汎用DRAMからの撤退とNAND型フラッシュメモリへの集中
世界一のメモリをあえて手放すか——選択と集中がたどり着いた撤退
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- 概要
- 1980年代に1メガビットDRAMで世界の先頭に立った東芝が、価格競争の激化とIT不況を受けて2001年に汎用DRAM事業から撤退し、みずから発明したNAND型フラッシュメモリとシステムLSIへ資源を集中させた経営判断。
- 背景
- 各社が256キロへ移るなか一挙に1メガへ先行投資した東芝はDRAM世界一となり、川西剛副社長は「DRAMエンペラー」と呼ばれた。一方で舛岡富士雄氏が1987年にNAND型フラッシュメモリを発明し、選択経営のもとで強みの分野へ賭けを重ねていた。
- 内容
- 1990年代を通じてDRAMがコモディティ化し韓国・台湾勢が台頭するなか、2001年のITバブル崩壊で市況が急落した。東芝は同年12月に汎用DRAMの製造販売の終息を発表し、米ドミニオン・セミコンダクターをマイクロンへ売却して、NAND型フラッシュとシステムLSIへ集中した。
- 含意
- 世界一の事業をあえて畳み、稼げる分野へ資源を寄せる選択と集中の型は、その後の原子力への集中投資と、2018年のメモリ事業売却へと連なっていった。
世界一を畳むという選択
この判断の核心は、世界一という地位そのものよりも、その地位が置かれた市場の性格を見極めた点にあるとみることができる。汎用DRAMは、微細化の競争が世代ごとに巨額の投資を求める一方で、製品が規格品へ近づくほど価格の主導権を握りにくい。東芝が先頭を走った1メガの時代から、韓国・台湾勢が量産で追い上げる時代へと移るなかで、稼げない汎用品を手放し、みずから生んだNAND型フラッシュメモリへ資源を寄せる選択には、一定の合理があったとみられる。栄光の事業をあえて畳む決断は、成功体験の重い企業ほど下しにくい。
もっとも、選択と集中という同じ型は、その後の東芝に別の顔も見せている。稼ぐ事業へ資源を寄せる発想は原子力への大型投資へと引き継がれ、やがて巨額の損失を招いた。窮地に立った東芝は、DRAM撤退のときに残したNAND型フラッシュメモリの事業までも手放すことになる。何を残し何を捨てるかという目利きは、市場の性格を読む力と、その賭けに社運を集中させることの危うさとを、つねに背中合わせに抱える。汎用DRAMからの撤退は、総合電機の東芝が事業を選ぶ経営へ向かった早い一歩として、後年の集中と手放しへ連なる問いを残している。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
DRAMエンペラーの時代
1980年代後半、東芝の成長を牽引したのは半導体であった。各社が256キロビットのDRAMへ移るなかで、東芝は一挙に1メガビットDRAMへ先行投資し、記憶用半導体の世界市場で先頭に立った。半導体事業の生産額は1990年度に7000億円へ達し、日立製作所の5800億円を上回って、首位の日本電気の7250億円に迫った。テレビや冷蔵庫を作る総合電機が、最先端の記憶素子で世界と競う企業へと姿を変えていった[1][2]。
世界一の地位は、経営陣の強気を支えていた。青井舒一社長は1メガDRAMに続く4メガDRAMも制覇すると公言し、2世代連続の首位に意欲を示した。もっとも、日本メーカーのDRAM攻勢は米国との貿易摩擦を招いていた。日米半導体協定のもとで米国は日本市場での外国製半導体シェア20%の達成を求め、青井社長はその計算方法の明確化を注文した。1987年に表面化した東芝機械のココム違反事件は前社長の引責辞任を招いており、青井社長は全社員が守る「事業活動に関する行動基準」を定めて信頼の回復を急いでいた。攻めの半導体と守りのリスク管理を、同じ経営者が同時に背負っていた[3][4]。
NAND型フラッシュの発明と選択経営という言葉
半導体のなかでも、のちの東芝を象徴する発明がフラッシュメモリであった。技術者の舛岡富士雄氏は、電源を切っても記憶が消えない不揮発性メモリの新方式を考案し、東芝は1987年、国際学会でNAND型フラッシュメモリを世界で初めて発表した。1991年には世界に先駆けて量産を始めている。小型・大容量で衝撃に強いこの半導体は、のちにデジタルカメラやスマートフォンの記録媒体として世界へ広がっていく。汎用DRAMと同じ記憶素子でありながら、価格競争の様相を異にする製品を、東芝は早い時期に自前で抱えていた[5]。
事業を絞り込む「選択経営」は、この時期の東芝を貫く言葉であった。その始まりは1978年、岩田弐夫社長が汎用コンピューターから撤退し、資源をパソコンと半導体へ集中させた決断にさかのぼる。1991年、コンピューター不況が半導体とパソコンを直撃し、東芝の中間決算の営業利益は前年同期比68.5%減と競合を上回る落ち込みとなったが、青井社長は「情報通信・半導体分野への経営特化が失敗だったとは思わない」と選択経営の継続を明言した。次の柱にはカラー液晶とリチウムイオン二次電池を据え、光ピックアップの生産を中止して資金と人材を液晶へ回している。強みの分野へ賭けを重ねる型は、すでにこの頃に定まっていた[6][7]。
決断
市況の暴落と撤退の決断
世界一を誇ったDRAMは、1990年代を通じて事業の性格を変えていった。微細化とともに用途が広がる一方で、製品の性能差は小さくなり、韓国・台湾のメーカーが巨額投資で量産に加わると、価格の下落が繰り返された。設備投資の重さに市況の乱高下が重なり、汎用DRAMは薄利のコモディティへと近づいていった。2001年、ITバブルの崩壊で半導体市況が急落すると、東芝は価格競争の激しい汎用DRAM事業からの撤退を決断する。長く世界の先頭を争ってきた記憶素子の一角から、東芝はみずから退いた[8]。
撤退の中身は、生産拠点の手放しであった。2001年12月18日、東芝は汎用DRAMの製造および販売を終息すると発表し、関連会社である米ドミニオン・セミコンダクターの土地・建屋・DRAM関連の製造設備を、2002年1月末を目標に米マイクロン・テクノロジーへ売却することで基本合意した。育ててきた工場を競合へ譲り渡す判断であった。あわせて東芝は、残す半導体をNAND型フラッシュメモリを中核とする高付加価値のメモリ製品へ特化させる方針を掲げ、DRAMの技術者をフラッシュメモリへ振り向けている[9][10]。
NANDとシステムLSIへの集中
撤退は、事業を選別する仕組みの整備と表裏をなしていた。東芝は1999年に社内カンパニー制を導入し、事業ごとに損益と資本の責任を負わせる体制へ移った。2000年6月に社長へ就いた岡村正氏は、経済付加価値(EVA)を経営指標に据え、カンパニーごとに新たな資本金を設定した。ボーナスや年俸をカンパニーの実績に連動させる報酬制度も敷き、稼ぐ事業と稼げない事業を待遇の面からも選別している。稼ぐ力を数字で測る枠組みのうえに、汎用DRAMからの撤退という重い判断が置かれていた[11]。
残す半導体をどう戦わせるかも、対外的に示された。東芝は半導体事業について韓国・台湾の企業をベンチマークに掲げ、世界市場での勝ち残りを目標に据えた。後工程を切り出し、制御用機器では米ゼネラル・エレクトリックと合弁を組み、送変電では三菱電機と提携するなど、装置産業となった分野は他社と組んで身軽になろうとした。2001年には松下電器産業と液晶ディスプレイの合弁会社を設立している。総合電機の全方位から、稼げる分野へ資源を寄せる選択と集中が、半導体の再編を軸に進んだ[12][13]。
結果
身軽になった総合電機と、集中の代償
事業の切り出しは、半導体の外へも広がった。2002年に電力系統・変電事業を三菱電機との合弁へ、2003年にはブラウン管事業を松下電器産業との合弁へと、それぞれ会社分割で移した。装置産業となった重い事業を、他社と束ねて外へ出す再編が続いた。ガバナンスの面でも、2003年6月に委員会等設置会社へ移行し、社外取締役を中心とする指名・報酬・監査の委員会を置いている。もっとも、撤退を決めた2002年3月期は、IT不況が業績を直撃した。連結売上高は5兆3940億円、営業損益は1135億円の赤字、最終損益は2540億円の赤字であった[14][15]。
手放した先で、残した賭けは実を結んでいく。汎用DRAMを退いた後、東芝はNAND型フラッシュメモリを半導体の中核に育て、システムLSIとあわせて経営資源を集中させた。デジタル機器の普及とともにフラッシュメモリの需要は伸び、四日市の拠点を軸とする投資が東芝の半導体事業を長く支えた。一方で、稼ぐ事業へ資源を寄せる選択と集中の型は、次の大きな賭けをも準備した。2006年の米ウェスチングハウス買収に象徴される原子力への集中投資であった。その原子力の巨額損失に追われた東芝は、2018年、みずから発明したNAND型フラッシュメモリの事業を約2兆円で売却する。栄光のDRAMを退いた判断は、その後の東芝が歩む集中と手放しの始まりにも位置していた[16][17]。
- 日経ビジネス 1991年5月27日号「編集長インタビュー 青井舒一氏[東芝社長] 4メガも制覇したい 競争だから摩擦はあるが」
- 日経ビジネス 1991年7月1日号「川西剛[東芝副社長]の100人 DRAM王者が液晶狙い 2冠を手土産に頂点へ」
- 日経ビジネス 1991年12月16日号「『強い東芝』への胎動 パソコンに不況直撃 『選択経営』次は液晶」
- 日経ビジネス 2001年4月2日号「言葉に酔っていた?『分社経営』持て余す総合電機」
- 東芝 プレスリリース(2001年12月18日)「汎用DRAM事業からの撤退について」
- ITmedia(2019年12月20日)「『フラッシュメモリー産みの親』東芝が敗北した真の理由」
- 東芝 アニュアルレポート2003(2001年度版)
- 東芝 有価証券報告書(2002年3月期・連結)
- 日本経済新聞(2018年6月1日)「『ニッポン半導体』首位奪還遠く 東芝メモリ売却完了」