1912年9月、早川徳次氏は東京市本所松井町で金属加工の個人企業を興し[1]、バックルや万年筆の金具といった雑貨の下請けから出発した。1915年8月には芯を繰り出す金属鉛筆を発明し[2]、日本とアメリカで特許を取得している[3]。『エバーレディーシャープペンシル』と名づけられた[4]この製品によって、早川氏は下請け加工業者から自社製品を持つ文具メーカーへ移った。1919年には金具の耐久性に独自の工夫を加え、工場へ流れ作業を導入して[5]量産に踏み切っている。分解を要した舶来の片繰出式に対し、片手で扱えるこの繰出鉛筆は文具問屋や小売店から継続の発注を得た[6]。第一次世界大戦下の欧米向け輸出も伸び、1923年の関東大震災の直前には工場300坪・従業員およそ200名・月商5万円の規模に達している[7]。
1923年9月の関東大震災で東京の工場は焼失し[8]、早川氏は妻と二人の子を失った[9]。販売特約先である日本文具製造からは2万円の即時返済を求められ[10]、早川氏は焼け残った機械類の譲渡と、自身名義の繰出鉛筆の特許48種を無償で使わせる[11]ことで応じている。条件として売掛金の支払いと技術者の雇用、自身が半年間その技術長を務めることを付けたが、契約書は取り交わさない紳士協定であった[12]。この清算で手元に繰出鉛筆の製造権は残らず、被災した工員70名ほどを抱えた[13]まま復興の見通しは立たなかった。書面を残さなかったことは後年の差し押さえと2年10カ月の訴訟を招き、分割払いは1934年4月まで続いている[14]。
1924年9月、早川氏は現在の大阪市阿倍野区に早川金属工業研究所を設け、ラジオ受信機とその部品の製作を始めた[15]。前年末に大阪・心斎橋の石原時計店で7円50銭の輸入鉱石ラジオセットを買い求めて分解しており[16]、そこで得た理解が転身の下敷きになっている。ペンシルを作れないまま万年筆金具の外交販売から出直した[17]事業は、1925年に国内で初めて小型の鉱石ラジオセットの組み立てに成功して[18]向きを変えた。手放した文具の名から採った『シャープ』の銘を受信機に打ち[19]、同じ年の7月には月産1万組を超えてラジオ専門の工場へ移っている[20]。
1926年にはラジオの製造にも流れ作業を採り入れ、中国・東南アジア・南米へ部品の輸出[21]を始めた。1929年には交流式の真空管ラジオの製造に入り[22]、1931年には民間で初めてテレビジョンの研究に着手している[23]。1925年3月に始まった日本のラジオ放送から数年のうちに受信機を国産で量産し[24]、続いて次の表示技術であるテレビジョンへ手を伸ばす運びであった。1934年6月には大阪市東住吉区加美福井戸町に平野工場を建て[25]、田辺の借地235坪に工場住宅37坪を建てて始めた生産の場[26]を、本格的な工場へ広げている。
1935年5月、早川氏は資本金30万円をもって事業を株式会社組織に改め、株式会社早川金属工業研究所を設立[27]した。翌1936年6月には早川金属工業株式会社へ改称し[28]、研究所という当初の名乗りを外している。1942年5月にはさらに早川電機工業株式会社へ改め[29]、社名を事業の内容に合わせた[30]。戦時下では光学兵器や双眼鏡、磁気録音機といった軍需向けの生産への転換を強いられており、民生用のラジオを作り続けることはできなかった。金属加工から出発した会社が社名の上で電機メーカーを名乗るまでに、創業から30年が経っている[31]。
1949年5月、同社は大阪証券取引所へ株式を上場[32]した。1951年には国産テレビ受像機の第一号機の試作を終えている[33]。当時の大阪では松下電器産業と三洋電機が同じ時期に力を伸ばしており[34]、繊維の街とされてきた大阪が弱電の街へ変わろうとしていると評された[35]。ただし松下と三洋がいずれも弱電の総合メーカーであったのに対し、早川電機はテレビ専門メーカーに近い方向を採っている[36]。品種を絞る構えは戦後のテレビ需要期に働きを示すことになるが、同時に製品の幅と販売網の規模では二社に後れを取る出発[37]でもあった。
1952年6月、早川電機工業は米RCA社と技術提携を結び[38]、翌1953年1月にテレビ受信機の量産に入った[39]。1954年7月には大阪市阿倍野区に田辺工場を建て[40]、エンドレスコンベアの設備を入れて[41]受像機の量産を強めている。1956年3月には東京証券取引所へも株式を上場[42]した。同年4月に東京支店、8月に広島支店、翌1957年9月に名古屋支店、1958年に福岡支店[43]と販売の拠点を継いで置き、1957年12月には田辺工場の増築と第二の平野工場の建設[44]を併せて進めた。生産と販売の両輪を五年ほどで組み上げた[45]ことになる。
早川電機が業界随一の業績を上げた理由の第一は、『テレビブームを見越して早くからテレビの増産体制をとっていた』[引用元][46]ことにあった。松下と三洋がいずれも弱電の総合メーカーであるのに対し、同社はテレビ専門メーカー的な方向を採っている[47]。第二の理由は管球類を内製しなかった点[48]にある。松下・日立・東芝は管球類を全て自家生産しており、コストを下げるには自家消費を超える量を作って外へ売らねばならなかった[49]。買い手を必要とするその構造ゆえに、『管球類を自家生産しなかった早川電機に、一種の先見の明があった』[引用元][50]と評されている。金属プレスなどの機械加工と早川式の流れ作業[51]も、業界で早くから認められていた。
1959年7月、同社は大阪府八尾市に家庭電化製品の総合工場として八尾工場を新設し[52]、1960年1月には奈良県大和郡山市にテレビ・ラジオの部品工場である奈良工場を置いた[53]。1960年はカラーテレビの量産を始め、電子レンジと半導体製品の開発に着手し、本社事務にIBMの機械を入れた[54]年でもある。1961年3月には八尾工場内に冷蔵庫工場を新築し、11月には中央研究所を建てて[55]エレクトロニクス技術の開発に備えた。心電計や電気メスといった医用電子機器を発売し[56]、電子レンジの試作にも成功している。電子計算機と卓上式計算機の開発に着手したのも、この年[57]であった。
1962年5月にはアメリカにSharp Electronics Corporationを設立し[58]、対米輸出の拡大に備えた。同年3月には冷蔵庫工場と冷暖房機工場を増新築して電子レンジの量産に入り、奈良工場には電子計算機製造部を置いている[59]。1963年には太陽電池とシリコン光電変換素子の量産化に成功し、業界初の12型ポータブルテレビも発売した[60]。製品の幅は広がったものの、店頭で指名を得るには至っていない[61]。1964年の家電不況期にはメーカーを指名して買う客が増え[62]、『ご指定の少ないメーカー』[引用元]を少ない順に挙げると早川電機・八欧電機・三洋電機の順になる[63]と書かれた。
1960年、電機メーカーの間ではコンピュータの開発が最大の話題となり、大手各社が米国企業との提携交渉を進めていた[64]。ラジオとテレビでは最大手にも引けを取らずに来た早川電機は、この新しい時代への遅れを恐れていた[65]という。入社五年の浅田篤氏が若手と将来を論じ合っていたところ、その議論が上層部に伝わって計算機の研究グループが組まれ[66]、浅田氏がその中心となる。全員が計算機をほとんど知らなかったため、大阪大学の尾崎弘助教授のもとへ通って基礎から学び直した[67]。翌年には新卒を大量に投入し、大型コンピュータの開発へ本腰を入れよう[68]としている。
その見通しは甘く、日立・東芝・日本電気・富士通はすでに五年以上コンピュータの開発を続けており[69]、通産省はこれらをどう支援するかに取り組んでいた。経験のない新参者に対しては『早川が大型コンピュータをやるなど、それは無理でしょう』[引用元]と担当官が取り合わなかった[70]。自力で担うには技術が大き過ぎるため、同社は1962年に目標を変え、機械式計算機の電子化へ進む[71]。手回し計算機に代わるものとして卓上に載る大きさと50万円という価格の限度を決め[72]、そこから設計に入った。演算回路もメモリもトランジスタを一個ずつ組み上げねばならず、箱に詰め込めば発熱してファンが要り、そのファンがまた箱を大きくした[73]。
1964年、同社は世界で最初の電子式卓上計算機コンペットを開発し、本格的な量産に入った[74]。トランジスタなどの部品を4000個使い、重さは25キロ、価格は53万5000円[75]と目標を少し超えている。それでも手回し式に比べて音もなく速く計算できる機械は、国内でも海外でも評判となった[76]。1966年にはICを用いた電卓を開発し[77]、1967年の第一号機では部品数が6分の1に減って重量4キロ・価格23万円[78]まで下がっている。産業機器事業部長の佐々木正氏は消費電力の小さいMOS型の集積回路に目を付け、軍用中心だった米アメリカンロックウェル社に掛け合って電卓用の開発と供給の契約を取り付けた[79]。1969年のMOS・LSI電卓で部品数は100分の1以下となり、価格は10万円を切っている[80]。
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| 1912〜1949年金属文具から大阪のラジオメーカーへの転身 | シャープ創業——金属繰出鉛筆から関東大震災を経て大阪のラジオメーカーへ 1912年9月、金属加工の徒弟修業を積んだ19歳の早川徳次氏が東京市本所松井町で個人企業を開き、バックルや万年筆のキャップなど雑貨金具の下請け加工から出発した。1915年に金属繰出鉛筆を発明して自社製品を持つ文具メーカーへ転じ、1923年の関東大震災で工場・家族・特許を失った末、翌年大阪市阿倍野に早川金属工業研究所を設けてラジオ受信機の国産化へ進んだ。金属を扱う技術を軸に、文具から電機へ製品を乗り換えて再起した創業であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 機械とシャープペンシルの特許を手放しての債務清算と、大阪でのラジオ転身 1923年の関東大震災で東京・本所の工場と家族を失った早川徳次氏が、販売特約先である日本文具製造への2万円の債務を、焼け残った機械類と自身名義のシャープペンシル特許48種の引き渡しで清算し、一技術長として大阪へ下ったうえで、1924年9月1日に大阪の田辺で早川金属工業研究所を開いて再起した経営判断。手元に製造権の残らなかった繰出鉛筆に戻らず、翌1925年に鉱石ラジオ受信機へ転じた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 早川金属工業所を設立 | ★★★ | |||
| 早川徳次 | 化(早川金属工業研究所を設立) | ★ | ||
| 早川徳次 | 早川電機工業に商号変更 | ★ | ||
| 早川徳次 | 大阪証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 1950〜1969年テレビへの先行参入と、世界初の電子式卓上計算機 | 早川徳次 | RCAと業務提携・白黒テレビの生産開始 | ★★ | |
| 早川徳次 | 総合家電メーカーを志向 | ★★ | ||
| 早川徳次 | 太陽電池の試作に成功 | ★ | ||
| 早川徳次 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 早川徳次 | トランジスタラジオの生産開始 | ★ | ||
| 早川徳次 | Sharp Electronics Corporationを設立 | ★ | ||
| 早川徳次 | 地区販売会社の設立 | ★ | ||
| 早川徳次 | 電子機卓上計算機CS-10Aを開発 | ★★ | ||
| 早川徳次 | 広島工場を新設 | ★ | ||
| 早川徳次 | テレビ工場を新設 | ★ | ||
| 1970〜1997年万博を捨てた半導体投資と、液晶への転進 | 早川徳次 | 商号をシャープに変更 | ★ | |
| 早川徳次 | シャープ総合開発センターを新設(半導体の内製化) | ★ | ||
| 佐伯旭 | 電卓の価格競争から降り、半導体と液晶という独自デバイスに賭けた転進 1964年に世界初のオールトランジスタ電卓CS-10Aで電卓時代を開いた早川電機工業(現・シャープ)が、カシオ計算機らとの安売り競争のなかで価格の消耗戦から降り、半導体の内製化(1970年 天理・総合開発センター)と液晶(1973年 世界初の液晶電卓EL-805)という自前のデバイスへ技術を寄せた判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 佐伯旭 | 大型冷蔵庫工場を新設 | ★ | ||
| 佐伯旭 | 創業者の早川徳次氏が逝去 | ★ | ||
| 佐伯旭 | 葛城事業所を開設 | ★ | ||
| 佐伯旭 | 福山工場を新設 | ★ | ||
| 辻晴雄 | 液晶事業本部を発足 | ★ | ||
| 辻晴雄 | 奈良第8工場を新設(複写機生産) | ★ | ||
| 辻晴雄 | 天理工場を新設(液晶パネル) | ★ | ||
| 辻晴雄 | 三重工場を新設(液晶パネル) | ★ | ||
| 1998〜2026年液晶テレビへの一点集中と、大型パネルからの撤退 | 町田勝彦 | 町田勝彦氏が社長就任・液晶テレビ宣言 | ★★ | |
| 町田勝彦 | 液晶一貫生産「亀山モデル」への集中投資 1998年に社長へ就いた町田勝彦氏の液晶テレビ宣言を受け、シャープが2004年、三重県亀山市に液晶パネルからテレビ組み立てまでを一つの敷地で行う一貫生産工場を新設した経営判断。第一・第二工場に合わせて約4,000億円を投じ、『世界の亀山モデル』をブランドに薄型テレビAQUOSで国内首位に立った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 町田勝彦 | 亀山第2工場を新設(大型液晶パネル) | ★ | ||
| 片山幹雄 | 堺・世界初の第10世代液晶パネル工場への集中投資 2007年、シャープは液晶で国内首位を築いた亀山モデルの成功を受け、大阪府堺市に世界最大・世界初となる第10世代の液晶パネル工場を建てると決めた。片山幹雄社長のもと、パネルの外販まで前提に約4,300億円を投じた二段目の集中投資であり、工場は2009年10月に稼働する。だがリーマンショック後の需要減と韓国・台湾勢の追い上げで大型パネルは売れず、のちの経営危機の直接の引き金となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 片山幹雄 | 太陽電池工場を新設 | ★ | ||
| 奥田隆司 | 過去最大の最終赤字転落 | ★ | ||
| 髙橋興三 | 希望退職者の募集 | ★ | ||
| 髙橋興三 | シャープ再建をめぐる産業革新機構の提案と鴻海による買収(2016年・官民ファンド案は破談) 2016年、経営危機のシャープをめぐり官民ファンドの産業革新機構と台湾・鴻海精密工業が支援を競い、2月25日にシャープ取締役会が鴻海案を選択。革新機構の再建案は退けられ、シャープは大手電機で初めて外資の傘下に入った案件。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 戴正呉 | 鴻海傘下での再建——戴正呉氏によるコスト構造と意思決定の作り直し 2016年、経営危機のシャープが台湾・鴻海精密工業の傘下に入り、送り込まれた戴正呉氏が社長兼CEOに就いた。戴氏は社長決裁の基準額を1億円から300万円へ下げ、稟議のハンコを3つに絞り、信賞必罰の人事を敷いた。徹底したコスト削減と意思決定の高速化により、2018年3月期に4年ぶりの最終黒字(親会社株主に帰属する当期純利益702億円)を実現した再建の判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 戴正呉 | 東芝クライアントソリューションを子会社化(PC・Dynabook) | ★ | ||
| 野村勝明 | ジャパンディスプレイ白山工場を取得 | ★ | ||
| 野村勝明 | NECディスプレイソリューションズを子会社化 | ★★ | ||
| 呉柏勲 | 大型液晶パネルからの撤退——堺SDPの生産停止と亀山工場の清算 2024年、シャープが堺ディスプレイプロダクト(堺SDP)の大型液晶パネル生産を停止し、亀山工場の縮小・売却模索を経てテレビ用大型液晶事業から実質撤退した判断。8月に堺の量産を終え、跡地はソフトバンク等のAIデータセンターへ転用が進む。亀山から堺へ積み上げた液晶一点集中の、最終的な清算にあたる。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 沖津雅浩 | 希望退職者の募集 | ★★ |
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事実根拠:出所(シャープ)