東芝の源流のひとつは、幕末から明治にかけて活動した発明家、田中久重氏の工場[1]にさかのぼる。1875年7月、田中久重氏は東京・新橋に田中製造所を創設し[2]、電信機の製作を始めた。東芝はこの年を創業年とし、工場が田中製造所の名を用いたのは1882年から[3]である。田中久重氏が1881年に世を去ったあと、事業は養子の田中大吉氏が[4]引き継ぎ、工場を東京・芝浦へ移して芝浦製作所と名を改めた。そして1904年6月25日、資本金100万円の株式会社芝浦製作所へ改組[5]した。当初は一般機械類を主力とし、あわせて発電機・電動機・変圧器・電灯器具などの電気機械[6]を製作した。
株式会社となった芝浦製作所は、国内の電力開発の活況に伴い、大型発電機・変圧器・電動機など強電機器の製造へ重点を移した[7]。1922年2月には現在の鶴見工場の所在地に[8]工場を建設し、わが国最大の重電機メーカー[9]として各種の重電機器を製作した。容量や規模で記録を更新する製品を次々に完成させ、輸入品に頼っていた重電の分野を[10]国産で置き換えた。官営工場や電力会社に大型設備を納める[11]ことで、発電から送配電に至る電力インフラの一角を担った。個人の発明工房として始まった事業は、資本と組織を備えた重電メーカーへ姿を変え、のちの東芝の重電・産業機器部門の母体[12]となった。
東芝のもうひとつの源流は、電球の国産化に挑んだ弱電の系譜[13]にある。1890年4月、電気工学者の藤岡市助氏と三吉正一氏らが東京・京橋に白熱舎を創立し[14]、白熱電球の製造を始めた。当時の電球はほぼ輸入品で占められており、白熱舎は舶来電球と競い[15]ながら国産電球の開拓に努めた。1896年1月には資本金5万円の東京白熱電燈球株式会社[16]となり、1899年1月に社名を東京電気と改めた[17]。1907年5月には現在の川崎工場の所在地に[18]堀川町工場を建設し、照明用電球のほかX線管や電気計器、各種真空管[19]へ製品を広げた。
東京電気を率いた藤岡市助氏は、日本のエジソンとも呼ばれた電気事業の先駆者[20]であった。藤岡市助氏は1905年に米国のゼネラル・エレクトリック社と資本・技術の提携を[21]結び、電球の特許と量産の技術を取り込んだ。1911年には長寿命のタングステン電球『マツダランプ』を発売し[22]、安価で丈夫な国産電球として全国に広めた。マツダの名は光の神に由来し、1910年に世界の主要な電球会社が集まって[23]タングステン電球をマツダランプと称すると決めた際、東京電気もこれを製品に付ける[24]ことにした。輸入品に対抗できる品質と価格[25]を手にしたことで、東京電気は日本の照明の近代化を電球の側から支えた。
東京電気は電球にとどまらず、弱電の広い分野へ製品を伸ばした[26]。1917年には最初の国産真空管を製作し[27]、1925年には内面艶消電球の研究を世界に先がけて完成させ[28]、1926年には国産ネオンサインの先鞭[29]をつけた。蛍光灯を日本で初めて製作したのも[30]東京電気で、1936年には世界最初の二重コイル電球の製作に成功した[31]。一方の芝浦製作所は強電機器で国内最大の地位にあり、両社は資本の面でも技術の面でも早くから[32]提携関係にあった。大正から昭和初期にかけての東京電気は、電球・真空管・照明器具・[33]送受信機など各種の弱電機器のメーカーであった。
強電を担う芝浦製作所と、弱電を担う東京電気は、資本と技術の提携を重ねたのち、1939年9月に合併して東京芝浦電気株式会社となった[34]。合併時の資本金は9417万5000円[35]で、発電から重電機器、通信機、家庭電器、電球・真空管までを一社で手がける[36]総合電機メーカーが生まれた。合併後は東芝の略称が広く使われ、強電と弱電の両部門を兼ね備えた一大電機メーカー[37]として国内に並ぶものがなくなった。電気を消費する照明・家電が売れれば電気が不足して発電機の注文が増え、電気が余れば再び照明・家電が売れるという循環[38]が、総合経営の狙いとして社内で語られた。
合併後の東京芝浦電気は、軍需の拡大に応じて事業を広げた[39]。1941年10月に東邦鋼業を、1942年10月に芝浦マツダ工業と日本医療電気を[40]、1943年7月に東京電気と東洋耐火煉瓦[41]をそれぞれ吸収した。合併の結果、事業は強電・弱電機器にとどまらず、製鋼・特殊合金・耐火物といった素材部門から乾電池などの電気化学工業[42]、薬品類にまで及んだ。資本金は1945年4月に6億2200万円へ達し[43]、戦争中の東芝は全国に65を超える工場を持つ最大の[44]電気機器製作会社であった。柳町工場や小向工場では通信機製品の生産を拡充し[45]、家庭電器製品の品目も広げた。
敗戦は膨張した事業構成を一挙に反転させ、戦災による焼失工場や疎開工場の一部を廃した東芝は41工場・2研究所の体制となった[46]。1950年2月、東芝は企業再建整備計画に基づく大規模な再編[47]を迫られた。15工場・1研究所を切り出して東京電気器具を含む第二会社14社を設立し[48]、10工場を売却、1工場を閉鎖したうえで、17工場・1研究所を[49]もって新たに発足した。財閥解体と企業再建整備、持株会社の制限という一連の制約により、会社の規模は約3分の1へ縮小した[50]。再建にも法律の制約が重く[51]、東芝の立ち後れはこのときに始まった。
1949年4月、石坂泰三氏が社長に就任[52]した。労働攻勢の代表的な標的とされて数次の[53]ストライキが起きていた東芝は、石坂泰三氏(社長)のもとで労使の協調を得て、生産設備の増強と新製品の開発[54]によって回復に向かった。重電では、1950年4月に東芝車輛を合併して鉄道車両を、1955年11月に[55]電業社原動機製造所を合併して水車を、1961年11月に石川島芝浦タービンを合併して[56]蒸気タービンを取り込み、発電設備メーカーとしての厚みを増した。1955年2月には資本金が60億円となり[57]、本社・8営業所・15工場・2研究所に従業員2万5000人[58]を擁した。
戦後10年を経た1955年の売上高は339億円[59]だった。1960年には1539億円へ伸び[60]、その内訳は家電製品が54パーセント、重電製品が34パーセント[61]、残る12パーセントに電波機器・通信機器・医療機のほか半導体やコンピューターが含まれていた。1970年の売上高は6001億円に達し[62]、家電グループが48パーセント、重電グループが34パーセント、産業用エレクトロニクス・グループが18パーセント[63]を占めた。15年で売上高は17倍を超え[64]、家電が全社売上の半分を割る一方、電子部門が2割に迫った。会社所得の番付で第1位となった年度も数回あり[65]、総合経営はこの時期に成果を上げた。
1965年5月、東京芝浦電気会長の石坂泰三氏の懇請を受けて、石川島播磨重工業社長だった土光敏夫氏が東芝の社長に就いた[66]。与えられた責務は、減配が続いていた東芝の立て直し[67]である。人事は正式に話がまとまらないうちに新聞へ出たため、土光敏夫氏(社長)にとっては要請から内定まで一週間の余裕[68]しかなかった。当時の東芝は資本金も従業員数も石川島の3倍ほどあり、従業員6万3000人と全国30を超える[69]工場・営業所を抱えていた。
土光敏夫氏(社長)は人材の活用を再建の柱に据え[70]、二つの策を立てた。組織に活力を与えることと、各事業部に権限を全面的に委ねること[71]である。従来の専務会と常務会を[72]廃して常務以上の役員が社長と一体で経営方針を決める経営幹部会を設け、事業部グループ制も廃した[73]。事業部長の上にいた担当役員を機能別の分担役員へ改め、決裁権を事業部長へ移して100パーセントの権限委譲[74]を実施した。この仕組みは1969年に目標管理制度と結びついて事業部内閣制へ発展し[75]、事業部が自ら目標と予算を決める形になった。土光敏夫氏(社長)はこの運営をチャレンジ・レスポンス経営と名付けた[76]。
チャレンジとは挑戦ではなく、参加を促す議論や説明の要求[77]を指す言葉だった。事業部が自ら決めた目標を達成できなかったとき、なぜできなかったかの説明を求め[78]、議論を呼びかけた。就任の翌年からいざなぎ景気が始まり、東芝は1966年下期に2分の増配へ[79]転じ、以後は年に二分ずつ配当を上げて1969年上期に1割二分配当となった[80]。1969年下期の売上高2869億円は過去最高で、当期利益も102億円[81]を計上し、この年の年間売上高は5000億円を超えた。1967年度から始めた長期経営計画は、売上高で計画より2年早く[82]達成された。8期連続の増収増益を確かめた土光敏夫氏(社長)は、1972年8月に[83]社長を退いた。
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|---|---|---|---|---|
| 1875〜1938年電信機の田中製造所と電球の白熱舎、二つに分かれていた源流 | 電信機の工場を創業 | ★★ | ||
| 白熱舎が発足 | ★★ | |||
| 芝浦製作所を設立 | ★★ | |||
| 東京電気がゼネラル・エレクトリックと資本業務提携 | ★★ | |||
| 東京電気が堀川町工場を新設 | ★ | |||
| 東京電気がタングステン電球「マツダランプ」を発売 | ★★ | |||
| 東京電気が国産初の真空管を製作 | ★ | |||
| 鶴見工場を新設 | ★ | |||
| 1939〜1972年合併で生まれた総合電機、財閥解体による縮小、土光敏夫の権限委譲 | 東京電気と合併し東京芝浦電気を設立 | ★★★ | ||
| 芝浦マツダ工業・日本医療電気を吸収合併 | ★ | |||
| 東京電気・東洋耐火煉瓦を吸収合併 | ★ | |||
| 石坂泰三 | 東京証券取引所に上場 | ★ | ||
| 石坂泰三 | 石坂泰三氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 石坂泰三 | 企業再建整備計画により第二会社14社を設立 | ★★ | ||
| 岩下文雄 | 石川島芝浦タービンを吸収合併 | ★★ | ||
| 土光敏夫 | 土光敏夫氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 土光敏夫 | 事業部内閣制に移行 | ★★ | ||
| 土光敏夫 | 売上高が6001億円に到達 | ★ | ||
| 1973〜2005年選択経営とエレクトロニクスへの主役交替、世界一の半導体とココム事件 | 玉置敬三 | 合成樹脂・絶縁材料事業を東芝ケミカルに譲渡 | ★ | |
| 岩田弍夫 | 売上高が1兆609億円に到達 | ★★ | ||
| 岩田弍夫 | 大中型コンピューターの営業を日電東芝情報システムに移管 | ★ | ||
| 佐波正一 | 東芝に商号変更 | ★★ | ||
| 青井舒一 | NAND型フラッシュメモリを世界で初めて発表 | ★★ | ||
| 青井舒一 | 東芝機械のココム違反で通商産業省が行政処分を決定 | ★★ | ||
| 青井舒一 | 渡里杉一郎氏が社長を引責辞任 | ★★ | ||
| 青井舒一 | ノートパソコン「ダイナブック」を発売 | ★★ | ||
| 青井舒一 | 日本原子力事業を吸収合併 | ★★ | ||
| 佐藤文夫 | NAND型フラッシュメモリの量産を開始 | ★★ | ||
| 西室泰三 | 西室泰三氏が社長に就任 | ★ | ||
| 西室泰三 | 社内カンパニー制を導入 | ★★ | ||
| 岡村正 | 本社を移転 | ★ | ||
| 岡村正 | 汎用DRAMからの撤退とNAND型フラッシュメモリへの集中 1980年代に1メガビットDRAMで世界の先頭に立った東芝が、価格競争の激化とIT不況を受けて2001年に汎用DRAM事業から撤退し、みずから発明したNAND型フラッシュメモリとシステムLSIへ資源を集中させた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 岡村正 | 電力系統・変電事業をティーエム・ティーアンドディーに会社分割 | ★ | ||
| 岡村正 | ブラウン管事業をエムティ映像ディスプレイに会社分割 | ★ | ||
| 岡村正 | 委員会等設置会社に移行 | ★★ | ||
| 西田厚聰 | 経営方針「2010年ビジョン」を策定 | ★★ | ||
| 西田厚聰 | 西田厚聰氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 2006〜2023年2010年ビジョンが招いた原子力とメモリへの集中、そして解体 | 西田厚聰 | 米ウェスチングハウスを約54億ドルで買収し、世界一の原子力事業を築く 2006年2月、東芝は英国核燃料会社(BNFL)が保有する米原子力大手ウェスチングハウスを約54億ドルで取得する契約を結び、同年10月に買収を完了した。西田厚聰社長が掲げた2010年ビジョンの中核をなす成長投資であった。 詳細を読む | ★★★ | |
| 西田厚聰 | 次世代DVD「HD DVD」からの撤退——自ら仕掛けた規格戦争の終息 すでに開発・生産を中止しており、3月末までに出荷も止めて完全に撤退した。次世代DVD規格をめぐる争いは、ソニーや松下電器産業を中心とするブルーレイ(BD)陣営の勝利で決着した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 西田厚聰 | 売上高7兆6681億円で過去最高を更新 | ★★ | ||
| 西田厚聰 | 最終赤字3436億円を計上 | ★★ | ||
| 佐々木則夫 | 公募増資により3192億円を調達 | ★ | ||
| 佐々木則夫 | 佐々木則夫氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 室町正志 | ウェスチングハウスがストーン・アンド・ウェブスターを子会社化 | ★★ | ||
| 室町正志 | 不正会計(不適切会計)の発覚と歴代3社長の引責辞任 2015年、証券取引等監視委員会の指摘を端緒に設けられた第三者委員会が、東芝で2008年度から2014年度にかけて税引前損益で累計約1,518億円の修正を要する不適切な会計処理があったと認定した。同年7月21日、田中久雄社長ら取締役8名が辞任し、佐々木則夫前社長・西田厚聰前々社長を含む歴代3社長が経営の座を退いた。長く優良企業とされた東芝の信頼が損なわれ、その後の事業解体へと連なる歳月の入口にあった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 室町正志 | 証券取引等監視委員会が課徴金73億円の納付を勧告 | ★★ | ||
| 室町正志 | 最終赤字4600億円を計上 | ★★ | ||
| 綱川智 | ウェスチングハウスが米連邦倒産法第11章の適用を申請 | ★★ | ||
| 綱川智 | 債務超過に転落 | ★★ | ||
| 綱川智 | 第三者割当増資により6000億円を調達 | ★★ | ||
| 車谷暢昭 | 車谷暢昭氏が会長CEOに就任 | ★ | ||
| 車谷暢昭 | 稼ぎ頭の半導体メモリ事業の売却と東芝メモリ(現キオクシア)の分離 2018年6月1日、東芝が半導体メモリ事業を分社した東芝メモリ株式会社の全株式を、米ベインキャピタルを軸とする日米韓連合の受け皿会社Pangeaへ約2兆3億円で譲渡し、売却を完了した経営判断。ウェスチングハウスの破綻で債務超過に陥り上場廃止の瀬戸際に立った東芝が、綱川智社長のもとで、みずから発明したNAND型フラッシュメモリ事業を手放して資本を立て直した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 車谷暢昭 | エフィッシモの株主提案による独立調査と、永山治取締役会議長の再任否決 筆頭株主エフィッシモ・キャピタル・マネージメントの請求で開かれた2021年3月18日の東芝臨時株主総会で、2020年7月の定時株主総会の運営を調べる弁護士3人の選任議案が賛成率57.90%で可決された。6月10日に公表された調査報告書は、東芝が経済産業省と一体となって株主の議決権行使に働きかけたと認定し、6月25日の定時株主総会では永山治取締役会議長の再任が否決された。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 綱川智 | 東芝とCVCキャピタル・パートナーズの非公開化提案(2021年破談) 2021年4月、英投資ファンドCVCキャピタル・パートナーズが東芝に約2兆円規模の非公開化(買収)を提案したが、提案直後に車谷暢昭社長兼CEOが辞任し、CVCが『検討の中断』を伝えたことで、交渉は本格化しないまま事実上頓挫した案件である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 綱川智 | 車谷暢昭氏が社長を辞任 | ★ | ||
| 綱川智 | 3分割による再編計画を発表 | ★★ | ||
| 島田太郎 | 東芝の会社分割案(2分割)と臨時株主総会での否決(2022年破談) 2021年11月、東芝は会社を3つに分割する再建策を打ち出したが、株主の反発で翌2022年2月に2分割案へ縮小した。2022年3月24日の臨時株主総会で2分割案は過半数の賛成を得られず否決され、出資受け入れを求める株主提案もあわせて否決された案件である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 島田太郎 | 島田太郎氏が社長CEOに就任 | ★ | ||
| 島田太郎 | 日本産業パートナーズ連合による公開買付けが成立 | ★★ | ||
| 島田太郎 | 日本産業パートナーズ連合による約2兆円の買収受け入れと株式の非公開化 2023年、東芝が日本産業パートナーズ(JIP)を中心とする国内連合による約2兆円の買収を受け入れ、TBJH合同会社による株式公開買付けの成立を経て、同年12月20日に東京証券取引所プライム市場などでの上場を終えた経営判断。島田太郎社長と取締役会が主導した。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(東芝)