山水電気山水電気の福島工場閉鎖による自社生産からの撤退
商標権を担保に取られた会社に、なぜ工場を持ちつづける道が残らなかったのか
- 概要
- 2001年、香港のグランデ・グループの資本参加を受けた山水電気が、10月に海外子会社3社の全株式を売却し、12月に福島工場を閉鎖して自社での生産をやめた経営判断。以後の会社は、ブランドの管理と資産の運用を主とする組織へ変わった。
- 背景
- 前年の2000年8月、親会社の香港アカイホールディングスが現地裁判所から清算の決定を受けた。支援に入ったグランデ・グループの融資は必要最小限にとどまり、山水電気は商標権と特許権を借金の担保として押さえられた。2000年12月期の売上高は20億円まで減る見込みで、本体の債務超過額は6月末で80億円に達していた。
- 内容
- 2001年10月にサンスイ・インターナショナル、エス・シー・アイ・シー、サンスイ・インダストリアル(チャイナ)の全株式を売却。11月にグランデ・グループの資本参加を受け、12月に福島工場を閉鎖した。翌2002年8月には同工場の土地建物も売却している。
- 含意
- 生産をやめた会社の売上高は2003年12月期の8億5,400万円を頂点に細り、2010年12月期には4,000万円、連結従業員は5人となった。ブランドは製品の名として残り、それを作る会社が先に消える形になった。
名前を担保に入れた会社に残された選択
工場を閉じる判断そのものは、この時点では避けようがなかった。売上高が20億円まで落ちた会社が、かつて500億円規模を支えた生産設備を維持できる道理はない。国内の工場と香港・中国の生産網を同時に抱える状態も、規模に対して重すぎた。海外子会社を先に売り、次に国内工場を閉じ、翌年その土地建物を処分するという順序は、資金を作る手順としては筋が通っている。責めるべき点があるとすれば、この整理が2001年まで持ち越された経緯のほうにある。
より重い問題は、整理の順番ではなく、整理したあとに何が残るのかにあった。2000年の時点で商標権と特許権はすでに親会社側の担保に入っている。生産をやめれば、会社に残る価値はブランドの管理と保有資産の運用だけになるが、そのブランドを自由に使う権利は自社の手を離れていた。つまり山水電気は、自社の名前を他人から借りて商う立場になっている。以後の10年、売上高が1億円前後で推移しながら100億円規模の資産を抱えるという釣り合わない姿は、この構造の帰結として読める。
2005年から2010年にかけての決算は、事業会社というより資産管理会社のそれに近い。自己資本比率は9割を超え、従業員は10人を割り、経常損益は毎期赤字が続いた。2012年4月2日に民事再生法の適用を申請したときの負債総額は2億4,765万円で、1984年10月期の売上高の200分の1にも満たない。2014年7月9日には破産手続開始の決定を受け、負債は約3億5,000万円だった。生産をやめた時点で、会社としての終わり方はほぼ決まっていたと考えられる。
それでもSANSUIの名は残った。香港資本の下で製品ブランドとして使われつづけ、日本国内でも別の会社が同じ名前の家電を売っている。名前を作った会社が先に無くなり、名前だけが売り物として生き延びた。ブランドが資産だという言い方は正しいが、その資産を担保に入れたのち、ブランドは会社を守るものではなくなった。1989年に英ポリーペックが買収の最大の利点として挙げたのも、この会社のブランド力だった。買い手にとっての価値と、売り手にとっての支えは、同じものを指していながら最後まで一致しなかった。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
二度目の親会社破綻と担保に入った商標
1990年に英ポリーペックが倒れたあと、山水電気の株式は香港資本の手に渡った。1992年6月にセミ=テック・グループの資本参加を受け、のちに同じ系列のアカイホールディングスの傘下に入る。ところがこの親会社も拡大路線の末に行き詰まり、2000年8月に香港の裁判所から清算の決定を受けた[1]。支援に入ったグランデ・グループは資本参加に二の足を踏み、融資も必要最小限にとどめている。同じ傘下の赤井電機は商標権をわずか10億円の融資と引き換えに手放し、同年11月に民事再生法の適用を申請した[2]。
山水電気の立場も同じだった。商標権と特許権は借金の担保としてグランデに押さえられ、2000年12月期の売上高は20億円まで減る見込みとなり、本体の債務超過額は6月末で80億円に達していた[3]。売上高の4倍にあたる債務超過である。1984年10月期に525億5,200万円を売り上げた会社が、15年あまりで25分の1の規模になっていた[4]。週刊東洋経済は当時、山水電気について「すでに勝負はついているのかもしれない」と書いている。事業を続けるか否かではなく、何を残して何を手放すかだけが判断の余地として残った。
生産を担ってきた福島の位置づけ
福島は山水電気の製造の中心だった。1972年3月に子会社の山水音響を吸収合併して福島事業所とし、1985年6月には同事業所の郡山工場を分離して郡山物流センターを置いた。1986年8月には福島・静岡の両生産事業所と郡山物流センターを子会社化し、福島サンスイ・静岡サンスイ・サンスイ物流サービスの3社を設けている[5]。円高で採算が崩れた時期に、生産と物流を本体から切り離して固定費を軽くする組織の作り替えを進めた形になる。1995年4月には本店そのものを東京都府中市から福島県須賀川市へ移した[6]。
一方、香港資本の下では生産の場が海外へ移っていた。1993年1月に英領バージン諸島へサンスイ・インターナショナルを設立し、翌2月に香港・カオルーンへ支店を置く[7]。1994年10月には香港にエス・シー・アイ・シーを設けた。1994年に社長を務めた津村哲男氏は、10期連続の赤字を前に「中国展開以外に存続の道はない」と語り、香港の現地資本と組んで映像機器の製造・販売に着手している[8]。国内の工場と海外の生産網が併存する状態が続いたが、売上高の縮小に対して国内設備は明らかに大きすぎた。
決断
海外子会社の売却と工場の閉鎖
2001年10月、山水電気はサンスイ・インターナショナル、エス・シー・アイ・シー、サンスイ・インダストリアル(チャイナ)の3社について全株式を売却した[9]。香港と中国に築いた生産・販売の拠点を、まとめて手放した判断である。翌11月にグランデ・グループの資本参加を受け、12月に福島工場を閉鎖した[10]。海外の拠点を処分してから国内の工場を閉じる順序であり、生産機能を海外へ移すための閉鎖ではなかった。2002年8月には工場の土地建物も売却している。会社は製造そのものをやめた。
資本と事業の整理は同時に進んだ。2001年12月期の連結売上高は1億9,745万円、経常損失は9億9,592万円である[11]。一方で当期純利益は32億6,434万円を計上し、純資産は4,855万円と辛うじて正の値に戻った。営業の外側で生じた損益によって最終利益が立った期であり、事業の回復を示す数字ではない。総資産は4億8,104万円まで縮み、連結の従業員は12人となった[12]。工場を閉じる判断は、この財務の整理と一体で行われている。
結果
生産をやめた会社の十年
生産から離れた会社の規模は、そのまま小さくなった。連結売上高は2003年12月期の8億5,400万円が最も多く、2008年12月期に1億700万円、2010年12月期には4,000万円まで細っている[13]。連結従業員数も2003年12月期の23人から2010年12月期の5人へ減った。2010年12月期の有価証券報告書は、音響・映像機器事業、アフターサービス事業、不動産賃貸事業のいずれにも従業員を記載せず、全社共通の5人だけを挙げている[14]。事業の区分は残っていても、そこに人はいなかった。
事業が縮む一方で、貸借対照表はしばらく厚みを保った。2005年12月期の純資産は95億5,800万円、総資産は102億7,300万円で、自己資本比率は93.0%に達している[15]。2004年12月期に投資活動で79億2,992万円を支出し、財務活動で77億8,709万円を調達した動きがこの規模を作った。株主構成も香港側で固まる。2005年12月期の上位2社はバリカン・インベストメンツ19.98%とハイテック・プレシジョン・プロダクツ18.26%であり、2008年12月期以降は香港上海銀行がハイテック社の質権者として34.34%を保有した[16]。株式そのものが担保として動く会社になっていた。
- 有価証券報告書 第69期(2005年12月期)
- 有価証券報告書 第74期(2010年12月期)
- 週刊東洋経済 2000年11月18日号「地盤沈下 香港資本の波間に沈没」
- 日経ビジネス 1994年12月12日号「津村哲男氏[山水電気]香港人脈から中国へ、存続の道探る」
- 東洋経済オンライン(2014年7月)「山水電気、『オーディオ御三家』の墓標」
- 帝国データバンク 倒産速報(山水電気株式会社)