福音商会電気製作所を創業
楽器会社の倒産を経てオーディオ産業に転身した創業者
パイオニアの創業者である松本望は、牧師の家庭に育ち、幼少期からバイオリンやピアノに親しんだ。当初は楽器会社に勤務していたが、勤め先が倒産したことを受けてラジオのセールスエンジニアに転身した。ラジオ放送が開始された直後の時期であり、音響機器という成長産業に身を投じる形となった。
セールスエンジニアを退職した松本は、24歳で大阪にてラジオ卸を開業して独立を果たした。しかし事業は軌道に乗らず、数年にわたって経済的に困窮する不遇の時代を過ごした。その後、ラジオ卸を廃業し、神戸でマイクなどの音響機器を製造していた「ヴィーナス・カンパニー」にセールスマネージャーとして就職。同社でオーディオ機器の製造に関わるうちに、再び独立への意欲が湧いたという。
松本は音へのこだわりについて「私は音楽好きだし、楽器好きでもあったし、うってつけの仕事だ」と語っている。一度の独立失敗を経て、1936年11月に大阪で「福音商会電機製作所」を創業した。屋号の「福音商会」は、創業資金を出資したキリスト教伝道団体の名称に由来する。
出資打ち切りの危機を乗り越え東京で再起を図る
福音商会電機製作所では、ラジオ向けの普及品である「マグネチック・スピーカー」ではなく、レコードプレーヤー向けの高音質な「ダイナミック・スピーカー」の製造開発に注力した。松本は「いまはマグネチック・スピーカーが全盛を誇っているが、いずれ近い将来、かならずダイナミック・スピーカーが、これにかわる時代がくるに違いない」と確信していた。
しかし、関西市場ではダイナミック・スピーカーの需要は時代に先行しすぎていた。創業から1年間にわたって利益を出すことができず、出資者である福音商会から「この商売には面白味がないから、以後資金の融通は打ち切る」と通告された。妻と子供5人を抱えた松本にとって、事業の閉鎖を申し入れられたことは大きな打撃であった。
松本は福音商会のもとでの事業継続を断念し、残債整理を開始した。スピーカーの需要が多い東京への移転を決断し、1938年1月に東京で「福音商会電機製作所」の2度目の創業を果たした。ヴィーナス・カンパニーの関係者からの支援を受け、大崎のコンデンサーメーカー・トモエ製作所の工場の一部を借りて事業を再開した。
ダイナミック・スピーカーで東京市場を独占し事業基盤を確立
東京移転後は修理事業で利益を確保しつつ、スピーカーの製造開発を並行して進めた。販売先は東芝や日本コロムビアなどのレコード再生機メーカーであり、スピーカーを部品として納入した。ダイナミック・スピーカーの市場規模がまだ小さかったこともあり、東京市場においてはほぼ独占的な地位を確保した。
事業の拡大に伴い、間借りしていた工場が手狭になったため、1940年には文京区音羽に移転した。従業員数は東京移転時の5名(1938年)から音羽移転後には約25名(1940年)へと増加し、1941年には有限会社として法人化を果たした。
大阪での出資打ち切りという挫折を経て東京で再起し、ダイナミック・スピーカーという将来性のある製品に賭けた松本の判断は、結果として市場の成長とともに報われた。ただし、創業期の資金難は宗教団体からの借入に頼らざるを得なかった事実が示すとおり、技術的な先見性と事業としての収益性が一致しない時期を乗り越える必要があった。