靴のマルトミ不採算180店の一括閉鎖と、3年で380店を閉じる経営改善計画

出店を止めて耐えるか、業態を作り替えるか——16期連続増収増益の翌期に冨永光行社長が選んだ縮小

時期 1994年2月
意思決定者(推定) 冨永光行 社長
論点 店舗網の縮小と収益構造の立て直し
概要
1994年2月、総店舗数1850店の約10%にあたる不採算180店を1年で閉じると発表し、社長自身の役員報酬と賞与も1年間全額を返上した経営判断。1999年3月には3年で380店を閉じる経営改善計画へ広がった。
背景
1993年2月期まで16期連続の増収増益を続けたが、直前の3年だけで874店を新規出店する一方、不採算店の整理は後回しになっていた。1994年2月期は既存店の売上減で営業利益が前期比5割減の30億円弱に落ちた。
内容
閉鎖対象のほとんどは直営店で、年300店近く出していた新規出店を50店ほどへ絞った。余剰となる約180人は配置転換とオーナーシステムのオーナー化で受け止める方針を示した。
含意
閉店による固定費の削減を売上の減少が上回り、1998年2月期に最終赤字へ転落した。1999年3月の改善計画は初年度に311店を閉じたが損失は拡大し、2000年12月に民事再生法の適用を申請した。
筆者の見解

何を閉じ、何を作り直すのか

1994年の判断は、決断の速さという点では際立っていた。不採算店を洗い出して1年で一括して閉じ、出店を6分の1に絞り、社長自身の報酬も返上する。前年まで16期連続で増収増益を続けた会社が、翌期の減益を見た時点でここまで手を打った例はそう多くないとみられる。ただ、閉じた対象は店であって、店の作り方ではなかった。冨永氏が語った「ロードサイド店同士の競争」という認識は、競争の場が郊外の総合商業施設へ移りつつあることまでは射程に入れていなかったようにみえる。

閉店で固定費を削るほど売上がそれ以上に減る循環は、1999年の380店計画でも変わらなかった。縮小は既存の形を保ったまま規模を落とす方法であり、業態そのものを作り替える作業とは異なる。低価格・小型・多店舗という三点は、大店法の下では強みとして噛み合っていた。その前提が失われたあと、三点のどれを捨てて何に置き換えるかという問いに、店舗数の調整だけで答えられたのかどうか——マルトミの6年間は、縮小と転換の距離を示す事例として読めるように思われる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

16期連続の増収増益が途切れた期

靴のマルトミは1993年2月期の決算まで、16期にわたって連続で増収増益を記録した。郊外の幹線道路沿いに小型の「靴流通センター」を並べる型は出店の速度をそのまま業績に変え、直前の3年だけで874店を新規に出している。1993年には店舗数が1700を超え、経常利益は過去最高となった。年に300店近くを出す拡大が続く限り、既存店の弱さは全社の数字に埋もれていた[1][2]

1994年2月期でその流れが止まった。長引く不況で個人消費が低迷し、消費者の低価格志向が重なって既存店の売上が減った。売上高は前期比10%増の1700億円を確保したものの、中間期に見込んだ1804億円を半年で100億円ほど下回っている。営業利益は前期比5割減の30億円弱、経常利益は6割減の24億円程度まで落ちた。増収を保ちながら利益だけが半減する期であった[3]

車の流れが変わった国道沿い

冨永光行氏は整理の遅れを自ら認めている。「本来なら新規出店する傍ら、店舗のスクラップ・アンド・ビルドも同時並行して進めていれば、いくら不況とはいえ、これほど急な業績低下に悩むことはなかった」。行けドンドンの経営のなかで、嫌なことを後回しにしてきた——本人はそう振り返り、責任を感じると述べた。不採算店を洗い出すと180店ほどあり、それは総店舗数1850店の約1割にあたった[4]

店舗の側でも前提が崩れていた。冨永氏は閉鎖対象にロードサイド店が多い理由を「10年前にはなかった国道のバイパスができて、車の流れが変わってしまった」と説明している。加えて大店法の運用が緩み、郊外型ショッピングセンターが相次いで開業した。靴売場を含む総合的な施設が現れると、単独立地の小型店は品揃えでも集客でも見劣りした。冨永氏は「ロードサイド店同士が品質、価格、サービスで厳しい競争をする時代に入った」と語っている[5][6]

決断

1年で180店を閉じる

1994年2月、マルトミは1995年2月期までに180店を閉じると発表した。段階的な縮小ではなく、1年で一括して整理する方針であった。冨永氏は「ぐずぐずしているのが大嫌いなんです。やるなら一度に全部やっちゃおうと思い、来年2月までの約1年間でこれらを順次、閉鎖することにしたんです」と述べている。あわせて、2月21日から始まる新事業年度の1年間、自身の役員報酬と賞与を一切受け取らないと決めた[7]

閉店と同時に、出店の速度も落とした。年300店近くを出していた新規出店を50店ほどへ絞り、1850店という母数からみればほぼ新設をやめるに等しい水準へ引き下げている。閉鎖対象のほとんどは直営店であった。今後は直営を50店程度に抑え、残りは1987年に始めたオーナーシステムの店へ移す構想も示された。閉店で余る約180人には、配置転換のほかオーナーになる道を用意した[8][9]

株主6000人と、社長室の「忍」「耐」

発表の反響は株式市場に出た。ある大手紙が「靴のマルトミが希望退職募る」との見出しを掲げ、雇用調整を進める会社として報じられた。名古屋証券取引所第2部の1日の出来高は1銘柄当たり平均1万株ほどであったところ、マルトミ株は連日6万〜10万株が売買された。株主は6000人を超え、その大半は最小単位の100株を持つ勤め人であった。冨永氏は「株主にはご迷惑をおかけした」と述べ、業績を戻した時点で自身の進退を含めて責任にけじめをつける考えを示した[10]

冨永氏は白紙に墨で「忍」「耐」の2文字を大きく書き、社長室に飾ったという。「今は店舗を拡大したい気持ちをグッと抑えて、あえて成長を目指さず、企業体質の強化に取り組む」。2年で業績を元に戻す自信があると語りながら、当面は出店を止めて体質を作り直す方針であった。人員については、優秀な社員を集めるには不況期こそ好機であるとし、閉店で辞める社員が出ても経営者として責任は感じないとも述べている[11]

結果

閉めるほど売上が減る

2年で業績を戻すという見通しは実現しなかった。売上高は1995年2月期1680億円、1996年2月期1717億円、1997年2月期1702億円と横ばいで推移する一方、当期純利益は1995年2月期の3億1000万円から1997年2月期には1億2000万円まで縮んだ。閉店で固定費を削っても、失った店の売上がそれを上回って減る。1998年2月期の売上高は1561億円に落ち、当期純損失5億円で最終赤字に転じた[12][13]

1999年3月、マルトミは3年間で不採算380店を閉じて黒字化を目指す経営改善計画を発表した。初年度にあたる2000年2月期には311店を閉鎖したが、損失はかえって拡大した。同期の売上高は1211億円、当期純損失は87億3000万円に達している。メインバンクからの役員派遣や業態の切り替えも試みたものの、売上の減少と信用不安を止められず、2000年12月に民事再生法の適用を申請した。負債総額は約761億円であった[14][15]

出典・参考

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