1930年5月、創業者の岩谷直治氏は[1]妻ソチとともに大阪市港区市岡浜通に岩谷直治商店を個人創業し、酸素・カーバイド・溶接材料[2][3]の販売を始めた。岩谷直治氏は1903年に島根県安濃郡長久村(現・大田市)で五男[4]に生まれ、安濃郡立農業学校(現・島根県立大田高等学校)卒業後の1918年に神戸の楫野海陸運送店に奉公へ入り[5]、商人としての修行を積んだ経歴をもつ。当時の関西は重工業の勃興期で、造船・鉄道車両・橋梁の現場では溶接技術が広がり始め、酸素ガスとカーバイドの安定供給はそのまま顧客の工程能力を左右した。岩谷直治商店は資本も人脈も持たない単身の個人企業として出発したが、納期遵守と現物の品質管理で得意先を増やし、創業から10年余で関西の工業ガス商社としての足場を固めた。
1941年、岩谷直治氏は事業の幅を一段広げる出会いを得た。当時の硬化油脂の製造工場では水素を副生していたが、自家使用ぶんを超えた水素は工程の都合上ほぼ全量が大気へ放出されていた。岩谷直治氏はその事実を『もったいない』と捉え、工場側から余剰水素を引き取って販売する事業を立ち上げた。原子水素溶接機の輸入が広がり始めた時期で、水素ガスの需要は出始めていたものの、流通の担い手はほぼ存在しなかった。捨てられる気体を集めて売るという発想は、酸素・カーバイド商の延長線上にあり、創業者の現場肌の発想がそのまま事業領域の拡張を駆動した。日華事変から太平洋戦争へと戦時体制が深まるなか、海外貿易の拠点として金生洋行を、海運事業として金生海運を設立した。さらにフランスの液体空気会社との合弁で興亜酸素を設け、上海・天津・広東に工場を構えて中国大陸で最大の酸素メーカーの地位を築いた。
1945年2月、岩谷直治氏は岩谷直治商店を[6]改組して資本金198千円で岩谷産業株式会社を設立し[7]、代表取締役社長に就任した[8]。終戦の半年前という時期で、大阪本社は同年の空襲で焼失したが、岩谷直治氏は事業を継続した。設立後は創業以来の酸素・カーバイドに加え、特殊ガス・高圧容器・機械・合成樹脂・貿易の各部門を設けて事業の多角化を進め、『物資の豊かな流通によって社会の繁栄を』[引用元]という企業理念[9]のもとで事業基盤を広げた。戦後の混乱期を経て1949年に大阪証券取引所へ上場し[10]、戦後の事業拡大に向けた資本調達の制度を整えた。創業から15年、個人商店から株式公開企業へと組織形態は塗り替わったが、創業者個人の判断で新規事業を立ち上げる経営スタイルは戦前から変わらず、以後40年にわたり岩谷直治氏が同社の意思決定の中心に居続けた。
1952年、岩谷直治氏は富山県で開かれた高圧ガス協会の総会で、イタリアでは液化したガスをボンベに詰めて家庭で使っていることを知った。当時の日本の家庭の炊事はかまどに薪をくべるのが主流で、家事を担う主婦は煤と煙にまみれて働いていた。岩谷直治氏は液化石油ガスを家庭に届ければ主婦を煤煙から解放できると考え、1953年に『マルヰプロパン』のブランドで日本初の家庭用LPガス全国販売を開始した[11]。当時のプロパンガスは工業用途の燃料という認識が一般的で、消費者向けの流通網を全国規模で組み立てる発想は業界には存在しなかった。50歳の経営者が、産業ガス商社から消費財メーカーへ事業の性格そのものを書き換える賭けに出た。
販路の構築は1955年に始まる『なにわ号』『やくも号』キャラバン隊が担った。神社の境内で湯を沸かすデモを行い、煤を出さずに短時間で湯が沸く実演で各地の主婦を集めた。家庭用ガスコンロとボンベ、ガス漏れ警報器をセットにした販売パッケージを地域ごとに整え、特約店を通じて全国に流通網を組み立てた。マルヰプロパンの普及で岩谷産業の主軸はB2BからB2Cへ移り、産業ガス商社の延長で水素を扱っていた会社は、家庭の台所まで届く全国流通網をもつエネルギー流通会社へ自社の事業領域を組み替えた。1964年10月10日の東京オリンピック開会式[12]では聖火台の燃料にマルヰプロパンが採用され、皇居前の前夜祭でも集火台に使われた。家庭用エネルギーの代名詞として一般消費者に広く認知された出来事であり、岩谷直治氏は『プロパンの父』と呼ばれるまでに事業を育てた。
1969年、岩谷産業は日本初のホース不要の卓上カセットこんろ『イワタニホースノン・カセットフー』を発売した[13]。岩谷直治氏が食卓での鍋料理時にホースが邪魔だという主婦の声を耳にし、ボンベを充填式から使い切り式に転換するという業界常識の書き換えに踏み込んだ製品だった。殺虫剤の缶を参考にカセット式ボンベを小型化し、家庭で安全に使える携帯コンロを設計した。マルヰプロパンの全国流通網のうえに、独自の家電商品が加わり、岩谷産業はLPガスの川下までを掌握する希少な事業者となった。カセットフーの累計出荷は半世紀で5,200万台を超え、現在も同社の代表商品として家庭で使われている。LPガスの卸売りを主力とする業界他社とは、川下流通とブランド資産の厚みで一線を画す位置に同社を据えた起点となった。
1980年8月、岩谷産業は大阪府堺市に堺LPG輸入ターミナルを完成[14]させ、自社で初の輸入基地を持つに至った。1953年のマルヰプロパン発売時から構想していた川上から川下までの一貫供給体制を、27年の年月を経て完成させた節目だった。同年5月にはサウジアラビアの国営石油会社ペトロミンとの輸入契約を交わし、翌1981年2月から中東からの直輸入を始めた[15]。それまで国内商社経由でLPガスを調達していた構造から、産油国との直接交渉で原料を確保する構造へ切り替えた決断は、1979年の第二次オイルショック直後という事業環境を踏まえた選択でもあった。家庭用LPガス販売で築いた全国シェアを守るには、原料調達の安定性が前提条件であり、上流の輸入権を自社で握る以外に解はなかった。
1969年には大阪・東京の二本社制を採用し[16]、首都圏でも事業基盤を強化、同年に名古屋証券取引所市場第一部に上場した。1985年12月には岩谷ガス工業・富士瓦斯工業・大阪水素工業の3[17]社が岩谷ガス工業を存続会社として対等合併し、高圧ガス事業の岩谷瓦斯株式会社(現・連結子会社)を設立して工業ガス事業の集約を完了した。LPガスの家庭向け流通と工業ガスの製造販売を二本柱とする事業構造が、創業から55年を経てほぼ完成した。岩谷直治氏は同年12月に82歳で会長職へ移り[18]、代表取締役社長は2代目の斎藤興二氏が継いだ。
創業者の岩谷直治氏が55年にわたり率いた個人主導の経営は[19]、酸素・カーバイドの店主から始まり、捨てられる水素を売る発想、家庭用LPガスの全国流通網、カセットこんろの製品開発、産油国直輸入の上流統合まで、新規事業を毎度自身で立ち上げる連続だった。資本も人脈も持たない地方の商店が一代で全国規模のエネルギー流通会社まで成長した事例は戦後日本でも数少ない。後の経営陣に残されたのは、創業者個人の判断速度が会社全体の意思決定を駆動する組織文化と、産業ガス・LPガス・水素という3つの事業領域、そして地方発祥のままでは伸びしろが限られるという成長の天井だった。1985年は岩谷産業にとって、創業者経営から専門経営者経営への移行が始まった年に位置する。
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|---|---|---|---|---|
| 1930〜1985年創業者の岩谷直治氏が55年で築いた「捨てられる気体を売る」流通網 | 岩谷直治氏が岩谷直治商店を創業 | ★ | ||
| 酸素・カーバイド・溶接材料等の取扱いを開始 | ★ | |||
| 岩谷直治 | 組織に改め、資本金198千円をもって、岩谷産業を設立 | ★ | ||
| 岩谷直治 | 本店を移転 | ★ | ||
| 岩谷直治 | 東京営業所を開設 | ★ | ||
| 岩谷直治 | マルヰプロパン発売──家庭用LPガス全国流通への転換 1953年11月、産業ガス商社だった岩谷産業が『マルヰプロパン』のブランドを掲げ、日本で初めて家庭用LPガスの全国販売に踏み切った経営判断。工業用燃料の卸売りから、家庭の台所に届く消費財流通事業へ自社の領域を広げた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 岩谷直治 | LPガス等の販売会社であるセントラル石油瓦斯を設立 | ★ | ||
| 岩谷直治 | 大阪証券取引所市場第二部に株式を上場 | ★ | ||
| 岩谷直治 | 東京証券取引所市場第二部に株式を上場 | ★ | ||
| 岩谷直治 | 大阪・東京両証券取引所市場第一部に指定 | ★ | ||
| 岩谷直治 | 大阪・東京の2本社制を採用 | ★ | ||
| 岩谷直治 | 名古屋証券取引所市場第一部に上場 | ★ | ||
| 岩谷直治 | 本店を移転 | ★ | ||
| 岩谷直治 | 高圧ガス等の販売会社である大阪イワタニガスを設立 | ★ | ||
| 岩谷直治 | LPガス輸入基地として堺LPG輸入ターミナルが完成 | ★★ | ||
| 岩谷直治 | サウジアラビアよりLPガスの直輸入を開始 | ★★ | ||
| 齋藤興二 | 岩谷ガス工業・富士瓦斯工業・大阪水素工業の3社が対等合併し岩谷瓦斯を設立 | ★★ | ||
| 1986〜2012年創業者退任後の30年で進めた事業ポートフォリオの整理と水素への先行投資 | 齋藤興二 | 第43回定時株主総会の決議により決算期を11月30日から3月31日に変更 | ★ | |
| 齋藤興二 | 各地域ブロック別に供給センターの統廃合を実施 | ★ | ||
| 齋藤興二 | 新ブランド「Marui Gas(マルヰガス)」を採用 | ★ | ||
| 楊井立夫 | 東京本社を移転 | ★ | ||
| 牧野明次 | 環境に関する国際規格であるISO14001の認証を取得 | ★ | ||
| 牧野明次 | 牧野明次体制の「量から質への転換」―戸建住宅事業撤退と水素先行投資 2000年4月に4代目社長へ就任した牧野明次氏が『量から質への転換』を掲げ、2002年7月に戸建住宅事業の子会社5社を清算する一方、同年2月に国内初の水素供給ステーションを実証稼働させた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 牧野明次 | 実証試験を開始 | ★ | ||
| 牧野明次 | ミネラル・ウォーター「富士の湧水」の宅配事業に参入 | ★ | ||
| 牧野明次 | 本店を移転 | ★ | ||
| 2013〜2026年「水素のイワタニ」を商用化レースで形にする段階 | 野村雅男 | 新たな技術拠点として、中央研究所が竣工 | ★ | |
| 野村雅男 | 市場統合により大阪証券取引所市場第一部が東京証券取引所市場第一部に統合 | ★ | ||
| 野村雅男 | 国内初の商用水素ステーション「イワタニ水素ステーション 尼崎」が完成 | ★★ | ||
| 谷本光博 | 名古屋証券取引所市場第一部について上場廃止申請を行い、上場廃止 | ★ | ||
| 間島寬 | 転換社債型新株予約権付社債の全額権利行使により資本金が350億円に | ★ | ||
| 間島寬 | プライム市場に移行 | ★ | ||
| 間島寬 | コスモエネルギーホールディングスの株式取得と資本業務提携 2023年12月から2024年4月にかけて、岩谷産業がコスモエネルギーHDの株式を段階的に取得し、議決権20.07%を握る筆頭株主・持分法適用関連会社として資本業務提携を締結した経営判断。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(岩谷産業)