沿革年表 1875〜2023年における重要度別の出来事(合計25件)
| 年月 | 区分 | 社長/CEO | 出来事 | 年度 | 売上高 | 純利益 |
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会社設立 | 創業(1882年から田中製造所と称す。後の㈱芝浦製作所) 「からくり儀右衛門」と呼ばれた発明家田中久重が、1875年7月に東京・銀座の煉瓦街で電信機を扱う店舗兼工場を構えた。工場は1882年から田中製造所と称し、電信機や各種機械を官庁向けに製造した。田中久重の死後は養子の田中大吉が事業を継ぎ、工場を東京・芝浦へ移して発電機や電動機など重電機器の製造へ広げた。 個人の発明工房として始まった田中製造所が、電信機から重電機器へと事業を広げ、東芝の重電・産業機器部門の母体となった一点である。 | 1875 1-12月 | ||||
会社設立 | 白熱舎創業(後の東京白熱電燈球製造㈱) 電気工学者の藤岡市助らが1890年4月に白熱舎を創業し、当時ほぼ輸入品だった白熱電球の国産化に乗り出した。藤岡市助は日本のエジソンとも呼ばれた電気事業の先駆者で、白熱舎は1896年に東京白熱電燈球製造株式会社となり、1899年に東京電気株式会社と改称した。 電球の国産化に挑んだ弱電の系譜が、重電の芝浦製作所と並ぶ東芝のもう一方の源流となった創業である。 | 1890 1-12月 | ||||
会社設立 | 東京白熱電燈球製造㈱設立(1899年東京電気㈱と改称) 白熱舎を母体に1896年1月、東京白熱電燈球製造株式会社が設立され、1899年に東京電気株式会社と改称した。東京電気は1905年に米ゼネラル・エレクトリックと資本・技術提携を結んで量産技術を取り込み、1911年には長寿命のタングステン電球マツダランプを発売して国産電球を全国に広めた。 輸入品に頼っていた照明産業を国産で自立させ、後の東芝の電子部品事業へつながる弱電の技術基盤を築いた会社設立である。 | 1896 1-12月 | ||||
会社設立 | ㈱芝浦製作所設立 田中久重の田中製造所を継いだ田中大吉は、工場を東京・芝浦へ移して発電機・電動機・変圧器など重電機器の製造を広げ、1904年6月に株式会社芝浦製作所として法人化した。芝浦製作所は水力発電の開発と工場電化が進む時代の需要をとらえ、官営工場や電力会社に大型設備を納め、輸入に頼っていた重電機器の国産化を担った。 個人の発明工房を資本と組織を備えた重電メーカーへ成長させ、東芝の重電・社会インフラ事業を担う体制を整えた法人化である。 | 1904 1-12月 | ||||
組織再編 | ㈱芝浦製作所と東京電気㈱が合併して東京芝浦電気㈱となる。 強電を担う芝浦製作所と弱電を担う東京電気は、事業を広げるなかで補完関係を深め、1939年9月に合併して東京芝浦電気株式会社となった。発電・重電機器から通信機、家庭電器、電球・真空管までを一社で手がける総合電機が生まれ、合併後は東芝の略称が広く使われた。 重電の芝浦製作所と弱電の東京電気という二つの流れが一本化し、発電から家電までを一社で担う総合電機東芝が誕生した合併である。 | 1939 1-12月 | ||||
企業買収 | 芝浦マツダ工業㈱、日本医療電気㈱を合併し、家庭電器製品を拡充 東京芝浦電気は1942年10月、芝浦マツダ工業と日本医療電気を合併した。戦時下で軍需に応じて事業を拡大するなかで家庭電器製品の生産体制を拡充し、電球・照明から家電にわたる弱電製品の裾野を広げた。 戦時下の合併で家庭電器の生産基盤を厚くし、戦後の東芝を支える家電事業の体制を整えた企業買収である。 | 1942 1-12月 | ||||
企業買収 | 東京電気㈱(旧東京電気無線㈱)、東洋耐火煉瓦㈱を合併し、通信機製品(柳町工場、小向工場)を拡充 1943年7月、東京芝浦電気は東京電気無線と東洋耐火煉瓦を合併し、柳町工場・小向工場を得て通信機製品の生産を広げた。戦時下で軍用通信機器の需要が高まるなかで無線・通信分野を取り込み、後の重電・弱電に続く通信機事業の基盤を加えた。 通信機分野を自社に取り込み、重電・家電に通信を加えた総合電機としての製品幅を広げた企業買収である。 | 1943 1-12月 | ||||
構造改革組織再編 | 企業再建整備計画に基づき、43工場、2研究所のうち、15工場、1研究所をもって第二会社14社(東京電気器具㈱(現東芝テック㈱)を含む。)を設立、10工場を売却、1工場を閉鎖し、17工場、1研究所をもって新発足 敗戦後の1950年2月、東芝は企業再建整備計画に基づく大規模な再編を実施した。43工場・2研究所のうち15工場・1研究所を切り出して第二会社14社(東京電気器具=現在の東芝テックを含む)を設立し、10工場を売却、1工場を閉鎖したうえで、17工場・1研究所をもって新発足した。 財閥解体と戦後復興のなかで事業を大幅に整理して再出発した再編で、現在まで続く東芝の企業体はこの新発足を出発点とする。 | FY50 1950/3 | ||||
企業買収 | 東芝車輛㈱を合併し、車両製品を拡充 1950年4月、東芝は東芝車輛を合併し、鉄道車両製品を取り込んだ。戦後復興期の鉄道需要に応え、発電・重電を中心とする社会インフラ機器の製品群に車両を加えた。 重電の発電設備に鉄道車両を加え、東芝の重電・社会インフラ事業の裾野を広げた企業買収である。 | FY51 1951/3 | ||||
企業買収 | ㈱電業社原動機製造所を合併し、水車製品(蒲田工場)を拡充 1955年11月、東芝は電業社原動機製造所を合併し、蒲田工場を得て水車製品を取り込んだ。高度経済成長期に水力発電所の建設が全国で進むなかで、発電機に加えて水車を自社で供給できる体制を整え、発電設備メーカーとしての厚みを増した。 発電機に水車を組み合わせ、水力発電設備を一貫して供給できる発電機メーカーへ東芝の重電を厚くした企業買収である。 | FY56 1956/3 | ||||
企業買収 | 石川島芝浦タービン㈱を合併し、タービン製品(タービン工場)を拡充 1961年11月、東芝は石川島芝浦タービンを合併し、タービン工場を得て蒸気タービン製品を取り込んだ。火力発電所の大型化が進むなかで、発電機・水車に蒸気タービンを加え、発電設備を総合的に手がける体制を整えた。 蒸気タービンを取り込み、発電機・水車と合わせて発電設備を一貫供給する重電メーカーとしての東芝を完成させた企業買収である。 | FY62 1962/3 | ||||
事業売却 | 合成樹脂・絶縁材料事業を東芝ケミカル㈱(現京セラ㈱)へ譲渡 1974年10月、東芝は合成樹脂・絶縁材料事業を分社し、東芝ケミカル株式会社へ譲渡した。同社は1988年に東証二部へ上場したが、2002年に京セラが株式交換で買収して京セラケミカルへ改称し、2016年に京セラへ吸収合併された。 総合電機の裾野を成す素材事業を切り出した事業売却で、譲渡先の東芝ケミカルはのちに京セラの傘下へ移った。 | FY75 1975/3 | ||||
㈱東芝に商号変更 1984年4月、東京芝浦電気は商号を株式会社東芝に変更した。1939年の合併以来広く使われてきた東芝の略称を正式な社名に改め、半導体や情報機器へ事業を広げる時期に社名の上でも東芝を看板とした。 定着していた東芝の略称を正式社名とし、半導体・情報機器で世界と競う企業へ移る時期の商号変更である。 | FY85 1985/3 | |||||
企業買収 | 日本原子力事業㈱を合併 1989年12月、東芝は日本原子力事業を合併し、原子炉メーカーとしての体制を整えた。東芝は米ゼネラル・エレクトリックの技術を導入した沸騰水型軽水炉を手がけ、国内の電力会社に原子力発電設備を納めていた。 原子炉メーカーを傘下に収めて原子力事業の体制を整え、のちに東芝の成長投資の中心となる原子力事業の基盤を築いた企業買収である。 | FY90 1990/3 | ||||
本店を神奈川県川崎市から東京都港区に移転 | FY02 2002/3 | |||||
重要事項事業撤退 | 汎用DRAMから撤退し、NAND型フラッシュメモリに集中 2001年12月、東芝は市況が悪化した汎用DRAM事業からの撤退を表明し、米国の製造拠点の売却を進めた。DRAMで世界首位を争った半導体事業を、自社が発明したNAND型フラッシュメモリとシステムLSIへ絞り込む選択と集中であった。 世界首位を争ったDRAMをあえて手放し、後のメモリ事業売却(2018年)につながる半導体の選択と集中を象徴する撤退である。 | |||||
組織再編 | 電力系統・変電事業をティーエム・ティーアンドディー㈱に会社分割 2002年10月、東芝は電力系統・変電事業を会社分割し、三菱電機との合弁会社ティーエム・ティーアンドディーへ移した。両社が送変電事業を持ち寄って重電の再編を図る枠組みで、装置産業となった分野を他社と組んで運営する体制を選んだ。 送変電事業を三菱電機との合弁に移し、重電の一部を他社と組んで運営する再編を進めた会社分割である。 | FY03 2003/3 | ||||
組織再編 | ブラウン管事業をエムティ映像ディスプレイ㈱に会社分割 2003年、東芝はブラウン管事業を会社分割し、松下電器産業との合弁会社エムティ映像ディスプレイへ移した。出資比率は松下60%・東芝40%で、薄型テレビへの転換が進むなかで採算の重いブラウン管を他社と統合して運営する体制を選んだ。 採算の重いブラウン管事業を松下電器産業との合弁へ移し、薄型化が進むテレビ事業の構造を見直した会社分割である。 | |||||
ガバナンス改革 | 委員会等設置会社(現在の指名委員会等設置会社)に移行 2003年6月、東芝は委員会等設置会社(現在の指名委員会等設置会社)へ移行した。社外取締役を中心とする指名・報酬・監査の三委員会を置き、業務執行と監督を分ける統治形態を整え、日本企業では早い時期に先進的なガバナンスの枠組みを採用した。 執行と監督を分ける統治形態を日本で早くに採り入れ、東芝のガバナンス体制の基本形を定めた移行である。 | FY04 2004/3 | ||||
組織再編 | 製造業プラント向け電機設備事業をティーエムエイエレクトリック㈱(現東芝三菱電機産業システム㈱)に会社分割 2003年10月、東芝は製造業プラント向けの電機設備事業を会社分割し、ティーエムエイエレクトリックへ移した。三菱電機と産業用電機を統合する合弁で、同社は東芝三菱電機産業システム(TMEIC)となり、鉄鋼・自動車など製造業向けの駆動・制御システムを担った。 産業用電機事業を三菱電機との合弁に統合し、製造業向けシステムを他社と組んで担う体制を築いた会社分割である。 | |||||
組織再編 | 西田厚聰 | 電力系統・変電事業をティーエム・ティーアンドディー㈱から譲受 2005年4月、東芝は電力系統・変電事業を合弁会社ティーエム・ティーアンドディーから譲り受けた。三菱電機との送変電の合弁関係を解消し、2002年に同社へ移していた変電事業を東芝が自社に戻した再編で、送変電を再び自前で手がける体制に戻した。 三菱電機との送変電合弁を解消して変電事業を自社へ戻し、2002年に始めた合弁による重電再編を組み替えた事業再編である。 | FY06 2006/3 | 売上高 63,435億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 782億円 | |
重要事項企業買収 | 米ウェスチングハウスを買収し原子力事業を拡大 2006年2月、東芝は米原子力大手ウェスチングハウスの買収を決め、同年10月に完了した。取得額は約54億ドルで、三菱重工やGE・日立連合との争奪の末に想定を上回る高値となった。地球温暖化対策で原子力の需要拡大を見込み、原子力を成長の柱に据える判断であった。 総合電機から原子力への傾斜を決定づけ、2011年の福島第一原発事故のあとにウェスチングハウスの巨額損失を通じて経営危機を招く分岐点となった買収である。 | |||||
| 西田厚聰 | FY07 2007/3 | 売上高 71,164億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 1,374億円 | |||
| 佐々木則夫 | FY08 2008/3 | 売上高 76,681億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 1,274億円 | |||
| 佐々木則夫 | FY09 2009/3 | 売上高 66,545億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 -3,436億円 | |||
| 佐々木則夫 | FY10 2010/3 | 売上高 63,816億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 -197億円 | |||
| 佐々木則夫 | FY11 2011/3 | 売上高 63,985億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 1,378億円 | |||
| 田中久雄 | FY12 2012/3 | 売上高 61,003億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 737億円 | |||
| 田中久雄 | FY13 2013/3 | 売上高 47,861億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 134億円 | |||
| 室町正志 | FY14 2014/3 | 売上高 47,230億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 602億円 | |||
| 綱川智 | FY15 2015/3 | 売上高 48,511億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 -378億円 | |||
重要事項経営危機 | 綱川智 | 不正会計が発覚し歴代3社長が引責辞任 2015年、東芝の会計処理をめぐる問題が表面化し、第三者委員会が過年度の利益水増しを認定した。「チャレンジ」と呼ばれた過大な収益目標が現場への圧力となった構造が指摘され、田中久雄・佐々木則夫・西田厚聰の歴代3社長が引責辞任した。 総合電機の内部統制の弱さを露呈し、その後の事業売却や解体へ向かう連鎖を招いた不正会計の発覚である。 | FY16 2016/3 | 売上高 43,465億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 -4,600億円 | |
| 車谷暢昭 | FY17 2017/3 | 売上高 40,437億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 -9,657億円 | |||
| 車谷暢昭 | FY18 2018/3 | 売上高 39,476億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 8,040億円 | |||
重要事項事業売却 | 車谷暢昭 | 半導体メモリ事業(現キオクシア)を売却 2018年6月、東芝は稼ぎ頭の半導体メモリ事業を東芝メモリとして分社し、ベインキャピタル連合へ約2兆円で売却した。ウェスチングハウス破綻による債務超過と上場廃止を避けるため、自社が発明したNAND型フラッシュメモリの事業を手放した。売却先は後にキオクシアと改称した。 財務危機を脱するために最も稼ぐ事業を手放した、総合電機の解体を象徴する事業売却である。 | FY19 2019/3 | 売上高 36,935億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 10,133億円 | |
| 綱川智 | FY20 2020/3 | 売上高 33,899億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 -1,146億円 | |||
| 島田太郎 | FY21 2021/3 | 売上高 30,544億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 1,140億円 | |||
| 島田太郎 | FY22 2022/3 | 売上高 33,370億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 1,947億円 | |||
重要事項上場廃止 | JIP連合による買収で株式を非公開化し74年の上場に幕 2023年12月、東芝は日本産業パートナーズ連合による買収を受け入れ、株式を非公開化した。買付総額は約2兆円で、2017年の増資で招いた物言う株主との対立や分割案の迷走を経て、市場からの退出を選んだ。1949年以来74年続いた上場に幕を下ろした。 総合電機の栄光と混乱の歴史に区切りをつけ、非公開下での再建に向かう上場廃止である。 | FY23 2023/3 | 売上高 33,617億円 | 親会社株主に帰属する当期純利益 1,266億円 |
- 創業(1882年から田中製造所と称す。後の㈱芝浦製作所)
「からくり儀右衛門」と呼ばれた発明家田中久重が、1875年7月に東京・銀座の煉瓦街で電信機を扱う店舗兼工場を構えた。工場は1882年から田中製造所と称し、電信機や各種機械を官庁向けに製造した。田中久重の死後は養子の田中大吉が事業を継ぎ、工場を東京・芝浦へ移して発電機や電動機など重電機器の製造へ広げた。
個人の発明工房として始まった田中製造所が、電信機から重電機器へと事業を広げ、東芝の重電・産業機器部門の母体となった一点である。 - 白熱舎創業(後の東京白熱電燈球製造㈱)
電気工学者の藤岡市助らが1890年4月に白熱舎を創業し、当時ほぼ輸入品だった白熱電球の国産化に乗り出した。藤岡市助は日本のエジソンとも呼ばれた電気事業の先駆者で、白熱舎は1896年に東京白熱電燈球製造株式会社となり、1899年に東京電気株式会社と改称した。
電球の国産化に挑んだ弱電の系譜が、重電の芝浦製作所と並ぶ東芝のもう一方の源流となった創業である。 - 東京白熱電燈球製造㈱設立(1899年東京電気㈱と改称)
白熱舎を母体に1896年1月、東京白熱電燈球製造株式会社が設立され、1899年に東京電気株式会社と改称した。東京電気は1905年に米ゼネラル・エレクトリックと資本・技術提携を結んで量産技術を取り込み、1911年には長寿命のタングステン電球マツダランプを発売して国産電球を全国に広めた。
輸入品に頼っていた照明産業を国産で自立させ、後の東芝の電子部品事業へつながる弱電の技術基盤を築いた会社設立である。 - ㈱芝浦製作所設立
田中久重の田中製造所を継いだ田中大吉は、工場を東京・芝浦へ移して発電機・電動機・変圧器など重電機器の製造を広げ、1904年6月に株式会社芝浦製作所として法人化した。芝浦製作所は水力発電の開発と工場電化が進む時代の需要をとらえ、官営工場や電力会社に大型設備を納め、輸入に頼っていた重電機器の国産化を担った。
個人の発明工房を資本と組織を備えた重電メーカーへ成長させ、東芝の重電・社会インフラ事業を担う体制を整えた法人化である。 - ㈱芝浦製作所と東京電気㈱が合併して東京芝浦電気㈱となる。
強電を担う芝浦製作所と弱電を担う東京電気は、事業を広げるなかで補完関係を深め、1939年9月に合併して東京芝浦電気株式会社となった。発電・重電機器から通信機、家庭電器、電球・真空管までを一社で手がける総合電機が生まれ、合併後は東芝の略称が広く使われた。
重電の芝浦製作所と弱電の東京電気という二つの流れが一本化し、発電から家電までを一社で担う総合電機東芝が誕生した合併である。 - 芝浦マツダ工業㈱、日本医療電気㈱を合併し、家庭電器製品を拡充
東京芝浦電気は1942年10月、芝浦マツダ工業と日本医療電気を合併した。戦時下で軍需に応じて事業を拡大するなかで家庭電器製品の生産体制を拡充し、電球・照明から家電にわたる弱電製品の裾野を広げた。
戦時下の合併で家庭電器の生産基盤を厚くし、戦後の東芝を支える家電事業の体制を整えた企業買収である。 - 東京電気㈱(旧東京電気無線㈱)、東洋耐火煉瓦㈱を合併し、通信機製品(柳町工場、小向工場)を拡充
1943年7月、東京芝浦電気は東京電気無線と東洋耐火煉瓦を合併し、柳町工場・小向工場を得て通信機製品の生産を広げた。戦時下で軍用通信機器の需要が高まるなかで無線・通信分野を取り込み、後の重電・弱電に続く通信機事業の基盤を加えた。
通信機分野を自社に取り込み、重電・家電に通信を加えた総合電機としての製品幅を広げた企業買収である。 - 企業再建整備計画に基づき、43工場、2研究所のうち、15工場、1研究所をもって第二会社14社(東京電気器具㈱(現東芝テック㈱)を含む。)を設立、10工場を売却、1工場を閉鎖し、17工場、1研究所をもって新発足
敗戦後の1950年2月、東芝は企業再建整備計画に基づく大規模な再編を実施した。43工場・2研究所のうち15工場・1研究所を切り出して第二会社14社(東京電気器具=現在の東芝テックを含む)を設立し、10工場を売却、1工場を閉鎖したうえで、17工場・1研究所をもって新発足した。
財閥解体と戦後復興のなかで事業を大幅に整理して再出発した再編で、現在まで続く東芝の企業体はこの新発足を出発点とする。 - 東芝車輛㈱を合併し、車両製品を拡充
1950年4月、東芝は東芝車輛を合併し、鉄道車両製品を取り込んだ。戦後復興期の鉄道需要に応え、発電・重電を中心とする社会インフラ機器の製品群に車両を加えた。
重電の発電設備に鉄道車両を加え、東芝の重電・社会インフラ事業の裾野を広げた企業買収である。 - ㈱電業社原動機製造所を合併し、水車製品(蒲田工場)を拡充
1955年11月、東芝は電業社原動機製造所を合併し、蒲田工場を得て水車製品を取り込んだ。高度経済成長期に水力発電所の建設が全国で進むなかで、発電機に加えて水車を自社で供給できる体制を整え、発電設備メーカーとしての厚みを増した。
発電機に水車を組み合わせ、水力発電設備を一貫して供給できる発電機メーカーへ東芝の重電を厚くした企業買収である。 - 石川島芝浦タービン㈱を合併し、タービン製品(タービン工場)を拡充
1961年11月、東芝は石川島芝浦タービンを合併し、タービン工場を得て蒸気タービン製品を取り込んだ。火力発電所の大型化が進むなかで、発電機・水車に蒸気タービンを加え、発電設備を総合的に手がける体制を整えた。
蒸気タービンを取り込み、発電機・水車と合わせて発電設備を一貫供給する重電メーカーとしての東芝を完成させた企業買収である。 - 合成樹脂・絶縁材料事業を東芝ケミカル㈱(現京セラ㈱)へ譲渡
1974年10月、東芝は合成樹脂・絶縁材料事業を分社し、東芝ケミカル株式会社へ譲渡した。同社は1988年に東証二部へ上場したが、2002年に京セラが株式交換で買収して京セラケミカルへ改称し、2016年に京セラへ吸収合併された。
総合電機の裾野を成す素材事業を切り出した事業売却で、譲渡先の東芝ケミカルはのちに京セラの傘下へ移った。 - ㈱東芝に商号変更
1984年4月、東京芝浦電気は商号を株式会社東芝に変更した。1939年の合併以来広く使われてきた東芝の略称を正式な社名に改め、半導体や情報機器へ事業を広げる時期に社名の上でも東芝を看板とした。
定着していた東芝の略称を正式社名とし、半導体・情報機器で世界と競う企業へ移る時期の商号変更である。 - 日本原子力事業㈱を合併
1989年12月、東芝は日本原子力事業を合併し、原子炉メーカーとしての体制を整えた。東芝は米ゼネラル・エレクトリックの技術を導入した沸騰水型軽水炉を手がけ、国内の電力会社に原子力発電設備を納めていた。
原子炉メーカーを傘下に収めて原子力事業の体制を整え、のちに東芝の成長投資の中心となる原子力事業の基盤を築いた企業買収である。 - 本店を神奈川県川崎市から東京都港区に移転
- 電力系統・変電事業をティーエム・ティーアンドディー㈱に会社分割
2002年10月、東芝は電力系統・変電事業を会社分割し、三菱電機との合弁会社ティーエム・ティーアンドディーへ移した。両社が送変電事業を持ち寄って重電の再編を図る枠組みで、装置産業となった分野を他社と組んで運営する体制を選んだ。
送変電事業を三菱電機との合弁に移し、重電の一部を他社と組んで運営する再編を進めた会社分割である。 - ブラウン管事業をエムティ映像ディスプレイ㈱に会社分割
2003年、東芝はブラウン管事業を会社分割し、松下電器産業との合弁会社エムティ映像ディスプレイへ移した。出資比率は松下60%・東芝40%で、薄型テレビへの転換が進むなかで採算の重いブラウン管を他社と統合して運営する体制を選んだ。
採算の重いブラウン管事業を松下電器産業との合弁へ移し、薄型化が進むテレビ事業の構造を見直した会社分割である。 - 委員会等設置会社(現在の指名委員会等設置会社)に移行
2003年6月、東芝は委員会等設置会社(現在の指名委員会等設置会社)へ移行した。社外取締役を中心とする指名・報酬・監査の三委員会を置き、業務執行と監督を分ける統治形態を整え、日本企業では早い時期に先進的なガバナンスの枠組みを採用した。
執行と監督を分ける統治形態を日本で早くに採り入れ、東芝のガバナンス体制の基本形を定めた移行である。 - 製造業プラント向け電機設備事業をティーエムエイエレクトリック㈱(現東芝三菱電機産業システム㈱)に会社分割
2003年10月、東芝は製造業プラント向けの電機設備事業を会社分割し、ティーエムエイエレクトリックへ移した。三菱電機と産業用電機を統合する合弁で、同社は東芝三菱電機産業システム(TMEIC)となり、鉄鋼・自動車など製造業向けの駆動・制御システムを担った。
産業用電機事業を三菱電機との合弁に統合し、製造業向けシステムを他社と組んで担う体制を築いた会社分割である。 - 電力系統・変電事業をティーエム・ティーアンドディー㈱から譲受
2005年4月、東芝は電力系統・変電事業を合弁会社ティーエム・ティーアンドディーから譲り受けた。三菱電機との送変電の合弁関係を解消し、2002年に同社へ移していた変電事業を東芝が自社に戻した再編で、送変電を再び自前で手がける体制に戻した。
三菱電機との送変電合弁を解消して変電事業を自社へ戻し、2002年に始めた合弁による重電再編を組み替えた事業再編である。