大阪市に早川金属工業所を設立
大阪で再起し金属加工業から電機製品への転換を模索
関東大震災ですべてを失った早川徳次は、1924年9月に大阪市阿倍野区で早川金属工業所(現シャープ)を設立した。創業時は文房具向けの金属部品の加工販売を手がけ、東京時代と同じ金属加工業での再出発であった。しかし、シャープペンシルの特許はすでに日本文具製造に譲渡しており、金属部品の受託加工だけでは事業の成長に限界があった。
転機は、1925年から国内でラジオ放送が開始されるという情報であった。早川は米国から輸入された鉱石ラジオ2台を購入し、分解して部品を調査。1925年4月に鉱石ラジオ受信機の開発に成功した。日本国内で初となる鉱石ラジオの国産化であり、金属加工の技術を電機製品に応用するという事業転換の第一歩であった。
輸入品の半額で「シャープ」ブランドのラジオを販売
早川は開発した鉱石ラジオを「シャープ」のブランドで販売した。価格は輸入ラジオの半額にあたる3.5円に設定し、価格競争力を武器に販売を拡大した。さらに、鉱石ラジオには受信エリアが限られるという技術的制約があったため、海外で普及しつつあった真空管式ラジオの開発にも着手した。
1929年に真空管ラジオを発売。販売価格は輸入製品の10分の1に設定し、鉱石ラジオに続いて真空管ラジオでも市場を拡大した。1934年には平野工場を新設し、ベルトコンベアを活用した量産体制を構築。コストダウンを追求することで「ラジオはシャープ」という認知を戦前の市場で確立した。
金属加工業者からラジオメーカーへの業態転換が完了
ラジオ事業の成長により、早川金属工業所は金属加工業者からラジオメーカーへと業態を転換した。1935年には株式会社に組織変更し、1936年には商号を早川金属工業に、1942年には早川電機工業に改めている。商号の変遷そのものが、金属加工から電機製品へと事業の軸足が移行した過程を映し出している。
震災で東京を離れた創業者が大阪で再起し、ラジオという新市場を捉えて電機メーカーへ転身したという経緯は、シャープの企業としての性格を方向づけた。既存事業の延長ではなく、新技術の国産化と低価格戦略で市場を開拓するという事業展開のパターンは、後のテレビ、電卓、液晶といった製品群にも繰り返し現れることになる。