松下幸之助による事業部制の導入——製品別・独立採算の自主責任経営
一人で全体を見切れなくなった会社を、どう分けて任せるか——「一国一城の主」に損益を負わせる仕組み
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- 概要
- 1933年5月、松下幸之助は門真への本店移転と同時に、工場を製品別の三つの事業部に分け、各事業部長に製造から販売までの損益責任を負わせる事業部制を導入した。体が弱く自分一人では全体を見切れないと自覚した創業者が、若い従業員に仕事を任せる行き方を制度にしたもので、日本の企業組織における事業部制の先駆けとなった経営判断。
- 背景
- 1918年に配線器具メーカーとして出発した松下電気器具製作所は、ランプ・乾電池・電熱器・ラジオへと品目を急速に広げ、創業者一人が全事業を統べることが難しくなっていた。1932年には大量生産で物資を安く供給する「水道哲学」を掲げ、拡大する事業をどう運営するかが課題になっていた。
- 内容
- 工場をラジオの第一事業部、ランプ・乾電池の第二事業部、配線器具・合成樹脂・電熱器の第三事業部に分け、各事業部が独立採算で損益に責任を負う体制を敷いた。1935年の松下電器産業への改組時には、事業部制をさらに進めて事業部門別に9社の子会社を置く分社制へ発展させた。
- 含意
- 各事業部長を「一国一城の主」として自主責任で経営させる仕組みは、経営者を社内で育てる装置となり、後年「経営の神様」の先見性の代表例とされた。以後90年にわたり、松下=パナソニックは事業部制の導入・回帰・解体を繰り返すことになり、この1933年の判断は組織の原型として残った。
任せることを制度にした発明
この決断で注目したいのは、動機が経営理論ではなく、創業者自身の身体と性分にあった点である。体が弱く一人では全部を抱えられないという自覚が、他人に任せるという流儀を生み、それが事業部制という仕組みに結晶した。強い個人が全体を統べるのではなく、責任を分けて配ることで組織を回す——弱さから出発した設計であればこそ、規模が膨らんでも壊れにくい型になったとみることができる。
一方で、任せる仕組みは放っておくと重複や縦割りを生みやすく、そのたびに束ね直しが必要になる。松下=パナソニックが90年にわたって事業部制を導入・解体・回帰と繰り返してきたのは、自律と統合のどちらか一方では経営が回らないことの裏返しでもある。1933年に幸之助が下したのは一度きりの組織変更ではなく、以後の経営者が繰り返し向き合うことになる問いを立てた判断だったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
配線器具から多品目へ広がった個人経営
松下電気器具製作所は、1918年に松下幸之助が自宅の二間を土間に改装して始めた配線器具メーカーであった。二灯用差込プラグや改良アタッチメントで販路を広げると、1923年には砲弾型の電池式ランプ、1927年には統一商標「ナショナル」、さらに電熱器や乾電池、ラジオへと、扱う製品を次々に増やしていった。一つの町工場から出発した事業が、わずか十数年で複数の製品分野を抱えるまでに膨らんでいた[1]。
事業が広がるにつれ、創業者一人が全体に目を届かせることは難しくなっていた。もともと体が弱かった松下幸之助は、自分一人の力には限界があると早くから自覚し、他人に仕事を任せる行き方を学びとっていた。1932年には物資を水道の水のように安く豊富に供給して社会から貧をなくすという「水道哲学」を掲げ、大量生産へ向かう構えを固めた矢先で、拡大する事業をどう統べるかが差し迫った問いになっていた[2][3]。
決断
三つの事業部への分割
1933年5月、松下幸之助は大阪郊外の門真に本店と工場群を移すのと同時に、工場を製品別の三つの事業部に分けた。ラジオ部門を第一事業部、ランプ・乾電池部門を第二事業部、配線器具・合成樹脂・電熱器部門を第三事業部とし、それぞれが独立採算で運営される。開発から製造、販売までを一つの事業部が受け持ち、損益に責任を負う仕組みで、日本の企業組織における事業部制の先駆けとなった[4][5]。
この分割のねらいは、単に仕事を割り振ることになかった。各事業部長を一つの独立した会社の経営者のように扱い、製品の良し悪しから採算までを自分の責任として引き受けさせる。若い従業員に責任ある仕事を任せてきた創業者の流儀を、そのまま組織の仕組みへと据え直したものであった。事業を分けることが、同時に経営者を育てる装置になるという発想が、ここに形をとった[6]。
分社制への発展と法人改組
事業部制は、その後さらに徹底された。1935年12月、松下電気器具製作所は松下電器産業株式会社へ改組する。この法人化と同時に、事業部制を一段進めた「分社制」へ移り、事業部門ごとに9社の子会社を傘下に置いた。事業部という社内の区分にとどめず、それぞれを別会社として独立させることで、自主責任経営の色をいっそう濃くした[7]。
製品ごとに独立した経営単位を並べる構えは、戦後の松下が総合家電メーカーへ拡大する土台になった。冷蔵庫・洗濯機・テレビと事業を増やすたびに新しい事業部や子会社を立て、それぞれに損益を負わせて競わせる。1933年に敷かれた製品別・独立採算の型が、増殖する事業を受け止める器として長く機能していった[8]。
結果
日本的経営の原型と「事業部制の振り子」
事業部制は、松下幸之助が生んだ経営手法のなかでも代表的なものとして後年に評価された。創業者の逝去を報じた日本経済新聞は、その卓抜した手腕を商品開発だけでなく創造的な経営手法を編み出した点に見て、「事業部制の採用、実物宣伝、保証付き販売、直販制などは、後年、『経営の神様』の異名をとるにふさわしい先見性だった」(日本経済新聞 1989/04/27)と記している。分けて任せるという発想が、松下の経営思想の骨格として刻まれた[9]。
もっとも、この仕組みは一度作って終わるものではなかった。以後の松下=パナソニックは、事業部制を集権的に束ね直したり(1994年の回帰)、ドメイン制で解体したり(2000年代の中村改革)、再び事業部制へ戻したり(2013年)と、求心と遠心のあいだで組織を揺らし続けた。2022年の持株会社移行も、幸之助が1933年に導入した自律経営の思想を事業会社制という現代の形に置き換える試みであった。1933年の判断は、その長い振り子運動のはじまりにあたる[10]。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- 日本経済新聞(1989年4月27日)
- パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】