外資への身売りと一言でくくると、判断の実質を取り逃がす。1988年10月期に債務超過となった会社に、国内で資金を出す相手はいなかった。大和証券が2年かけて20社以上を当たった末に残ったのが、日本の資本市場の開放を証明したい英国企業であった。伊藤瞭介社長に残された道は、過半を渡して156億円を得るか、当てのないまま持ちこたえるかの二つで、前者を選んだこと自体は当時の条件で合理的であった。日本企業の海外買収が急増する一方、外国企業が日本の上場企業を傘下に収めた例は少なく、投資摩擦の文脈で異例の注目を集めた。誤算は買い手にあった。
買い手の狙いはブランドか、VHSのライセンスか、株式の値上がり益かで見方が割れたまま、資本関係だけが先に固まった。販売方針はPPIの派遣者が握り、生産は台湾の関係会社が担った。日本人が経営し、台湾人が作り、米国人が販売する状態となり、全体を見通す者はいなかった。PPIの破綻後、株式は香港のグランデ・グループ、セミ=テック・グループ、アカイホールディングスへ渡り、そのたびに社長も生産拠点も本店も動いた。延命と引き換えに経営の連続性を外部の資本繰りへ預け、手元に残ったSANSUIの名も2000年には借金の担保として親会社側へ移っている。