パナソニック の歴史

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前身・松下電器と創業者の松下幸之助氏

創業 1918年
創業者 松下幸之助
創業地 大阪市福島区
創業
1918年3月、松下幸之助氏が大阪で松下電気器具製作所を創業した。勤めていた電力会社で採用されなかった改良ソケットを自ら製品にするための独立で、売れない在庫を抱えて出発した。二股ソケットと砲弾型自転車ランプで足場を得て、1929年に松下電器製作所、1935年に松下電器産業へ改組している。1933年には事業部制を導入し、製品ごとに独立採算で経営させる形を敷いた。工場と販路を一つの中央が握らない分権の仕組みが、以後90年の組織の原型になった。
決断
創業者が作った組織の形を、壊しては組み直してきた。1964年7月、販売会社と代理店の赤字が続くなか、松下幸之助氏が自らの非を認めて販売制度を作り直し、全国の販売網を組み替えた。その後も事業部は増え続け、2001年には中村邦夫氏が事業部制そのものを解体し、重複した事業部とグループ5社の分社体制を整理している。2021年には米ブルーヨンダーを約8,633億円で取得し、翌2022年4月に持株会社と事業会社制へ移行した。製品別に組織を割るという1933年の仕組みは、90年を経てソフトウェアを含む事業会社の集まりへ姿を変えた。
現況
家電の名前で知られながら、利益の出所はすでに家電の外にある。2026年3月期の連結売上高は8兆487億円、営業利益は2,364億円だった。事業別の営業利益はサプライチェーンソフトを含むコネクトの1,001億円が最も大きく、エナジー698億円、エレクトリックワークス577億円、インダストリー405億円と続く一方、テレビと白物家電を扱うスマートライフは373億円の営業損失を計上している。2023年にパナソニック オートモーティブシステムズの株式を売却し、2024年12月の譲渡完了で車載システムは持分法適用会社へ移った。2025年5月には国内外で1万人規模の人員削減を決め、12年続けた黒字のさなかに固定費の削減へ着手している。
競合
同業を買って受け継いだ電池が、現在の競争相手を入れ替えた。2008年12月、リーマン・ショックの直後に約4,000億円で三洋電機を子会社化し、リチウムイオン電池と太陽電池を取り込んだ。この電池は2014年からテスラの北米工場へ供給され、2026年3月期のエナジー事業は売上高9,842億円・営業利益698億円と、家電の各事業を上回る利益を出している。テレビでは液晶へ集中投資したシャープが資本ごと台湾企業の傘下へ移り、ゲームと音楽へ移ったソニーがエンタテインメントへ収益源を移すなか、パナソニックは同じ製品群を持ったまま利益の出所だけを入れ替えた。家電の量産で磨いた工程の技術は、現在は自動車と建物の設備に載って利益を生んでいる。

創業ストーリー 二畳の土間から始めた配線器具と、水道哲学という使命 (1918年〜)

改良ソケットの四カ月と、碍盤が開いた活路

松下幸之助氏は1894年11月、和歌山県海草郡和佐村に生まれた[1]。父が米相場で失敗して家運が傾き[2]、小学校を四年で中退した氏は、9歳で大阪の火鉢店へ丁稚奉公に出ている[3]。三カ月で自転車店へ移って17歳まで六年を過ごし[4]、市電の普及で自転車の需要が減ると読んで大阪電灯へ転じた。屋内配線工事の助手から三カ月で担当者へ昇格し[5]、24歳の春には工事人仲間の出世目標であった検査員に就いた[6]。ところが日に十五軒から二十軒を回る検査は二、三時間で済み[7]、仕事に熱が入らなくなった。在職中に試作した改良ソケットを主任へ見せたときの答えは『だめだよこれは[8]』であった。氏は『よし会社を辞めよう。七年間の努力も惜しいが』[引用元]と決めて辞表を出した。

  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [1]1894年11月 和歌山県海草郡和佐村に誕生
    • [2]父の米相場失敗で家運が傾く
    • [3]9歳で大阪の火鉢店へ丁稚奉公
    • [4]自転車店に17歳まで六年
    • [5]大阪電灯で助手から三カ月で担当者へ昇格
    • [6]24歳の春に検査員へ昇格
    • [7]検査は日に十五軒から二十軒・二、三時間で終了
    • [8]改良ソケットへの主任の答え

開業の資金は退職金33円二十銭に社内積立金42円と貯金を合わせた百円足らず[9]で、これに知人からの借入百円を加えた[10]。工場は住まいの平屋の二畳と四畳半の半分を土間にしたもの[11]で、まともに寝る場所も残らなかった。1917年10月にソケットが仕上がった[12]ものの、十日ほど市内を回って売れたのは百個ほど、売上は十円に満たなかった[13]。四カ月かけて十円という結果に加わった者は離れ、残ったのは氏と義弟の井植歳男氏だけとなり[14]、夫婦の着物は質屋に入った[15]。そこへ電気商会から扇風機の碍盤一千枚の注文が入った[16]。型押しのポンスと練り物を煮る鍋しかない設備で年の瀬までに仕上げ、差引80円ほどの初めての利益を得ている[17]。碍盤の注文が続いたことで事業は細々ながら続き、1918年3月、大阪市福島区大開町で松下電気器具製作所を創業して配線器具の製造を始めた[18]

  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [9]開業資金 退職金33円20銭・積立金42円・貯金で百円足らず
    • [10]知人からの借入100円
    • [11]工場は平屋の二畳と四畳半の半分を土間に改装
    • [12]1917年10月 ソケット完成
    • [13]十日で百個ほど・売上10円未満
    • [14]参加者が離れ井植歳男と二人に
    • [15]夫婦の着物を質屋へ
    • [16]扇風機の碍盤1,000枚の注文
    • [17]差引80円の初めての利益
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [18]1918年3月 大阪市福島区大開町に松下電気器具製作所を設立創業、配線器具の製造を開始
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [1]1894年11月 和歌山県海草郡和佐村に誕生
    • [2]父の米相場失敗で家運が傾く
    • [3]9歳で大阪の火鉢店へ丁稚奉公
    • [4]自転車店に17歳まで六年
    • [5]大阪電灯で助手から三カ月で担当者へ昇格
    • [6]24歳の春に検査員へ昇格
    • [7]検査は日に十五軒から二十軒・二、三時間で終了
    • [8]改良ソケットへの主任の答え
    • [9]開業資金 退職金33円20銭・積立金42円・貯金で百円足らず
    • [10]知人からの借入100円
    • [11]工場は平屋の二畳と四畳半の半分を土間に改装
    • [12]1917年10月 ソケット完成
    • [13]十日で百個ほど・売上10円未満
    • [14]参加者が離れ井植歳男と二人に
    • [15]夫婦の着物を質屋へ
    • [16]扇風機の碍盤1,000枚の注文
    • [17]差引80円の初めての利益
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [18]1918年3月 大阪市福島区大開町に松下電気器具製作所を設立創業、配線器具の製造を開始

実演販売で開いた砲弾型ランプの販路

大開町で最初に手がけたのは古電球の口金を応用したアタッチメントプラグ[19]で、市価の3割安という値付けが当たり[20]、夜なべでも注文に応じきれずに四、五人を雇い入れた[21]。続く二灯用差込プラグはさらに評判を呼び、大阪の問屋である吉田商店から一手販売の申し込みを受けて保証金3,000円で契約し[22]、この資金を工場の拡張へ充てている。1922年には手元資金4,500円に対して7,000円あまりを投じ[23]、同じ町内に70坪の本工場を建てた[24]。松下電器の基礎となる自転車用ランプの製造販売に取りかかったのもこの年で、当時の自転車の灯りはろうそくかアセチレンガスであり、電池式は二、三時間で消耗して実用に耐えなかった[25]。氏は無故障と十時間以上の持続を目標に半年をかけ、百個近い試作の末に砲弾型へ行き着いた[26]

  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [19]古電球の口金を応用したアタッチメントプラグ
    • [20]市価の3割安の値付け
    • [21]四、五人を雇用
    • [22]吉田商店と保証金3,000円で一手販売契約
    • [23]1922年 手元資金4,500円に対し7,000円余を投資
    • [24]七十坪の本工場を建設
    • [25]既存の電池式ランプは二、三時間で消耗
    • [26]半年・百個近い試作を経て砲弾型に到達

1923年3月に発売した砲弾型電池式ランプ[27]は三十時間から五十時間もった[28]が、販売は製造以上の難関となった。問屋はどこを回っても答えが同じで、六月から作りためた在庫は二千個に達し、木管屋との月二千個の約束がある[29]以上は生産も止められなかった。氏は『これは背水の陣をしくことだ』[引用元]として、三人の外交員を雇い、大阪中の小売店へ二、三個ずつ置いて回らせた[30]。うち一個をその場で点灯し[31]、三十時間以上もつと確かめてから売り、安心できたら代金を払えばよいと伝えさせている。一カ月で四、五千個を預けるうちに評判が立ち[32]、二、三カ月後には小売店から注文が届くようになった。氏はこれを『全く松下電器の運命をかけた販売』[引用元]と振り返っている。1927年4月には統一商標として『ナショナル』を制定[33]した。

  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [27]1923年3月 砲弾型電池式ランプを考案発売
    • [33]1927年4月「ナショナル」の商標を制定
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [28]持続30〜50時間
    • [29]在庫2,000個・木管屋と月2,000個の約束
    • [30]三人の外交員が小売店へ二、三個ずつ配布
    • [31]一個をその場で点灯する実演
    • [32]一カ月で4,000〜5,000個を預託
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [19]古電球の口金を応用したアタッチメントプラグ
    • [20]市価の3割安の値付け
    • [21]四、五人を雇用
    • [22]吉田商店と保証金3,000円で一手販売契約
    • [23]1922年 手元資金4,500円に対し7,000円余を投資
    • [24]七十坪の本工場を建設
    • [25]既存の電池式ランプは二、三時間で消耗
    • [26]半年・百個近い試作を経て砲弾型に到達
    • [28]持続30〜50時間
    • [29]在庫2,000個・木管屋と月2,000個の約束
    • [30]三人の外交員が小売店へ二、三個ずつ配布
    • [31]一個をその場で点灯する実演
    • [32]一カ月で4,000〜5,000個を預託
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [27]1923年3月 砲弾型電池式ランプを考案発売
    • [33]1927年4月「ナショナル」の商標を制定

恐慌下の全員雇用と、水道哲学の宣言

1927年4月の金融恐慌では、取引の中心にしていた十五銀行が支払を停止した[34]。受取手形の割引が七、8万円、定期預金が3万5,000円あまり[35]という相手の破綻は資金繰りを直撃したが、その二カ月前に住友銀行との取引契約が成立していた[36]。住友の行員から十回近く勧誘を受けた氏は、取引開始に先立って2万円の随時貸出契約を結ぶよう求め[37]、前例がないと渋る相手に押し通している。取付け騒ぎのさなかに念のため確かめると『約束を変えねばならない状態ではありませんから、いつでもご利用下さい』[引用元]との返答であった。1929年には500坪の工場を建てる際に15万円を無担保で借りている[38]

  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [34]1927年4月 十五銀行が支払停止
    • [35]十五銀行への受取手形割引7〜8万円・定期預金3万5千円余
    • [36]支払停止の二カ月前に住友銀行と取引契約
    • [37]取引開始の条件として2万円の随時貸出契約を要求
    • [38]1929年 五百坪の工場建設に15万円を無担保で借入

1929年末、緊縮政策のもとで製品の売行きが半減し[39]、倉庫に入りきらないほどの在庫が積み上がった。病床にあった氏は従業員を半減してはどうかという相談を受けたが、生産は即日半減しても従業員は一人も減らさず、工場を半日勤務としたうえで日給は全額を支給し[40]、その代わり休日を廃して全員で在庫の販売にあたるという方針を即日示した。在庫は二カ月ほどで売り尽くされ[41]、工場の稼働は元へ戻っている。1932年5月5日、氏は全店員を集めた席で[42]、生産者の使命は物資を水道の水のように豊富にしてこの世から貧しさを無くすところにある[43]と説き、この日を創業記念日と定めた。使命の達成には250年をあて、25年を一節として十節で完成する[44]という時間の区切りも置いた。

  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [39]1929年末 緊縮政策で売行き半減
    • [40]生産半減・全員雇用維持・半日勤務・日給全額支給・休日廃止
    • [41]二カ月で在庫を売り尽くし稼働を回復
    • [42]1932年5月5日 第1回創業記念式
    • [43]水道哲学=物資を水道の水のように豊富にして貧しさを無くす
    • [44]使命達成に250年・25年を一節・十節
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [34]1927年4月 十五銀行が支払停止
    • [35]十五銀行への受取手形割引7〜8万円・定期預金3万5千円余
    • [36]支払停止の二カ月前に住友銀行と取引契約
    • [37]取引開始の条件として2万円の随時貸出契約を要求
    • [38]1929年 五百坪の工場建設に15万円を無担保で借入
    • [39]1929年末 緊縮政策で売行き半減
    • [40]生産半減・全員雇用維持・半日勤務・日給全額支給・休日廃止
    • [41]二カ月で在庫を売り尽くし稼働を回復
    • [42]1932年5月5日 第1回創業記念式
    • [43]水道哲学=物資を水道の水のように豊富にして貧しさを無くす
    • [44]使命達成に250年・25年を一節・十節

製品別の独立採算と、戦時の造船・航空機

1933年5月、本店を門真へ移すと同時に[45]、工場をラジオの第一事業部、ランプと乾電池の第二事業部、配線器具・合成樹脂・電熱器の第三事業部[46]へ分け、各事業部長が製造から販売までの損益に責任を負う事業部制を敷いた[47]。体が弱く自分一人では全体を見切れないという自覚[48]が、若い従業員へ仕事を任せる行き方を制度にさせている。1935年8月に松下電器貿易を設立し[49]、同年12月には改組して松下電器産業株式会社となった[50]。資本金は1,000万円で[51]、事業部制はさらに進んで事業部門別に九社の子会社を置く分社制へ広がっている[52]。1934年にはモーターを手がけ、関西に小型電動機のメーカーが一つもないことを理由に住友と提携して資本金100万円の傍系会社を興した[53]

  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [45]1933年5月 門真に本店を移転、事業部制を採用
    • [49]1935年8月 松下電器貿易を設立
    • [50]1935年12月 改組し松下電器産業株式会社となる
    • [51]資本金1,000万円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「松下電器産業」の項
    • [46]第一=ラジオ/第二=ランプ・乾電池/第三=配線器具・合成樹脂・電熱器
    • [47]各事業部長が製造から販売まで損益責任を負う
    • [48]体が弱く一人では全体を見切れないという自覚が制度の起点
    • [52]事業部門別に9社の子会社を置く分社制へ発展
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [53]1934年 住友と提携し資本金100万円で傍系の電動機会社を設立

統制経済から戦時へ移ると資材と機械が細り[54]、軍需の生産だけが続いた。200トン級の木造船の生産計画が大阪府へ割り当てられると松下電器が引き受け、堺市の3万坪を払い下げて松下造船を設立し[55]、半年ほどで工場を建てて終戦までに56隻を進水させている[56]。一日一隻を目標に据えた工場は、やがて六日に一隻を送り出すまでになった[57]。同じ年に海軍から木製飛行機の製造命令が下り、十万坪を買収して資本金3,000万円の会社を設立した[58]が、合板の技術は難しく、完成したのは三機にとどまった[59]。軍が求めた月産二百機には遠く及ばない[60]数であった。

  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [54]戦時に資材・機械が不足し軍需生産のみ継続
    • [55]200トン級木造船の計画を引き受け堺市の3万坪に松下造船を設立
    • [56]終戦までに木造船56隻を進水
    • [57]一日一隻を目標とし六日に一隻の建造ペースへ
    • [58]木製飛行機のため10万坪を買収し資本金3,000万円の会社を設立
    • [59]木製飛行機の完成は3機
    • [60]軍の目標は月産200機
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [45]1933年5月 門真に本店を移転、事業部制を採用
    • [49]1935年8月 松下電器貿易を設立
    • [50]1935年12月 改組し松下電器産業株式会社となる
    • [51]資本金1,000万円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「松下電器産業」の項
    • [46]第一=ラジオ/第二=ランプ・乾電池/第三=配線器具・合成樹脂・電熱器
    • [47]各事業部長が製造から販売まで損益責任を負う
    • [48]体が弱く一人では全体を見切れないという自覚が制度の起点
    • [52]事業部門別に9社の子会社を置く分社制へ発展
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [53]1934年 住友と提携し資本金100万円で傍系の電動機会社を設立
    • [54]戦時に資材・機械が不足し軍需生産のみ継続
    • [55]200トン級木造船の計画を引き受け堺市の3万坪に松下造船を設立
    • [56]終戦までに木造船56隻を進水
    • [57]一日一隻を目標とし六日に一隻の建造ペースへ
    • [58]木製飛行機のため10万坪を買収し資本金3,000万円の会社を設立
    • [59]木製飛行機の完成は3機
    • [60]軍の目標は月産200機

公職追放と、労働組合による留任運動

敗戦後の五年間、松下電器は制限会社の指定をはじめ七つの制限を課され[61]、資産を動かすことも許されなかった。氏は財閥指定に対して松下は財閥ではないと主張し続け、指定は1949年末に解除された[62]が、軍需生産を指導した経緯から公職追放のA級に指定された[63]。社長退陣に抗議の余地はないと本人も腹を決めかけたところ、留任の運動に立ったのは会社の労働組合であった[64]。当時1万5,000人の従業員が一人ずつ署名捺印を集め[65]、政府と総司令部へ働きかけている。一カ月後に指定はB級へ変更され[66]、審査を経て全重役の追放が取り止めとなった[67]

  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [61]制限会社の指定など七つの制限
    • [62]財閥指定は1949年末に解除
    • [63]軍需生産の指導を理由に公職追放A級へ指定
    • [64]労働組合が社長留任運動を起こす
    • [65]従業員1万5千人が署名捺印
    • [66]一カ月後にB級へ変更
    • [67]審査の結果、全重役の追放が取止め

社長の座は守ったものの、この五年で負債は10億円に達し、税金の滞納額でも上位に並んだ[68]。それまで避けてきた人員整理に踏み切り、従業員は3,500人まで減っている[69]。1949年5月には東京証券取引所と大阪証券取引所へ株式を上場[70]した。制限が解けた1950年7月17日、氏は幹部を集めた緊急経営方針発表会[71]で再建への決意を説き、『明けても暮れても商売一本でいく意欲がわいてきた』[引用元]と述べている。翌1951年1月には経営を学ぶため三カ月にわたって渡米し[72]、GEの標準型ラジオが24ドルで売られ工員が二日働けば買える[73]のに対し、松下電器のラジオは9,000円で作業員の月給が6,000円[74]という開きを目の当たりにした。

  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [68]敗戦後5年で負債10億円・税金滞納も上位
    • [69]人員整理で従業員3,500人へ
    • [71]1950年7月17日 緊急経営方針発表会
    • [72]1951年1月から3カ月の渡米
    • [73]GEの標準型ラジオ24ドル=工員2日分の賃金
    • [74]松下のラジオ9,000円・作業員の月給6,000円
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [70]1949年5月 東京証券取引所・大阪証券取引所に上場
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [61]制限会社の指定など七つの制限
    • [62]財閥指定は1949年末に解除
    • [63]軍需生産の指導を理由に公職追放A級へ指定
    • [64]労働組合が社長留任運動を起こす
    • [65]従業員1万5千人が署名捺印
    • [66]一カ月後にB級へ変更
    • [67]審査の結果、全重役の追放が取止め
    • [68]敗戦後5年で負債10億円・税金滞納も上位
    • [69]人員整理で従業員3,500人へ
    • [71]1950年7月17日 緊急経営方針発表会
    • [72]1951年1月から3カ月の渡米
    • [73]GEの標準型ラジオ24ドル=工員2日分の賃金
    • [74]松下のラジオ9,000円・作業員の月給6,000円
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [70]1949年5月 東京証券取引所・大阪証券取引所に上場

フィリップス提携と五ヵ年計画、そして熱海会談

テレビへ進むには心臓部のブラウン管の技術が要り[75]、自前の蓄積を持たない松下電器は導入先を探した。戦前から取引のあったフィリップスは、イニシャル・ペイメント55万ドル、株式参加30%、技術指導料六%[76]を条件として示した。氏はこれに経営指導料を対置し、合弁会社の経営を担うのは松下電器である以上その対価も評価すべきだ[77]と主張して譲らなかった。交渉は決裂寸前まで進んだが、技術指導料四・5%を支払う代わりに経営指導料三%を受け取る[78]ことで決着している。1952年12月、フィリップスとの技術提携により松下電子工業が発足し、管球製造所の四工場が本体から分離[79]された。高槻の新工場では1954年から電球・蛍光灯・真空管・ブラウン管・トランジスタの生産[80]が始まっている。

  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [75]テレビ参入にはブラウン管技術の導入が必要
    • [76]フィリップスの提示条件 イニシャル55万ドル・株式参加30%・技術指導料6%
    • [77]経営指導料を対置する主張
    • [78]決着は技術指導料4.5%対経営指導料3%
    • [80]高槻の新工場が1954年から電球・蛍光灯・真空管・ブラウン管・トランジスタを生産
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [79]1952年12月 フィリップスとの技術提携により松下電子工業を設立、管球製造所の4工場を分離

1952年1月には中川機械と資本提携して冷蔵庫へ入り[81]、1954年2月には日本ビクターと資本提携した[82]。ビクターは資本金2,500万円に対して4億5,000万円の借金を抱えていた[83]が、氏は犬の商標が持つ暖簾の値打ちを見て引き受けを決めている[84]。1956年1月10日の経営方針発表会[85]では、前年220億円の売上を五年で四倍の800億円にする[86]という五ヵ年計画を公表した。一企業が将来の目標を外部へ発表する例のない時代で社内にも半信半疑の空気が残ったが、目標は四年目にほぼ達成され、五年後の生産販売額は1,050億円に達している[87]。1958年1月には松下通信工業を設立して通信機器製造部門を分離し[88]、1959年9月にはアメリカ松下電器を設立して海外拠点の展開に入った[89]。1960年に掲げた週二日休日は、1965年4月の週五日制として実現[90]している。

  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [81]1952年1月 中川機械(のち松下冷機)と資本提携
    • [82]1954年2月 日本ビクターと資本提携
    • [88]1958年1月 松下通信工業を設立し通信機器製造部門を分離
    • [89]1959年9月 アメリカ松下電器を設立
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [83]ビクターは資本金2,500万円に対し借入4億5,000万円
    • [84]犬の商標の暖簾の値打ちを理由に引き受けを決断
    • [85]1956年1月10日 経営方針発表会で五ヵ年計画を公表
    • [86]前年220億円の売上を5年で4倍の800億円へ
    • [87]4年目にほぼ達成、5年後の生産販売額1,050億円
    • [90]1960年に週二日休日を掲げ1965年4月に週五日制へ移行

1957年に発足させたナショナル店会は全国の零細な電器店を系列の販売網として組織し[91]、松下電器は『販売の松下』と呼ばれた[92]。1964年、東京オリンピック後の反動で家電の市況が悪化し[93]、販売会社と代理店の多くが赤字へ沈んだ。同年7月、会長へ退いていた氏は熱海のニュー富士屋ホテルへ全国の販売会社・代理店の社長を集めている[94]。資本金500万円で1億5,000万円の欠損を出した会社があり[95]、もうかっているかと尋ねて挙手したのは30人ほど、残る170人ほどは赤字であった[96]。二日の予定は三日目に入っても苦情がやまず[97]、氏は壇上で『結局は松下電器が悪かった。この一語に尽きると思います』[引用元]と述べて非を認め、会場では半数以上がハンカチを取り出した[98]。会談後、氏は病気療養中の安川洋副社長に代わって営業本部長代行に就き[99]、一地域一販社制と事業部直販制、新月販制度からなる新販売制度を1965年2月から実施した[100]

  • パナソニックホールディングス「1964年(昭和39年)」(社史)
    • [91]1957年 ナショナル店会を発足させ系列販売網を組織
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [92]最強の販売網を誇り「販売の松下」と呼ばれた
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [93]1964年 東京オリンピック後の反動で家電市況が悪化
    • [94]1964年7月 熱海のニュー富士屋ホテルで全国販売会社・代理店社長懇談会
    • [95]資本金500万円で1億5,000万円の欠損を出した販売会社
    • [96]黒字は挙手30人ほど・赤字は170人ほど
    • [97]二日の予定が三日目まで延長
    • [98]会場の半数以上がハンカチを取り出す
    • [99]病気療養中の安川洋副社長に代わり営業本部長代行に就任
  • パナソニックホールディングス「1965年(昭和40年)」(社史)
    • [100]1965年2月から一地域一販社制・事業部直販制・新月販制度を実施
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [75]テレビ参入にはブラウン管技術の導入が必要
    • [76]フィリップスの提示条件 イニシャル55万ドル・株式参加30%・技術指導料6%
    • [77]経営指導料を対置する主張
    • [78]決着は技術指導料4.5%対経営指導料3%
    • [80]高槻の新工場が1954年から電球・蛍光灯・真空管・ブラウン管・トランジスタを生産
    • [83]ビクターは資本金2,500万円に対し借入4億5,000万円
    • [84]犬の商標の暖簾の値打ちを理由に引き受けを決断
    • [85]1956年1月10日 経営方針発表会で五ヵ年計画を公表
    • [86]前年220億円の売上を5年で4倍の800億円へ
    • [87]4年目にほぼ達成、5年後の生産販売額1,050億円
    • [90]1960年に週二日休日を掲げ1965年4月に週五日制へ移行
    • [93]1964年 東京オリンピック後の反動で家電市況が悪化
    • [94]1964年7月 熱海のニュー富士屋ホテルで全国販売会社・代理店社長懇談会
    • [95]資本金500万円で1億5,000万円の欠損を出した販売会社
    • [96]黒字は挙手30人ほど・赤字は170人ほど
    • [97]二日の予定が三日目まで延長
    • [98]会場の半数以上がハンカチを取り出す
    • [99]病気療養中の安川洋副社長に代わり営業本部長代行に就任
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
    • [79]1952年12月 フィリップスとの技術提携により松下電子工業を設立、管球製造所の4工場を分離
    • [81]1952年1月 中川機械(のち松下冷機)と資本提携
    • [82]1954年2月 日本ビクターと資本提携
    • [88]1958年1月 松下通信工業を設立し通信機器製造部門を分離
    • [89]1959年9月 アメリカ松下電器を設立
  • パナソニックホールディングス「1964年(昭和39年)」(社史)
    • [91]1957年 ナショナル店会を発足させ系列販売網を組織
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [92]最強の販売網を誇り「販売の松下」と呼ばれた
  • パナソニックホールディングス「1965年(昭和40年)」(社史)
    • [100]1965年2月から一地域一販社制・事業部直販制・新月販制度を実施

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パナソニックの沿革1918〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1918〜1932年二畳の土間から始めた配線器具と、水道哲学という使命松下幸之助氏による松下電気器具製作所の創業と、売れない改良ソケットを抱えた出発

1917年6月、大阪電灯の検査員であった松下幸之助氏が、社内で容れられなかった改良ソケットを自らつくるために七年勤めた会社を辞め、翌1918年3月、大阪市大開町の借家に松下電気器具製作所を創立した経営判断。妻むめの氏と義弟の井植歳男氏を含む数人の家内工業として、配線器具の製造を始めた。

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★★★
砲弾型電池式ランプを考案発売
「ナショナル」の商標を制定
1933〜1964年事業部制という組織の原型と、戦後の再建、そして熱海松下幸之助氏による事業部制の導入——製品別・独立採算の自主責任経営

1933年5月、松下幸之助氏は門真への本店移転と同時に、工場を製品別の三つの事業部に分け、各事業部長に製造から販売までの損益責任を負わせる事業部制を導入した。体が弱く自分一人では全体を見切れないと自覚した創業者が、若い従業員に仕事を任せる行き方を制度にしたもので、日本の企業組織における事業部制の先駆けとなった経営判断。

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★★★
松下電器貿易を設立
松下電器産業に改組
松下幸之助東京証券取引所・大阪証券取引所に株式上場
松下幸之助フィリップスとの技術提携——「5分と5分、対等である」

1952年、松下電器産業はオランダのフィリップスと技術提携し、合弁で松下電子工業を設立してブラウン管技術を導入した。テレビ参入の技術的な壁を越え、『量から質への転換』を果たした経営判断。

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★★★
松下幸之助中央研究所を設立
松下幸之助日本ビクターと資本提携★★
松下幸之助松下通信工業を設立し通信機器部門を分離
松下幸之助アメリカ松下電器を設立し海外展開を開始
松下正治松下正治氏が取締役社長に就任
松下正治東方電機と資本提携
松下正治熱海会談と新販売制度——「松下電器が悪かった」から始めた販売改革

1964年、家電の乱売競争で販売会社・代理店の多くが赤字に陥るなか、会長の松下幸之助氏は全国170社の社長を熱海に集めた。3日間の激論の末、幸之助氏は『結局は松下電器が悪かった』と非を認めて涙し、対立を和解へ転じた。直後に自ら営業本部長を代行し、一地域一販社制・事業部直販制・新月販制度からなる新販売制度を敷いて、共存共栄を仕組みに変えた経営判断。

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★★★
1965〜1993年部門分離による垂直統合と、専門経営者への継承松下正治松下寿電子工業を設立
松下正治ニューヨーク証券取引所に株式上場
松下正治松下電子部品を設立し電子部品部門を分離
松下正治松下住設機器・松下産業機器を設立し2部門を分離
山下俊彦山下俊彦氏の社長抜擢——序列を越えた「25段跳び」

1977年2月、松下電器産業は取締役の山下俊彦氏を社長に据えた。序列で25番手からの『25段跳び』とも言われた抜擢で、創業者の松下幸之助氏が松下正治社長・高橋荒太郎会長と諮って決めた。同族でも純粋な実力主義でもない、専門経営者に創業者の権威を後ろ盾として付ける二重統治の始まりとなった経営判断。

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★★★
山下俊彦松下電池工業を設立し電池部門を分離
山下俊彦金融子会社を設立
山下俊彦半導体基礎研究所を設立
谷井昭雄谷井昭雄氏が取締役社長に就任
谷井昭雄松下電器貿易を合併
谷井昭雄創業者松下幸之助が逝去
谷井昭雄米MCAの7800億円買収と、5年での売却

1990年12月、松下電器産業は米エンターテインメント大手MCAを約61億ドル(約7800億円)で買収した。ハードとソフトの融合を掲げ、日本企業の海外買収では史上最高額の投資だったが、才能が価値を決めるハリウッドの事業を製造業の論理で御しきれず、1995年に持分の8割をシーグラムへ譲渡してわずか5年で撤退した経営判断。

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★★★
森下洋一森下洋一氏が取締役社長に就任
森下洋一フィリップス社との松下電子工業に関する合弁契約を解消★★
森下洋一森下氏改革——事業本部を廃し、社長直轄の事業部制へ回帰する

1993年12月、松下電器産業の森下洋一社長は、1984年に復活させた事業本部制を廃止し、担当役員は置きつつ実質的に社長直轄で事業部をみる組織へ改めた。3期連続減益と炊飯器リコールでの意思決定の遅れを背景に、組織の二重構造を断って迅速な意思決定を取り戻そうとした。幸之助氏が1933年に生んだ事業部制への回帰でもあった経営判断。

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★★★
1994〜2026年事業部制の解体と再生、プラズマの失敗、そして事業会社制へ森下洋一MCA社持分の80%をシーグラム社へ譲渡★★
中村邦夫中村邦夫氏の「破壊と創造」——事業部制の解体とグループ5社の完全子会社化

2000年6月に社長へ就任した中村邦夫氏は『破壊と創造』を掲げ、上場後初の連結最終赤字に沈んだ松下電器の構造改革に踏み込んだ。事業ドメイン制の導入で事業部の壁を崩し、松下幸之助氏が築いた分社経営の象徴だったグループ主要5社を株式交換で完全子会社化し、1万人規模の希望退職も断行した経営判断。

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★★★
中村邦夫松下電工・パナホームとその子会社を子会社化★★
大坪文雄社名を松下電器産業からパナソニックに変更
大坪文雄初の純損失を計上★★
大坪文雄三洋電機の買収——「もうひとつの成長エンジン」を電池に賭ける

リーマン直後に約4000億円で三洋電機を子会社化し、リチウムイオン電池と太陽電池のエナジー技術を「もうひとつの成長エンジン」に据えた買収

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★★★
大坪文雄パナソニック電工・三洋電機を完全子会社化★★
大坪文雄2期連続の巨額純損失★★
津賀一宏津賀一宏氏が取締役社長に就任
津賀一宏プラズマテレビからの撤退——5000億円の内製を畳む

2013年、パナソニックの津賀一宏社長は、中村邦夫氏・大坪文雄氏の両体制が累計5000億円超を投じてきたプラズマテレビ事業からの撤退を決めた。同年12月にプラズマパネルの生産を終え、2014年3月末で兵庫県尼崎の専用工場を止めた。液晶の大型化と低価格化にプラズマの画質優位を相殺され、自前パネルの内製という垂直統合の看板を、自ら畳んだ経営判断。

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★★★
津賀一宏テスラとの車載電池協業とギガファクトリー——家電から「走る電池」へ

危機の底から会社を立て直した津賀一宏社長は、家電依存からの脱却を最重要テーマに据え、車載電池を成長の柱に選んだ。パナソニックは2009年にテスラへ円筒形リチウムイオン電池の供給を始め、2014年には米ネバダ州の大規模電池工場ギガファクトリーへ製造機能を預けて参画した。三洋買収で得た電池技術を『走る電池』で生かす、BtoB転換の象徴となった経営判断。

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★★★
楠見雄規楠見雄規が代表取締役社長に就任
楠見雄規Blue Yonderを完全子会社化★★
楠見雄規ブルーヨンダー買収と持株会社への移行——「事業会社制」への組み替え

2021年6月に社長へ就いた楠見雄規氏は、就任直後の同年9月に米サプライチェーン・ソフト大手ブルーヨンダーを約78.9億ドル(8633億円)で完全子会社化し、翌2022年4月には吸収分割で各事業を9社に承継させて持株会社パナソニックホールディングスへ移行した。ハードとソフトの融合と自主責任経営の徹底を掲げ、事業構造と組織を同時に組み替えた経営判断。

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★★★
楠見雄規パナソニック オートモーティブシステムズの一部株式売却

2023年11月、パナソニック ホールディングスは、車載機器子会社パナソニック オートモーティブシステムズの株式の一部を、米投資ファンド大手アポロ・グローバル・マネジメントの傘下ファンドへ売却することで基本合意した。楠見雄規社長が『成長領域』への集中を進めるなかで、100%子会社であった車載事業を持分法適用会社へ移す判断であった。

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★★★
楠見雄規好業績下での国内外1万人削減——固定費構造の改革

2025年5月、パナソニック ホールディングスは、12年連続で黒字を確保する好業績のさなかに、連結で国内外あわせて1万人規模の人員削減を柱とする構造改革を発表した。グループCEOの楠見雄規氏は、同業他社より約5ポイント重い販管費という固定費構造と、30年にわたり実質的な成長を欠いてきた停滞に危機感を示し、余力のあるうちに固定費を削る『黒字リストラ』へ踏み込んだ経営判断であった。

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★★★
出典・参考
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
  • パナソニックホールディングス「1964年(昭和39年)」(社史)
  • パナソニックホールディングス「1965年(昭和40年)」(社史)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「松下電器産業」の項
  • 日経ビジネス 1977年1月31日号
  • 日経ビジネス 1991年1月14日号
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
  • 日経ビジネス 1995年4月17日号
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
  • 技術開発の昭和史(森谷正規, 日本経済新聞社, 1986)「4章 応用型新製品技術で国際水準」

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