牧野明次体制の「量から質への転換」―戸建住宅事業撤退と水素先行投資
バブル崩壊後に温存された周辺事業をどう手仕舞い、次の成長領域をどこに定めたか
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- 概要
- 2000年4月に4代目社長へ就任した牧野明次氏が「量から質への転換」を掲げ、2002年7月に戸建住宅事業の子会社5社を清算する一方、同年2月に国内初の水素供給ステーションを実証稼働させた経営判断。
- 背景
- 楊井立夫社長のもとで規制緩和・業界再編の空気が強まるなか、平成不況で戸建住宅など低収益の周辺事業が温存され、1991年の供給センター統廃合や93年のブランド刷新も流通効率の改善にとどまっていた。
- 内容
- 牧野社長は産業ガス・LPガスをコア事業に据えて経営資源を集中し、グループ会社の統廃合と役員半減・本社スリム化を進めたうえで、2002年7月に戸建住宅事業から完全撤退し、同時に水素供給ステーションの実証を開始した。
- 含意
- 財務危機への対応ではなく、緩やかな逆風のなかで創業者の代からの遺産をどう手仕舞うかという判断であり、その余力を燃料電池車がほぼ存在しない時期の水素先行投資へ振り向けた点に特徴がある。
量から質への転換をどう評価するか
この決断の核心は、財務危機への対応ではなく、平成不況という緩やかな逆風のなかで、創業者の代からの遺産をどう手仕舞うかという判断にあったとみられる。戸建住宅事業は赤字が急拡大していたわけではないが、住宅市場の長期低迷のもとでは撤退の決断を先延ばしにするほど傷が深くなる構図にあった。牧野社長が就任からわずか2年で清算に踏み切ったのは、量から質へという方針を掛け声だけに終わらせない実行力を示したものといえる。
もっとも、水素供給ステーションの実証開始は、燃料電池車がほぼ存在しない時期の先行投資であり、当時それが経営判断として正しかったかどうかは、20年以上を経た今日でもなお評価が分かれるところであろう。乗用車の燃料電池車普及は当初の想定ほど進まなかった一方、商用車向けの需要や液化水素製造の規模拡大は続いている。周辺事業の整理で生まれた余力を水素へ振り向けた選択は、量的拡大より自社の強みをどこに置くかを問い直した経営判断として、今日に長い影を落としている。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
楊井立夫社長のもとの規制緩和と業界再編の空気
1998年6月、岩谷産業の社長には楊井立夫氏が就いた。前任の斎藤興二氏(当時代表取締役会長)の指名を受けての就任であり、楊井氏自身「斎藤の描く絵を実行することがわが使命」と受け止めていたという。1979年に工業燃料部長兼LPガス石油部長、85年取締役、90年専務、95年副社長を経て、統合戦略営業本部長から社長へ昇格した生え抜きであった[1]。
ガス・エネルギー業界は当時、規制緩和の流れのなかにあった。楊井社長はこれを「本業の足元を固めよ」というメッセージとして受け止め、業界で進む再編の動きについても「融通無碍、柔軟、前向きに考えたい」と語っていた。創業者・岩谷直治氏はこの時点でなお取締役名誉会長として在籍していた[2]。
バブル崩壊後に温存された周辺事業
バブル崩壊後の平成不況が長引くなか、1966年に参入した戸建住宅事業をはじめ低収益の周辺事業が温存されていた。同社は1991年4月に地域ブロック別のLPガス供給センターを統廃合し、93年10月にはマルヰプロパン発売40周年に合わせて新ブランド「Marui Gas」を採用したが、いずれも流通効率の改善にとどまり、事業構成そのものの見直しには至っていなかった[3][4]。
産業ガス出身で1998年当時はまだ経営の中枢に入っていなかった牧野明次氏は、後年のインタビューで、2000年に社長に就いて以降「LPGはこのまま続くのか、あるいは他の燃料に取って代わられるのではないか」という危機感を抱いてきたと振り返っている。LPガス一本足の事業構造そのものへの疑問が、後の改革の出発点にあった[5]。
決断
「量から質への転換」と組織の絞り直し
2000年4月、牧野明次氏(当時58歳)が4代目社長に就任した。牧野社長は「量から質への転換」を経営の基本方針に掲げ、産業ガス・LPガスの両事業をコア事業と位置付けて経営資源を重点的に投下する一方、採算性の低いグループ会社を統廃合し、役員数を半減して若手への権限委譲を進め、本社機能をスリム化して人員を事業所へ再配置した[6][7]。
牧野社長は、LPガス業界の会合のたびに「今のプロパンは水素に代わり、各家庭は燃料電池でエネルギーを起こす時代が来る」と説き続けた。最初は「また言っているな」という反応が大勢だったというが、量的拡大を追うより自社の強みをどの事業に振り向けるかという問いが、組織改革と並行して経営の軸に据えられていった[8]。
戸建住宅事業からの完全撤退
2002年7月26日、取締役会は岩谷住宅産業・アイホームコンポーネント・西部イワタニハウスサービス・イワタニハウスエンジニアリング・拓建築工房の子会社5社を清算し、戸建住宅事業から撤退する決議を行った。1966年の参入、84年3月の岩谷住宅産業設立から続いた事業であり、住宅市場の見通しを検討した結果、住宅市場の低迷による厳しい経営状況が撤退の理由とされた[9]。
アフターサービスとメンテナンス業務は系列会社に引き継ぎ、建築中の物件は完成まで工事を継続し、未着工の物件は顧客の要望に応じて対応するとされた。撤退にあたっても既存顧客への責任を残す形をとり、創業者の代から続いた周辺事業の整理を一つの区切りとして完了させた[10]。
結果
水素供給ステーションという次の一手
戸建住宅事業の撤退決議に先立つ2002年2月、岩谷産業は大阪市此花区の酉島に、国内初となる本格的な水素供給ステーションを完成させ、実証試験を開始した。当時の燃料電池車は1台1億円程度で、購入できる消費者がほぼ存在しない段階にあり、経済合理性を疑う声も業界にはあった[11][12]。
牧野社長は、1941年に副生水素の販売から水素事業を始めた創業者・岩谷直治氏の「水素の時代が来る」という言葉を、みずからの危機感と重ね合わせていた。周辺事業の整理で生まれた経営資源の余地を、量から質への転換という方針のもとで水素という次の柱に振り向けた点に、二つの決断のつながりがある[13]。
改革から水素事業拡大への接続
水素供給ステーションの実証開始から4年後の2006年、岩谷産業は関西電力等との合弁で設けた液化水素製造プラント「ハイドロエッジ」を稼働させ、世界最大級の規模で液化水素を供給する体制を整えた。戸建住宅事業から引き揚げた経営資源が、水素事業の設備投資へ流れ込んだ形になった[14]。
牧野社長は2012年6月に代表取締役会長兼CEOへ移り、5代目社長には野村雅男氏を充てた。会長となった後も水素事業の陣頭に立ち続け、周辺事業を整理し尽くした岩谷産業は、産業ガス・LPガス・水素という3本柱を軸とする体質へ変わっていった[15]。
- 週刊東洋経済 1998年11月14日号「[ひと]楊井立夫 岩谷産業社長「モノづくり」に飽くなき挑戦 業界再編にも「前向き」」
- 岩谷産業 有価証券報告書【沿革】
- 岩谷産業 有価証券報告書【役員の状況】
- R.E.port(2002年7月30日)「岩谷産業、戸建て住宅事業から撤退」
- 財界オンライン(2021年4月15日)「岩谷産業・牧野明次会長兼CEO『2050年の脱炭素社会に向け水素の役割は重要。官民一体で気候変動対策を』」
- 岩谷産業 岩谷産業八十年史(岩谷産業株式会社, 2010年8月)
- 岩谷産業 公式サイト「沿革」
- テレビ東京 カンブリア宮殿(2021年12月23日)