この決断の中心にあるのは、赤字そのものよりも、判断の遅れという事実であった。同業が1976年3月期の赤字と同時に4割の減産へ動いたのに対し、光洋精工は1977年3月期まで黒字を保ち、無配も1年遅れた。悪化を表に出さずにやりくりする時間が長かったぶん、手を着けたときには自力で立て直せる幅が残っていなかったとみられる。全取締役の辞任と支援要請は、経営の失敗を外部に開示する行為でもあり、独立系の名門にとっては痛みの大きい選択であった。
もっとも、その後の四半世紀を見ると、この選択が光洋精工に与えたものは救済だけではなかった。トヨタの資本と生産管理の作法が入ったことで、同社は自動車部品メーカーとしての性格を強め、ステアリングでは欧米に拠点を広げる側へ回った。系列に入ることは自律性の縮小と引き換えであったが、その資本関係がなければ2006年の合併も成り立たなかったと推察される。危機に際してどこまで自前でやり、どこから他社の資本と方法を受け入れるか——この問いは、系列再編が続く今日の部品業界にもそのまま残っている。