パイオニア の歴史

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創業 1938年
創業者 松本望
創業地 東京市文京区
創業
1938年1月、楽器会社の倒産を経て音響へ転じた松本望氏が、東京市文京区音羽町で福音商会電機製作所を創業し、電気動力式スピーカーの製造を始めた。1941年8月に資本金7万2,500円で有限会社となり、1946年に『パイオニア』の商標を登録、1947年5月には福音電機株式会社を設立して有限会社を吸収合併する。1950年に永久磁石式のスピーカーPE-8を開発して部品メーカーから完成品へ広がり、1961年6月にパイオニアへ商号を変更して、同年10月に東京証券取引所第二部へ上場した。ただし1955年に参入したテレビ受像機は、資金力で上回る同業に対して競争劣位に置かれ、撤退している。
決断
経営を担う人材を、社内ではなく社外から採り続けた。1971年、創業者の松本望氏は同族企業からの脱皮を掲げて外部の石塚庸三氏を社長に迎え、自らは相談役に下がる。外部スカウトで固めた混血経営では役員11名のうち生え抜きが創業者と息子ら数名にとどまり、部・課長級約160人でも生え抜きは10人足らずだった。1979年には自己資本比率74.0%・売上高営業利益率10.2%と業界一の収益力を達成する。この財務を背に、石塚氏はビデオテープレコーダーへ向かう同業を横目に光学式ディスクへ絞り、1980年6月に家庭用レーザーディスクプレーヤーVP-1000を発表した。1982年4月の石塚氏の客死後も創業家の松本誠也氏が同じ路線を引き継ぎ、外から来た経営者の決めた選択が次の10年を作った。
現況
最後に差し出せる資産が、事業ではなく上場という地位だった。2008年に映像ディスプレイから撤退して約1万名を削減し、2015年3月にはホームAV・電話機・DJ機器も譲渡して、車載機器だけが残る。その車載でトヨタ自動車向けカーナビの仕様変更が開発費を膨らませ、2018年3月期は売上高3,654億円に対して85億円の減損と71億円の純損失を計上し、2期連続の最終赤字となった。同年9月末には130億円超の協調融資が返済期限を迎える。そこで2018年12月にベアリングPEアジアから総額1,020億円の出資を受け入れ、2019年3月27日付で東証1部の上場を廃止した。譲渡できる事業を先に外していたことが、最後に上場そのものを差し出す順番を決めた。
競合
独自方式は、当たれば独占となり、外れれば引き取り手がいない。1980年に発売した家庭用レーザーディスクプレーヤーは世界シェア約5割を占め、1991年にカラオケ用途が開けて映像事業を700億円規模へ伸ばした。同じ選び方をプラズマでも通し、1997年に静岡工場で自社方式の量産を始めて、2004年2月にNECのプラズマ事業を約400億円で買収した。累計投資は1,000億円を超え、年400億円前後だった全社の設備投資からみて異例の水準にあたる。ところが同じ時期に亀山工場へ投資したシャープが液晶を大型化して価格を下げ、パイオニアは2005年3月期に87億円、翌期に849億円の連結最終赤字を計上して、2007年9月にはそのシャープから約414億円の出資を受け入れた。パネルを外部から調達できた液晶勢と違い、方式ごと工場を抱えたプラズマには、市場が縮んだときに設備を引き取る相手がいなかった。

創業ストーリー スピーカー専業から音響総合メーカーへの脱皮 (1938年〜)

スピーカー専業から音響総合メーカーへの脱皮

スピーカー専業としての創業と戦後の音響総合メーカーへの転身

1938年1月に楽器会社の倒産を経て[1]音響産業へ転じた松本望氏は[2]、東京市文京区音羽町で福音商会電機製作所を創業し[3][4]、電気動力式スピーカーの製造を始めた。創業直後の資金繰りは厳しく、出資者からは『スピーカーのようなぜいたくなものは、やがて売れなくなるに違いないから仕事を中止してほしい』[引用元](1978年『回顧と前進』)と繰り返し求められた。それでも松本氏は打ち切りを受け入れず、1941年8月に資本金7万2500円で有限会社化した。[5]戦時下は資材難で航空無線用トランスの製造を迫られたが研究を絶やさず[6]、終戦翌年の1946年には『パイオニア』の商標を登録した。

  • パイオニア 有価証券報告書 第72期(2018年3月期)【沿革】
    • [1]1938年1月 松本望が福音商会電機製作所を創業しスピーカーの製作を開始
    • [2]創業者は松本望(人物)
    • [3]正式社名は『福音商会電機製作所』
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [4]創業地は東京市文京区音羽(のちの第一工場も音羽)
    • [5]1941年8月の有限会社福音電機製作所設立時の資本金は7万2500円
    • [6]戦時下の資材不足で航空無線用トランスの製造を余儀なくされた(スピーカー研究は継続)

1947年に福音電機株式会社を設立して株式会社化し[7]、音羽の第一工場で復興期の需要に応える体制を整えた。戦後はスピーカー需要が急増し、セットメーカー依存から一般向けの市販へと販売の重点を移したことが、のちの発展の素地となった。[8]1950年に永久磁石型のスピーカー『PE-8』を開発し、部品メーカーから音響総合メーカーへ脱皮する基盤を得た。1955年にはテレビ受像機の製造にも参入したが、シャープや松下電器など資金力に優る競合の前に撤退した。1961年に東京証券取引所第二部に上場し[9]、1962年には世界初のセパレートステレオを発表した。当時の業界紙には『スピーカーをつくることじたいは、さほど難しい仕事ではない。それだけに、多数のメーカーが、絶えず発生して消えていく。そうしたなかに、20年の歴史をもつ当社は、その経営に独特の堅実さと、特色をもつ』[引用元]と記された。

  • パイオニア 有価証券報告書 第72期(2018年3月期)【沿革】
    • [7]1947年5月 福音電機株式会社を設立(有限会社福音電機製作所を吸収合併し株式会社化)
    • [9]1961年10月 東京証券取引所市場第二部に上場(商号変更は1961年6月)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [8]戦後にセットメーカー依存から一般向け市販へ販売の重点を移し、これが発展の素地となった

テレビ事業からの撤退と音響専業への回帰は、後年の経営方針の基本となった。資金面で大手に対抗できない前提を認めたうえで、音響という一点で勝負を選ぶ判断である。松本氏は早い時期から海外市場を開拓し、米RCAや米GEへの納入にも道を開いた。[10]同じダイヤモンド記事は『その納入先をみると、国内では日立、東芝、ソニー、ビクター、コロムビアなど。外国ではRCA、GEその他』[引用元]と伝えており、部品供給で国内外の主要メーカーとの取引基盤を築いた段階だったことがわかる。戦時下で音響という一見非実用的な領域に事業の根を下ろした決断は、戦後の成長基盤につながる選択となった。同業メーカーが次々と姿を消すなか、スピーカー専業として20年を生き延びたことが、後の完成品オーディオへの転身を可能にする信用と技術蓄積を同社にもたらした。

  • ダイヤモンド(1962年2月12日)
    • [10]米RCA・米GEへの納入(部品供給先)
  • パイオニア 有価証券報告書 第72期(2018年3月期)【沿革】
    • [1]1938年1月 松本望が福音商会電機製作所を創業しスピーカーの製作を開始
    • [2]創業者は松本望(人物)
    • [3]正式社名は『福音商会電機製作所』
    • [7]1947年5月 福音電機株式会社を設立(有限会社福音電機製作所を吸収合併し株式会社化)
    • [9]1961年10月 東京証券取引所市場第二部に上場(商号変更は1961年6月)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [4]創業地は東京市文京区音羽(のちの第一工場も音羽)
    • [5]1941年8月の有限会社福音電機製作所設立時の資本金は7万2500円
    • [6]戦時下の資材不足で航空無線用トランスの製造を余儀なくされた(スピーカー研究は継続)
    • [8]戦後にセットメーカー依存から一般向け市販へ販売の重点を移し、これが発展の素地となった
  • ダイヤモンド(1962年2月12日)
    • [10]米RCA・米GEへの納入(部品供給先)

同族経営からの脱皮を目指した組織改革と外部人材の大胆な登用

1964年にスピーカー部品メーカーから完成品メーカーへの路線転換を本格化し、事業部制の試行を経て機能別の集権組織へ移った。1969年に静岡工場、1970年に川越工場を相次いで新設し[11]、完成品オーディオの量産体制を拡充した。1971年には同族企業から一流企業への脱皮を掲げ、外部から石塚庸三氏を社長に迎え入れた。当時としては異例のガバナンス改革で、音響業界のなかでも特異な経営路線だった。オーナー一族が外部の経営者に実権を委ねる選択は、戦後日本の電機業界でも珍しい試みである。創業者の松本望氏は相談役に退き、経営の実権は外部出身の専門経営者に委ねられた。同族による支配を維持したまま規模を拡大する同業が多数を占めるなかで、同社は創業一族の系譜と経営陣の専門性を切り離す方向に方針を変えた。

  • パイオニア 有価証券報告書 第72期(2018年3月期)【沿革】
    • [11]1969年に静岡工場、1970年に川越工場を新設

石塚氏の在任中は経営幹部の大半を外部からのスカウトで固め、オーディオ市場における競争力の強化を図った。セパレートステレオは市場での受け入れが早く、初代社長の松本望氏は『うちのステレオは、別々なものを組み合わせて、デザインで統一し、セパレート・ステレオということで売り出したわけです。今でも、うちはセパレートの元祖であると同時に、高級ということでも、信用を得ています』[引用元]と語っている。[12]同じ記事では松本氏が『自分でもビックリしているんです。一般に、どの企業でも国内がいいと、輸出が悪く、国内が悪い時は、輸出に力をいれるといったようなことなんですが、うちは国内も輸出もともにうまくいっているのです』[引用元]と国内外の同時成長にも驚きを示している。

  • ダイヤモンド(1967年3月6日)
    • [12]松本望はセパレートステレオを『うちはセパレートの元祖』と語った

石塚氏は成長を持続させるためにも本業重視の方針を貫いた。『力がないのに多角化したらダメです。あせって、もう一つ、もう一つとやって成功したためしはないんです。自分の本業を守って、自然発生的に次の柱を、よく研究して時間をかけて取り組むというのが、これからの成長路線ではないですか』[引用元][13]との発言に、後のレーザーディスク集中投資につながる経営哲学が表れている。外部人材の登用と本業重視の姿勢を組み合わせた経営は、戦後日本的経営の典型から一定の距離を置く位置取りを同社に与えた。資金力で劣る後発組が大手総合家電メーカーと戦うには、安易な多角化でなく音響という一点で技術と品質の優位を維持する戦略しかない、という読みが石塚氏の判断の背後にあった。この姿勢が1980年代のレーザーディスク集中投資への布石となった。

  • 日経ビジネス(1975年10月27日)
    • [13]石塚庸三が本業重視・安易な多角化否定を語った(1975年)
  • パイオニア 有価証券報告書 第72期(2018年3月期)【沿革】
    • [11]1969年に静岡工場、1970年に川越工場を新設
  • ダイヤモンド(1967年3月6日)
    • [12]松本望はセパレートステレオを『うちはセパレートの元祖』と語った
  • 日経ビジネス(1975年10月27日)
    • [13]石塚庸三が本業重視・安易な多角化否定を語った(1975年)

世界初のセパレートステレオを足がかりとした独自路線の確立

セパレートステレオはチューナー、アンプリファイヤー、レコードプレーヤー、スピーカーをそれぞれ独立した筐体で設計する構成で[14]、音質を重視するオーディオ愛好家から支持を集めた。同社はテレビ事業からの撤退と引き換えに音響機器専業という独自の立ち位置を選び、松下電器や東芝など総合家電メーカーとの競合を避けた。一点集中型の経営方針が、高品位オーディオ市場での独自性を育む土壌となった。音響専業という立ち位置が戦後の同社の個性を長く支える背骨となった。総合家電メーカーが量販流通と家庭向けテレビで規模を追う戦略を採るなか、音響専門店を主戦場に据える独自路線は業界内でも稀な存在だった。

  • ダイヤモンド(1967年3月6日)
    • [14]セパレートステレオはチューナー・アンプ・レコードプレーヤー・スピーカーを独立筐体で構成する方式

1960年代には全国の販売店を通じた直販的な流通網の整備も進み、音響専門店向けの販路を築いた。当時のオーディオ市場は高度経済成長と可処分所得の増大を受けて若年層を中心に拡大しており、同社はその波に乗りながら技術的優位を磨いた。スピーカーからアンプ、チューナー、レコードプレーヤーへと製品群を拡張しつつ、家電量販店ではなく音響専門店を主戦場とする独特の販路戦略を貫いた。石塚氏自身が『今後もステレオの安定成長は確信していますが、それだけじゃあいけないんで、次なる成長路線を考えていく』[引用元]と述べた[15]とおり、同社はステレオに依存しない次の柱の模索を早い段階から始めた。

  • 日経ビジネス(1975年10月27日)
    • [15]石塚庸三が次なる成長路線の模索を語った(1975年)

同時代のオーディオメーカーが価格競争と量販流通に巻き込まれていくなかで、専門店網と高級オーディオのブランドを並行して維持した経営判断が、後年のレーザーディスク事業にも通じる下地を作った。レコードプレーヤーやアンプの品質向上を競う時代にあって、独自の技術開発力が業界内で高く評価された。完成品メーカーへの転換と外部経営者の受け入れを同時進行させた機動力が、次の映像ディスク時代への入口となった。社外から経営トップを迎え、本業重視を掲げる石塚氏の言葉どおり、同社は安易な多角化よりも音響という一点での掘り下げを選んだ。この選択が1980年の家庭用レーザーディスクプレーヤー『VP-1000』に結実する判断の背景にある。

  • ダイヤモンド(1967年3月6日)
    • [14]セパレートステレオはチューナー・アンプ・レコードプレーヤー・スピーカーを独立筐体で構成する方式
  • 日経ビジネス(1975年10月27日)
    • [15]石塚庸三が次なる成長路線の模索を語った(1975年)

光ディスクとカーナビゲーションで事業の柱を転換した拡大期

家庭用レーザーディスクプレーヤーの開発と映像事業の確立

1970年代後半から1980年代前半にかけてオーディオ不況が長引くなか、同社は次世代メディアとしてビデオディスクに社運を賭けた。石塚氏は複数あるディスク方式のうち光学式に絞った理由を『音響メーカーとしてのパイオニアは、音声に重点をおいたディスク方式を選ぶのが本当ではないか』[引用元]『光学方式のビデオ・ディスクが最優秀の商品であると判断して、それ以来7〜8年間これを開発してきた』[引用元]と説明している[16]。ビデオテープレコーダーに走る同業を横目に、針を使わず半永久的に再生できる光ディスクという筋の良い選択肢を同社は取った。米MCAや米IBM、オランダのフィリップスとの協力関係[17]を結んで特許面の基盤も整えた。この判断が同社の1980年代を通じた高収益構造の源となる。

  • 証券業報(1980年)
    • [16]光学式ビデオディスク方式を選択(針を使わない再生)。石塚庸三が証券業報1980で説明
    • [17]米MCA・米IBM・蘭フィリップスとの協力関係(特許基盤)

1980年に家庭用レーザーディスクプレーヤー『VP-1000』を発表し、光ディスク技術の特許収入を軸に据える高収益構造を整えた。家庭用レーザーディスクプレーヤーの世界市場シェアはピーク時で約50%に達し、映像事業だけで売上700億円規模へ成長した。もっとも、事業化への道のりは綱渡りで、石塚氏自身が『この事業が成功する可能性は4分6分。難しい事業だと覚悟して取り組んでほしい』[引用元]『しかし、うちの企業規模からいって、6分の可能性がみえてから走り出したのではもう遅い。大手メーカーが作るだろう。4分のリスクのある段階だからやるんだ』[引用元][18]と技術陣に覚悟を求めた投資だった。

  • 日経ビジネス(1984年5月14日)
    • [18]石塚庸三がLD事業化を『成功する可能性は4分6分』と語った(1984年)

1982年に石塚氏が急死し、松本誠也副社長が社長に昇格[19]した。日本経済新聞は『石塚氏の急死はパイオニアの屋台骨が倒れたことを意味する』[引用元]『構造不況とまでいわれるオーディオの不振の打開と、ビデオディスクの販売体制の強化は容易ではない』[引用元]と報じ[20]、経営交代が抱えるリスクを指摘した。それでも同社はレーザーディスクの開発投資を継続し、1991年頃にはカラオケ用途を新たに開拓して業務用市場でも普及を牽引した。全国に広がるカラオケボックスの展開と相まって、レーザーディスクは同社の収益を支える柱となった。スピーカーから光ディスクへと約10年周期で事業の柱を入れ替えるパターンがはっきり姿を現した。

  • パイオニア 有価証券報告書 第72期(2018年3月期)【役員の状況】
    • [19]1982年に石塚庸三が急死、松本誠也副社長が社長に昇格
  • 日本経済新聞(1982年4月25日)
    • [20]日本経済新聞が石塚急死を報じた(1982年)
  • 証券業報(1980年)
    • [16]光学式ビデオディスク方式を選択(針を使わない再生)。石塚庸三が証券業報1980で説明
    • [17]米MCA・米IBM・蘭フィリップスとの協力関係(特許基盤)
  • 日経ビジネス(1984年5月14日)
    • [18]石塚庸三がLD事業化を『成功する可能性は4分6分』と語った(1984年)
  • パイオニア 有価証券報告書 第72期(2018年3月期)【役員の状況】
    • [19]1982年に石塚庸三が急死、松本誠也副社長が社長に昇格
  • 日本経済新聞(1982年4月25日)
    • [20]日本経済新聞が石塚急死を報じた(1982年)

世界初のカーナビゲーション開発を通じた車載機器事業への本格進出

1990年、同社は世界に先駆けてGPSを用いた民生用カーナビゲーションを発表し[21]、車載機器メーカーとしての地歩を築いた。光ディスク技術で培ったレーザー応用の知見を、車載という別の事業領域へ転用する戦略で、後年の車載機器集中投資への布石となった。ホンダや日産など国内自動車メーカーへの純正採用を広げる取り組みを続けた。音響機器で培った高品質志向と信頼性が車載市場での差別化につながり、自動車業界特有の厳しい品質基準への早期対応も同社の強みとなった。純正と市販後装着の両方で展開できる車載機器は、家庭用オーディオの成熟化を補う次の柱として期待を集め、社内の研究開発資源を長期で傾斜配分する対象となった。

  • パイオニア 有価証券報告書 第72期(2018年3月期)【沿革】
    • [21]1990年に世界初のGPS市販カーナビゲーションを発表

車載機器事業は純正と市販後装着の両面で展開され、音響専門店を通じた既存の販路とも相性が良く、家庭用オーディオの成熟化に伴う停滞を補う新たな収益源として期待を集めた。1980年代末から1990年代初頭にかけて、映像ディスク事業と車載機器事業が補完しながら業績を下支えする構造が見え始めた。松本誠也氏は当時を振り返って『私が社長に就任した1982年当時、売上高は3000億円ほどでしたが、オーディオ不況に見舞われ、壁にぶつかっていました。ライバルメーカーはVTRに夢中になり、そこに活路を見出した。当社はVTRをパスし、LDに賭けたのです』[引用元]と述べている。[22]

  • 日経ビジネス(1991年8月5日)
    • [22]松本誠也は1982年社長就任、当時売上高3000億円ほどと回顧(オーディオ不況・VTRをパスしLDに賭けた)

水面下では次の柱として映像ディスプレイ事業への投資が準備されていた。松本誠也氏が『LDはソフトとハードの両面で新市場を作り出したし、10年後には巨大な市場に変貌していると予測しています』[引用元]と語った[23]1991年の時点では、光ディスクの延長線に映像ディスプレイを置く構想は自然に見えた。しかしこの判断の成否が次の時代の命運を分けた。車載機器は次の収益基盤として育ち始めていた段階だった。同業他社がVTRとテレビの大量生産で規模を追うなか、同社は光ディスクとカーナビゲーションという独自の二本柱で差別化を図る位置取りを維持した。この独自路線が、後にプラズマ投資という過大な賭けに連なった。

  • 日経ビジネス(1991年8月5日)
    • [23]松本誠也がLDの将来市場を1991年に語った
  • パイオニア 有価証券報告書 第72期(2018年3月期)【沿革】
    • [21]1990年に世界初のGPS市販カーナビゲーションを発表
  • 日経ビジネス(1991年8月5日)
    • [22]松本誠也は1982年社長就任、当時売上高3000億円ほどと回顧(オーディオ不況・VTRをパスしLDに賭けた)
    • [23]松本誠也がLDの将来市場を1991年に語った

プラズマディスプレイ投資の失敗と上場廃止に至る衰退期

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パイオニアの沿革1938〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1938〜1971年スピーカー専業から音響総合メーカーへの脱皮福音商会電気製作所を創業
福音電機製作所を設立
パイオニアを商標登録
福音電機を設立
音羽に第1工場を新設
スピーカーPE-8を開発
テレビ製造に参入(のちに撤退)★★
パイオニアに商号変更
東京証券取引所第2部に株式上場
世界初のセパレートステレオを発表
機能別集権組織に転換
U.S. Pioneer Electronics Corp.を設立
ベルギーにPioneer Europe NVを設立
川越工場を新設
石塚庸三氏が社長就任
1972〜1991年光ディスクとカーナビゲーションで事業の柱を転換した拡大期ニューヨーク証券取引所に上場
外部人材のスカウトによる「混血経営」の確立

1971年に外部から石塚庸三氏を社長に迎えて以降、パイオニアは社長・役員から中間管理職までの大半を他社からのスカウトで固める『混血経営』を1970年代を通じて確立した。創業者の松本望氏がオーナー経営の限界を認めて実権を専門経営者に委ね、石塚社長が徹底した合理主義と無借金化を進めた統治のかたちである。

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★★★
レーザーディスク事業への集中投資と、映像メディアへの進出

1980年、音響専業として成長したパイオニアが、石塚庸三社長の主導で家庭用レーザーディスクプレーヤー『VP-1000』を発表し、光ディスクによる映像メディア事業へ経営資源を集中した判断。VTRに向かう同業を横目に、音響メーカーの強みを生かせる光学式ディスクへ社運を賭けた。

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★★★
松本誠也石塚庸三社長の急死と松本誠也氏への緊急継承

1982年4月、外部から招かれてパイオニアを高収益企業に育てた石塚庸三社長がソウルで客死し、副社長で創業者・松本望氏の子息にあたる松本誠也氏が緊急に社長へ昇格した。予期せぬトップ交代を機に業界ではVTR進出の観測が広がったが、松本新社長は石塚氏が敷いたビデオディスク重視の路線を引き継ぐ判断を選んだ。

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★★★
松本誠也松本誠也氏が社長に就任
松本誠也世界初GPSカーナビを開発
松本誠也LDでカラオケ用途を開拓★★
1992〜2026年プラズマディスプレイ投資の失敗と上場廃止に至る衰退期松本誠也Pioneer Electronics Asiacentre Pte. Ltd.を設立
松本誠也プラズマディスプレイ(PDP)を独自開発。静岡工場で量産開始★★
松本誠也NECプラズマ事業の買収と、デジタル家電の価格急落

2004年2月、カーナビ・記録型DVD・プラズマテレビのデジタル家電で高収益を上げていたパイオニアが、NECのプラズマパネル事業を約400億円で買収し、生産能力を一気に4倍へ引き上げる社運を懸けた大勝負に出た。ところが同年後半からデジタル家電の価格が急落し、10月末の中間決算で年間営業利益の見通しをほぼ半減させ、翌期に創業以来の赤字へ転落した。

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★★★
須藤民彦シャープからの資本受け入れと業務・資本提携

2007年9月20日、プラズマテレビの不振で三期連続の最終赤字に沈んでいたパイオニアが、シャープと業務・資本提携を発表した経営判断。第三者割当増資でシャープがパイオニア株の14%台を取得して筆頭株主となり、次世代DVD・映像ディスプレイ・カーエレクトロニクス・ネットワークの各分野で技術とデバイスを相互に利用する枠組みを結んだ。資本まで踏み込んだ提携はパイオニア側から提案したものであった。

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★★★
須藤民彦プラズマテレビなどから撤退。社員1万名の削減★★
小谷進増資で倒産回避へ。カーオーディオに集中投資
小谷進シャープと光ディスク事業の合弁を開始★★
小谷進三菱電機と資本提携契約を締結★★
小谷進ホームAV・電話機事業をオンキヨーへ譲渡★★
小谷進コニカミノルタと有機EL照明合弁を設立
森谷浩一香港ファンド(ベアリングPEアジア)の傘下入りと上場廃止による再建

2018年9月から12月にかけて、パイオニアが香港の投資ファンド、ベアリング・プライベート・エクイティ・アジアからの支援を受け入れ、最終的に総額1,020億円の出資による完全子会社化を決めた経営判断。同社は2019年3月27日付で東証1部の上場を廃止し、独立した上場企業としての歴史に区切りをつけた。森谷浩一社長・小谷進会長の下での決断であった。

詳細を読む
★★★
森谷浩一希望退職者3000名を募集
台湾企業がパイオニアを買収
出典・参考
  • パイオニア 有価証券報告書 第72期(2018年3月期)【沿革】
  • パイオニア 有価証券報告書 第72期(2018年3月期)【役員の状況】
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • ダイヤモンド(1962年2月12日)
  • ダイヤモンド(1967年3月6日)
  • 日経ビジネス(1975年10月27日)
  • 日経ビジネス(1984年5月14日)
  • 日経ビジネス(1991年8月5日)
  • 日本経済新聞(1982年4月25日)
  • 証券業報(1980年)

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