石塚庸三氏が社長就任
同族企業から一流企業への脱皮と外部人材の登用
パイオニアは1961年の東証2部上場を機に、近代経営への転換を迫られていた。上場により証券市場からの資金調達が容易になった一方、企業としての社会的責任が増し、原価計算、在庫管理、企業会計原則に沿った経理システムの導入が急務となった。創業者の松本望は、一流企業となるには同族会社としての色合いを薄め、外部から一流の人材を招く必要があると考えていた。スピーカーメーカーとして株式会社に改組した時点で従業員は200人ほどだったが、19年間で約6000人を抱えるオーディオ業界のトップメーカーに急成長しており、経営・技術の両面で有能な人材の採用が急がれていた。
その最初の試みが1963年10月の石塚庸三のスカウトだった。石塚は東京大学法学部卒業後、東京芝浦電気(東芝)の総務部など管理部門を経て、電子機械工業会の業務部長に就任していた人物である。松本が米国電子工業視察団の団長として渡米した際、人選から段取りまで手配したのが石塚であり、松本は工業会時代からの交流を通じて石塚の能力を見極めていた。一族の賛同を得た松本は石塚をパイオニアの常務に招き、これが後に「混血経営」と呼ばれる外部人材登用路線の出発点となった。
役職の大半を外部スカウトで構成した異色の経営体制
石塚の入社以降、パイオニアの人材スカウトは本格化した。石塚自身がスカウトの演出者となり、工業会時代の業界人脈と情報網を活用して各方面から人材を集めた。技術畑の中堅幹部をゼネラルから数カ月にわたり出向させ、日本コロムビアからはステレオ市販で業界一といわれる人物を招いた。1980年3月末時点で、パイオニアの管理職428人のうち63%が他社からの移入社員で占められ、役員23人中の過半数にあたる15人がいわゆる「移入組」だった。
この「混血経営」は急成長の原動力となったが、代償も伴った。メーカー、銀行、商社、ジャーナリズムと多様な出自の社員が一気に増えたことで、社員間の融和や協調に摩擦が生じた。創業者の松本とその妻・千代は、家内工業から同族企業、さらに近代企業へと脱皮していく過程で社内調整の潤滑油としての役割を果たした。1971年11月、石塚が社長に就任し松本は会長に退いたが、この人事は同族経営から専門経営者への移行を象徴するものであり、パイオニアが技術開発型の中堅企業から総合AV機器メーカーへ成長する体制の基盤を築いた。