東芝 の歴史

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創業 1875年
創業者 田中久重
創業地 東京都中央区
創業
1875年7月、田中久重氏が東京・新橋に田中製造所を創設し、電信機の製作を始めた。1881年に田中久重氏が世を去ると養子の田中大吉氏が事業を引き継ぎ、工場を芝浦へ移し、1904年6月に資本金100万円の株式会社芝浦製作所へ改組した。もう一つの源流は1890年に創業した白熱舎で、1896年に東京白熱電燈球製造として法人化し、1899年に東京電気へ改称している。重電の芝浦製作所と弱電の東京電気は1939年9月に合併して東京芝浦電気となり、発電機から電球・真空管・家庭電器まで一社で供給する総合電機が生まれた。商号を東芝へ改めたのは1984年4月である。
決断
集中させる先を、そのつど一つに絞ってきた。1970年代の土光敏夫氏は事業部へ権限を委譲して採算の見える経営を敷き、2001年には世界一を築いた汎用DRAMから撤退してNAND型フラッシュメモリへ資源を集中させた。参入も撤退も、当時の市況に照らせば合理的な判断だった。2006年の約54億ドルでのウェスチングハウス買収も、温暖化対策と新興国の電力需要で原子力の新設が見込まれるなかの投資である。誤算は前提の側にあった。2011年の福島第一原発事故で世界の新設計画が凍結し、ウェスチングハウスが取得した建設会社で費用が膨張すると、2017年3月に同社は米連邦倒産法第11章を申請した。一つに絞る速さが競争優位の源泉だった会社で、前提が崩れたときの損失も一つに集まった。
現況
現在の東芝は上場企業ではなく、投資ファンド連合が全株を持つ非上場の事業会社である。最終期となる2023年3月期の連結売上高は3兆3,617億円で、2008年3月期の7兆6,681億円から半分以下へ縮んだ。2015年には社長月例で示された過大な収益目標を発端とする不正会計が明るみに出て歴代3社長が退任し、2017年3月のウェスチングハウス破綻で債務超過に陥ると、同年12月の約6,000億円の第三者割当増資で上場廃止を回避した。2018年6月には自ら発明したメモリ事業を約2兆円で売却した。増資で入った物言う株主との対立は2022年3月の分割案否決まで続き、翌2023年に東芝は日本産業パートナーズ連合の約2兆円の買収を受け入れ、同年12月20日に1949年以来74年続いた上場を終えた。株主と方針が合わない状態は解けたが、四半期ごとに市場から値付けされる立場も同時に失った。
競合
同じ原子力へ入った総合電機でも、撤退を決める期限を持っていたかどうかで帰趨が分かれた。2006年のウェスチングハウス取得で、東芝は加圧水型と沸騰水型の双方を持つ唯一の企業となり、世界一の原子力事業を擁した。日立製作所も英国のホライズン計画に出資したが、総事業費が約3兆円へ膨らみ非連結化に必要な出資者を確保できないと見て、2019年1月に計画を凍結して撤退した。東芝はウェスチングハウスの建設子会社で費用が膨張したまま止められず、2017年に原子力関連で1兆円超の損失を計上して債務超過に陥った。原子力の需要見通しは各社とも同じで、損失を止める時点を先に決めていなかったことが、東芝からだけ上場を奪った。

創業ストーリー 電信機の田中製造所と電球の白熱舎、二つに分かれていた源流 (1875年〜)

電信機の田中製造所と電球の白熱舎、二つに分かれていた源流

田中久重の電信機工場から芝浦製作所への強電の系譜

東芝の源流のひとつは、幕末から明治にかけて活動した発明家、田中久重氏の工場[1]にさかのぼる。1875年7月、田中久重氏は東京・新橋に田中製造所を創設し[2]、電信機の製作を始めた。東芝はこの年を創業年とし、工場が田中製造所の名を用いたのは1882年から[3]である。田中久重氏が1881年に世を去ったあと、事業は養子の田中大吉氏が[4]引き継ぎ、工場を東京・芝浦へ移して芝浦製作所と名を改めた。そして1904年6月25日、資本金100万円の株式会社芝浦製作所へ改組[5]した。当初は一般機械類を主力とし、あわせて発電機・電動機・変圧器・電灯器具などの電気機械[6]を製作した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
    • [1]東芝の源流の一つ 発明家 田中久重の工場
    • [2]1875年7月 田中久重が東京・新橋に田中製造所を創設し電信機の製作を開始
    • [5]1904年6月25日 資本金100万円で株式会社芝浦製作所へ改組
    • [6]創業当初の製品 一般機械類と発電機・電動機・変圧器・電灯器具
  • 東芝 有価証券報告書【沿革】
    • [3]東芝の創業年 1875年/田中製造所の名は1882年から
  • 国立公文書館「公文書にみる発明のチカラ」
    • [4]田中久重の死後 養子の田中大吉が事業を継承し工場を芝浦へ移転

株式会社となった芝浦製作所は、国内の電力開発の活況に伴い、大型発電機・変圧器・電動機など強電機器の製造へ重点を移した[7]。1922年2月には現在の鶴見工場の所在地に[8]工場を建設し、わが国最大の重電機メーカー[9]として各種の重電機器を製作した。容量や規模で記録を更新する製品を次々に完成させ、輸入品に頼っていた重電の分野を[10]国産で置き換えた。官営工場や電力会社に大型設備を納める[11]ことで、発電から送配電に至る電力インフラの一角を担った。個人の発明工房として始まった事業は、資本と組織を備えた重電メーカーへ姿を変え、のちの東芝の重電・産業機器部門の母体[12]となった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
    • [7]電力開発の活況に伴う強電機器への重点移行
    • [8]1922年2月 現鶴見工場所在地に工場を建設
    • [9]芝浦製作所 わが国最大の重電機メーカー
    • [10]記録を更新する重電機器の完成と重電分野の国産化
  • 国立公文書館「公文書にみる発明のチカラ」
    • [11]官営工場・電力会社への大型設備の納入
    • [12]芝浦製作所 のちの東芝の重電・産業機器部門の母体
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
    • [1]東芝の源流の一つ 発明家 田中久重の工場
    • [2]1875年7月 田中久重が東京・新橋に田中製造所を創設し電信機の製作を開始
    • [5]1904年6月25日 資本金100万円で株式会社芝浦製作所へ改組
    • [6]創業当初の製品 一般機械類と発電機・電動機・変圧器・電灯器具
    • [7]電力開発の活況に伴う強電機器への重点移行
    • [8]1922年2月 現鶴見工場所在地に工場を建設
    • [9]芝浦製作所 わが国最大の重電機メーカー
    • [10]記録を更新する重電機器の完成と重電分野の国産化
  • 東芝 有価証券報告書【沿革】
    • [3]東芝の創業年 1875年/田中製造所の名は1882年から
  • 国立公文書館「公文書にみる発明のチカラ」
    • [4]田中久重の死後 養子の田中大吉が事業を継承し工場を芝浦へ移転
    • [11]官営工場・電力会社への大型設備の納入
    • [12]芝浦製作所 のちの東芝の重電・産業機器部門の母体

藤岡市助の白熱舎とマツダランプによる電球国産化

東芝のもうひとつの源流は、電球の国産化に挑んだ弱電の系譜[13]にある。1890年4月、電気工学者の藤岡市助氏と三吉正一氏らが東京・京橋に白熱舎を創立し[14]、白熱電球の製造を始めた。当時の電球はほぼ輸入品で占められており、白熱舎は舶来電球と競い[15]ながら国産電球の開拓に努めた。1896年1月には資本金5万円の東京白熱電燈球株式会社[16]となり、1899年1月に社名を東京電気と改めた[17]。1907年5月には現在の川崎工場の所在地に[18]堀川町工場を建設し、照明用電球のほかX線管や電気計器、各種真空管[19]へ製品を広げた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
    • [13]東芝のもう一つの源流 電球国産化の弱電系譜
    • [14]1890年4月 藤岡市助・三吉正一らが東京・京橋に白熱舎を創立
    • [15]舶来電球との競争のなかでの国産電球の開拓
    • [16]1896年1月 資本金5万円の東京白熱電燈球株式会社を設立
    • [17]1899年1月 東京電気へ社名変更
    • [18]1907年5月 現川崎工場所在地に堀川町工場を建設
    • [19]製品の広がり 照明用電球・X線管・電気計器・各種真空管

東京電気を率いた藤岡市助氏は、日本のエジソンとも呼ばれた電気事業の先駆者[20]であった。藤岡市助氏は1905年に米国のゼネラル・エレクトリック社と資本・技術の提携を[21]結び、電球の特許と量産の技術を取り込んだ。1911年には長寿命のタングステン電球『マツダランプ』を発売し[22]、安価で丈夫な国産電球として全国に広めた。マツダの名は光の神に由来し、1910年に世界の主要な電球会社が集まって[23]タングステン電球をマツダランプと称すると決めた際、東京電気もこれを製品に付ける[24]ことにした。輸入品に対抗できる品質と価格[25]を手にしたことで、東京電気は日本の照明の近代化を電球の側から支えた。

  • 国立公文書館「公文書にみる発明のチカラ」
    • [20]藤岡市助 東京電気を率いた電気事業の先駆者
    • [21]1905年 ゼネラル・エレクトリックと資本・技術提携
    • [22]1911年 タングステン電球「マツダランプ」の発売
    • [25]輸入品に対抗する品質と価格の獲得
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
    • [23]1910年 世界の主要電球会社がタングステン電球をマツダランプと称すると決定
    • [24]東京電気による製品へのマツダランプ名称の採用

東京電気は電球にとどまらず、弱電の広い分野へ製品を伸ばした[26]。1917年には最初の国産真空管を製作し[27]、1925年には内面艶消電球の研究を世界に先がけて完成させ[28]、1926年には国産ネオンサインの先鞭[29]をつけた。蛍光灯を日本で初めて製作したのも[30]東京電気で、1936年には世界最初の二重コイル電球の製作に成功した[31]。一方の芝浦製作所は強電機器で国内最大の地位にあり、両社は資本の面でも技術の面でも早くから[32]提携関係にあった。大正から昭和初期にかけての東京電気は、電球・真空管・照明器具・[33]送受信機など各種の弱電機器のメーカーであった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
    • [26]東京電気 電球以外の弱電分野への製品拡大
    • [27]1917年 最初の国産真空管を製作
    • [28]1925年 内面艶消電球の研究を世界に先がけて完成
    • [29]1926年 国産ネオンサインの先鞭
    • [30]日本初の蛍光灯製作 東京電気
    • [31]1936年 世界最初の二重コイル電球の製作に成功
    • [32]芝浦製作所と東京電気の資本・技術の提携関係
    • [33]東京電気の製品 電球・真空管・照明器具・送受信機
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
    • [13]東芝のもう一つの源流 電球国産化の弱電系譜
    • [14]1890年4月 藤岡市助・三吉正一らが東京・京橋に白熱舎を創立
    • [15]舶来電球との競争のなかでの国産電球の開拓
    • [16]1896年1月 資本金5万円の東京白熱電燈球株式会社を設立
    • [17]1899年1月 東京電気へ社名変更
    • [18]1907年5月 現川崎工場所在地に堀川町工場を建設
    • [19]製品の広がり 照明用電球・X線管・電気計器・各種真空管
    • [23]1910年 世界の主要電球会社がタングステン電球をマツダランプと称すると決定
    • [24]東京電気による製品へのマツダランプ名称の採用
    • [26]東京電気 電球以外の弱電分野への製品拡大
    • [27]1917年 最初の国産真空管を製作
    • [28]1925年 内面艶消電球の研究を世界に先がけて完成
    • [29]1926年 国産ネオンサインの先鞭
    • [30]日本初の蛍光灯製作 東京電気
    • [31]1936年 世界最初の二重コイル電球の製作に成功
    • [32]芝浦製作所と東京電気の資本・技術の提携関係
    • [33]東京電気の製品 電球・真空管・照明器具・送受信機
  • 国立公文書館「公文書にみる発明のチカラ」
    • [20]藤岡市助 東京電気を率いた電気事業の先駆者
    • [21]1905年 ゼネラル・エレクトリックと資本・技術提携
    • [22]1911年 タングステン電球「マツダランプ」の発売
    • [25]輸入品に対抗する品質と価格の獲得

合併で生まれた総合電機、財閥解体による縮小、土光敏夫の権限委譲

合併による総合電機の成立と戦時下の膨張

強電を担う芝浦製作所と、弱電を担う東京電気は、資本と技術の提携を重ねたのち、1939年9月に合併して東京芝浦電気株式会社となった[34]。合併時の資本金は9417万5000円[35]で、発電から重電機器、通信機、家庭電器、電球・真空管までを一社で手がける[36]総合電機メーカーが生まれた。合併後は東芝の略称が広く使われ、強電と弱電の両部門を兼ね備えた一大電機メーカー[37]として国内に並ぶものがなくなった。電気を消費する照明・家電が売れれば電気が不足して発電機の注文が増え、電気が余れば再び照明・家電が売れるという循環[38]が、総合経営の狙いとして社内で語られた。

  • 東芝 有価証券報告書【沿革】
    • [34]1939年9月 芝浦製作所と東京電気が合併し東京芝浦電気が発足
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
    • [35]合併時の資本金 9417万5000円
    • [36]合併後の事業範囲 発電・重電機器・通信機・家庭電器・電球・真空管
    • [37]合併後の東芝 強電・弱電を兼備した一大電機メーカー
  • 証券アナリストジャーナル 1981年19巻12号
    • [38]総合経営の狙い 電気を消費する製品と電気を作る機器の需要循環

合併後の東京芝浦電気は、軍需の拡大に応じて事業を広げた[39]。1941年10月に東邦鋼業を、1942年10月に芝浦マツダ工業と日本医療電気を[40]、1943年7月に東京電気と東洋耐火煉瓦[41]をそれぞれ吸収した。合併の結果、事業は強電・弱電機器にとどまらず、製鋼・特殊合金・耐火物といった素材部門から乾電池などの電気化学工業[42]、薬品類にまで及んだ。資本金は1945年4月に6億2200万円へ達し[43]、戦争中の東芝は全国に65を超える工場を持つ最大の[44]電気機器製作会社であった。柳町工場や小向工場では通信機製品の生産を拡充し[45]、家庭電器製品の品目も広げた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
    • [39]合併後の軍需拡大に応じた事業拡張
    • [40]1941年10月 東邦鋼業を吸収/1942年10月 芝浦マツダ工業・日本医療電気を吸収
    • [42]事業範囲 製鋼・特殊合金・耐火物・電気化学工業・薬品類
    • [43]1945年4月 資本金6億2200万円
  • 東芝 有価証券報告書【沿革】
    • [41]1943年7月 東京電気・東洋耐火煉瓦を吸収
    • [45]柳町工場・小向工場での通信機製品の拡充
  • 証券アナリストジャーナル 1981年19巻12号
    • [44]戦争中 全国65超の工場を持つ最大の電気機器製作会社
  • 東芝 有価証券報告書【沿革】
    • [34]1939年9月 芝浦製作所と東京電気が合併し東京芝浦電気が発足
    • [41]1943年7月 東京電気・東洋耐火煉瓦を吸収
    • [45]柳町工場・小向工場での通信機製品の拡充
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
    • [35]合併時の資本金 9417万5000円
    • [36]合併後の事業範囲 発電・重電機器・通信機・家庭電器・電球・真空管
    • [37]合併後の東芝 強電・弱電を兼備した一大電機メーカー
    • [39]合併後の軍需拡大に応じた事業拡張
    • [40]1941年10月 東邦鋼業を吸収/1942年10月 芝浦マツダ工業・日本医療電気を吸収
    • [42]事業範囲 製鋼・特殊合金・耐火物・電気化学工業・薬品類
    • [43]1945年4月 資本金6億2200万円
  • 証券アナリストジャーナル 1981年19巻12号
    • [38]総合経営の狙い 電気を消費する製品と電気を作る機器の需要循環
    • [44]戦争中 全国65超の工場を持つ最大の電気機器製作会社

財閥解体による3分の1への縮小と高度成長への復帰

敗戦は膨張した事業構成を一挙に反転させ、戦災による焼失工場や疎開工場の一部を廃した東芝は41工場・2研究所の体制となった[46]。1950年2月、東芝は企業再建整備計画に基づく大規模な再編[47]を迫られた。15工場・1研究所を切り出して東京電気器具を含む第二会社14社を設立し[48]、10工場を売却、1工場を閉鎖したうえで、17工場・1研究所を[49]もって新たに発足した。財閥解体と企業再建整備、持株会社の制限という一連の制約により、会社の規模は約3分の1へ縮小した[50]。再建にも法律の制約が重く[51]、東芝の立ち後れはこのときに始まった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
    • [46]戦災焼失・疎開工場の一部廃止後 41工場・2研究所
  • 東芝 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1950年2月 企業再建整備計画に基づく再編
    • [48]15工場・1研究所を切り出し 東京電気器具を含む第二会社14社を設立
    • [49]10工場を売却 1工場を閉鎖 17工場・1研究所で新発足
  • 証券アナリストジャーナル 1981年19巻12号
    • [50]財閥解体・企業再建整備・持株会社制限による規模の約3分の1への縮小
    • [51]再建に対する法律上の制約と東芝の立ち後れ

1949年4月、石坂泰三氏が社長に就任[52]した。労働攻勢の代表的な標的とされて数次の[53]ストライキが起きていた東芝は、石坂泰三氏(社長)のもとで労使の協調を得て、生産設備の増強と新製品の開発[54]によって回復に向かった。重電では、1950年4月に東芝車輛を合併して鉄道車両を、1955年11月に[55]電業社原動機製造所を合併して水車を、1961年11月に石川島芝浦タービンを合併して[56]蒸気タービンを取り込み、発電設備メーカーとしての厚みを増した。1955年2月には資本金が60億円となり[57]、本社・8営業所・15工場・2研究所に従業員2万5000人[58]を擁した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
    • [52]1949年4月 石坂泰三が社長に就任
    • [53]労働攻勢の代表的な標的 数次のストライキの発生
    • [54]石坂泰三社長のもとでの労使協調と生産設備の増強・新製品開発による回復
    • [57]1955年2月 資本金60億円
    • [58]1955年時点の体制 本社・8営業所・15工場・2研究所 従業員2万5000人
  • 東芝 有価証券報告書【沿革】
    • [55]1950年4月 東芝車輛を合併/1955年11月 電業社原動機製造所を合併
    • [56]1961年11月 石川島芝浦タービンを合併し蒸気タービンを取り込み

戦後10年を経た1955年の売上高は339億円[59]だった。1960年には1539億円へ伸び[60]、その内訳は家電製品が54パーセント、重電製品が34パーセント[61]、残る12パーセントに電波機器・通信機器・医療機のほか半導体やコンピューターが含まれていた。1970年の売上高は6001億円に達し[62]、家電グループが48パーセント、重電グループが34パーセント、産業用エレクトロニクス・グループが18パーセント[63]を占めた。15年で売上高は17倍を超え[64]、家電が全社売上の半分を割る一方、電子部門が2割に迫った。会社所得の番付で第1位となった年度も数回あり[65]、総合経営はこの時期に成果を上げた。

  • 証券アナリストジャーナル 1981年19巻12号
    • [59]1955年 売上高339億円
    • [60]1960年 売上高1539億円
    • [61]1960年の売上構成 家電54%・重電34%・その他12%
    • [62]1970年 売上高6001億円
    • [63]1970年の売上構成 家電48%・重電34%・産業用エレクトロニクス18%
    • [64]1955年から1970年で売上高17倍超
    • [65]会社所得の番付で第1位となった年度が数回
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
    • [46]戦災焼失・疎開工場の一部廃止後 41工場・2研究所
    • [52]1949年4月 石坂泰三が社長に就任
    • [53]労働攻勢の代表的な標的 数次のストライキの発生
    • [54]石坂泰三社長のもとでの労使協調と生産設備の増強・新製品開発による回復
    • [57]1955年2月 資本金60億円
    • [58]1955年時点の体制 本社・8営業所・15工場・2研究所 従業員2万5000人
  • 東芝 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1950年2月 企業再建整備計画に基づく再編
    • [48]15工場・1研究所を切り出し 東京電気器具を含む第二会社14社を設立
    • [49]10工場を売却 1工場を閉鎖 17工場・1研究所で新発足
    • [55]1950年4月 東芝車輛を合併/1955年11月 電業社原動機製造所を合併
    • [56]1961年11月 石川島芝浦タービンを合併し蒸気タービンを取り込み
  • 証券アナリストジャーナル 1981年19巻12号
    • [50]財閥解体・企業再建整備・持株会社制限による規模の約3分の1への縮小
    • [51]再建に対する法律上の制約と東芝の立ち後れ
    • [59]1955年 売上高339億円
    • [60]1960年 売上高1539億円
    • [61]1960年の売上構成 家電54%・重電34%・その他12%
    • [62]1970年 売上高6001億円
    • [63]1970年の売上構成 家電48%・重電34%・産業用エレクトロニクス18%
    • [64]1955年から1970年で売上高17倍超
    • [65]会社所得の番付で第1位となった年度が数回

土光敏夫の権限委譲とチャレンジ・レスポンス経営

1965年5月、東京芝浦電気会長の石坂泰三氏の懇請を受けて、石川島播磨重工業社長だった土光敏夫氏が東芝の社長に就いた[66]。与えられた責務は、減配が続いていた東芝の立て直し[67]である。人事は正式に話がまとまらないうちに新聞へ出たため、土光敏夫氏(社長)にとっては要請から内定まで一週間の余裕[68]しかなかった。当時の東芝は資本金も従業員数も石川島の3倍ほどあり、従業員6万3000人と全国30を超える[69]工場・営業所を抱えていた。

  • 私の履歴書 経済人20「土光敏夫」(日本経済新聞社、1986年)
    • [66]1965年5月 石坂泰三会長の懇請で土光敏夫が東芝社長に就任
    • [67]土光敏夫に与えられた責務 減配続きの東芝の立て直し
    • [68]人事の新聞先行報道 要請から内定まで一週間
    • [69]就任時の東芝 資本金・従業員数とも石川島の約3倍 従業員6万3000人 全国30超の工場・営業所

土光敏夫氏(社長)は人材の活用を再建の柱に据え[70]、二つの策を立てた。組織に活力を与えることと、各事業部に権限を全面的に委ねること[71]である。従来の専務会と常務会を[72]廃して常務以上の役員が社長と一体で経営方針を決める経営幹部会を設け、事業部グループ制も廃した[73]。事業部長の上にいた担当役員を機能別の分担役員へ改め、決裁権を事業部長へ移して100パーセントの権限委譲[74]を実施した。この仕組みは1969年に目標管理制度と結びついて事業部内閣制へ発展し[75]、事業部が自ら目標と予算を決める形になった。土光敏夫氏(社長)はこの運営をチャレンジ・レスポンス経営と名付けた[76]

  • 私の履歴書 経済人20「土光敏夫」(日本経済新聞社、1986年)
    • [70]土光敏夫の再建の柱 人材の活用と二つの策
    • [71]二策 組織への活力付与と事業部への全面的な権限委譲
    • [72]専務会・常務会の廃止
    • [73]経営幹部会の設置と事業部グループ制の廃止
    • [74]担当役員の機能別分担役員への改組と事業部長への100%権限委譲
    • [75]1969年 目標管理制度と結んだ事業部内閣制への発展
    • [76]土光敏夫による運営の呼称 チャレンジ・レスポンス経営

チャレンジとは挑戦ではなく、参加を促す議論や説明の要求[77]を指す言葉だった。事業部が自ら決めた目標を達成できなかったとき、なぜできなかったかの説明を求め[78]、議論を呼びかけた。就任の翌年からいざなぎ景気が始まり、東芝は1966年下期に2分の増配へ[79]転じ、以後は年に二分ずつ配当を上げて1969年上期に1割二分配当となった[80]。1969年下期の売上高2869億円は過去最高で、当期利益も102億円[81]を計上し、この年の年間売上高は5000億円を超えた。1967年度から始めた長期経営計画は、売上高で計画より2年早く[82]達成された。8期連続の増収増益を確かめた土光敏夫氏(社長)は、1972年8月に[83]社長を退いた。

  • 私の履歴書 経済人20「土光敏夫」(日本経済新聞社、1986年)
    • [77]チャレンジの語義 参加を促す議論・説明の要求
    • [78]目標未達時の説明要求と議論の呼びかけ
    • [79]就任翌年からのいざなぎ景気と1966年下期の二分増配
    • [80]1969年上期 1割二分配当
    • [81]1969年下期 売上高2869億円 当期利益102億円 年間売上高5000億円超
    • [82]1967年度開始の長期経営計画 売上高で2年前倒し達成
    • [83]8期連続の増収増益と1972年8月の土光敏夫の社長退任
  • 私の履歴書 経済人20「土光敏夫」(日本経済新聞社、1986年)
    • [66]1965年5月 石坂泰三会長の懇請で土光敏夫が東芝社長に就任
    • [67]土光敏夫に与えられた責務 減配続きの東芝の立て直し
    • [68]人事の新聞先行報道 要請から内定まで一週間
    • [69]就任時の東芝 資本金・従業員数とも石川島の約3倍 従業員6万3000人 全国30超の工場・営業所
    • [70]土光敏夫の再建の柱 人材の活用と二つの策
    • [71]二策 組織への活力付与と事業部への全面的な権限委譲
    • [72]専務会・常務会の廃止
    • [73]経営幹部会の設置と事業部グループ制の廃止
    • [74]担当役員の機能別分担役員への改組と事業部長への100%権限委譲
    • [75]1969年 目標管理制度と結んだ事業部内閣制への発展
    • [76]土光敏夫による運営の呼称 チャレンジ・レスポンス経営
    • [77]チャレンジの語義 参加を促す議論・説明の要求
    • [78]目標未達時の説明要求と議論の呼びかけ
    • [79]就任翌年からのいざなぎ景気と1966年下期の二分増配
    • [80]1969年上期 1割二分配当
    • [81]1969年下期 売上高2869億円 当期利益102億円 年間売上高5000億円超
    • [82]1967年度開始の長期経営計画 売上高で2年前倒し達成
    • [83]8期連続の増収増益と1972年8月の土光敏夫の社長退任

選択経営とエレクトロニクスへの主役交替、世界一の半導体とココム事件

2010年ビジョンが招いた原子力とメモリへの集中、そして解体

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東芝の沿革1875〜2023年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1875〜1938年電信機の田中製造所と電球の白熱舎、二つに分かれていた源流電信機の工場を創業★★
白熱舎が発足★★
芝浦製作所を設立★★
東京電気がゼネラル・エレクトリックと資本業務提携★★
東京電気が堀川町工場を新設
東京電気がタングステン電球「マツダランプ」を発売★★
東京電気が国産初の真空管を製作
鶴見工場を新設
1939〜1972年合併で生まれた総合電機、財閥解体による縮小、土光敏夫の権限委譲東京電気と合併し東京芝浦電気を設立★★★
芝浦マツダ工業・日本医療電気を吸収合併
東京電気・東洋耐火煉瓦を吸収合併
石坂泰三東京証券取引所に上場
石坂泰三石坂泰三氏が社長に就任★★
石坂泰三企業再建整備計画により第二会社14社を設立★★
岩下文雄石川島芝浦タービンを吸収合併★★
土光敏夫土光敏夫氏が社長に就任★★
土光敏夫事業部内閣制に移行★★
土光敏夫売上高が6001億円に到達
1973〜2005年選択経営とエレクトロニクスへの主役交替、世界一の半導体とココム事件玉置敬三合成樹脂・絶縁材料事業を東芝ケミカルに譲渡
岩田弍夫売上高が1兆609億円に到達★★
岩田弍夫大中型コンピューターの営業を日電東芝情報システムに移管
佐波正一東芝に商号変更★★
青井舒一NAND型フラッシュメモリを世界で初めて発表★★
青井舒一東芝機械のココム違反で通商産業省が行政処分を決定★★
青井舒一渡里杉一郎氏が社長を引責辞任★★
青井舒一ノートパソコン「ダイナブック」を発売★★
青井舒一日本原子力事業を吸収合併★★
佐藤文夫NAND型フラッシュメモリの量産を開始★★
西室泰三西室泰三氏が社長に就任
西室泰三社内カンパニー制を導入★★
岡村正本社を移転
岡村正汎用DRAMからの撤退とNAND型フラッシュメモリへの集中

1980年代に1メガビットDRAMで世界の先頭に立った東芝が、価格競争の激化とIT不況を受けて2001年に汎用DRAM事業から撤退し、みずから発明したNAND型フラッシュメモリとシステムLSIへ資源を集中させた経営判断。

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★★★
岡村正電力系統・変電事業をティーエム・ティーアンドディーに会社分割
岡村正ブラウン管事業をエムティ映像ディスプレイに会社分割
岡村正委員会等設置会社に移行★★
西田厚聰経営方針「2010年ビジョン」を策定★★
西田厚聰西田厚聰氏が社長に就任★★
2006〜2023年2010年ビジョンが招いた原子力とメモリへの集中、そして解体西田厚聰米ウェスチングハウスを約54億ドルで買収し、世界一の原子力事業を築く

2006年2月、東芝は英国核燃料会社(BNFL)が保有する米原子力大手ウェスチングハウスを約54億ドルで取得する契約を結び、同年10月に買収を完了した。西田厚聰社長が掲げた2010年ビジョンの中核をなす成長投資であった。

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★★★
西田厚聰次世代DVD「HD DVD」からの撤退——自ら仕掛けた規格戦争の終息

すでに開発・生産を中止しており、3月末までに出荷も止めて完全に撤退した。次世代DVD規格をめぐる争いは、ソニーや松下電器産業を中心とするブルーレイ(BD)陣営の勝利で決着した。

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★★★
西田厚聰売上高7兆6681億円で過去最高を更新★★
西田厚聰最終赤字3436億円を計上★★
佐々木則夫公募増資により3192億円を調達
佐々木則夫佐々木則夫氏が社長に就任★★
室町正志ウェスチングハウスがストーン・アンド・ウェブスターを子会社化★★
室町正志不正会計(不適切会計)の発覚と歴代3社長の引責辞任

2015年、証券取引等監視委員会の指摘を端緒に設けられた第三者委員会が、東芝で2008年度から2014年度にかけて税引前損益で累計約1,518億円の修正を要する不適切な会計処理があったと認定した。同年7月21日、田中久雄社長ら取締役8名が辞任し、佐々木則夫前社長・西田厚聰前々社長を含む歴代3社長が経営の座を退いた。長く優良企業とされた東芝の信頼が損なわれ、その後の事業解体へと連なる歳月の入口にあった。

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★★★
室町正志証券取引等監視委員会が課徴金73億円の納付を勧告★★
室町正志最終赤字4600億円を計上★★
綱川智ウェスチングハウスが米連邦倒産法第11章の適用を申請★★
綱川智債務超過に転落★★
綱川智第三者割当増資により6000億円を調達★★
車谷暢昭車谷暢昭氏が会長CEOに就任
車谷暢昭稼ぎ頭の半導体メモリ事業の売却と東芝メモリ(現キオクシア)の分離

2018年6月1日、東芝が半導体メモリ事業を分社した東芝メモリ株式会社の全株式を、米ベインキャピタルを軸とする日米韓連合の受け皿会社Pangeaへ約2兆3億円で譲渡し、売却を完了した経営判断。ウェスチングハウスの破綻で債務超過に陥り上場廃止の瀬戸際に立った東芝が、綱川智社長のもとで、みずから発明したNAND型フラッシュメモリ事業を手放して資本を立て直した。

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★★★
車谷暢昭エフィッシモの株主提案による独立調査と、永山治取締役会議長の再任否決

筆頭株主エフィッシモ・キャピタル・マネージメントの請求で開かれた2021年3月18日の東芝臨時株主総会で、2020年7月の定時株主総会の運営を調べる弁護士3人の選任議案が賛成率57.90%で可決された。6月10日に公表された調査報告書は、東芝が経済産業省と一体となって株主の議決権行使に働きかけたと認定し、6月25日の定時株主総会では永山治取締役会議長の再任が否決された。

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★★★
綱川智東芝とCVCキャピタル・パートナーズの非公開化提案(2021年破談)

2021年4月、英投資ファンドCVCキャピタル・パートナーズが東芝に約2兆円規模の非公開化(買収)を提案したが、提案直後に車谷暢昭社長兼CEOが辞任し、CVCが『検討の中断』を伝えたことで、交渉は本格化しないまま事実上頓挫した案件である。

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★★★
綱川智車谷暢昭氏が社長を辞任
綱川智3分割による再編計画を発表★★
島田太郎東芝の会社分割案(2分割)と臨時株主総会での否決(2022年破談)

2021年11月、東芝は会社を3つに分割する再建策を打ち出したが、株主の反発で翌2022年2月に2分割案へ縮小した。2022年3月24日の臨時株主総会で2分割案は過半数の賛成を得られず否決され、出資受け入れを求める株主提案もあわせて否決された案件である。

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★★★
島田太郎島田太郎氏が社長CEOに就任
島田太郎日本産業パートナーズ連合による公開買付けが成立★★
島田太郎日本産業パートナーズ連合による約2兆円の買収受け入れと株式の非公開化

2023年、東芝が日本産業パートナーズ(JIP)を中心とする国内連合による約2兆円の買収を受け入れ、TBJH合同会社による株式公開買付けの成立を経て、同年12月20日に東京証券取引所プライム市場などでの上場を終えた経営判断。島田太郎社長と取締役会が主導した。

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★★★
出典・参考
  • 東芝 有価証券報告書【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「東京芝浦電気」の項
  • 証券アナリストジャーナル 1981年19巻12号
  • 私の履歴書 経済人20「土光敏夫」(日本経済新聞社、1986年)
  • 国立公文書館「公文書にみる発明のチカラ」

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