注文が細々と資金をつないだためで、志だけが事業を支えたわけではないところに、この時期の生々しさがうかがえる。
後年の「水道哲学」から遡って読むと、創業の動機まで使命感で塗られやすい。だが1917年から1923年の記録に残るのは、退職金33円20銭の元手、質屋に入った着物、市価の三割安という値付け、店頭で灯り続けるランプといった、きわめて具体的な手であった。理念が先にあって事業が生まれたというより、拒まれるたびに考えた手の積み重ねが、のちに理念として言葉を得たとみることができる。売れない製品を抱えた時間の長さと、その間に何で食いつないだかを見ておくことは、創業者の物語を神話として読まないための、ささやかな足場になるであろう。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
丁稚奉公から電気の道へ
松下幸之助氏は9歳で大阪へ丁稚奉公に出され、火鉢店の小僧を振り出しに、船場の自転車店で六年を過ごした。奉公が十七歳に及んだころ、氏は自らの進む道を思案している。大阪市が全市に電車を走らせる計画を進め、一部の線はすでに開通していた。電車が通れば自転車の需要はいずれ減り、逆に電気事業は伸びる——氏はそう読んで転業を決め、義兄に電灯会社への口利きを頼んだ。世話になった店の主人には切り出せぬまま、店を飛び出す形の転身であった[1]。
電灯会社には欠員がなく、松下幸之助氏は義兄の勤めるセメント会社の運搬人夫として三カ月あまりを過ごした。体のできていない少年が荒くれ男に混じってトロッコを押す日々を経て、大阪電灯幸町営業所の内線係にようやく空きが出る。最初の仕事は屋内配線工事担当者の助手で、材料を積んだ手車を引いて一日五、六軒を回った。人夫仕事を知る氏には重い車も苦にならず、三カ月で担当者へ昇格している。会社が拡張期にあったとはいえ、異例の早さであった[2]。
容れられなかったソケットと、七年の勤めを捨てる決断
松下幸之助氏は担当者として通天閣の電灯工事や芦辺劇場の配線などを手がけ、二十四歳の春には検査員へ昇格した。検査員は工事人仲間にとって一つの出世目標で、担当者の仕事を翌日点検して不備を直させるだけの役である。日に十五軒から二十軒を回っても二、三時間で終わる楽な職であったが、氏はかえって仕事に熱が入らず、物足りない気分を持てあました。学歴の面では二十歳から通った夜学を口頭筆記についていけずに中途で断念しており、氏が持っていたのは現場で覚えた配線の腕だけであった[3][4]。
検査員になる少し前から、松下幸之助氏は新しいソケットの研究に取り組んでいた。一度は形になったものを会社の主任に見せたところ、返ってきたのは「だめだよこれは」の一言である。氏はかえってソケットをものにしたいという気を強め、七年間の努力を惜しみながらも辞表を出した。主任の慰留も聞かなかった。1917年6月、勤め先で採用されなかった一個の案を自分の手で製品にするために、二十二歳の職工は安定した職を離れた[5][6]。
決断
百円足らずの元手と、四カ月で10円の売上
独立を決めたものの、松下幸之助氏の手元にあったのは退職金33円20銭、会社の積立金42円、貯金20円ばかりの、合わせて百円足らずであった。人手も足りず、氏は元同僚の林氏に加わってもらい、郷里の小学校を出たばかりの妻の弟・井植歳男氏を呼び寄せた。資金は林氏の友人が貯めた200円のうち100円を借りて工面している。工場は住んでいた平屋の二畳と四畳半の半分を土間にあてたもので、まともに寝る場所も残らなかった[7]。
難関はソケットの絶縁体に使うネリモノの調合法であった。松下幸之助氏は、電灯会社にいた知人がネリモノ工場で製法を見習っていると聞きつけて会いに行き、ようやくその要領をつかむ。1917年10月に少数のソケットが仕上がったが、今度は売り先が分からない。行き当たりばったりに電気屋へかけ合っても「こんな新しいソケットは売れるかどうか分らないから注文できない」と断られた。十日ほど大阪市内を駆け回って売れたのは百個ほど、売上は10円足らずである。四カ月かけて10円の商いにしかならなかった[8]。
碍盤の注文がつないだ事業と、大開町への移転
各方面の評価は「まずダメ」で一致し、改良の研究をこの先も続けるとなれば、参加した者が不安を抱くのも道理であった。「一応見切りをつけて、各自がまず自活の道を求めよう」との声が出て、松下幸之助氏は人に犠牲を強いるわけにいかないとしてこれを容れる。残ったのは氏と井植歳男氏の二人だけであった。この間は氏も妻むめの氏も着物を全部質屋に入れる有様で、独立の判断はここで潰えてもおかしくないところまで来ていた[9]。
そこへ、ある電気商会から扇風機の碍盤1,000枚という思いがけない注文が入った。扇風機メーカーが従来の陶器碍盤をネリモノに替えて試そうという話で、結果がよければ二万、三万の扇風機すべてに応用するという言葉が添えられていた。設備は型押しのポンスとネリモノを煮るナベだけである。松下幸之助氏は井植歳男氏と二人で年の瀬までに1,000枚を仕上げ、差引80円ほどの初めての利益を得た。碍盤の注文はその後も続いて事業を細々とつなぎ、氏は1918年、本格的に電気器具を工夫・製作すべく大開町に月16円50銭の家を借りて移り、3月7日に松下電気器具製作所を創立した[10][11]。
結果
三割安のアタチンが開いた道
大開町の家で松下幸之助氏が最初に手がけたのは、アタッチメントプラグ——通称「アタチン」であった。氏の工夫は古電球の口金を応用する点にあり、値段は市価の三割安、しかも型はモダンときたから、これが当たった。夜なべをしても注文に応じ切れず、氏は初めて四、五人を雇い入れている。売れないソケットに四カ月を費やした工房が、同じ配線器具の土俵で、廃物利用による原価の引き下げという答えを見つけた形であった[12]。
続いて考案・発売した二灯用差込みプラグは、アタチンに増して好評を得た。大阪の吉田商店から一手販売の申し込みがあり、松下幸之助氏は3,000円の保証金で契約してこの金を工場の拡張にあてている。東京のメーカーの値下げで契約を取り消したこともあったが、他の問屋が引き継いで製品は東京へも届いた。実用新案をとった二灯用差込みプラグは月産5,000個に達し、従業員は1918年末に20人を超えた。1922年には手元資金4,500円で7,000円あまりの70坪の本店工場を建て、不況下での増設に踏み切っている[13][14]。
砲弾型ランプ——問屋が扱わない製品を、店頭で点けて売る
1922年、松下幸之助氏は自転車用ランプの製造・販売に取りかかった。当時の自転車の灯りはロウソク・ランプかアセチレンのガス・ランプで、不便なうえに高くつく。自転車店の小僧を六年務めた氏には土地勘があり、使用数を調べると相当な量にのぼった。電池ランプも無くはなかったが、二、三時間で消耗して実用に耐えない。氏は簡便な構造・無故障・電池の持続十時間以上を目標に半年をかけ、百個近い試作の末に砲弾型を仕上げた。電池を組み直すと三十時間から五十時間もち、1923年に発売している[15][16]。
ところが最大の難関は販売であった。取引のある問屋はどこを回っても答えが「ノー」で、東京へ持ち込んでも、取引のない自転車店を訪ねても相手にされない。六月に始めた製造はすでに2,000個の在庫を生み、木管屋と月2,000個の約束がある以上、生産を止めることもできなかった。そこで松下幸之助氏は「これは背水の陣をしくことだ」と腹を決め、小売店に無料で配る策に出る。外交員三人を雇い、資本の続く限り大阪中の小売店にランプを二、三個ずつ置いて回らせ、うち一個をその場で点火させた。売り口上は「三十時間以上もちます。品物に信用が置けるようになったら売って下さい。その後安心ができたら代金を払って下さい」であった。ひと月で四、五千個を預けるうちに評判が立ち、二、三カ月もすると小売店から電話や葉書で注文が届いた。氏はこれを松下電器の運命をかけた販売と振り返っている[17][18]。
- 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「松下電器産業」の項
- パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】