日本酸素ホールディングス の歴史

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創業 1910年
母体 外国人技師+邦人実業家
創業地 東京都
創業
1908年、工作機械の輸入商だった山武商会の山口武彦がドイツから酸素熔接の技術を持ち帰った。山口は日本銀行副総裁・高橋是清の後援を得て、1910年10月に資本金5万円の日本酸素合資会社を東京・京橋に創立し、翌1911年5月に大崎へ酸素の製造・充填工場を建てる。当初の生産量は年間2万5,000立方メートルで、その大半は海軍工廠と民間造船所へ向かった。1918年7月に資本金100万円の株式会社へ改組すると、1927年からは輸入に依存していた空気分離装置の国産化に着手し、1935年に本邦初の空気分離装置を完成させる。1937年6月に日本理化工業へ改称し、1955年4月のガス部門分離で日本酸素の商号へ戻した。
決断
設備を誰の敷地に置き、償却を誰が負うかで採算が決まってきた。1964年11月、需要家の工場内に空気分離装置を据えて配管で直送するオンサイトプラント第1号を周南で稼働させ、需要家との共同出資会社にして償却と運営費を分担させた。この方式が高収益を生み、1977年6月期には経常利益61億円、売上高経常利益率8%と化学業界で突出する。1980年代の半導体ブームでは同じ方式を踏襲しながら、1基20億円を超える設備を1984年からの1年余で全国5カ所に建て、償却を需要家と分担せず自社で負った。1985年の半導体不況で1986年6月期の経常利益は前年度比43%減、売上高経常利益率は3.2%と過去10年で最低へ沈む。同じ供給方式が、負担の置き場を変えただけで高収益にも失速にも変わった。
現況
利益が最も出るのは、2018年に外から取得した欧州である。2026年3月期の連結売上高は1兆3,596億円、営業利益は1,979億円だった。地域別の売上は日本4,062億円、米国3,605億円、欧州3,509億円とほぼ並ぶが、セグメント利益は欧州704億円に対し日本541億円、米国529億円で、利益率も欧州の20.1%が日本の13.3%を上回る。独リンデと米プラクスエアの統合で売却対象となった事業を49億ユーロで取得し、8年で最も採算の高い地域に育てた。国内では1964年に周南で始めた鉄鋼向けオンサイトが続き、2022年9月には日本製鉄との共同出資で君津サンソセンターを設立している。空気という無償の原料を、どの国の需要家の隣で液化するかが利益率の差を生んだ。
競合
同業が外資に買収された業界で、外資の再編が出した事業を取得した。1982年10月に英BOCが大阪酸素工業へ資本参加し、1983年8月には米エア・プロダクツが大同酸素株の25%を取得して、国内の同業は世界大手の傘下へ入った。1999年に社長へ就任した田口博は、仏エア・リキードが6,000億円以上を売るなかで単独では規模に達しないと述べ、合併も辞さないと言い切った。2004年10月に国内2位の大陽東洋酸素と合併し、2014年11月には三菱ケミカルホールディングスの公開買付で連結子会社となりながら、上場と独立した取締役会を保っている。傘下へ入る側で終わらなかった代わりに、有利子負債は欧州の取得で1兆円近くまで膨らみ、2025年3月期に8,505億円へ戻すまで6年を要した。
日本酸素ホールディングス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2006年3月期2026年3月期

設立ストーリー 山武商会がドイツから持ち帰った酸素熔接 (1910年〜)

山口武彦と高橋是清が出した資本金5万円

酸素熔接の技術がわが国へ伝わったのは1908年のことである。欧米の工作機械輸入商だった山武商会の経営者・山口武彦がドイツから持ち込んだもので、山口はこの事業の将来性に着目し、当時の日本銀行副総裁・高橋是清の後援を得て会社の設立にこぎつけた[1][2]。1910年10月、資本金5万円の日本酸素合資会社が発足する[3][4]。本店を東京・京橋に、工場を大崎に置き、空気分離による圧縮酸素ガスの製造を始めた[5]。当初の生産量は年間わずか2万5000立方メートルで、その大半は海軍工廠と民間造船所へ向かっていた[6]。溶接・切断に酸素が要るという、きわめて限られた用途からの出発である。

  • 『会社銀行八十年史』日本酸素(東洋経済新報社, 1955年)
    • [1]「酸素熔接の技術がわが国に伝来したのは明治四十一年、当時欧米の工作機械輸入商であつた山武商会(経営者山口武彦氏)がドイツから輸入したもので、同氏は斯業の将来性に着目し、高橋是清日銀総裁の後援を得て、当社を設立するに至つた」(本文「在日米国人技師が酸素の工業的製造技術を国内へ持ち込み邦人実業家との共同で設立」を訂正。在日米国人技師の関与を裏づける記述はなく、技術はドイツからの輸入、創業者は山口武彦である)
    • [5]「明治四十三年十月資本金五万円の日本酸素(資)として発足、本店を東京京橋、工場を大崎に設けて空気分離による圧縮酸素ガス製造を開始した」
    • [6]「当初、生産量は年間わずか二五、〇〇〇立方米で、大半は海軍工廠と民間造船所に向けていた」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [2]山武商会の創立者・山口武彦氏が日本銀行副総裁・高橋是清氏の協力を得て資本金5万円の日本酸素合資会社を設立し、日本で最初の酸素製造を開始(八十年史は「日銀総裁」とするが、高橋是清の日銀総裁就任は1911年6月で、創立時の1910年10月時点では副総裁)
  • 日本酸素ホールディングス 有価証券報告書【沿革】(1910年10月 日本酸素合資会社を創立)
    • [3]1910年(明治43年)10月、酸素製造を目的として東京で日本酸素(合資会社)を創立
  • 『日本酸素七十五年史』資料編(年表・定款・役員在任期間一覧)(日本酸素, 1986年)
    • [4]「明治43年 10.30 日本酸素合資会社創立(資本金5万円,本社東京市京橋区南伝馬町3-21)」「明治44年 5.3 合資会社日本酸素工場新設(後の大崎工場,東京府荏原郡大崎町大字桐ケ谷字谷戸窪499および500番地),酸素の製造販売を開始(ヒルデプラント社製単精溜式10m3/h)」(創立は1910年10月30日、大崎の初号機はヒルデプラント社製の毎時10立方メートル単精溜式)

1911年5月には東京・大崎に酸素の製造・充填工場を新設[7]、1913年9月には呉海軍工廠への供給を目的として広島工場を建てた[8]。1918年7月、合資会社を改組して資本金100万円の日本酸素株式会社が新発足する[9][10]。初代の取締役社長には首藤諒が就き、創立者の山口武彦は取締役として名を連ねた[11]。第一次大戦を契機に酸素の需要は各地で増え、1919年3月に亀戸、1920年5月に小倉、同年9月に名古屋、1925年4月に大阪と工場を重ねて、陸海軍から一般民間までの需要に応じた[12]。年間生産量100万立方メートルを数える酸素ガス専門メーカーとしての地歩は、この十数年で築かれたものである。

  • 日本酸素ホールディングス 有価証券報告書【沿革】(1911年5月 酸素の製造・充填工場を東京大崎に新設)
    • [7]1911年5月 酸素の製造・充填工場を東京大崎に新設
  • 『会社銀行八十年史』日本酸素(東洋経済新報社, 1955年)
    • [8]「大正二年九月には呉海軍工廠への供給を目的として広島に工場を新設」
    • [12]「欧州大戦を契機として、酸素の需要は逐次各地に増大し、八年三月亀戸に、九年五月小倉に、同年九月名古屋にそれぞれ酸素工場を建設して、陸海軍をはじめ一般民間の需要に応じた。その後十四年四月さらに大阪工場を新設し、年間生産量一〇〇万立方米を数える酸素ガス専門メーカーとしての地歩を築き上げるに至つた」
  • 日本酸素ホールディングス 有価証券報告書【沿革】(1918年7月 合資会社を株式会社に改組)
    • [9]1918年7月 合資会社を株式会社に改組し商号を日本酸素株式会社とする
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「日本酸素」(ダイヤモンド社, 1964)
    • [10]大正7年7月 資本金100万円の日本酸素株式会社に改組
  • 『日本酸素七十五年史』資料編(年表・定款・役員在任期間一覧)(日本酸素, 1986年)
    • [11]「大正7年 7.19 取締役社長に首藤諒,専務取締役に高橋是福,取締役に山口武彦,藤崎三郎助,堤定次郎,監査役に高橋是賢,川崎肇就任」(株式会社化時の初代社長は首藤諒。創立者の山口武彦は取締役にとどまった)

昭和の初めには二つの流れが重なった。1929年から30年にかけての軍縮による世界的不況で業界の競争が激しくなる一方、機械部門の創設という第二の躍進期が始まる。当時、工業用酸素製造装置や合成化学工業用の窒素プラントに使う空気分離装置は、一切を輸入に頼っていた。同社は1927年から空気液化の物理的基礎研究に取り組み、幾多の障害を克服して国産化に成功する[13]。1934年5月にはガス分離装置の製作専門工場として蒲田製作所を開設し[14]、わが国最初の国産複精溜式空気分離装置の製作を始めた[15]。翌1935年には本邦初の空気分離装置を完成させている[16]。ガスを売る会社が、ガスを作る装置まで自ら手がける会社になった。

  • 『会社銀行八十年史』日本酸素(東洋経済新報社, 1955年)
    • [13]「当時、工業用酸素製造装置はじめ石灰窒素並びに硫安等合成化学工業用窒素プラント等の空気分離装置は一切輸入に依存していた。当社はこの種機械装置の国産化を図つて、昭和二年から空気液化の物理的基礎研究に努力し、幾多の障害を克服してついに成功」
    • [15]「九年五月にはガス分離装置製作専門工場として蒲田製作所を開設、わが国最初の国産複精溜式空気分離装置の製作を開始した」
  • 日本酸素ホールディングス 有価証券報告書【沿革】(1934年5月 ガス分離装置製作のため東京に蒲田製作所を設置)
    • [14]1934年5月 ガス分離装置製作のため東京に蒲田製作所を設置
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [16]1935年(昭和10年)本邦最初の空気分離装置の製作に成功
  • 『会社銀行八十年史』日本酸素(東洋経済新報社, 1955年)
    • [1]「酸素熔接の技術がわが国に伝来したのは明治四十一年、当時欧米の工作機械輸入商であつた山武商会(経営者山口武彦氏)がドイツから輸入したもので、同氏は斯業の将来性に着目し、高橋是清日銀総裁の後援を得て、当社を設立するに至つた」(本文「在日米国人技師が酸素の工業的製造技術を国内へ持ち込み邦人実業家との共同で設立」を訂正。在日米国人技師の関与を裏づける記述はなく、技術はドイツからの輸入、創業者は山口武彦である)
    • [5]「明治四十三年十月資本金五万円の日本酸素(資)として発足、本店を東京京橋、工場を大崎に設けて空気分離による圧縮酸素ガス製造を開始した」
    • [6]「当初、生産量は年間わずか二五、〇〇〇立方米で、大半は海軍工廠と民間造船所に向けていた」
    • [8]「大正二年九月には呉海軍工廠への供給を目的として広島に工場を新設」
    • [12]「欧州大戦を契機として、酸素の需要は逐次各地に増大し、八年三月亀戸に、九年五月小倉に、同年九月名古屋にそれぞれ酸素工場を建設して、陸海軍をはじめ一般民間の需要に応じた。その後十四年四月さらに大阪工場を新設し、年間生産量一〇〇万立方米を数える酸素ガス専門メーカーとしての地歩を築き上げるに至つた」
    • [13]「当時、工業用酸素製造装置はじめ石灰窒素並びに硫安等合成化学工業用窒素プラント等の空気分離装置は一切輸入に依存していた。当社はこの種機械装置の国産化を図つて、昭和二年から空気液化の物理的基礎研究に努力し、幾多の障害を克服してついに成功」
    • [15]「九年五月にはガス分離装置製作専門工場として蒲田製作所を開設、わが国最初の国産複精溜式空気分離装置の製作を開始した」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [2]山武商会の創立者・山口武彦氏が日本銀行副総裁・高橋是清氏の協力を得て資本金5万円の日本酸素合資会社を設立し、日本で最初の酸素製造を開始(八十年史は「日銀総裁」とするが、高橋是清の日銀総裁就任は1911年6月で、創立時の1910年10月時点では副総裁)
    • [16]1935年(昭和10年)本邦最初の空気分離装置の製作に成功
  • 日本酸素ホールディングス 有価証券報告書【沿革】(1910年10月 日本酸素合資会社を創立)
    • [3]1910年(明治43年)10月、酸素製造を目的として東京で日本酸素(合資会社)を創立
  • 『日本酸素七十五年史』資料編(年表・定款・役員在任期間一覧)(日本酸素, 1986年)
    • [4]「明治43年 10.30 日本酸素合資会社創立(資本金5万円,本社東京市京橋区南伝馬町3-21)」「明治44年 5.3 合資会社日本酸素工場新設(後の大崎工場,東京府荏原郡大崎町大字桐ケ谷字谷戸窪499および500番地),酸素の製造販売を開始(ヒルデプラント社製単精溜式10m3/h)」(創立は1910年10月30日、大崎の初号機はヒルデプラント社製の毎時10立方メートル単精溜式)
    • [11]「大正7年 7.19 取締役社長に首藤諒,専務取締役に高橋是福,取締役に山口武彦,藤崎三郎助,堤定次郎,監査役に高橋是賢,川崎肇就任」(株式会社化時の初代社長は首藤諒。創立者の山口武彦は取締役にとどまった)
  • 日本酸素ホールディングス 有価証券報告書【沿革】(1911年5月 酸素の製造・充填工場を東京大崎に新設)
    • [7]1911年5月 酸素の製造・充填工場を東京大崎に新設
  • 日本酸素ホールディングス 有価証券報告書【沿革】(1918年7月 合資会社を株式会社に改組)
    • [9]1918年7月 合資会社を株式会社に改組し商号を日本酸素株式会社とする
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「日本酸素」(ダイヤモンド社, 1964)
    • [10]大正7年7月 資本金100万円の日本酸素株式会社に改組
  • 日本酸素ホールディングス 有価証券報告書【沿革】(1934年5月 ガス分離装置製作のため東京に蒲田製作所を設置)
    • [14]1934年5月 ガス分離装置製作のため東京に蒲田製作所を設置

日本理化工業への改称と戦後の再出発

1937年6月、同社は当局の慫慂により社名を日本理化工業株式会社へ改めた[17][18]。ガス製造と装置製作の両部門を兼業する体制は、この名の下で固まる[19]。同年には溶解アセチレンの製造を目的とする投資会社・日本アセチレンも設立している[20]。以後終戦までに釜石・徳山・仙台・小金井・豊橋の五つの酸素工場を次々と設け、1944年には酸素の年産944万立方メートル、わが国総生産量の4分の1を供給するに至った。機械部門も蒲田の拡張と玉川・京浜両製作所の新設で規模を広げ、わが国最大の毎時4500立方メートル人造石油水素精製装置などを製作している[21]

  • 『会社銀行八十年史』日本酸素(東洋経済新報社, 1955年)
    • [17]「十二年六月当局の慫慂により社名を日本理化工業と改め」(社名変更が当局の指導によるものであった経緯)
    • [21]「以後終戦まで釜石、徳山、仙台、小金井、豊橋の五酸素工場を次々に設置し、十九年には酸素年産九四四万立方米、わが国総生産量の四分の一を供給するに至つた。機械部門についても蒲田製作所の拡張、玉川、京浜両製作所の新設等逐次規模を拡大し、この間わが国最大の毎時四、五〇〇立方米人造石油水素精製装置等を製作して注目をひいた」
  • 日本酸素ホールディングス 有価証券報告書【沿革】(1937年6月 商号を日本理化工業株式会社と改称)
    • [18]1937年6月 商号を日本理化工業株式会社と改称
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [19]昭和12年 社名を日本理化工業(株)に改め、ガス製造及び装置製作の両部門を兼業するにいたる
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「日本酸素」(ダイヤモンド社, 1964)
    • [20]昭和12年 溶解アセチレンの製造を目的として投資会社・日本アセチレン株式会社を設立

終戦後、同社は制限会社および集中排除法の指定会社となり、経営は一時きわめて多難だった。指定が解かれたのは1948年から49年にかけてである[22]。重工業が衰退するなかでも新規需要の開拓によって立ち直りを図り、1949年5月には株式を東京証券取引所へ上場した[23]。溶解アセチレンについては、それまで子会社に当たらせていた製造を1945年8月に鶴見工場として直轄下へ置き[24][25]、1951年に玉川、1954年に広島第二、1955年に大阪と新設を重ねて、年産130万キログラムとわが国最高の生産施設を持つに至る[26]

  • 『会社銀行八十年史』日本酸素(東洋経済新報社, 1955年)
    • [22]「制限会社、集排法指定会社となり、経営は一時極めて多難であつたが、二十三年から四年にかけてそれらは解除され、一方業績も急速に立ち直るに至つた」
    • [25]「溶解アセチレンガスの製造については、従来子会社に当らせていたのを二十年八月に鶴見工場として直轄下に置き」
    • [26]「さらに二十六年玉川工場、二十九年広島第二工場、三十年大阪工場を次々に新設して、年産一三〇万瓩とわが国最高の生産施設を有するに至つた」
  • 日本酸素ホールディングス 有価証券報告書【沿革】(1949年5月 東京証券取引所に株式を上場)
    • [23]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場(上場開始は1949年5月16日・東京。本文「東京証券取引所市場第一部へ上場」を訂正。市場第二部の創設は1961年で、1949年当時に一部・二部の区分はない)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [24]1945年(昭和20年)日本アセチレン工業(株)の鶴見工場を吸収し、溶解アセチレンの製造を開始

1954年12月、川崎に自社設計・製作によるわが国最大の液体酸素およびアルゴン製造工場を開設した[27][28]。これで直轄の酸素工場は13、年間生産能力は2365万立方メートルとなり、名実ともに業界の代表的地位を占める[29]。翌1955年4月にはガス部門と機械部門を分離し、機械部門は日本理化工業の社名を継承、ガス部門は創業当初からの日本酸素の商号へ復帰して、資本金3億5000万円でガス事業へ専念した[30][31][32]。ボンベで気体を運ぶ従来の方式に対し、液体にして運べば同じ容器で桁違いの量を届けられる。以後、大口需要には液体酸素、小口需要には気体酸素という供給の二本立てが定着していく[33]

  • 日本酸素ホールディングス 有価証券報告書【沿革】(1954年12月 川崎工場を新設し液化酸素の製造を開始)
    • [27]1954年12月 川崎工場を新設し液化酸素・液化窒素・液化アルゴンの製造を開始
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [28]1954年(昭和29年)川崎にわが国最初の液体酸素製造工場を建設
  • 『会社銀行八十年史』日本酸素(東洋経済新報社, 1955年)
    • [29]「二十九年十二月には川崎に自社設計製作によるわが国最大の液体酸素およびアルゴン製造工場を開設し、直轄の酸素工場十三、年間生産能力二、三六五万立方米の規模を数え、名実ともに業界の代表的地位を占めた」
    • [31]「三十年四月、ガス、機械両部門を分離、機械部門は日本理化工業の社名を継承し、ガス部門は創業当初よりの由緒深い日本酸素の商号に復帰、資本金を三億五千万円として、ガス部門事業に専念することとなつた」
  • 日本酸素ホールディングス 有価証券報告書【沿革】(1955年4月 東京製作所を分離し新会社に日本理化工業の名称を継承/日本酸素に商号変更)
    • [30]1955年4月 東京製作所を分離し新会社に日本理化工業の名称を継承、自社は日本酸素に商号変更
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「日本酸素」(ダイヤモンド社, 1964)
    • [32]昭和30年4月 商号を日本酸素(株)と復元するとともに機械部門を分離独立し子会社日本理化工業(株)を設立
  • 証券時報 1960年8月号「日本酸素」(高木辰一)
    • [33]「現在酸素の供給方式は、大口需要は液体酸素で、小口需要は気体酸素で行なつておりますが、液体酸素は品質と輸送の便から、今後ますます発展するものと思われます」(専務取締役・高木辰一)
  • 『会社銀行八十年史』日本酸素(東洋経済新報社, 1955年)
    • [17]「十二年六月当局の慫慂により社名を日本理化工業と改め」(社名変更が当局の指導によるものであった経緯)
    • [21]「以後終戦まで釜石、徳山、仙台、小金井、豊橋の五酸素工場を次々に設置し、十九年には酸素年産九四四万立方米、わが国総生産量の四分の一を供給するに至つた。機械部門についても蒲田製作所の拡張、玉川、京浜両製作所の新設等逐次規模を拡大し、この間わが国最大の毎時四、五〇〇立方米人造石油水素精製装置等を製作して注目をひいた」
    • [22]「制限会社、集排法指定会社となり、経営は一時極めて多難であつたが、二十三年から四年にかけてそれらは解除され、一方業績も急速に立ち直るに至つた」
    • [25]「溶解アセチレンガスの製造については、従来子会社に当らせていたのを二十年八月に鶴見工場として直轄下に置き」
    • [26]「さらに二十六年玉川工場、二十九年広島第二工場、三十年大阪工場を次々に新設して、年産一三〇万瓩とわが国最高の生産施設を有するに至つた」
    • [29]「二十九年十二月には川崎に自社設計製作によるわが国最大の液体酸素およびアルゴン製造工場を開設し、直轄の酸素工場十三、年間生産能力二、三六五万立方米の規模を数え、名実ともに業界の代表的地位を占めた」
    • [31]「三十年四月、ガス、機械両部門を分離、機械部門は日本理化工業の社名を継承し、ガス部門は創業当初よりの由緒深い日本酸素の商号に復帰、資本金を三億五千万円として、ガス部門事業に専念することとなつた」
  • 日本酸素ホールディングス 有価証券報告書【沿革】(1937年6月 商号を日本理化工業株式会社と改称)
    • [18]1937年6月 商号を日本理化工業株式会社と改称
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [19]昭和12年 社名を日本理化工業(株)に改め、ガス製造及び装置製作の両部門を兼業するにいたる
    • [24]1945年(昭和20年)日本アセチレン工業(株)の鶴見工場を吸収し、溶解アセチレンの製造を開始
    • [28]1954年(昭和29年)川崎にわが国最初の液体酸素製造工場を建設
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「日本酸素」(ダイヤモンド社, 1964)
    • [20]昭和12年 溶解アセチレンの製造を目的として投資会社・日本アセチレン株式会社を設立
    • [32]昭和30年4月 商号を日本酸素(株)と復元するとともに機械部門を分離独立し子会社日本理化工業(株)を設立
  • 日本酸素ホールディングス 有価証券報告書【沿革】(1949年5月 東京証券取引所に株式を上場)
    • [23]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場(上場開始は1949年5月16日・東京。本文「東京証券取引所市場第一部へ上場」を訂正。市場第二部の創設は1961年で、1949年当時に一部・二部の区分はない)
  • 日本酸素ホールディングス 有価証券報告書【沿革】(1954年12月 川崎工場を新設し液化酸素の製造を開始)
    • [27]1954年12月 川崎工場を新設し液化酸素・液化窒素・液化アルゴンの製造を開始
  • 日本酸素ホールディングス 有価証券報告書【沿革】(1955年4月 東京製作所を分離し新会社に日本理化工業の名称を継承/日本酸素に商号変更)
    • [30]1955年4月 東京製作所を分離し新会社に日本理化工業の名称を継承、自社は日本酸素に商号変更
  • 証券時報 1960年8月号「日本酸素」(高木辰一)
    • [33]「現在酸素の供給方式は、大口需要は液体酸素で、小口需要は気体酸素で行なつておりますが、液体酸素は品質と輸送の便から、今後ますます発展するものと思われます」(専務取締役・高木辰一)

酸素製鋼法が呼んだ増産と電子工業への接続

1957年、常務取締役の木戸吉備夫は、国内の酸素生産が1956年度についに1億立方メートルへ達したと語っている。戦時中で最も生産を挙げた1944年の2.4倍にあたり、前年度と比べても44%の急増だった。増設に増設を重ねてもなお激増する需要に追われ、業界は当分のあいだ供給力の不足をかこたねばならない、というのが当時の見立てである[34]。伸びを生んだのは技術の交代だった。鉄鋼業では平炉や転炉に酸素を吹き込む酸素製鋼法が普及し、造船所では戦前の鋲打ち工法が全溶接のブロック工法へ置き換わる。車輌や橋梁も同じ道をたどり、酸素事業の地位はわずか二、三年で一変したと木戸は述べた[35]

  • 証券時報 1957年8月号「[放送]日本酸素について」(木戸吉備夫)
    • [34]「昨昭和三十一年度についに一億立方米に達しました。この数字は…戦争中最も生産を挙げた昭和十九年の二・四倍にも達したもの…昭和三十年度に比べましてもなお四四%の急増加」(常務取締役・木戸吉備夫)
    • [35]鉄鋼業界における酸素製鋼法の普及と、造船所の鋲打工法から全溶接ブロック工法への転換により、酸素事業の地位が二、三年で大きく向上したとの当事者証言

木戸は酸素事業の性格もあわせて説いた。原料は空気であるから仕入価格の変動に煩わされることがなく、容器の関係で輸送費がかさむため外国製品との競争もない。地味な産業でありながら成長性と安定性を併せ持つ、恵まれた事業だという[36]。1957年4月期には郡山の増設と大阪液体酸素工場の操業開始が加わり、酸素の販売数量は1500万立方メートル(前期比12%増)、溶解アセチレンは109万キロ(同36%増)といずれも最高を記録した[37]。続く1957年10月期の総売上高は19億円、収益は2億9000万円で、払込資本に対する利益率は83%に達している[38]

  • 証券時報 1957年8月号「[放送]日本酸素について」(木戸吉備夫)
    • [36]「酸素工業の原料は空気でありますので原料の仕入にともなう…原料価格の変動に煩わされるということもなく、また容器の関係上何としても輸送費が高くつくので外国製品との競争も無く、地味な産業でありながら成長的でもあり、また、安定的でもある恵まれた事業」(常務取締役・木戸吉備夫)
    • [37]1957年4月期は郡山増設と大阪液体酸素工場の操業開始により、酸素販売数量1500万立方米(前期比12%増)・溶解アセチレン109万キロ(前期比36%増)といずれも最高
  • 証券時報 1958年2月号「日本酸素の現状」(高橋直行)
    • [38]1957年10月期は総売上高19億円(前年4月期比16%増)・収益2億9000万円(同36%増)、払込資本利益率83%

不況への強さも当時の経営陣が繰り返し語った点である。1958年、社長の高橋直行は、鉄鋼や造船が減産に向かっても、不況期には古鉄の解体利用や修理が増え、品質向上の競争も激しくなるため、かえって酸素や溶解アセチレンの需要が増すと述べた。製品を在庫できないこと、輸入品が絶無であること、原料が無尽蔵の空気であることも、事業を圧迫する要因を減らしていた[39]。同社は1958年1月に倍額増資を実施し、川崎工場への毎時1000立方メートル液酸装置の増設と、小倉・呉・名古屋への液酸工場新設に資金を充てる。付帯設備を含む所要資金は19億6500万円で、完成後の生産能力は1957年末比71%増の年間5000万立方メートルとなる計画だった[40]

  • 証券時報 1958年2月号「日本酸素の現状」(高橋直行)
    • [39]「不況時には古鉄の解体利用や修理が増加しますし、また品質を向上する競争が激しくなつてこれらの面でかえつて酸素や溶解アセチレンの需要が増加します…また製品のストックが出来ないことや輸入品が絶無であること酸素の原料が無尽蔵の空気であること」(社長・高橋直行)
    • [40]1958年1月に倍額増資を実施。川崎工場の毎時1000立方米液酸製造装置増設と小倉・呉・名古屋の液酸工場新設が主体で、付帯設備を含む総所要資金19億6500万円、完成後の生産能力は1957年末比71%増の年間約5000万立方米
  • 証券時報 1957年8月号「[放送]日本酸素について」(木戸吉備夫)
    • [34]「昨昭和三十一年度についに一億立方米に達しました。この数字は…戦争中最も生産を挙げた昭和十九年の二・四倍にも達したもの…昭和三十年度に比べましてもなお四四%の急増加」(常務取締役・木戸吉備夫)
    • [35]鉄鋼業界における酸素製鋼法の普及と、造船所の鋲打工法から全溶接ブロック工法への転換により、酸素事業の地位が二、三年で大きく向上したとの当事者証言
    • [36]「酸素工業の原料は空気でありますので原料の仕入にともなう…原料価格の変動に煩わされるということもなく、また容器の関係上何としても輸送費が高くつくので外国製品との競争も無く、地味な産業でありながら成長的でもあり、また、安定的でもある恵まれた事業」(常務取締役・木戸吉備夫)
    • [37]1957年4月期は郡山増設と大阪液体酸素工場の操業開始により、酸素販売数量1500万立方米(前期比12%増)・溶解アセチレン109万キロ(前期比36%増)といずれも最高
  • 証券時報 1958年2月号「日本酸素の現状」(高橋直行)
    • [38]1957年10月期は総売上高19億円(前年4月期比16%増)・収益2億9000万円(同36%増)、払込資本利益率83%
    • [39]「不況時には古鉄の解体利用や修理が増加しますし、また品質を向上する競争が激しくなつてこれらの面でかえつて酸素や溶解アセチレンの需要が増加します…また製品のストックが出来ないことや輸入品が絶無であること酸素の原料が無尽蔵の空気であること」(社長・高橋直行)
    • [40]1958年1月に倍額増資を実施。川崎工場の毎時1000立方米液酸製造装置増設と小倉・呉・名古屋の液酸工場新設が主体で、付帯設備を含む総所要資金19億6500万円、完成後の生産能力は1957年末比71%増の年間約5000万立方米

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日本酸素ホールディングスの沿革1910〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1910〜1964年山武商会がドイツから持ち帰った酸素熔接日本酸素を創立
酸素の製造、充填工場を東京大崎に新設
合資会社を株式会社に改組、商号を日本酸素株式会社に商号変更
ガス分離装置製作のため東京に蒲田製作所を設置
商号を日本理化工業に商号変更
大陽酸素を設立
東京証券取引所に株式を上場
溶解アセチレン事業で三菱化成工業と業務提携
川崎工場を新設
液化酸素・液化窒素・液化アルゴンの製造を開始
東京製作所を分離し新会社に日本理化工業の名称を継承
日本酸素に商号変更
堺工場を新設
日本理化工業を吸収合併
オンサイトプラント第1号となる周南工場を新設
1965〜2003年オンサイトの高収益と多角化が招いた失速三菱油化と合弁会社鹿島酸素を設立
日本酸素と合弁会社富士酸素を設立
三菱商事と合弁会社ダイヤ冷機工業を設立
厚木工場を新設
ジャパン・オキシジェン社を設立
日酸サーモを設立
トータルガスセンター第1号として岩手ガスセンターを設置
ナショナル・オキシジェン社を設立
特殊ガス事業を買収しマチソン・ガス・プロダクツ社を設立★★
産業ガスメーカーであるトライガス社を買収
5つの工事会社を統合しエヌエスエンジニアリングを設立
東洋酸素と合併★★
大陽東洋酸素に商号変更
マチソン・ガス・プロダクツ社とトライガス社が合併しマチソン・トライガス社を設立
家庭用品事業部門を会社分割し日酸サーモと統合してサーモスを設立★★
産業機材事業部門を会社分割し田中製作所と統合
フレックの全株式を味の素冷凍食品に譲渡
2004〜2019年大陽日酸への統合とプラクスエア欧州買収大陽東洋酸素と合併★★
大陽日酸に商号変更
川口恭史100%子会社のタイヨウニッポンサンソ・シンガポール社を通じてリーデン社を子会社化
市原裕史郎三菱ケミカルHDによる公開買付の成立により同社の連結子会社に★★
市原裕史郎エア・リキード社の米国産業ガス事業の一部を買収★★
市原裕史郎独リンデ・プラクスエア統合が生んだ欧州産業ガス事業の巨額買収

2018年7月5日、大陽日酸(現・日本酸素ホールディングス)が、米プラクスエアの欧州産業ガス事業を約50億ユーロ(約6400億円)で買収すると発表した経営判断。市原裕史郎社長の主導で同年12月に取得を完了し、日本の化学会社による海外M&Aでは過去最大の規模となった。

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★★★
市原裕史郎リンデ・ガス・ノース・アメリカ社の米国HyCO事業を買収
2020〜2025年日本酸素ホールディングスへの回帰と現在市原裕史郎持株会社体制に移行し日本酸素HDに商号変更★★
濱田敏彦日本製鉄との共同出資で君津サンソセンターを設立
濱田敏彦プラントエンジニアリング会社ポラリス社を買収
濱田敏彦ウェスファーマーズ・クリーンヒート・ガス社のLPガス販売事業を取得
出典・参考
  • 日本酸素ホールディングス 有価証券報告書【沿革】(1910年10月 日本酸素合資会社を創立)
  • 日本酸素ホールディングス 有価証券報告書【沿革】(1911年5月 酸素の製造・充填工場を東京大崎に新設)
  • 日本酸素ホールディングス 有価証券報告書【沿革】(1918年7月 合資会社を株式会社に改組)
  • 日本酸素ホールディングス 有価証券報告書【沿革】(1934年5月 ガス分離装置製作のため東京に蒲田製作所を設置)
  • 日本酸素ホールディングス 有価証券報告書【沿革】(1937年6月 商号を日本理化工業株式会社と改称)
  • 日本酸素ホールディングス 有価証券報告書【沿革】(1949年5月 東京証券取引所に株式を上場)
  • 日本酸素ホールディングス 有価証券報告書【沿革】(1954年12月 川崎工場を新設し液化酸素の製造を開始)
  • 日本酸素ホールディングス 有価証券報告書【沿革】(1955年4月 東京製作所を分離し新会社に日本理化工業の名称を継承/日本酸素に商号変更)
  • 『日本酸素七十五年史』資料編(年表・定款・役員在任期間一覧)(日本酸素, 1986年)
  • 『会社銀行八十年史』日本酸素(東洋経済新報社, 1955年)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 証券時報 1957年8月号「[放送]日本酸素について」(木戸吉備夫)
  • 証券時報 1958年2月号「日本酸素の現状」(高橋直行)
  • 証券時報 1960年8月号「日本酸素」(高木辰一)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「日本酸素」(ダイヤモンド社, 1964)

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