この創業を貫いているのは、拒まれた側がそのまま引き下がらなかったという一点にみえる。ソケットの案は主任に"だめだよこれは"と退けられ、製品にしてからは電気屋に、のちにランプは問屋に断られた。学歴も資本も後ろ盾も持たない職工に残されていたのは、拒んだ相手を説き伏せるか、拒まれない道を自分でこしらえるかの二つであった。松下幸之助氏が選んだのは後者で、会社が採らないなら自分で作り、問屋が扱わないなら外交員を雇って小売店の店頭で点けて回った。四カ月で10円という売上を前にしてなお続けられたのは、扇風機の碍盤という下請けの注文が細々と資金をつないだためで、志だけが事業を支えたわけではないところに、この時期の生々しさがうかがえる。
後年の"水道哲学"から遡って読むと、創業の動機まで使命感で塗られやすい。だが1917年から1923年の記録に残るのは、退職金33円20銭の元手、質屋に入った着物、市価の3割安という値付け、店頭で灯り続けるランプといった、きわめて具体的な手であった。理念が先にあって事業が生まれたというより、拒まれるたびに考えた手の積み重ねが、のちに理念として言葉を得たのだろう。売れない製品を抱えた時間の長さと、その間に何で食いつないだかを見ておくことは、創業者の物語を神話として読まないための、ささやかな足場になるであろう。