酸素熔接の技術がわが国へ伝わったのは1908年のことである。欧米の工作機械輸入商だった山武商会の経営者・山口武彦がドイツから持ち込んだもので、山口はこの事業の将来性に着目し、当時の日本銀行副総裁・高橋是清の後援を得て会社の設立にこぎつけた[1][2]。1910年10月、資本金5万円の日本酸素合資会社が発足する[3][4]。本店を東京・京橋に、工場を大崎に置き、空気分離による圧縮酸素ガスの製造を始めた[5]。当初の生産量は年間わずか2万5000立方メートルで、その大半は海軍工廠と民間造船所へ向かっていた[6]。溶接・切断に酸素が要るという、きわめて限られた用途からの出発である。
1911年5月には東京・大崎に酸素の製造・充填工場を新設[7]、1913年9月には呉海軍工廠への供給を目的として広島工場を建てた[8]。1918年7月、合資会社を改組して資本金100万円の日本酸素株式会社が新発足する[9][10]。初代の取締役社長には首藤諒が就き、創立者の山口武彦は取締役として名を連ねた[11]。第一次大戦を契機に酸素の需要は各地で増え、1919年3月に亀戸、1920年5月に小倉、同年9月に名古屋、1925年4月に大阪と工場を重ねて、陸海軍から一般民間までの需要に応じた[12]。年間生産量100万立方メートルを数える酸素ガス専門メーカーとしての地歩は、この十数年で築かれたものである。
昭和の初めには二つの流れが重なった。1929年から30年にかけての軍縮による世界的不況で業界の競争が激しくなる一方、機械部門の創設という第二の躍進期が始まる。当時、工業用酸素製造装置や合成化学工業用の窒素プラントに使う空気分離装置は、一切を輸入に頼っていた。同社は1927年から空気液化の物理的基礎研究に取り組み、幾多の障害を克服して国産化に成功する[13]。1934年5月にはガス分離装置の製作専門工場として蒲田製作所を開設し[14]、わが国最初の国産複精溜式空気分離装置の製作を始めた[15]。翌1935年には本邦初の空気分離装置を完成させている[16]。ガスを売る会社が、ガスを作る装置まで自ら手がける会社になった。
1937年6月、同社は当局の慫慂により社名を日本理化工業株式会社へ改めた[17][18]。ガス製造と装置製作の両部門を兼業する体制は、この名の下で固まる[19]。同年には溶解アセチレンの製造を目的とする投資会社・日本アセチレンも設立している[20]。以後終戦までに釜石・徳山・仙台・小金井・豊橋の五つの酸素工場を次々と設け、1944年には酸素の年産944万立方メートル、わが国総生産量の4分の1を供給するに至った。機械部門も蒲田の拡張と玉川・京浜両製作所の新設で規模を広げ、わが国最大の毎時4500立方メートル人造石油水素精製装置などを製作している[21]。
終戦後、同社は制限会社および集中排除法の指定会社となり、経営は一時きわめて多難だった。指定が解かれたのは1948年から49年にかけてである[22]。重工業が衰退するなかでも新規需要の開拓によって立ち直りを図り、1949年5月には株式を東京証券取引所へ上場した[23]。溶解アセチレンについては、それまで子会社に当たらせていた製造を1945年8月に鶴見工場として直轄下へ置き[24][25]、1951年に玉川、1954年に広島第二、1955年に大阪と新設を重ねて、年産130万キログラムとわが国最高の生産施設を持つに至る[26]。
1954年12月、川崎に自社設計・製作によるわが国最大の液体酸素およびアルゴン製造工場を開設した[27][28]。これで直轄の酸素工場は13、年間生産能力は2365万立方メートルとなり、名実ともに業界の代表的地位を占める[29]。翌1955年4月にはガス部門と機械部門を分離し、機械部門は日本理化工業の社名を継承、ガス部門は創業当初からの日本酸素の商号へ復帰して、資本金3億5000万円でガス事業へ専念した[30][31][32]。ボンベで気体を運ぶ従来の方式に対し、液体にして運べば同じ容器で桁違いの量を届けられる。以後、大口需要には液体酸素、小口需要には気体酸素という供給の二本立てが定着していく[33]。
1957年、常務取締役の木戸吉備夫は、国内の酸素生産が1956年度についに1億立方メートルへ達したと語っている。戦時中で最も生産を挙げた1944年の2.4倍にあたり、前年度と比べても44%の急増だった。増設に増設を重ねてもなお激増する需要に追われ、業界は当分のあいだ供給力の不足をかこたねばならない、というのが当時の見立てである[34]。伸びを生んだのは技術の交代だった。鉄鋼業では平炉や転炉に酸素を吹き込む酸素製鋼法が普及し、造船所では戦前の鋲打ち工法が全溶接のブロック工法へ置き換わる。車輌や橋梁も同じ道をたどり、酸素事業の地位はわずか二、三年で一変したと木戸は述べた[35]。
木戸は酸素事業の性格もあわせて説いた。原料は空気であるから仕入価格の変動に煩わされることがなく、容器の関係で輸送費がかさむため外国製品との競争もない。地味な産業でありながら成長性と安定性を併せ持つ、恵まれた事業だという[36]。1957年4月期には郡山の増設と大阪液体酸素工場の操業開始が加わり、酸素の販売数量は1500万立方メートル(前期比12%増)、溶解アセチレンは109万キロ(同36%増)といずれも最高を記録した[37]。続く1957年10月期の総売上高は19億円、収益は2億9000万円で、払込資本に対する利益率は83%に達している[38]。
不況への強さも当時の経営陣が繰り返し語った点である。1958年、社長の高橋直行は、鉄鋼や造船が減産に向かっても、不況期には古鉄の解体利用や修理が増え、品質向上の競争も激しくなるため、かえって酸素や溶解アセチレンの需要が増すと述べた。製品を在庫できないこと、輸入品が絶無であること、原料が無尽蔵の空気であることも、事業を圧迫する要因を減らしていた[39]。同社は1958年1月に倍額増資を実施し、川崎工場への毎時1000立方メートル液酸装置の増設と、小倉・呉・名古屋への液酸工場新設に資金を充てる。付帯設備を含む所要資金は19億6500万円で、完成後の生産能力は1957年末比71%増の年間5000万立方メートルとなる計画だった[40]。
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|---|---|---|---|---|
| 1910〜1964年山武商会がドイツから持ち帰った酸素熔接 | 日本酸素を創立 | ★ | ||
| 酸素の製造、充填工場を東京大崎に新設 | ★ | |||
| 合資会社を株式会社に改組、商号を日本酸素株式会社に商号変更 | ★ | |||
| ガス分離装置製作のため東京に蒲田製作所を設置 | ★ | |||
| 商号を日本理化工業に商号変更 | ★ | |||
| 大陽酸素を設立 | ★ | |||
| 東京証券取引所に株式を上場 | ★ | |||
| 溶解アセチレン事業で三菱化成工業と業務提携 | ★ | |||
| 川崎工場を新設 | ★ | |||
| 液化酸素・液化窒素・液化アルゴンの製造を開始 | ★ | |||
| 東京製作所を分離し新会社に日本理化工業の名称を継承 | ★ | |||
| 日本酸素に商号変更 | ★ | |||
| 堺工場を新設 | ★ | |||
| 日本理化工業を吸収合併 | ★ | |||
| オンサイトプラント第1号となる周南工場を新設 | ★ | |||
| 1965〜2003年オンサイトの高収益と多角化が招いた失速 | 三菱油化と合弁会社鹿島酸素を設立 | ★ | ||
| 日本酸素と合弁会社富士酸素を設立 | ★ | |||
| 三菱商事と合弁会社ダイヤ冷機工業を設立 | ★ | |||
| 厚木工場を新設 | ★ | |||
| ジャパン・オキシジェン社を設立 | ★ | |||
| 日酸サーモを設立 | ★ | |||
| トータルガスセンター第1号として岩手ガスセンターを設置 | ★ | |||
| ナショナル・オキシジェン社を設立 | ★ | |||
| 特殊ガス事業を買収しマチソン・ガス・プロダクツ社を設立 | ★★ | |||
| 産業ガスメーカーであるトライガス社を買収 | ★ | |||
| 5つの工事会社を統合しエヌエスエンジニアリングを設立 | ★ | |||
| 東洋酸素と合併 | ★★ | |||
| 大陽東洋酸素に商号変更 | ★ | |||
| マチソン・ガス・プロダクツ社とトライガス社が合併しマチソン・トライガス社を設立 | ★ | |||
| 家庭用品事業部門を会社分割し日酸サーモと統合してサーモスを設立 | ★★ | |||
| 産業機材事業部門を会社分割し田中製作所と統合 | ★ | |||
| フレックの全株式を味の素冷凍食品に譲渡 | ★ | |||
| 2004〜2019年大陽日酸への統合とプラクスエア欧州買収 | 大陽東洋酸素と合併 | ★★ | ||
| 大陽日酸に商号変更 | ★ | |||
| 川口恭史 | 100%子会社のタイヨウニッポンサンソ・シンガポール社を通じてリーデン社を子会社化 | ★ | ||
| 市原裕史郎 | 三菱ケミカルHDによる公開買付の成立により同社の連結子会社に | ★★ | ||
| 市原裕史郎 | エア・リキード社の米国産業ガス事業の一部を買収 | ★★ | ||
| 市原裕史郎 | 独リンデ・プラクスエア統合が生んだ欧州産業ガス事業の巨額買収 2018年7月5日、大陽日酸(現・日本酸素ホールディングス)が、米プラクスエアの欧州産業ガス事業を約50億ユーロ(約6400億円)で買収すると発表した経営判断。市原裕史郎社長の主導で同年12月に取得を完了し、日本の化学会社による海外M&Aでは過去最大の規模となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 市原裕史郎 | リンデ・ガス・ノース・アメリカ社の米国HyCO事業を買収 | ★ | ||
| 2020〜2025年日本酸素ホールディングスへの回帰と現在 | 市原裕史郎 | 持株会社体制に移行し日本酸素HDに商号変更 | ★★ | |
| 濱田敏彦 | 日本製鉄との共同出資で君津サンソセンターを設立 | ★ | ||
| 濱田敏彦 | プラントエンジニアリング会社ポラリス社を買収 | ★ | ||
| 濱田敏彦 | ウェスファーマーズ・クリーンヒート・ガス社のLPガス販売事業を取得 | ★ |
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事実根拠:出所(日本酸素ホールディングス)