独リンデ・プラクスエア統合が生んだ欧州産業ガス事業の巨額買収
国内頭打ちの産業ガス最大手は、なぜ財務悪化を賭してまで欧州へ踏み込んだか
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- 概要
- 2018年7月5日、大陽日酸(現・日本酸素ホールディングス)が、米プラクスエアの欧州産業ガス事業を約50億ユーロ(約6400億円)で買収すると発表した経営判断。市原裕史郎社長の主導で同年12月に取得を完了し、日本の化学会社による海外M&Aでは過去最大の規模となった。
- 背景
- 国内シェア約4割の産業ガス最大手でありながら、製造業の海外移転で国内市場は頭打ちが続いていた。米国を軸に海外M&Aを積み上げてきた一方、世界大手4社が押さえる欧州だけが空白地帯として残されていた。
- 内容
- 世界2位リンデと3位プラクスエアの経営統合に伴う独占禁止法審査で、プラクスエアが手放す欧州13カ国の事業を入札で取得した。年間売上高約1,600億円超・営業利益率15%以上の高収益事業を引き継ぎ、日本・米国・アジアオセアニアに欧州を加えた世界4極体制を築いた。
- 含意
- 有利子負債は約3倍の1兆円近くへ膨らみ財務は悪化したが、安定収益の欧州基盤を得て海外売上高比率は5割を超えた。2020年10月の持株会社移行と社名変更にもつながり、産業ガス世界4位の地位を固める転機となった。
空白を埋めた買収と、負ったものの重さ
この決断の核心は、自力では届かなかった欧州という空白を、世界大手の再編が生んだ一度きりの売却案件によって一挙に埋めた点にある。産業ガスは消費地の近くに拠点を構える面の商売であり、地盤のない地域へ後から入るのは難しい。競争当局が寡占の是正を求めた場面を捉え、当初狙った米国から欧州へ素早く狙いを移した判断は、地域網こそが競争力だという事業の本質を踏まえた選択であったとみることができる。三菱ケミカルの傘下にありながら産業ガス専業としての世界戦略を貫いた点も、この機会の掴み方に表れている。
もっとも、空白を埋めた対価として同社が負ったものは軽くない。有利子負債は1兆円近くへ膨らみ、財務の健全性という別の課題を抱え込んだ。その後の業績拡大は買収の採算の確かさを裏づけているが、稼いだ果実をどう財務改善へ振り向け、親会社との関係のなかで資本配分の自由度をどこまで確保するかは、なお残る問いである。空白を埋める買収が世界4位の地歩を固めた一方、そこで負った重さと今後どう折り合っていくかに、この判断の評価は左右されるとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
国内市場の頭打ちと海外M&Aの積み上げ
産業ガスは、製鉄に使う酸素、半導体製造や食品の酸化防止に使う窒素、薄板溶接に欠かせないアルゴンなど、工業製品の製造工程を支える基礎資材である。大陽日酸は国内で約4割のシェアを握る最大手であった。しかし製造業の海外移転が進んで国内市場は頭打ちが続き、同社は成長の軸を海外へ移してきた。最大市場の米国を中心に現地の同業や販売会社を相次いで買収し、過去15年で約3,000億円を投じた結果、海外売上高は2017年度に2,757億円へ達し、ガス事業全体の45%を占めるまでになっていた[1]。
買収を重ねた舞台は米国と豪州が中心で、とりわけ30年以上をかけて育てた米国事業は同社の海外展開の柱となっていた。2014年に三菱ケミカルホールディングスのTOBで同社の子会社となった後も、産業ガス専業としての独自の世界戦略は変わらず、現地の同業を買い集めて面で地盤を広げるやり方が経営の一貫した方針になっていた。消費地の近くで生産して供給する産業ガスの商売では、地域ごとの拠点網そのものが競争力の源泉であった[2]。
空白地帯だった欧州
積み上げてきた海外事業のなかで、欧州だけが空白地帯として残されていた。米国に次ぐ産業ガスの一大消費地でありながら、世界首位の仏エア・リキードと世界2位の独リンデを筆頭に欧米大手4社が市場を押さえ、後発が割って入る余地がなかったためである。自力で拠点を築くには時間がかかりすぎ、欧州進出は長く手の届かない構想にとどまっていた。市原裕史郎社長も、欧州にはこれまで地盤そのものがなかったと後に振り返っている[3]。
決断
独禁法審査が生んだ千載一遇の入札
事態を変えたのは、世界大手同士の再編であった。世界2位のリンデと3位の米プラクスエアが経営統合に合意し、極端な寡占化につながるとして米欧の競争当局が事業の一部売却を課した。プラクスエアは欧州事業の大半を手放すことになり、その入札が2018年6月に行われた。大陽日酸は当初、米国での事業取得を狙っていたが、すでに全米で上位のシェアを持つため規制当局の反応が芳しくなく、狙いを欧州へ切り替えた。市原社長は、これほど大きな売却案件が欧州で出ることはもうないだろうと判断したと語っている[4]。
2018年7月5日、大陽日酸はプラクスエアの欧州事業を約50億ユーロ(約6,400億円)で買収すると発表した。ドイツ、スペイン、イタリアなど13カ国にある空気分離装置などの製造設備を買い取り、顧客との契約や従業員も引き継ぐ内容で、日本の化学会社による海外M&Aでは過去最大の規模となった。取得する欧州事業の年間売上高は約1,600億円超と、同社が30年以上をかけて育てた米国事業に匹敵し、営業利益率は15%以上に達する高収益事業であった[5][6]。
巨額の代償と、それでも踏み切った理由
ただし、これを手に入れる代償も小さくなかった。巨額の買収資金は外部調達に頼るため、有利子負債は当時の約3倍にあたる1兆円近くへ膨らむ見込みで、4割台であった自己資本比率の低下も避けられなかった。市原社長は「決して高値づかみではない」と述べ、大手の寡占で競争環境が落ち着き、引き継ぐ顧客に長期契約先が多い欧州事業の採算のよさを強調した。財務の悪化を受け入れてでも、これほどの機会はもう訪れないとみて踏み切った判断であった[7]。
結果
世界4極体制と持株会社化
買収は2018年12月に完了し、大陽日酸は日本、米国、アジアオセアニアに欧州を加えた世界4極体制を整えた。高収益の欧州事業が加わったことで海外売上高比率は5割を超え、連結売上高は買収前の2018年3月期の6,462億円から、欧州が一部寄与した2019年3月期に7,403億円、通年で寄与した2020年3月期には8,502億円へと伸びた。営業利益も2020年3月期には939億円へ拡大し、買収は業績の押し上げに直結した[8][9]。
海外事業の拡大を追う形で、組織も組み替えられた。2020年1月、同社は同年10月に持株会社制へ移行し、社名を日本酸素ホールディングスに改めると発表した。米国、欧州、アジアオセアニアなど地域別の事業会社を持株会社の傘下に横並びに置き、地域ごとの経営判断を速める狙いであった。仏エア・リキード、独リンデに次ぐ産業ガス世界4位となった同社にとって、買収で得た欧州の地盤はこの地域統括体制を構成する一角となった[10]。
- 週刊東洋経済 2018年7月21日号「ニュース深掘り 大陽日酸の大勝負 産業ガスの雄、巨額買収の勝算」
- 週刊東洋経済 2019年4月6日号「トップに直撃 大陽日酸 社長 市原裕史郎 欧州の産業ガスを買収 どう成果を上げますか」
- 日本経済新聞(2018年7月5日)「大陽日酸、欧州の産業ガス事業を6400億円で買収」
- 日本経済新聞(2020年1月22日)「大陽日酸、10月から持ち株会社制に 海外事業強化」
- 大陽日酸 有価証券報告書(連結・IFRS)