靴のマルトミ直営店を独立採算の販売委託店へ切り替えた「オーナーシステム」の導入
雇われ店長のままか、店の経営者になるか——粗利の75%を渡して冨永光行社長が引き出そうとしたもの
- 概要
- 1987年3月、靴のマルトミが直営店を順次「独立採算制オーナーシステム」の販売委託店へ切り替え、店舗の粗利益の75%を毎月オーナーへ支払う仕組みを敷いた経営判断。1990年の名古屋証券取引所第2部上場まで、この仕組みが出店の速度を支えた。
- 背景
- 総店舗数は1987年2月期に775店へ達した一方、1店舗当たりの売上高は7900万円程度で沈滞していた。人件費の増加と同業との競争で、店数を増やしても利益が伸びにくくなっていた。
- 内容
- 店舗・什器・商品はマルトミが所有したまま、店の経営者であるオーナーが販売を請け負う。粗利益の75%が販売手数料としてオーナーに渡り、家賃・光熱費・人件費を差し引いた残りがオーナーの収入になる。本部に入るのは売上の約1割にとどまる。
- 含意
- 1店舗当たりの経常利益は導入前の131万円から1989年2月期に282万円へ増えた。一方でオーナーの労働時間は本部の管理外に置かれ、同業のチヨダは9割以上を直営に保つ道を選んだ。
意欲を制度で買うということ
この判断の中心にあるのは、店の数を増やす力から、1店の稼ぐ力へ経営の目盛りを付け替えたことであるとみられる。粗利の75%という配分は、本部の取り分をあえて売上の1割に抑える設計でもあり、増えた分はほぼ店に残る。冨永氏が闇市で靴を売っていたころの働き方を各店に再現しようとした試みであり、成果は1店当たり経常利益の倍増となって現れた。人を雇って管理する代わりに、意欲そのものを制度で引き出す道を選んだ経営判断であったとみることができる。
ただし、この仕組みが持ちこたえる条件は、店が売れ続けることに置かれていた。売上が伸びる限りオーナーの手取りは増え、本部は労務も休日も抱えずに済む。売上が落ちれば、その減少はまずオーナーの収入から差し引かれる。1994年に不採算180店の閉鎖が決まったとき、閉じられたのはほとんどが直営店であり、余った人員にはオーナーになる道が示された。効率のよい仕組みが、環境が変わったときに誰の側へ負担を寄せるのか——その問いは、制度を作った時点では表に出ていなかったとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
店数は増えたが、1店の数字が動かない
1975年に郊外へ移した店舗網は、1979年に「靴流通センター」の型が定まってから増える速度を上げた。総店舗数は1984年2月期の204店から1986年2月期に534店となり、1987年2月までの1年間だけで253店が増えて775店に達した。年に250店を出す規模は、当時の靴小売では突出していた。冨永光行氏はこの時期まで拡大そのものを目標に置き、店の数を積み上げる経営を続けていた[1][2]。
ところが1店舗当たりの数字は動かなかった。1店当たりの売上高は1987年2月期まで7900万円程度で沈滞し、店を増やしても1店の生産性は横ばいのままであった。人口10万人を1店の商圏とする設計から逆算すれば、日本の人口に対する店舗数はほぼ飽和に近づいていた。出店の余地が細り、既存店の数字も伸びない。二つの制約が同時に迫っていた[3][4]。
人件費と、雇われ店長という立場
冨永氏が制度の見直しを考えた直接の理由は人件費であった。「人件費増と過当競争で思うように儲からなくなったとき考えた。家内と2人でやっていた時は儲かってしょうがなかったのに」と本人が語っている。週休2日制や労働時間の規制も、数百店の従業員を直接雇う会社には重い条件であった。店をまるごと貸して経営者になってもらえば、社の従業員ではなくなる。発想はそこから出ている[5]。
もう一つの理由は、店長の働き方そのものにあった。決められた数字を達成すれば済む雇われ店長では、売上が自分の収入に直結しない。冨永氏が自ら闇市から店を積み上げてきた商売のやり方を、各店の責任者にそのまま移せないか。1986年9月に株式上場を目標として掲げた同社にとって、店数ではなく1店の収益で増収増益を示す必要も生じていた。制度の設計はこの二つの要請を同時に満たす方向へ向かった[6][7]。
決断
粗利の75%を店に渡す
1987年3月、マルトミは「独立採算制オーナーシステム」を採り入れた。店舗も什器も商品もマルトミが所有したまま、店の経営者であるオーナーが販売を請け負う販売委託の方式で、直営店でもフランチャイズ店でもない。土地や建物をオーナーが用意する必要がない点が通常のフランチャイズと異なる。従来の店長を、雇用関係の外にいる独立した経営者へ置き換える仕組みであった[8]。
金の流れは単純であった。各店の粗利益の75%が販売手数料として毎月オーナーへ支払われ、そこから家賃・光熱費・人件費を差し引いた残りがオーナーの収入になる。本部が吸い上げる粗利の25%は、粗利益率が約35%であるため売上の約8.75%にあたり、これにノウハウ料の1%強を加えた売上の約1割が本部に入る。価格の決定権は本部が持ち、値札を付けた商品を各店へ配送した。売上を伸ばして効率よく運営すれば、その差はそのままオーナーの手取りへ返る[9]。
300人が手を挙げた
1987年初頭に構想を社員へ示したときの反響は、冨永氏の想定を超えた。「300人近くが手を挙げましたねえ。しかし全部はできませんから少し待てと止めたくらい」と本人が振り返っている。オーナーの約5分の4は当時の社員であった。ノルマを達成すれば済んでいた店長の立場から、売上が自分の収入に直結する立場へ移った社員たちは、接客の態度まで変えたという[10]。
切り替えの速度も速かった。1989年4月20日の時点で、地名を冠した「靴流通センター」564店を主力に、玩具や輸入商品を扱う郊外型店舗を含めて合計883店を数え、うち546店にあたる62%がオーナーシステムで運営されていた。冨永氏は1割の直営店を残し、残る9割を順次オーナーシステム店へ移す計画を掲げた。社が直接雇う従業員は1989年2月期で1294人にとどまり、店舗数に対して極端に少ない人数で全国の売場が回っていた[11][12]。
結果
1店の利益は2倍に、労働時間は管理の外に
制度の効果は1店当たりの数字に表れた。1店舗の売上高は1987年2月期の7900万円程度から2年後の1989年2月期に8830万円へ増え、1店舗当たりの経常利益は131万円から282万円へ、115%の増加となった。全社の経常利益も1984年2月期の2億6600万円から1989年2月期の24億4800万円へ伸びている。1988年には全店舗へのPOS導入を決め、1990年1月には名古屋証券取引所第2部への株式上場を果たした[13][14]。
一方で、増えた収入は長い労働時間と引き換えでもあった。1店舗当たりの平均売上高から経費を差し引いたオーナーの年収は約560万円と算出され、店長時代の2〜2.5倍にあたる。ただしマルトミ本部は労務管理を一切行わず、正月から1日も休んでいないオーナーもいた。同業のチヨダ靴店は「人材の柔軟な活用を図るため」として9割以上を直営に保ち、この方式を言葉少なに批判している。不採算店のオーナーをどう扱うかという問題も残された[15][16]。
- 日経ビジネス 1989年6月5日号「独立採算制で店長に喝!」
- 日経ビジネス 1994年3月14日号「後手後手の不採算店整理 180店閉鎖へ今は忍耐」
- 靴のマルトミ 有価証券報告書【沿革】
- 会社四季報(東洋経済新報社)1989年2月期業績