前身・松下電器と創業者の松下幸之助氏
松下幸之助氏は1894年11月、和歌山県海草郡和佐村に生まれた[1]。父が米相場で失敗して家運が傾き[2]、小学校を四年で中退した氏は、9歳で大阪の火鉢店へ丁稚奉公に出ている[3]。三カ月で自転車店へ移って17歳まで六年を過ごし[4]、市電の普及で自転車の需要が減ると読んで大阪電灯へ転じた。屋内配線工事の助手から三カ月で担当者へ昇格し[5]、24歳の春には工事人仲間の出世目標であった検査員に就いた[6]。ところが日に十五軒から二十軒を回る検査は二、三時間で済み[7]、仕事に熱が入らなくなった。在職中に試作した改良ソケットを主任へ見せたときの答えは『だめだよこれは[8]』であった。氏は『よし会社を辞めよう。七年間の努力も惜しいが』[引用元]と決めて辞表を出した。
開業の資金は退職金33円二十銭に社内積立金42円と貯金を合わせた百円足らず[9]で、これに知人からの借入百円を加えた[10]。工場は住まいの平屋の二畳と四畳半の半分を土間にしたもの[11]で、まともに寝る場所も残らなかった。1917年10月にソケットが仕上がった[12]ものの、十日ほど市内を回って売れたのは百個ほど、売上は十円に満たなかった[13]。四カ月かけて十円という結果に加わった者は離れ、残ったのは氏と義弟の井植歳男氏だけとなり[14]、夫婦の着物は質屋に入った[15]。そこへ電気商会から扇風機の碍盤一千枚の注文が入った[16]。型押しのポンスと練り物を煮る鍋しかない設備で年の瀬までに仕上げ、差引80円ほどの初めての利益を得ている[17]。碍盤の注文が続いたことで事業は細々ながら続き、1918年3月、大阪市福島区大開町で松下電気器具製作所を創業して配線器具の製造を始めた[18]。
大開町で最初に手がけたのは古電球の口金を応用したアタッチメントプラグ[19]で、市価の3割安という値付けが当たり[20]、夜なべでも注文に応じきれずに四、五人を雇い入れた[21]。続く二灯用差込プラグはさらに評判を呼び、大阪の問屋である吉田商店から一手販売の申し込みを受けて保証金3,000円で契約し[22]、この資金を工場の拡張へ充てている。1922年には手元資金4,500円に対して7,000円あまりを投じ[23]、同じ町内に70坪の本工場を建てた[24]。松下電器の基礎となる自転車用ランプの製造販売に取りかかったのもこの年で、当時の自転車の灯りはろうそくかアセチレンガスであり、電池式は二、三時間で消耗して実用に耐えなかった[25]。氏は無故障と十時間以上の持続を目標に半年をかけ、百個近い試作の末に砲弾型へ行き着いた[26]。
1923年3月に発売した砲弾型電池式ランプ[27]は三十時間から五十時間もった[28]が、販売は製造以上の難関となった。問屋はどこを回っても答えが同じで、六月から作りためた在庫は二千個に達し、木管屋との月二千個の約束がある[29]以上は生産も止められなかった。氏は『これは背水の陣をしくことだ』[引用元]として、三人の外交員を雇い、大阪中の小売店へ二、三個ずつ置いて回らせた[30]。うち一個をその場で点灯し[31]、三十時間以上もつと確かめてから売り、安心できたら代金を払えばよいと伝えさせている。一カ月で四、五千個を預けるうちに評判が立ち[32]、二、三カ月後には小売店から注文が届くようになった。氏はこれを『全く松下電器の運命をかけた販売』[引用元]と振り返っている。1927年4月には統一商標として『ナショナル』を制定[33]した。
1927年4月の金融恐慌では、取引の中心にしていた十五銀行が支払を停止した[34]。受取手形の割引が七、8万円、定期預金が3万5,000円あまり[35]という相手の破綻は資金繰りを直撃したが、その二カ月前に住友銀行との取引契約が成立していた[36]。住友の行員から十回近く勧誘を受けた氏は、取引開始に先立って2万円の随時貸出契約を結ぶよう求め[37]、前例がないと渋る相手に押し通している。取付け騒ぎのさなかに念のため確かめると『約束を変えねばならない状態ではありませんから、いつでもご利用下さい』[引用元]との返答であった。1929年には500坪の工場を建てる際に15万円を無担保で借りている[38]。
1929年末、緊縮政策のもとで製品の売行きが半減し[39]、倉庫に入りきらないほどの在庫が積み上がった。病床にあった氏は従業員を半減してはどうかという相談を受けたが、生産は即日半減しても従業員は一人も減らさず、工場を半日勤務としたうえで日給は全額を支給し[40]、その代わり休日を廃して全員で在庫の販売にあたるという方針を即日示した。在庫は二カ月ほどで売り尽くされ[41]、工場の稼働は元へ戻っている。1932年5月5日、氏は全店員を集めた席で[42]、生産者の使命は物資を水道の水のように豊富にしてこの世から貧しさを無くすところにある[43]と説き、この日を創業記念日と定めた。使命の達成には250年をあて、25年を一節として十節で完成する[44]という時間の区切りも置いた。
1933年5月、本店を門真へ移すと同時に[45]、工場をラジオの第一事業部、ランプと乾電池の第二事業部、配線器具・合成樹脂・電熱器の第三事業部[46]へ分け、各事業部長が製造から販売までの損益に責任を負う事業部制を敷いた[47]。体が弱く自分一人では全体を見切れないという自覚[48]が、若い従業員へ仕事を任せる行き方を制度にさせている。1935年8月に松下電器貿易を設立し[49]、同年12月には改組して松下電器産業株式会社となった[50]。資本金は1,000万円で[51]、事業部制はさらに進んで事業部門別に九社の子会社を置く分社制へ広がっている[52]。1934年にはモーターを手がけ、関西に小型電動機のメーカーが一つもないことを理由に住友と提携して資本金100万円の傍系会社を興した[53]。
統制経済から戦時へ移ると資材と機械が細り[54]、軍需の生産だけが続いた。200トン級の木造船の生産計画が大阪府へ割り当てられると松下電器が引き受け、堺市の3万坪を払い下げて松下造船を設立し[55]、半年ほどで工場を建てて終戦までに56隻を進水させている[56]。一日一隻を目標に据えた工場は、やがて六日に一隻を送り出すまでになった[57]。同じ年に海軍から木製飛行機の製造命令が下り、十万坪を買収して資本金3,000万円の会社を設立した[58]が、合板の技術は難しく、完成したのは三機にとどまった[59]。軍が求めた月産二百機には遠く及ばない[60]数であった。
敗戦後の五年間、松下電器は制限会社の指定をはじめ七つの制限を課され[61]、資産を動かすことも許されなかった。氏は財閥指定に対して松下は財閥ではないと主張し続け、指定は1949年末に解除された[62]が、軍需生産を指導した経緯から公職追放のA級に指定された[63]。社長退陣に抗議の余地はないと本人も腹を決めかけたところ、留任の運動に立ったのは会社の労働組合であった[64]。当時1万5,000人の従業員が一人ずつ署名捺印を集め[65]、政府と総司令部へ働きかけている。一カ月後に指定はB級へ変更され[66]、審査を経て全重役の追放が取り止めとなった[67]。
社長の座は守ったものの、この五年で負債は10億円に達し、税金の滞納額でも上位に並んだ[68]。それまで避けてきた人員整理に踏み切り、従業員は3,500人まで減っている[69]。1949年5月には東京証券取引所と大阪証券取引所へ株式を上場[70]した。制限が解けた1950年7月17日、氏は幹部を集めた緊急経営方針発表会[71]で再建への決意を説き、『明けても暮れても商売一本でいく意欲がわいてきた』[引用元]と述べている。翌1951年1月には経営を学ぶため三カ月にわたって渡米し[72]、GEの標準型ラジオが24ドルで売られ工員が二日働けば買える[73]のに対し、松下電器のラジオは9,000円で作業員の月給が6,000円[74]という開きを目の当たりにした。
テレビへ進むには心臓部のブラウン管の技術が要り[75]、自前の蓄積を持たない松下電器は導入先を探した。戦前から取引のあったフィリップスは、イニシャル・ペイメント55万ドル、株式参加30%、技術指導料六%[76]を条件として示した。氏はこれに経営指導料を対置し、合弁会社の経営を担うのは松下電器である以上その対価も評価すべきだ[77]と主張して譲らなかった。交渉は決裂寸前まで進んだが、技術指導料四・5%を支払う代わりに経営指導料三%を受け取る[78]ことで決着している。1952年12月、フィリップスとの技術提携により松下電子工業が発足し、管球製造所の四工場が本体から分離[79]された。高槻の新工場では1954年から電球・蛍光灯・真空管・ブラウン管・トランジスタの生産[80]が始まっている。
1952年1月には中川機械と資本提携して冷蔵庫へ入り[81]、1954年2月には日本ビクターと資本提携した[82]。ビクターは資本金2,500万円に対して4億5,000万円の借金を抱えていた[83]が、氏は犬の商標が持つ暖簾の値打ちを見て引き受けを決めている[84]。1956年1月10日の経営方針発表会[85]では、前年220億円の売上を五年で四倍の800億円にする[86]という五ヵ年計画を公表した。一企業が将来の目標を外部へ発表する例のない時代で社内にも半信半疑の空気が残ったが、目標は四年目にほぼ達成され、五年後の生産販売額は1,050億円に達している[87]。1958年1月には松下通信工業を設立して通信機器製造部門を分離し[88]、1959年9月にはアメリカ松下電器を設立して海外拠点の展開に入った[89]。1960年に掲げた週二日休日は、1965年4月の週五日制として実現[90]している。
1957年に発足させたナショナル店会は全国の零細な電器店を系列の販売網として組織し[91]、松下電器は『販売の松下』と呼ばれた[92]。1964年、東京オリンピック後の反動で家電の市況が悪化し[93]、販売会社と代理店の多くが赤字へ沈んだ。同年7月、会長へ退いていた氏は熱海のニュー富士屋ホテルへ全国の販売会社・代理店の社長を集めている[94]。資本金500万円で1億5,000万円の欠損を出した会社があり[95]、もうかっているかと尋ねて挙手したのは30人ほど、残る170人ほどは赤字であった[96]。二日の予定は三日目に入っても苦情がやまず[97]、氏は壇上で『結局は松下電器が悪かった。この一語に尽きると思います』[引用元]と述べて非を認め、会場では半数以上がハンカチを取り出した[98]。会談後、氏は病気療養中の安川洋副社長に代わって営業本部長代行に就き[99]、一地域一販社制と事業部直販制、新月販制度からなる新販売制度を1965年2月から実施した[100]。
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| 1918〜1932年二畳の土間から始めた配線器具と、水道哲学という使命 | 松下幸之助氏による松下電気器具製作所の創業と、売れない改良ソケットを抱えた出発 1917年6月、大阪電灯の検査員であった松下幸之助氏が、社内で容れられなかった改良ソケットを自らつくるために七年勤めた会社を辞め、翌1918年3月、大阪市大開町の借家に松下電気器具製作所を創立した経営判断。妻むめの氏と義弟の井植歳男氏を含む数人の家内工業として、配線器具の製造を始めた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 砲弾型電池式ランプを考案発売 | ★ | |||
| 「ナショナル」の商標を制定 | ★ | |||
| 1933〜1964年事業部制という組織の原型と、戦後の再建、そして熱海 | 松下幸之助氏による事業部制の導入——製品別・独立採算の自主責任経営 1933年5月、松下幸之助氏は門真への本店移転と同時に、工場を製品別の三つの事業部に分け、各事業部長に製造から販売までの損益責任を負わせる事業部制を導入した。体が弱く自分一人では全体を見切れないと自覚した創業者が、若い従業員に仕事を任せる行き方を制度にしたもので、日本の企業組織における事業部制の先駆けとなった経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 松下電器貿易を設立 | ★ | |||
| 松下電器産業に改組 | ★ | |||
| 松下幸之助 | 東京証券取引所・大阪証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 松下幸之助 | フィリップスとの技術提携——「5分と5分、対等である」 1952年、松下電器産業はオランダのフィリップスと技術提携し、合弁で松下電子工業を設立してブラウン管技術を導入した。テレビ参入の技術的な壁を越え、『量から質への転換』を果たした経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 松下幸之助 | 中央研究所を設立 | ★ | ||
| 松下幸之助 | 日本ビクターと資本提携 | ★★ | ||
| 松下幸之助 | 松下通信工業を設立し通信機器部門を分離 | ★ | ||
| 松下幸之助 | アメリカ松下電器を設立し海外展開を開始 | ★ | ||
| 松下正治 | 松下正治氏が取締役社長に就任 | ★ | ||
| 松下正治 | 東方電機と資本提携 | ★ | ||
| 松下正治 | 熱海会談と新販売制度——「松下電器が悪かった」から始めた販売改革 1964年、家電の乱売競争で販売会社・代理店の多くが赤字に陥るなか、会長の松下幸之助氏は全国170社の社長を熱海に集めた。3日間の激論の末、幸之助氏は『結局は松下電器が悪かった』と非を認めて涙し、対立を和解へ転じた。直後に自ら営業本部長を代行し、一地域一販社制・事業部直販制・新月販制度からなる新販売制度を敷いて、共存共栄を仕組みに変えた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 1965〜1993年部門分離による垂直統合と、専門経営者への継承 | 松下正治 | 松下寿電子工業を設立 | ★ | |
| 松下正治 | ニューヨーク証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 松下正治 | 松下電子部品を設立し電子部品部門を分離 | ★ | ||
| 松下正治 | 松下住設機器・松下産業機器を設立し2部門を分離 | ★ | ||
| 山下俊彦 | 山下俊彦氏の社長抜擢——序列を越えた「25段跳び」 1977年2月、松下電器産業は取締役の山下俊彦氏を社長に据えた。序列で25番手からの『25段跳び』とも言われた抜擢で、創業者の松下幸之助氏が松下正治社長・高橋荒太郎会長と諮って決めた。同族でも純粋な実力主義でもない、専門経営者に創業者の権威を後ろ盾として付ける二重統治の始まりとなった経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 山下俊彦 | 松下電池工業を設立し電池部門を分離 | ★ | ||
| 山下俊彦 | 金融子会社を設立 | ★ | ||
| 山下俊彦 | 半導体基礎研究所を設立 | ★ | ||
| 谷井昭雄 | 谷井昭雄氏が取締役社長に就任 | ★ | ||
| 谷井昭雄 | 松下電器貿易を合併 | ★ | ||
| 谷井昭雄 | 創業者松下幸之助が逝去 | ★ | ||
| 谷井昭雄 | 米MCAの7800億円買収と、5年での売却 1990年12月、松下電器産業は米エンターテインメント大手MCAを約61億ドル(約7800億円)で買収した。ハードとソフトの融合を掲げ、日本企業の海外買収では史上最高額の投資だったが、才能が価値を決めるハリウッドの事業を製造業の論理で御しきれず、1995年に持分の8割をシーグラムへ譲渡してわずか5年で撤退した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 森下洋一 | 森下洋一氏が取締役社長に就任 | ★ | ||
| 森下洋一 | フィリップス社との松下電子工業に関する合弁契約を解消 | ★★ | ||
| 森下洋一 | 森下氏改革——事業本部を廃し、社長直轄の事業部制へ回帰する 1993年12月、松下電器産業の森下洋一社長は、1984年に復活させた事業本部制を廃止し、担当役員は置きつつ実質的に社長直轄で事業部をみる組織へ改めた。3期連続減益と炊飯器リコールでの意思決定の遅れを背景に、組織の二重構造を断って迅速な意思決定を取り戻そうとした。幸之助氏が1933年に生んだ事業部制への回帰でもあった経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 1994〜2026年事業部制の解体と再生、プラズマの失敗、そして事業会社制へ | 森下洋一 | MCA社持分の80%をシーグラム社へ譲渡 | ★★ | |
| 中村邦夫 | 中村邦夫氏の「破壊と創造」——事業部制の解体とグループ5社の完全子会社化 2000年6月に社長へ就任した中村邦夫氏は『破壊と創造』を掲げ、上場後初の連結最終赤字に沈んだ松下電器の構造改革に踏み込んだ。事業ドメイン制の導入で事業部の壁を崩し、松下幸之助氏が築いた分社経営の象徴だったグループ主要5社を株式交換で完全子会社化し、1万人規模の希望退職も断行した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 中村邦夫 | 松下電工・パナホームとその子会社を子会社化 | ★★ | ||
| 大坪文雄 | 社名を松下電器産業からパナソニックに変更 | ★ | ||
| 大坪文雄 | 初の純損失を計上 | ★★ | ||
| 大坪文雄 | 三洋電機の買収——「もうひとつの成長エンジン」を電池に賭ける リーマン直後に約4000億円で三洋電機を子会社化し、リチウムイオン電池と太陽電池のエナジー技術を「もうひとつの成長エンジン」に据えた買収 詳細を読む | ★★★ | ||
| 大坪文雄 | パナソニック電工・三洋電機を完全子会社化 | ★★ | ||
| 大坪文雄 | 2期連続の巨額純損失 | ★★ | ||
| 津賀一宏 | 津賀一宏氏が取締役社長に就任 | ★ | ||
| 津賀一宏 | プラズマテレビからの撤退——5000億円の内製を畳む 2013年、パナソニックの津賀一宏社長は、中村邦夫氏・大坪文雄氏の両体制が累計5000億円超を投じてきたプラズマテレビ事業からの撤退を決めた。同年12月にプラズマパネルの生産を終え、2014年3月末で兵庫県尼崎の専用工場を止めた。液晶の大型化と低価格化にプラズマの画質優位を相殺され、自前パネルの内製という垂直統合の看板を、自ら畳んだ経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 津賀一宏 | テスラとの車載電池協業とギガファクトリー——家電から「走る電池」へ 危機の底から会社を立て直した津賀一宏社長は、家電依存からの脱却を最重要テーマに据え、車載電池を成長の柱に選んだ。パナソニックは2009年にテスラへ円筒形リチウムイオン電池の供給を始め、2014年には米ネバダ州の大規模電池工場ギガファクトリーへ製造機能を預けて参画した。三洋買収で得た電池技術を『走る電池』で生かす、BtoB転換の象徴となった経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 楠見雄規 | 楠見雄規が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 楠見雄規 | Blue Yonderを完全子会社化 | ★★ | ||
| 楠見雄規 | ブルーヨンダー買収と持株会社への移行——「事業会社制」への組み替え 2021年6月に社長へ就いた楠見雄規氏は、就任直後の同年9月に米サプライチェーン・ソフト大手ブルーヨンダーを約78.9億ドル(8633億円)で完全子会社化し、翌2022年4月には吸収分割で各事業を9社に承継させて持株会社パナソニックホールディングスへ移行した。ハードとソフトの融合と自主責任経営の徹底を掲げ、事業構造と組織を同時に組み替えた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 楠見雄規 | パナソニック オートモーティブシステムズの一部株式売却 2023年11月、パナソニック ホールディングスは、車載機器子会社パナソニック オートモーティブシステムズの株式の一部を、米投資ファンド大手アポロ・グローバル・マネジメントの傘下ファンドへ売却することで基本合意した。楠見雄規社長が『成長領域』への集中を進めるなかで、100%子会社であった車載事業を持分法適用会社へ移す判断であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 楠見雄規 | 好業績下での国内外1万人削減——固定費構造の改革 2025年5月、パナソニック ホールディングスは、12年連続で黒字を確保する好業績のさなかに、連結で国内外あわせて1万人規模の人員削減を柱とする構造改革を発表した。グループCEOの楠見雄規氏は、同業他社より約5ポイント重い販管費という固定費構造と、30年にわたり実質的な成長を欠いてきた停滞に危機感を示し、余力のあるうちに固定費を削る『黒字リストラ』へ踏み込んだ経営判断であった。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(パナソニック)