1944年12月、菊池幸作氏が東京都渋谷区[1]で山水電気製作所を興し、トランスの生産を始めた[2]。トランスは電圧を変える部品で、当時は通信機や計測器に欠かせない。空襲が本格化する直前の東京で、軍需に連なる部品を作る小さな町工場として出発した会社である。終戦から2年後の1947年6月、この製作所を改組して山水電気株式会社を設立した。資本金は18万円にすぎ[3]ない。同じ年に大企業が復興資金を政府から受けていたことを考えれば、資本の規模では比べるべくもない出発だった。会社が持っていたものは、巻線と磁気回路をめぐる設計と加工の技能だけである。
1954年8月、山水電気はステレオアンプの生産[4]を始めた。部品メーカーから完成品メーカーへ移る決定である。この転換には無理がなかった[5]。真空管式アンプの音質を左右するのは出力トランスであり、会社が10年かけて積んだ巻線の技術がそのまま製品の中核に置けたからである。翌1955年7月にはトランジスタ用トランスの生産にも入り[6]、真空管と半導体の両方に足場を作った。部品で培った技術を完成品へ持ち上げる筋道は、戦後の日本の電機メーカーが繰り返し辿った道でもある。ただし山水電気の場合、その後もアンプという単一の製品分野に技術資源を集めつづけた点で、総合電機各社とは進み方が違った。
生産設備の増強と資本市場への参加が続いた。1957年3月に本店を東京都杉並区和泉2丁目へ移し、1959年7月に武蔵工場を新設する[7]。1960年4月には山水音研株式会社を吸収合併して三鷹工場とした。1961年12月、東京証券取引所市場第2部に株式を上場[8]している。創業から17年、アンプの生産開始からは7年しか経っていない。翌1962年4月にはセパレート・ステレオの発売[9]を始めた。アンプ・チューナー・スピーカーを別筐体で組み合わせる売り方であり、買い手が自分で機器を選ぶ市場を前提とする。この製品の考え方が、後に高級機へ集中する経営の土台になった。
1966年10月、米国にサンスイ・エレクトロニクス・コーポレーションを設立[10]した。国内市場より先に、輸出先へ販売会社を置いた形である。1960年代後半から1970年代にかけて、日本の家電は米国向けのカラーテレビとステレオを中心に輸出を大きく伸ばした。日本産業史はこの時期を『海外市場に合った商品をきめ細かく開発した結果』[引用元]と記録している[11]。山水電気の場合、輸出比率はとりわけ高く、事典は製品の90%以上を日本国外で販売したと記す[12]。国内で名を売ってから海外へ出たのではなく、初めから海外の需要に乗った会社だった。この構造は、円が安いあいだは強みとして働いた。
販売と生産の会社を相次いで作り、資本市場での格も上げた。1965年4月にサンスイ・トランス株式会社、1967年3月にサンスイ音響株式会社とサンスイ・ステレオ株式会社を設立する。1968年5月には大阪証券取引所市場第2部へ上場し、同じ月にサンスイ・トランスとサンスイ音響[13]を合併して山水音響株式会社とした。そして1970年3月、東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第[14]1部へ上場する。1972年3月には山水音響とサンスイ・ステレオを吸収合併[15]し、それぞれ福島事業所・長野事業所とした。分けて作った会社を10年ほどで本体へ戻し、直営の生産体制に組み替えている。
総合電機の一部門ではなく音響機器の専業として伸びた3社であり、得意な機器が互いに違っていた点にこの呼び名の実質がある。証券アナリストジャーナルが1975年に載せたトリオ[16]の分析記事にも、当時の売り方として『当社のアンプ、パイオニアのスピーカー、サンスイのプレーヤー』[引用元]を組み合わせる例が挙がっている。専業各社の製品を買い手が自由に組み合わせる市場が現に成立していたことを、同業他社の資料が裏づけている。
プリメインアンプを主力に据え、社内でも社外でも『音の山水』と呼ばれる評価を得た時期である[17]。高級機に資源を集める経営は、当時の条件では筋が通っていた。買い手が機器を一台ずつ選ぶ市場では音質そのものが商品の価値を決め、専業メーカーの技術者を抱えつづけたことがそのまま製品の差になったからである。総合電機各社が家電の一品目としてオーディオを扱うのに対し、音響機器だけを作る会社が上位機種で存在感を保つ形は、少なくとも1970年代を通じて成立していた。
もっとも、この集中には代償があった。1992年に前社長の稲宮達也氏が振り返ったところでは、会社が傾く条件は3つ揃っていた。第1に経営陣がオーディオだけにこだわり[18]多角化に手をつけなかったこと、第2に技術者がオーディオの専門家に偏り先端技術に追随できなかったこと、第3に従業員の士気が落ちていたことである。[19]稲宮氏はこれを個人の怠慢ではなく会社の作りの問題として語った。実際、同じ時期に音響を事業の一部として抱えた総合電機各社は、映像やコンピュータへ人と資金を振り向けている。単一分野に絞る強みは、その分野の需要が伸びているあいだしか働かない。
売上高の頂点から1年で赤字に転じた。1985年10月期から経常赤字となり、その後売上高[20]は半分以下に落ち込む。輸出比率の高さがそのまま損益の振れ幅になった。1985年9月のプラザ合意以降の円高で、海外で受け取る代金の円換算額が縮み、国内で払う人件費と部品代は変わらなかったためである。1985年6月には福島事業所の郡山工場を分離して郡山物流センターとし、1986年8月には福島・静岡[21]の両生産事業所と郡山物流センターを子会社化して福島サンスイ・静岡サンスイ・サンスイ物流サービスの3社を設立した。生産と物流を本体から切り離す組織の作り替えが、この時期の対応の中心にあった。
商品の側でも売れる価格帯を押さえられなかった。1990年に国内営業本部マーケティング部長の河内八洲男氏は、それまでを『変なプライドがあった上にコストダウンを実現する力が弱かったので、結果としては高級品しか作れなかった』[引用元]と語っている。人気の集まる標準価格12万円前後のミニコンポに商品を置けず[22]、市場の主戦場から外れた。1986年2月に社長へ就いた伊藤瞭介氏のもとで[23]、会社は高級機の評価を保ったまま数量の出る価格帯を欠く形になる。技術の高さと事業の成立は別の問題であり、音質で勝ちながら台数で負ける状態が続いた。
1988年10月期に債務超過へ転落[24]した。1989年10月期は売上高221億円に対し営業損失43[25]億円、税引後で64億円の赤字となり、累積損失はさらに膨らむ。頂点だった1984年10月期と比べれば売上高は4割ほどの水準にすぎない。この間、主幹事の大和証券は2年ほどかけて提携先を探し、京セラ・東芝・パイオニア・ケンウッド・[26]韓国の三星電子など20社以上の名が身売り先として取り沙汰された。伊藤氏は『確かに数社と交渉したのは事実』[引用元]と認めている。国内の主だった企業に持ちかけたものの、いずれもまとまらなかった。
1989年10月27日、東京・兜町のホテルで山水電気と英ポリーペック・インターナショナル(PPI)の資本提携が発表された。会見には米ウォール・ストリート・ジャーナルをはじめ内外の記者が100人以上詰めかけている[27]。PPIは第三者割当増資を引き受けて株式の51[28]%を握った。出資額は156億円である。日米構造協議で日本の資本市場の閉鎖性が問われ、ソニーによる米コロンビア映画の買収が議論を呼んでいた時期にあたり、外国企業が日本の上場企業を傘下に収めた稀な例として注目を集めた。PPIのアシル・ナディア会長は会見で『日本の資本市場が外国の企業に開放されていないという神話はこれで崩れ去った』[引用元]と述べた。
この提携には、政府の意図が働いたのではないかという見方がつきまとった。日経ビジネスは、投資摩擦への批判をかわす材料を欲しがっていた通産省が銀行・証券会社と組んで買収を仕組[29]んだとする大手証券幹部の見方を伝えている。提携発表の当日は情報が事前に漏れ、朝のテレビが増資の期日と金額まで報じたため、午後2時調印・3時半発表の予定を朝7時半の調印へ繰り上げたと伊藤氏自身が明かした[30]。夕刊各紙には一民間企業の提携を歓迎する通商産業大臣の談話[31]が載っている。真相は確かめようがない。しかし外資への傘下入りが当時の政府にとって好都合な材料だったことは、複数の関係者が認めていた。
PPIの狙いについては見方が分かれた。ナディア会長は買収の最大の利点として山水電気のブランド[32]力を挙げた。一方で、山水電気が1984年6月に日本ビクターから取得したVHS[33]ビデオの製造ライセンスが目当てだったとする見方もある。PPIはビクターに直接ライセンスを申し込んで断られており、山水電気を通じて間接的に参入する道を選んだという読みである。さらに株価の値上がり益が目的だとする声もオーディオ業界にあった。当時の山水株は1989年8月半ばから急騰し、9月1日には出来高247万株でストップ高をつけている[34]。会社側は転売説を否定し、新株を主幹事の大和証券が保管する契約にしたと説明した。
再建の担い手は外から来た。稲宮達也氏は東芝でテレビ・ビデオ・音響統括事業部長を務め、業界初のカラーテレビ量産化を指揮した人物である。1981年に東芝を辞してAV機器設計のアテイン開発を設立し、1989年12月に山水電気の副社長として着任、1990年6月に社長へ就いた[35]。声をかけたのはPPI傘下でコンピュータ部品を作る台湾のケープトロニックの黄士弘社長で[36]、東芝の事業部長時代からの付き合いだった。着任後の稲宮氏は、成果に応じて給与の差を広げ、同期入社でも2倍以上の開きがつく制度に変えた。品質管理の指導も現場で重ね、営業の仕事の7[37]割を占めていた不良品処理の原因を絶ち、不良発生率を約4分の1に下げている。
事業の建て直しは二方向で進んだ。1990年7月にPPI傘下のケープトロニックとインペリアルの両グループを買収・統合し[38]、生産と販売の拠点を海外へ広げた。同年9月13日には原宿で新製品発表会を開き、ミニコンポなど20機種[39]を披露して普及価格帯に初めて商品を並べている。もう一方の柱がVTRへの参入だった。ただし山水電気の持つ製造ライセンスは使われないまま眠っており、技術者は一人もいない。15人ほどを集めて学ばせ1990年夏に米国向け出荷までこぎ着けたものの、台湾側が示す製造原価は高く、販売側は相場220ドルの普及機を320ドルで売り出した[40]。日本側に販売への発言力はなく、製品は売れなかった。
1990年9月20日の夜、稲宮氏は自宅にかかってきた国際電話で親会社の異変を知った。PPIに株価操作の疑いがかかり、ロンドン株式市場で取引が停止されたという知らせである。9月25日には山水株も東証で514円のストップ[41]安をつけた。PPIはやがて事実上の倒産に至る。PPIから株式を取得した香港のグランデ・グループ[42]から続投を求められたものの、親会社が代わった以上は退くのが筋として1991年12月19日付で会社を去った。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/6793/manifest.json https://the-shashi.com/api/6793/history.json https://the-shashi.com/api/6793/timeline.json https://the-shashi.com/api/6793/shareholders.json https://the-shashi.com/api/6793/financials.json https://the-shashi.com/api/6793/financials-longterm.json https://the-shashi.com/api/6793/workforce.json | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1944〜1972年トランス製造からステレオアンプへの転換と輸出主導の拡大 | 菊池幸作が山水電気製作所を創業しトランスの生産を開始 | ★ | ||
| 山水電気製作所を改組し山水電気を設立 | ★ | |||
| ステレオアンプの生産を開始 | ★★ | |||
| トランジスタ用トランスの生産を開始 | ★ | |||
| 本店所在地を移転 | ★ | |||
| 武蔵工場を新設 | ★ | |||
| 山水音研を吸収合併 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第2部に上場 | ★ | |||
| セパレート・ステレオの発売を開始 | ★ | |||
| 関係会社サンスイ・エレクトロニクス・コーポレーションを設立 | ★ | |||
| サンスイ・トランスとサンスイ音響が合併し山水音響に | ★ | |||
| 東京証券取引所・大阪証券取引所市場第1部に上場 | ★ | |||
| 山水音響とサンスイ・ステレオを吸収合併 | ★ | |||
| 福島事業所と長野事業所を開設 | ★ | |||
| 1973〜1988年高級機への集中がもたらした頂点と、円高後の債務超過 | 年間売上高が525億5,200万円と過去最高を記録 | ★ | ||
| 福島事業所の郡山工場を分離し郡山物流センターとして設置 | ★ | |||
| 福島・静岡の生産事業所と郡山物流センターを分社 | ★ | |||
| 1989〜1991年英ポリーペックによる買収と、親会社の破綻による再建の中断 | 山水電気の英ポリーペックへの株式51%譲渡 1989年10月、債務超過に陥っていた山水電気が、英ポリーペック・インターナショナル(PPI)に第三者割当増資で株式の51%を割り当て、156億円の出資を受け入れた経営判断。外国企業が日本の上場企業を傘下に収めた稀な例として、内外の注目を集めた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| ポリーペック・インターナショナル・ピーエルシーの子会社に | ★★ | |||
| ケープトロニック・グループ・インペリアル・グループを買収・統合 | ★ | |||
| 1992〜2014年香港資本の下での縮小と、ブランドだけを残した破産 | ケープトロニック・グループの全株式を売却 | ★ | ||
| セミ=テック・グループの資本参加を受ける | ★★ | |||
| 旧本店(和泉2丁目)の土地・建物を売却 | ★ | |||
| 関係会社サンスイ・インコーポレーテッドの全株式を売却 | ★ | |||
| アカイHDが現地裁判所から清算決定 | ★★ | |||
| 商標権・特許権が担保としてグランデ・グループへ移転 | ★ | |||
| サンスイ・インターナショナルとエス・シー・アイ・シーの全株式を売却 | ★ | |||
| 香港・グランデ・グループの資本参加を受ける | ★★ | |||
| 山水電気の福島工場閉鎖による自社生産からの撤退 2001年、香港のグランデ・グループの資本参加を受けた山水電気が、10月に海外子会社3社の全株式を売却し、12月に福島工場を閉鎖して自社での生産をやめた経営判断。以後の会社は、ブランドの管理と資産の運用を主とする組織へ変わった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 室越隆 | 東京地方裁判所に民事再生法の適用を申請 | ★★ | ||
| 室越隆 | 東京証券取引所を上場廃止 | ★★ | ||
| 東京地方裁判所から破産手続開始の決定を受ける | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(山水電気)